糟糠之妻



※ネームレス

 この邸は馥郁な香りに溢れている。
 数か月ぶりの帰還を果たした従者の煕(き)は、ますます妍を競うように爛漫と花卉が咲き乱れている光景を見て、殿――張唐の眉間に一段と深い皺が刻まれているであろうことを察した。
 瑞々しく甘い花と土くれの独特な匂いが綯い交ぜになって満ちた華やかな庭。可愛らしい蝶々が舞い、小鳥の囀りが絶えず聞こえる、まるであえかな少女たちの夢を絵に描いたようなこの場所が、まさか尚武的な大将軍の住まいだとは誰も思うまい。

 明らかに張唐の趣味ではない庭園は、彼の妻たる人物の手によって作り上げられたものだ。夫の張唐を迎えるべく花樹の枝の奥から現れた彼女は、着物をたすき掛けし、右手には移植鏝を握ったままといった姿である。指先にはまばらに土が付着していた。直前まで庭仕事をしていたのだろう。お年を召されているが殿に負けず劣らず矍鑠とした方だと、煕は感服した。
 邸の者は総じて彼女を「御夫人」と呼んでいる。張唐だけはまことの名を口にすることもあるが、大抵は「あれ」といった感じで、まるで物と同じように呼ぶことが殆ど。煕が張唐を介して彼女の名を知ったのは従者として仕えるようになって丸三年が経った頃だった。元々寡黙なうえに戦事以外の話題には滅多に触れない男だ。当然その口から家族の名を語られる機会というのは珍しいものであり、邸には夫人の名を知らない者もかなり多い。
 ちなみに夫人は張唐のことを「あの人」と呼ぶ。なんとも冷たい印象である。現にこうして邸へ戻ってきても殿は書斎に篭もり切りで、夫人は飽きずに庭いじりをしているのだ。熟年の夫婦ともなると互いに割り切った関係なのだろうかと、煕は少し寂しい気持ちになった。
 煕を含む従者たちの間に夫人の名が広まっていない理由がもう一つあるとするならば、それは張唐が彼女の他に妻妾を一人も娶っていないことだろう。
 他の女性と呼称で区別する必要が無いから、必然的に彼女の名を呼ぶことも無い。貴人は往々にして複数の妻妾を帯するものであるが張唐はそうではなかった。戦地に赴いている最中も、まれに酒は嗜めども、女性への興味があるような素振りは一度たりとも見せない。むしろ妓楼に繰り出そうとする部下たちを見て克己心が足らんと憤懣していたくらいだ。

 邸に帰還してから五日ほどが経過したとある日の昼下がりのこと。この日は小雨が降っていた。練兵場から戻り、厩舎の掃除を済ませ、泥と糞尿に塗れた衣を洗い終わって一服していた煕の元へ、侍女がやってきて恭しくこう言った。
「煕殿。御夫人がお呼びでございます」
 彼は深く頷き、立ち上がる。一介の従者が殿の妻に直々に呼び出されることなど傍目から見れば珍しいことかもしれない。しかし煕と彼女の間には知る人ぞ知る深い関わりがあった。
 そもそも煕をこの邸に迎え入れたのは張唐ではなく夫人自身である。というのも数年前に物故した父が長年にわたりこの邸の園丁を務めていた縁で、元は彼女の侍衛として雇われた身であったのだ。そこから張唐に腕を買われ、現在に至る。
 煕は父の家業を継ぐことはなかったが、幼い頃から触れてきた農芸の知識はそれなりにあったものだから、すっかり彼女の話し相手に落ち着いてしまったというわけだ。殿が煙たがっている造園の一助となっている事実は複雑だが、しかし夫人と過ごす時間は畏れ多くも心地良いものである。
「いらっしゃい。煕」
 夫人は煕の顔を見ると、曇りの無い笑顔を見せる。花がぱっと咲くように。くしゃりと細まる目、ゆるい弧を描く唇。皺の一本に至るまで対称的で美しく。親子ほどの年の差がある煕でさえ、時折垣間見えるこの表情を見ると、胸の鼓動がより一層速まる。うら若き頃の彼女を知る父がますます羨ましい。
 歓待を受けた煕の前には切り花を添えた可愛らしい茶菓が差し出された。自分のようなむさくるしい男ではなく、侍女たちに御馳走した方がずっと喜んでくれるだろうに――と思いながらも厚意を無碍にすることもできず、煕はそれらを口にする。茶には薄紅色の花弁が浮いていた。
「これは海棠でございますか?」
「ええ。部屋に迷い込んできた子たちをこうして集めているのですよ」
 そう言って夫人は木箱を取り出し、それを煕に手渡した。己の掌にすっぽりと収まるほど小さなその蓋をそっと開けると、中には端切れに包まれた花弁がこんもりとしていた。なんとも微笑ましい。
「雨の日は外に出られず寂しいですからね。もっぱらその子たちを眺めていて」
「まことに貴女様らしい。……そういえば雨音が聞こえなくなりましたな。もう晴れているやもしれません」
「あら本当ね。見てみましょうか」
「それなら私奴が」
 煕はすくっと立ち上がると、円窓を覆う窗帘を捲る。朝方から降り続いていた雨は、漸く止んだようだ。厚い雲間から差し込む柔らかな光が、邸をやさしく照らしている。
「套廊の戸を開けても?」
「お願いしても良いかしら」
「勿論です」
 内院を臨む套廊へと続く隔たりを取り払うと、そこには見事な佳景が広がっていた。まるで毛氈を敷いたかのように、地面は花々で埋め尽くされていて、雨露に濡れたそれらは珠玉を散りばめられたかの如く目映く輝いている。
 煕は感嘆の息を洩らした。夫人の部屋のすぐ傍には花盛りの海棠がある。先程口にした茶に浮かんでいた花弁はここから飛んできたものだろう。夫人は殊にこの海棠を気に入っていることを、煕は知っている。
「ますます賑やかになられましたなあ」
「ふふ。そうでしょう。あの人はまた嫌な顔をされるかもしれませんがね」
 先程も招いた客人に庭の花を散々褒めそやされていた張唐が、かなり苦々しい表情をしていたことを思い出した。しかし磊落に微笑む彼女には夫の顰め面など何処吹く風である。
「次は何を植えられるご予定で?」
「実を言うと考えあぐねているのですよ。気になったものは一通り育てておりますから。ですから煕の意見を聞いてみたくて」
「左様でございましたか。それでは貴女様が御幼少の砌に憧れていた花卉などはいかがでしょう」
「……これといったものは無いわねえ。そもそも花を好きになったのも、この邸に嫁いできてからのことですから」
「初めて伺いました」
 すると彼女は面映ゆそうに視線を逸らしながら呟く。
「きっかけというのが少し恥ずかしい話ですからね。誰にも伝えておりませんよ。ですがまあ、歳を重ねたからこそ包み隠さず打ち明けてしまうのも良いのかもしれません。聞いてくれますか? 煕」
「私奴でよろしいのですか。たまには殿にお話をされてみては」
「嫌ですよ。あの人にこそ知られたくないことなのですから」
 夫人は僅かに言い淀み、細く美しい眉に躊躇の色を走らせたが、やがて顔を上げて透き通るような淡褐色の瞳を外に差し向けた。零れるほどに咲き乱れた海棠の花が、彼女の眼を介して煕の視界に映る。におやかな佇まい。それでいて飾らない清らかな美しさ。目を奪われていると、つと室内に舞い込む春の風に体を包まれる。それはまるでこの世界から二人を切り離すかのような、まどろみに沈む時にも似た温かさで。
「あの人みたいに偉いお役人さんはね、普通は妻妾を何人も迎え入れるものなのよ。出世をする度にその時の地位に見合った若くて綺麗な良家の娘さんを貰ってゆくの。そうしたら最初の妻は身分も低ければ、一番早く年増になってしまう。新しい女の人に勝てるものなんて一つも無いじゃない?」
 ひらり舞う薄紅の花弁の深奥に、煕は一瞬、昔日の彼女を視た――気がした。
「それを妬んで捻くれてばかりでは、それこそ意地悪なお婆さんになってしまうから、彼女たちを受け入れられるようになろうと思ってね。それでお花を育て始めてみたいと、園丁の会(かい)に……貴方の御父上にお伝えしたの。わたしよりずっと華やかで、高潔で、美しい子たち。お花を愛することができたら、わたしは夫がどんな女性を迎え入れても愛することができると考えて」
 それはいとけない幼妻が編み出した、あまりにも短絡で突飛な論理。聡明な落ち着きを持つ今の夫人らしからぬものである。しかし彼女は決して自虐めいた言辞でそれを語るわけでもなく、むしろ燦々たる笑顔でさっぱりと述べた。
「でも結局、女性には興味が無いし新しい妻を必要とも思わない! ですって。ヘンな人。こっちはずっと思い悩んで泣き明かすこともあったというのに。つまるところ、わたしは空回ってしまったわけね。でもお花は好きになった」
 幾月と孤閨を守りながら、いつ夫が新しい妻妾を連れ立って帰還することかと憂う夜を過ごしていたであろう夫人に寄り添ってくれていた花々。彼女はそれらを心の底から愛している。本来の目的を思えば結果的に無駄骨になったその選択に、少しも後悔はしていない。だからこそ彼女は屈託の無い声ぶりでそう語るのだ。
 貴方の御父上のお蔭なのよと、微笑みを向けられた煕は、なんだかこそばゆい気持ちになった。それと同時に、早世した父の後を継いで園丁にならなかったことを少しばかり惜しく思ったのだった。今の彼女にそのことを吐露したとて、きっと「わたしはもう寂しくないから大丈夫。それよりも、貴方は貴方らしく生きるべきよ」と、慰められてしまうのだろうが。


 心地の良い薫風に織り交じるゆたかな青葉の匂い。春の盛りを終え、緑が増えた張家の邸には、次に咲く夏の花が蕾をつけはじめている。
 煕は花が落ちた木の枝を剪定するために、屋根の上にいた。
 ともすると夫人自身が梯子をかけ始めるものだから、邸の者たちは気が気でない。美しい施釉瓦が敷き詰められた屋根の上は足を掛ける場所も少なく、また傾斜もあるから、決して若くはない彼女には無理をして欲しくないというのが本音である。
 ギィ、ギィ。手鋸の歯が鈍い音を立てて太枝を削いでゆく。はらりと舞う木くずを吸い込み、軽く噎せた。若い力自慢の煕でさえ全身に汗が滲むほどの作業であるから、ますます夫人にはさせられない。
 半刻ほど作業を続けたところで、屋根に腰掛けて暫し休憩をとっていると、裏手の方からふと声が聞こえた。
「もうそろそろ……ご退官されてはいかがです? あまりご無理をなさらないでくださいませ。わたしは未だに貴方様が御出陣されると不安で」
 それは紛れもなく夫人のものである。そして話し相手は夫の張唐であるらしいことが伺えた。煕は息を殺しながら二人の居る方へとそっと移動すると、耳を欹てた。
 堂々と外で会話をしているのだから、聞かれて困る内容ではないだろうし、煕もわざわざ身を隠すような真似をする必要は無いが。どうしてか、そうしなければならないと思った。自分に聞かれていることが露見すれば、彼らは口を閉ざしてしまうかもしれないと。
 夫人は回廊に腰を下ろした張唐の背後に立ち、掬った髪のひと房を小刀で整え、同じ手に持った櫛で油を塗っていた。殿の灰髪を彼女の細い指先がすべる。癖があり乱れやすいあの髪が、梳かれるたびに絹糸のような艶を増す様には驚くばかりだ。
「儂は秦の為に身を捧ぐ覚悟だ。命など……とうに、惜しくはない」
 耳順を過ぎてなお軍を率い、自らの手で敵兵を屠り続ける夫に、普段は気丈な夫人も心配の色を隠し切れていない。だが張唐は妻の意に沿うことはなく、重々しい声で決然とそう言い放った。
 煕は思う。我が殿は将の鑑のような人だ。謹厳で気高く、殉難も厭わぬその人徳は、鑽仰すべきものである。しかし苛烈な戦場に身を投じている最中に、ふと一つの疑問が浮かび上がるのだ。張唐は邸でひとり待つ妻を、どう思っているのだろうかと。
「俸禄が無ければお前も困るだろう」
「わたしの心配などなさらなくても。貧しい頃から一緒だったではありませんか」
「白老殿も現役だ。儂も負けられぬ」
「相手方もそうお思いになっているかもしれませんよ」
 その真意は謎のままだ。夫人は殿の身を案じれど、決して彼の覚悟に水を差すような真似はしない。粛々と夫の意を尊重し、いつも静かに身を引く。婦徳に秀でた女性である。しかし煕の中に、歯痒い思いがあるのもまた事実。
「燕に行けと言ったかと思えば、今度は退官しろとは。……心移りも甚だしい」
「何年も前のことをわざわざ蒸し返さなくても良いではありませんか。あれはわたしが悪うございましたと何度も申し上げておりますのに」
 張唐の言う燕の件とは、煕が唯一目にした二人の夫婦喧嘩でもあった。
 発端は五年程前に遡る。当時、秦は燕と同盟を結ぼうと画策しており、その使者として蔡沢が外交を進めていた。そのうち燕から人質として太子丹が入国し、秦も燕の宰相として張唐を派遣しようとしていたのだそうだ。
 しかし当の本人は秦の地を離れることを厭い、強い拒絶を示したという。しかし蔡沢や、彼を食客として抱えていた呂不韋からの説得は続き、やがてその使者が邸まで押し掛けてくるようになった。張唐が不在の間も、毎日のように。
 応対をするのは夫人ひとり。初めは「夫の意志を尊重します」と毅然と断っていた彼女であったが、それでも絶えない来訪者に、徐々に心身は疲れはじめて、ついにぽっきりと折れてしまった。
 彼女を言い包めたのは僅か齢十二の甘羅(かんら)という呂不韋の使者である。彼はこの後に功績を立て若くして上卿となったという異色の経歴の持ち主であるのだが、政情に疎い夫人がそのようなことを知るわけもなく。幼い少年の巧みな弁舌に心が緩み、打ち負かされてしまったのも無理はない。
 夫人の了承が得られたとのことで張唐は燕に行くことを余儀なくされたのだが、結局はこの甘羅の工作により秦は趙と同盟を結び、趙に燕を攻めさせたことで、話は流れた。しかし張唐は妻が勝手に甘羅の説得に応じたことを叱ったのだった。
 夫人も夫人で精神的に参っていたとは口にせず「身を粉にして国に報ずると常々仰っていた貴方様の御意志に従ったまででございます。厭うのならばその理由を教えていただけますでしょうか?」と反論したものだから、張唐は耐えかねて怒りを露わにした。
 のちに仄聞したことだが、殿がこの話を受けなかったのは夫人の為であるそうだ。彼女を置いて遠国へと渡るか、或いは彼女からこの花圃を引き剥がして共に行くか、そのどちらも諾せられないという理由だとか。当然、このことが夫人に伝わることは無かった。
「はい。できましたよ」
 夫人が張唐の髪を結い上げ終わると、二人はそれ以上言葉を交わすこともなく離れる。その場に残り、黄楊の櫛を手入れしていた彼女が「そろそろ煕を休ませてあげないといけないわ」と呟いているのを耳にして、彼は慌てて作業に戻った。


 帰還してから十日ほどが経った頃から、張唐は度々邸を空けるようになった。南部の防衛から戻ったばかりであったが、すぐに次の戦が控えているのだろうと、誰もがそう感じ取っていた。
 そのうち登朝すると数日は戻ってこなくなり、夏も仲に差し掛かる頃には楚へと派遣され、邸に帰るのは二月に一度にまで減った。
 やがて煕は不穏な噂を耳にする。趙、魏、そして楚が兵を起こして秦へ向かってきているという旨のものだ。よもや、そのようなことはあるまい。対趙宥和は順調であったはずだ。しかし久方ぶりに邸に戻ってきた殿は、禁中で得た情報を一切語ろうとはしない。そして翌朝には従者を数人引き連れて、再び咸陽宮へと赴いてゆく。懸念は日毎にその色を濃くしてゆき、やがて夫人の爛漫な笑顔にも翳りが見え始めた。
 そのような折であった。張唐の近侍の一人が、急き込んだように邸へ戻ってきたかと思えば、殿からの言伝を預かっていると告げて前院に兵たちを搔き集めた。
「殿は今日も戻られぬのか」
「左様」
「して我々はどうすべきか。張唐様のご指示は」
「全兵待機。命が下ればすぐに出軍できるよう、輜重を調えよとのことだ」
 木の陰からそっとこちらの様子を窺っていた夫人がきつく唇を引き結ぶ姿を、煕は視界の端に捉える。彼女に殿のことを上申するのは自分の役目だ。誰に任されたわけでもないが、親子二代で世話になっている縁もあることだし、何より夫人は誰よりも自分を可愛がってくれているようだから、おのずとそうなった。名誉なことであるが心は重い。

 比較的長い夏の昼間は、今日ばかりはやけにあっさりと過ぎ去った。
 静かな夜。晴れた空に明滅する星々を見上げつつ、煕は気鬱を抱えながら主卧へと続く回廊を静かに歩いていた。張唐から待機命令が出たこの日。兵も奴婢も早々に寝静まっている中で唯一、主卧の一角にある夫人の私室にだけ、ささやかなあかりが灯っていた。
 夫人はよく夜更かしをする。蓮の花茎を精緻に模った古い燈檠に抹香を溶かした油をさし、部屋の隅の方で、なにをするでもなく。
 ――まだ眠れないの。若い頃、あの人の帰りをずっと待っていた時の癖が抜けなくて。
 そのようなことを仰っていた記憶がある。
 今ならば二人きりになれるだろうか。張唐のことを伝えなければならない。夜分に女人のもとを訪れるのは失礼であるが、明日に持ち越すべきではない話だ。と逡巡しつつ。
「御夫人。煕でございますが」
 と控えめに声をかけると。
「まあ。お入りなさいな」
 心にしみわたるような、慈愛に満ちた声が耳朶を擽る。煕は夫人の言葉に従っておずおずと扉を開けて部屋の中へと入った。遠慮を知らなかった時分は、可愛がってもらっているのを良いことに、彼女への迷惑も考えずにこうして度々上がり込んでいたものだ。懐かしさが芽生える反面、とうに成人を迎えた男が、年が離れているとはいえ他人の妻のもとへ通っているという見方をすれば、この行為は相当まずいという自覚もあった。互いに信頼している仲とはいえ。しかし夫人が煕を迎え入れる態度は、昔からまったく変わっていない。
 夫人の傍らには、見慣れない小道具が置かれていた。
「これは?」
「蓍萩の茎で作った筮ですよ」
「占卜も嗜んでおられるとは。貴女様にはますます驚かされます」
「たいした知識はありません。所詮は易者の真似事です」
 とは言いつつもこなれた手つきで揲筮する様子には恐れ入る。こうしてあらゆる素養の深さが見て取れるのは、彼女が優れた才幹を持っている何よりの証左。張唐は彼女が政情や兵事に携わることを強く嫌い、邸では決してそのような話題に触れることは無かったが、もしもその逆で、彼女をあらゆる情報に触れさせていたのならば、きっと殿の良き相談相手になっていたことだろう。
「気慰みに近い戦の結果を占っておりましたが、無事に帰ってくるか否かはあの人次第」
「もう存じておられるのですね」
「この儼乎な雰囲気も、もはや慣れたもの。何十年と繰り返してきたことですから。けれども唯一、大切な人がいなくなってしまうかもしれないという恐怖だけは薄れません」
 薄い帳に囲まれた紫檀の牀に浅く腰を掛けた夫人は、翳りのある表情で煕を見つめる。普段の爛漫な笑顔の片鱗はどこにもない。ゆらめく灯りに照り返った面高な顔は、寂しそうで、悲しそうで。
 行かないでとは言えなかったのだろう。何十年も。それは一国を背負う大将軍の妻として、決して口に出してはいけない言葉であるから。
「貴方もですよ。煕。どうかご無事でね」
「御夫人」
「さあさ。今日はもう寝所に戻りなさいな」
 立ち上がった夫人にやんわりと背を押された煕は、一瞬、彼女の冴えた眼が濡れているのを見た。扉が閉ざされたあとも、やはり眠る気にはなれず、そこに佇んだままぼんやりとしていると、暫くして部屋からはじゃらじゃらと筮を捌く音が聞こえてくる。
「……わたしはこんな時まで、貴方様のお力になることも叶わない」
 いつだって春ざれの庭のように溌剌としていた彼女の声とは思えぬ、うら寂しい独り言。どうして夫人はここまで苦しまねばならないのだろうか。あの殿に、もっと妻を労わって差し上げてはと進言しても無意味かもしれないが、せめて、もう少しだけ、両人が歩み寄ることができればきっと。
 煕は夫人の密やかな願いを叶えてやりたかった。どうしてか彼女は殊に自分を可愛がってくれていることを昔から感じ取っていた。この邸にやって来てから、頻繁に部屋に招かれ、あの海棠の木を見上げながら二人きりで茶菓を喫している人は他に居ない。理由までは分からないが、まるで実の息子のように、大切にされている自覚はある。邸の者の中には、病没した父と夫人との間に主従以上の関係――つまりは深い仲であったと勘繰る者もいたが、煕はそうとは思わないし、詮索するつもりもない。ただ夫人はもう一人の母のような存在で、ならばそんな彼女に忠を尽くそうと思うのは当然のことだ。



 ごうごうと風が鳴った。函谷関の壁上に建てられた櫓から見下ろす景色は、どこまでも深い闇に呑まれている。この地に召集された張唐を含む秦兵らは五国の合従軍と相まみえた。
 戦の委細を知らされていなかった煕は駭然としたが、幸いにも張唐軍が配備されたのは不落の国門、その最も高い場所。
 戦が始まって数日が経過したが敵の手は未だ迫らず、眼下をただ眺めるばかりの日々である。とはいえ油断はできない。ここ最近は両軍の睨み合いが続いており、戦況は動かないが、敵は必ずや兵糧が尽きる前に何かしらの策に打って出るはずだ。早くも邸の嫋々と靡く花の香りが恋しくなった。
 地上から吹き上げる冷たい空気は酒精が巡り火照った煕の体を冷ましてくれた。酒を飲んだのはじつに久しい。張唐は殷賑さを好まない人物であったが、近くの桓騎軍の賑わいぶりに影響されたのか、今晩は珍しく酒が振る舞われたのだ。酒食を共にした殿は顔色ひとつ変わらず普段の顰め面であったが、しかし酔った他の者の不行儀には寛容であったように思える。かつて職務怠慢を理由に部下を斬り殺したこともある人間らしからぬ柔らかさであった。
 そんな殿を囲んだささやかな酒宴のことを、煕は風に当たりながらありありと思い返していた。

「この調子では此度も長い戦になりましょう」
「大王様が御即位あそばされてからずっと戦続きで、御夫人もたいそう心配されているご様子でございましたよ」
 少し離れた場所で、それまで小難しい話をしていた老臣らが張唐にそう語り掛けたのを、煕は聞き逃さなかった。
 共に酒を飲んでいた兵の言葉を手で遮り、燃え盛る篝火と風の音に紛れる会話に耳を傾ける。古株であれば当然、夫人との親交も深い。しかし戦の時に家の話を持ち込みたがらない張唐の前で、彼女の名が出るのは珍しいことだ。
「フン。あれは儂が居ない方が活き活きとしておるわ」
 しかし夫人を案ずる麾下たちをよそに、張唐は淡白に吐き捨てる。普段であればさほど気にも留めなかったであろうが、ふと戦に赴く前夜の彼女を……主卧の隅で独り寂しく不安を紛らわせるように筮を立てる姿を思い起こし、煕はむっとした。これではあまりにもあの方が不憫でならない。どうして殿はここまで妻を強く突き放すのかと。
 するとそんな様子を見ていた張唐軍参謀の陳という上官がやってきて、宥めるように煕の肩を叩いた。
「そうむくれるな。張唐様はああ見えて御夫人を心から大切に思われている」
「とてもそうには見えませぬが」
 即座に反論した煕を見て、陳は呵呵と笑ったかと思えば、他聞をはばかるような小さい声で囁いた。
「面白い話を聞かせてやろう。口止めをされているゆえ、御夫人の耳には決して入れるなよ。昔から張唐様は我々に家務を任せていたのだが、たったひとつ、新たな妻を娶るべきという献言だけは幾度となく斥けられたのだ」
「……まことですか」
「御夫人が悲しむだろうと、そう仰ってな」
 疑り深い視線を送る煕をよそに、陳は楽しげに言葉を続ける。
「もっとあるぞ。張唐様はどんなに多忙であっても仲春の頃に必ず邸に戻ろうとする。花に囲まれて楽しそうにする御夫人の笑顔は格別に美しいのだ。若かりし頃は殊に」
「しかし殿はあの庭を嫌っているようです」
「嫉視よ。御夫人自身はずっと花に夢中であるからなあ」
「そうでなくても二人きりの時でさえ冷然としておられますよ」
「あれは世の禍乱に妻を巻き込むまいという張唐様なりのお考えがあってのこと。不器用な優しさだがこちらとしてはもどかしいばかりだ。ああ酒の所為でつい喋り過ぎてしまった。くれぐれも内密にな。御夫人の前でうっかり余計なことを言わぬように」
「はは。承知いたしました」
 うっかりと語気を強めて言う陳を見て煕は微笑する。良いことを聞いた。間違って口を滑らせぬ限りは表に出ない話であるが、万一にも夫人の知るところとなれば喜ばれることだろう。

「……間違って口を滑らせぬ限りはな」
 虚空に淑女の美しい花笑みを映し出していた煕は、そう独り言ちると、櫓から降りて寝床へと向かった。東の空が、ほんの僅かに青みを帯びている。気づけば戊夜だ。夜更かしをしすぎた。夫人はもうお休みになっているだろうかと、都の方を眺めやった。

 函谷関の壁上に構えた張唐軍の本営に、韓軍の弩が放った丹丸が――死の煙が蔓延ったのはその日の午のことだった。



 気を抜けばへたへたとしゃがみ込んでしまいそうなほどの重い足取りで、煕は帰路についていた。
 戦には勝った。函谷関を越えて国都の喉元まで攻め入った合従軍であったが、とうとう撤退し、秦は守られた。もとより負ける見込みの方が高い戦であったらしい。言うまでもないが、そのような事実など知らされているはずもなく、不落の国門は守り抜くことができて当然だと刷り込まれていた身からすれば、敗けたも同然である。
 たしかに戦には勝った。
 しかし殿は討ち死にした。
 毒に侵された張唐の亡骸を輿って邸に連れ帰ることはできなかった。夫人のもとには骨の一本も戻らないのだ。悔しくてたまらなかった。だからこそ勇猛な最期を遂げたことは伝えなければならぬ。井闌車をつたって函谷関から降り、共に敵軍の波に揉まれながら、殿が自ら韓将成恢を討ったその時まで煕は傍に居た。
 ――我ながら悪くない道のりであった。
 ――あとはどう、儂なりの花道を飾るかだ。
「……花」
 死期を悟った殿が畢生を振り返る辞の中にそのような言葉があった。
 偶然かもしれない。だが夫人のことを思い出していたのだと願いたい。それは自分の身勝手な妄想に過ぎないかもしれないけれども。
 夫人の元には既に張唐戦死の早馬が着いている。失意の底にいる彼女に凶報を繰り返し伝えねばならないと思うと、そのような希望に縋ってでもいなければ耐えることなどできないのだ。