さにつらう
青蠅の羽音が煩わしく、あまり寝付けない夜だった。
視界の奥に影となって横たわる男はもう何日も前から身じろぎひとつしていない。やがてその肉は柔らかく腐りゆき、鼻を衝くような饐えた臭いがこの狭い天幕の中に充満してゆくのだろう。
そしてわたし自身もまた同じようにこの場所で、我が事を終え、天命を待つのみの存在だ――。
ゆんでに大きく負った傷は酷く膿んでいる。
衛生兵の手当てを受けたのはもう何日も前のこと。ただ、もはやわたしという人間は使い物にならないと見做され、こうして長らく放置されている。
飯はおろか水すらも与えられない。ぞんざいな仕打ちに腹に据えかねるものはあれど、死にかけの兵卒よりも、最前線で戦う者達に限りある食糧を割くのは極めて合理的な考えであることは承知している。わたしとて少なからずそうやって生かされてきたのだ。
生かされる意味が無くなれば、次は他の誰かを生かす側となる。そのお鉢が回ってきただけだ。
それはそうとこの劣悪な環境下で生涯を終えることは本意ではなかった。己が将たる摎を二度と守り切れぬ無念が残る。とはいえわたしは下っ端も下っ端の兵卒であり、言葉を交わしたことはおろか、仮面の下に隠されたその見目を拝したことすら一度も無い。ただ偶然にも摎の軍に配備された数年ほど前、戦場の空気を稲妻のように轟と駆け抜け、耳孔の奥まで鋭く劈くような檄に心を揺さぶられたことを強く覚えている。
それからあの御方を御守りしようと思い定めた。ただその志もこうして呆気無く砕け散ってしまったわけだが。
…… ……。
瞼を閉じ続けても意識は一向に薄れずにいた。
睡眠よりも他の欲求を強く訴えかけているこの体が、そう簡単に鎮まるわけがないと言ってしまえばその通りかもしれない。
そうして幾刻か時が流れ過ぎ、自身に残された時間の短さを儚むよりも退屈さの方が擡頭しはじめた頃。
つと遠くから土を摺る履の音がした。
やがてそれらはこの天幕の方に向かって、徐々に近づいてきているようだ。
わくらばの如く羸弱しきった細い体を突き上げるように、心腑が大きな鼓動を打った。このような夜半に此処を訪れる者の目的が知れないことが、にわかに恐ろしくなったのだ。胡乱な目を辺りに移らせ、身を強張らせながらじっとしていると、足音の主はやはりこの天幕の前で歩を止めた。そして。
「失礼しますよォ」
意外にも丁寧に一声掛けてから帳を払って中へと入ってくると、横たわっていたわたしの眼前までやってきたのだった。
戦場の夜は昏い。舞い上がった砂塵はいつまでも空を覆い、幽かな星辰たちの光さえも掻き消してしまう。
そのような暗闇から突如として現れた手燭の火と、それに反射して浮かび上がった顔が二つ。濃い陰影に縁どられた面貌を見た瞬間、悍ましさに思わず悲鳴を上げそうになったが、人影はそれよりも先に「お静かに」と儼乎に言い放った。そのあまりの重圧にわたしは反射的に閉口する。
「なるほど……。この娘が」
嗄れ声でそう呟いた声の主は昌文君という男、元は楚の公子である武官だ。そしてその隣に立つ、山のような体躯の男の名は――王騎。
王騎将軍だ。
大王様に「戦争の自由」を与えられた六大将軍が一人。どうしてそのような人物がわたしの前に現れたのか、状況が理解できない。困惑しながらも両人を見つめていると、王騎が再び口を開く。
「立ちなさい」
「え……?」
「私の声が聞こえますか? 立ちなさい。」
言われるがまま長らく寝たきりだった身体をもたげ、膝を立てる。覚束ない足取りのまま自立しようとすると、思うように力が入らず、地面がうねったかの如く均衡を崩した。
すると王騎は丸太のように太い腕でひょいとわたしの腰を持ち上げ、荷駄か何かのように肩に担ぐとそのまま歩き出す。
「あの」
これからどこへ。何故わたしの名前を。
様々な疑問を払拭すべく、王騎の顔を見遣りながら恐る恐る口を開くと、目が合った。
「ンフフ。暗がりでは本物と見紛う者も居るでしょうねえ」
「確かに。体躯だけではなく声までも似ている。顔を隠せば疑いようもない」
「ええ。まさに適任です。私の目は間違い無かったでしょう、昌文君」
その口ぶりはまるで、王騎が幾万といる兵卒の中から、わたしという人間に――しがない兵卒の女に――予め目星をつけていたかのよう。
にわかには信じ難いことだ。なんといってもわたしは今日初めて、王騎の姿を間近で拝謁したのだから。しかし彼らがわたしの名前や居場所を調べ上げ、こうして相見えた事実は、単なる偶然で成り立った出逢いではないという確たる証左。
ならばわたしはどうして王騎に見出されたのか。
その理由を知りたかった。だが面を犯すことも憚られて、結局は口を噤んだ。多くを語ろうとしない二人の様子から、わたしはそう遠くない未来にその答えを嫌でも知ることになるのだろうと、予感めいたものを覚えたのだ。
そして、その予感は奇しくもすぐに的中した。但し考え得る最悪の形で。
眼前に一人の娘が横たわっている。
戦場にはとても似つかわぬ清潔な絹の褥の上で。嫋やかな身体、白磁のような四肢に黒檀の御髪、唇にぬらめく臙脂。朱い玉が象嵌された鉢金に縁どられた、あどけなさを残した容貌。自分と同年輩だろうか。
匂い立つような美しさを具えた娘であるが、しかし、その肌膚には痛ましいほどに無数の切創が走っていて。滾々と流れだしたのであろう夥しい血汐が、赤黒く変色し、その瑕を埋めるようにぎらついている。
わたしは様々な角度からその躯体を検めた。暫くじっと伺い見ても、やはり微動だにしない。
時折、帳の隙間から入り込む風に髪が数条ふわりと舞い上がるのみだ。
この娘は既に亡くなっている。
そう結論付けるのにさほど時間はかからなかった。鎧を貫通する深い一太刀が致命傷となったのだろう。うら若くしてこの世を去ったことを気の毒に思いながら、目を閉じて幾許かこの娘の鎮魂を祈念する。
それからゆるゆると瞼を持ち上げると同時に、わたしの肩に王騎が手を置いた。
「、あなたはこれから摎として秦国に帰りなさい」
「…… ……摎?」
唐突に王騎の口から語られた名は、わたしが命を懸けて守ると密やかに誓っていた将のものだ。
冷え切った夜の空気が、不気味に背を撫でる。
「…… ……」
彼らがわたしのもとを訪ねてきた時から、薄らと、しかし確実に、胸の裡を巣くっていた悪い予感がより一層、沸々と膨れ上がった。
幾重にもなる帳に囲われたこの大きな天幕に、静かに横たえられたこの娘はいったい何者か。一頻り思案を巡らせた。様々な可能性を探ったが、そのどれもが泡のようにはじけて消えた。
そしてたったひとつ、違和感も矛盾も無い結論だけが残酷にわたしの前にはだかった。
「まさか。この佳人が……摎将軍であると、そう仰るのですか」
自分で言葉にしておきながら現実を呑み込めないわたしに、王騎は無情にも低くがえんずる。
「よいですか。もう一度だけ言います。あなたは摎として秦国に帰りなさい。このことは決して他言してはいけません」
感情の整理がつかぬうちに次々とかけられる言葉は、もはや一片たりともわたしの頭には残ってはいなかった。主を守り切れなかった無念と同時に、女でありながら六大将軍という位次にまで登り詰めた摎のむごたらしい最期を思うと、あまりに遣る瀬無く、その場に頽れて身も世も無く慟哭した。
言葉も出ず、ただただ首を横に振るわたしに、王騎は嘆く暇を与えない。
「これは命令です」
「…… ……」
「摎の名誉を守る為の重大な役目です」
摎は何者かに殺された。だがその事実が公になることは決してあってはならない。
秦の六大将軍の一角が、斯くも崩れたことが人口に膾炙すれば秦の威信は墜ちる。それだけではない。摎という人間の尊厳までも。
それは決して彼女の望みではないはずだ。――とはいえ。
「鄙に生まれたわたくしめに、どうして大将軍の立ち居振る舞いが能うとお考えで……。いくら背格好が似ているからとはいえすぐに看破されましょう」
「いいえ。あなたでも十分、代わりはききます。この娘に関しては並々ならぬ事情がありましてねェ。何者も摎の身上を語ることは固く禁じられているのです。ですからあなたが何かヘマをしでかさない限りは、露見することはまず無いでしょう。すべてこの王騎が上手く執り成して差し上げますのでご心配なく」
王騎の言葉に偽りは無いのだろう。現に摎軍の隷下部隊に配されていたわたしでさえ、彼女の出生や軍歴はおろか、顔も、性別すらも今この時まで知らなかったのだから。巷間で摎の素性に関しての噂が囁かれることはあれど、それらがいつのまにかぱたりと止んでいたのも事実だ。
背後にある王騎をも凌ぐその隠然たる権力に恐れ畏むも、しかしわたしは黙考の末に首肯した。本来であればあの腐臭の蒸れた狭い天幕で静かに終わるはずであったこの生に、摎亡きあとも「摎を守る」その命が己の身に存えているこの上なき僥倖。
断る謂れは無かった。
ゆるりと顔を上げたわたしを見て、王騎は厚い唇をたわめながら頷く。
「さて。あなたにまつわる諸々の処理は昌文君に任せます」
「ああ。脱走兵として軍籍を抜けさせるしかあるまい。すまぬが焦眉の急だ」
「心得ております」
「では。まずは摎に扮し咸陽へと帰りましょう。……甲と仮面を」
促されるまま、震える腕を伸ばして衣桁に飾られた甲冑を手に取る。
幾度となく焦がれた眩しいばかりの白銀。身に纏うと馥郁たる花のような、甘やかな香りが鼻腔をかすめた。彼女の匂いだ。これがわたしの土臭い肌の臭いに掻き消されて、薄れゆき、やがてこの世界からなくなってしまうのだと思うと、堪らなく惜しくなった。
天蓋が付された大きな榻は、それだけでまるでひとつの部屋のように、化粧台や家什なども付設されていた。
床架には人の手で彫られたものとはにわかに信じ難いほどの精緻な文様が、それも四方にあしらわれており、その随所に金銀象嵌の細工が施されている。朝旦のやわらかな日差しや、或いは夜々中に灯す油燭の火で、それらは異なる美しさを呈する。
王侯貴人は斯様な場所で寝食をしているのだという事実は、産まれてこの方あばらやで風雨を凌いできた身からすると、驚きを通り越してもはや困惑の域だ。
摎は病に冒されている。
馬陽の戦いの後、瘴気にあたり床に臥せることが多くなった。その病状は日を追うごとに悪化の一途を辿り、ついにこの場所から一歩たりとも動くことができなくなった。
とは王騎の定めた筋書きである。
わたしはその通りに摎を演じ、羅帷に取り囲まれたこの場所に横たわったまま動くことを許されていない。
王騎はそんなわたしのもとに能う限り毎晩、見舞いにやって来た。
無論見舞いとは口実で、実際の目的は監視のようなものだろう。ここを訪れる医者や易者の誰も、摎の死を知らない。それほど徹底されているこの状況で、他でもないわたしが迂闊に口を滑らせては全てが水の泡である。そのための話法や、摎の言葉選びの癖など、さまざまな情報を王騎はわたしに教示してくれた。
「その腕の、怪我の具合はどうです」
「もうだいぶ動くようになりました。お蔭様で良い医者に診てもらうことができましたので」
口許に端正な微笑を形作り、傷を撫しながらそう答えると、辺鄙な田舎で育った農民の娘にしてはよく仕上がったと、彼は満足そうに腕を組み笑んだ。普段の、近寄りがたい畏怖を湛える鷹揚さはない。柔らかい、心からの笑みだ。
会話は少ない。にも関わらず王騎はここに意味も無く居座ることが多かった。妙齢の女と夜分に長らく二人きり、という状況はなんとなく事有り気であるが、どうしてかここの邸に仕える者たちは訝しむ様子も無い。
「あの。不躾ながら、摎将軍とはどのようなご関係であられたのですか?」
勇気を振り絞って問うてみると。
「そんなに私たちの関係が気になりますかァ?」
「それは……まあ」
「ヒミツです。ですが――」
ふいに。王騎の指先が、わたしの頤をぐいと持ち上げた。
「このような夜半に貴女の寝所を訪れても咎められないような間柄であったということは事実です」
「へ」
視線を絡ませながら、熱っぽいささやくような声で王騎は言う。
わたしの顔に、身体に、彼の巨躯が昏い影を落とす。その真意は伺えず、ただ体の芯から震えるような色気だけが注ぎ込まれているような感覚。
「……っ」
思わず息を呑むと、王騎は両の目をぐっと細めて。
「というのは冗談で」
身体を強張らせるわたしを揶揄うようにくつくつと笑いながら立ち上がった。
「あの娘は、もとは私の邸に仕えていた召使でした」
王騎は訥々と語る。
摎は幼い頃に親を亡くし、わけあって王家に引き取られた。彼女は何者の庇護を得ずとも、その身分や性差といった障壁を乗り越え六大将軍に成り上がり大名を馳せた。摎を知る者は口々に、彼女は戦の神に愛されていると言ったという。
しかし何の前触れもなく、唐突に、命数は潰えた。
素性の知れぬ敵将の手によりあたら若い命を戦場に散らせた彼女。その死は六大将軍の威信を大きく損なう、秘匿するべき事実であるとの烙印を押された。摎の無念如何ばかりかと、俯くわたしの肩に王騎は手を置く。
「幼い頃から目を掛けてきた大切な娘です。私は摎の人生を薄幸などとは決して否定しませんし、この世の誰にもそのように認めさせるつもりも毛頭ありません。ただ、その為に貴女の人生を犠牲にしては、摎はきっと悲しみます」
本来この息の緒は馬陽の地で失われるべきものだった。偶然にも生きながらえたとはいえわたしは、摎のためならば自分の命を惜しいとは思わない。どんな汚名を着せられたとて構わない。
けれども他ならぬ彼女がそれを許さない。
死してなお。
「というわけで。貴女を逃す手筈を整えているところです。あと少しの辛抱ですよ」
肩に乗せられた厚みのある手の温もりに、わたしは応えるように頷いた。
「失礼する」
しじまを裂いたのは珍しい訪客の声であった。
相謁するのは帰都して以来とじつに久しく、榻を囲む帳が払われようとした瞬間、わたしの身体は戦場に生きていた時の癖で咄嗟に背を正して包拳の礼をしようとしたが。
「昌文く――いたっ!」
太い指に額をピンと弾かれた。反動で褥に倒れ込んだわたしの身体に衾をかけながら、王騎は耳元にそっと唇を寄せて囁くように言う。
「重病人が急に起き上がってはいけません。それと昌文君ではなく頑固じィとお呼びなさい」
「聞こえとるわ! 誰が頑固じィか!」
駄弁を弄する王騎にしっかりと付き合った昌文君は、一つ咳払いをすると、褥に沈むわたしに水菓子を差し入れた。
この頃は薬の入った味の薄い飯しか食えずにいたものだから、薄暗い手燭の灯りに照り返るその果皮が、まるで美玉のように輝いて見えて。思わず盆に手を伸ばしたが、しかしその手も王騎に虚しく払われてしまう。
「摎の影であることをゆめゆめお忘れなく。昌文君、その水菓子は差し入れた貴方が責任をもって食べさせなさい。何せ彼女は病人ですので」
「人払いは済ませておるだろうに」
「念には念を、です」
昌文君は不承不承、よく熟した李を半分に割ってわたしの口もとへと運んだ。
黄金色の果肉に歯を立てると、みずみずしい果汁が溢れ出る。舌が灼けるような甘さと鼻まで染み入るような酸味に刺激された口腔にはじわじわと唾液が滲んだ。
このような上等な水菓子は、倹しい生活をしてきたわたしにとっては縁遠いものであった。思わず美味しいと呟けば、昌文君は安堵の表情を見せる。
「困りごとはないか」
「特にはございませんが、病体を装うのは体力が削られます。寝たきりで、身体に力が入りません。今や自力で歩けるかどうかも怪しいところです」
「苦労を掛ける」
「いえ」
王騎と昌文君はしばらく部屋に留まり四方山の話をしていた。
その中で彼らはわたしに、摎の密葬が恙無く執り行われたことを伝えてくれた。彼女の死は決して露見してはならぬもの。槥車を用意することも、すべてを隠しながら亡骸を都まで運ぶこともそう簡単ではなかったはずだ。
それでも彼女は都に帰った。気が付けば目端から零れた涙が己の頬を伝っていた。摎を喪ったどこまでも深く昏い喪失感と、彼女の代わりに生かされてしまったうしろめたさの中に、わたしはようやくかそけき救いの光を見出すことができた。
摎の死を知ったあの日の痛みは決して癒えることはなかった。ただ時の流れと共にその鋭利さは柔らかく崩れ、次第に胸底に渣滓のように積もってはわたしの心を徐々に蝕んでいった。静かな部屋で、その穏やかな苦しみに抱かれるうちに、やがてわたしは残りの生を摎として過ごし、そして従容として死に就く覚悟を定めつつあった。
毎晩のように続いていた王騎の訪問も、突然、ぱたりと途絶えた。どこかもの寂しさを感じる自分がいたが、あれは本来、身分の低い兵卒では言葉も交わせぬ身分の御仁なのだ。ここで世間から遊離した生活を送るうちに、心までも摎になりきってしまったのかと、わたしは自身に冷ややかな眼差しを向ける。
けれども決して己に与えられた使命に対して妥協はしなかった。
わたしは摂食を拒むようにした。
数日が経つと、身体に力が入らなくなった。瞳は虚ろになりほとんど像を結ばず、春の黎明刻のように霞がかった視界の中で、淡く光る手燭の火が発する赤色だけがやけに煎りついて見える。
四肢は枯枝のように痩せ細り、羸弱しゆく様を危惧した医者たちの騒ぎ立てもすべて撥ね退けて、ただひたすらに天命を待つ。
恐怖は無かった。ただ、寂しさはあった。という人間の存在が、誰にも惜しまれることなくこの世界からひっそりと消えゆく、その空虚さがふいに膨れ上がっては胸の底で荒々しく暴れ回った。
どこかわたしは、摎と同じ死には辿り着けないような気がしていた。自分の魂魄は黄色い大地の地中深くにある泉でもなく、蒿里でもなく、この大地の空や土、風の中に、溶け入ってさっぱりなくなってしまうのだろうと根拠も無く思った。
馬陽の地で死ぬことができていたのならば決して抱くことのなかったであろう雑念ばかりが頭を支配し、やがてそれは底冷えするような声で、繰り返し、静寂の中にこだまするようになった。まるでわたしをまことの死に引きずり込む挽歌のように。
摎の葬儀から暫く経った、月の翳った晩のことだった。
「起きなさい」
荒波に揉まれる筏の上で、這いつくばりひた堪える夢を見ていた。その夢と現実が綯交ぜになって、寄せては返す波の挟間にいるかのわたしのように、双方から意識を引っ張られている感覚。
眩暈がする。
視界がぐるぐると回る。
宙に浮いているような、はたまた地面に縫い付けられているような。
「ん……」
まどろんでいたわたしの肩を誰かが揺さぶった。強く、それも執拗に。そのうちあの夢の残滓は消え失せ、代わりにこちらを覗き込む王騎と昌文君の顔が、眼前に映し出されていた。
「……王騎将軍……昌文君。何事ですか」
嗄れた声は思いのほか泰然としていた。否、現実とも判別できない一種の譫妄状態にあったのかもしれない。そんな、うっそりとしたわたしの手を、昌文君は強引に掴むとぐいと引っ張り上げた。
「説明は後にする。くれぐれも声を出すな。早くこれを被れ。すぐにここを出るぞ」
外套を投げ渡され、わけもわからぬまま昌文君の後を追うように立ち上がろうとしたものの、足が止まった。そのままつんのめるようにして倒れたが、腰を上げることができない。
膝に力が入らない。数か月もこの榻の上で日々を過ごしてきたわたしは、もはや自立する筋力すらもないほど衰えていたのだ。
「ま、待ってください。動け」
昌文君を呼び止めようとした、その時だった。
「な――」
身体が唐突に浮いた。細い手足が宙を掻く。
あろうことかわたしの身体は王騎将軍の腕の中にすっぽりと収まっていた。薄い布越しに触れている胸板の、あまりの広さに驚いていると、王騎はわたしの乱れた寝衣をそっと掛け直し、軽々と歩みを進めた。
「急ぎましょう。騒ぎになれば人が集まります。昌文君、それを頼みますよ」
王騎は「それ」と指した床に転がされていた大きな麻袋に視線を向ける。昌文君が頷くと、彼はすぐに部屋を出た。別れの言葉も交わせぬまま、あっという間に昌文君の姿は見えなくなってしまった。
月輪が分厚い雲の向こうに隠れた一瞬の隙を逃さずに、王騎は人目をかいくぐって闃然とした庭へと出た。
淀みのない新鮮な空気がどっと肺腑の中に流れ込むと、意識が冴えた。すがすがしい気分だ。五感が澄みきって鮮明に働いている。身体の中に溜まっていた汚わいが、みるみる洗い流されていくようだった。
「貴女のお役目はもうお終いです。長い間、不便をかけました」
稚児を抱く父のような温かい声が降る。
「いえ。しかしこれからどうするおつもりで。あの麻袋は」
「代わりに奴隷であった若い娘の亡骸を用意させました。遠目から見れば十分誤魔化しが利くでしょう」
ああつまり、王騎と昌文君はわたしを逃がす計画を暗々裏に進めていたのだ。長らく邸を不在にしていたのはその為だったのだろうか。
夜が明ければ摎の死が公になる。
あの名も無き女性の亡骸は、きっとこの上なく手厚く葬られるのだろう。
わたしの役目は終わった。だが気持ちは収まりきらぬまま。
「私とはここでお別れです。これから貴女を故郷まで送り届けますので、御心配無く」
門扉には車が一輛、横づけされていた。恰幅の良い馭者は王騎の手の者に違いない。
王騎はわたしを車箱の中へと運び入れると、労うように肩に手を置き、微笑を浮かべた。摎の死によりもたらされた悲しみを、怒りをすべて擁いてなおその表情は穏やかだった。
「このようなとき摎将軍はどのようなお言葉を選ぶのかは分かりかねますが、どうかいつまでも御達者で」
「摎はもういません。貴女個人からの言葉ということで受け取っておきましょう。それと」
王騎は懐から取り出した何かを、わたしの手のひらに握らせる。暗がりの中でまじまじと見つめてみると、それは一顆の、麗しい珠玉であった。淡い月光の下にさらすと美しく、五色の輝きをみせた。
「これは」
「摎の形見です。大切に持っていてください。あの娘もきっと喜ぶはずです」
それが摎の鉢金に散りばめられていたあの珠玉であると気づいた時には、王騎は踵を返そうとしているところであった。
去りゆく背を呼び止めることもできず、ただ呆然とその姿影を眺めるわたしをよそに、無情にも車は走りだした。わたしは掌を弱々しく握りしめながら、小窓を開けて、無辺際な夜空を見遣った。
車には食糧や衣裳の他に、一嚢の金銀珠玉や段匹が積まれていた。
両手でやっと持ち上げられるほどの重みだ。何事かと思い慌てて馭者に訊ねれば、王騎から礼物としてわたしに贈るように言われたものだと答えが返ってきたものだから、唖然とした。
「武功を求めて田舎から出てきた勇敢な娘に申し訳無いことをしたと、殿はそうおっしゃっていました。本来農民が授与できる恩賞よりもずっと価値のあるものですから、貴女の家族も安泰でしょう」
言葉が出なかった。
田舎を飛び出したばかりの若い時分であれば、これだけ価値のあるものたちを持って帰ることを素直に喜べていたのかもしれない。だが今、わたしの心に蔓延るのはやりきれない虚しさだけだ。
摎の死をもって形作られたこの出来に、喜びなど一切芽生えるはずがなかった。
この先何十年と約束された不自由の無いであろう生活も、おそらく空々漠々と過ごしてゆくのだろうと感じた。こんなことになるならば、貧しい邑で貧しいなりの人生を送った方が幾分か良かったとさえ思えた。
故郷の家族はわたしを盛んに褒めそやした。摎の件を打ち明けるわけにもいかず、偶然にも大きな武功を挙げたのだと嘘を吐いた。有り余るほどの財は親兄弟に分け与え、わたしは清貧に安んじて生きていくことを決めた。
それからは無為な日々がただ続いた。自分を取り囲む景色が褪せて見えた。死と隣り合わせの戦場で過ごした時分の記憶は、もはや鮮明ではなくなり、まるで夢を見ていたかのような感覚だけがいつまでも胸の底に固着していた。
都から遠く離れたこの鄙びた邑に王騎の訃報が届いたのは、それから十年ばかりが経とうとしていたとある日のことだった。
ここ数年は第一線から退いていたという彼がどこで、どうして亡くなったのかは、とうに戦場から離れていたわたしには知り得ないことだ。
ただひとつ、王騎は摎のもとへと旅立ったという揺るぎない事実だけが目の前に屹立していた。
この邑は相も変わらず貧しかった。ただどの家も口減らしのために生まれた女児を捨てることだけはしなくなった。皆がわたしの、紛い物の僥倖に肖りたいと思っている。
馬鹿馬鹿しいと思った。しかしその馬鹿馬鹿しさにも似た夢こそが、昔日の自分が戦場で追い求めていたものに違いない。そうでなければこの不自由ない日々の中にいて、満たされぬ気持ちを抱えたまま煩悶としているはずがないのだ。
人生とは思うに任せぬことばかりだ。心血を注いでも報われるとは限らない。取り返しのつかないことばかりを幾度となく思い返しては、わたしはまた過去を悔やむ。摎を喪ったあの日のことを思い出す。ゆんでの古傷がキリキリと痛んだ。
訃報を知ったその晩、わたしは部屋の一隅に手燭を置いて、王騎から譲り受けた摎の形見たる珠玉をまんじりともせずに眺めやっていた。
今でもその輝きは失せることなく、奥ゆかしく艶めいている。
目を伏せれば幾千の馬蹄の音が脳裏にこだました。
濛々と立ち昇る土煙の向こう側に、摎の背を見る。
進軍の鼓が鳴った。摎軍の大旗が堂々と掲げられ、左方へ大きく動いた。すぐさま箭を手に取り、弓に番えて引き絞ると、次の鼓が鳴ると同時に放つ。
あの頃に戻りたい。やりきれない思いだけが膨れ上がってゆく。
「…… ……」
耐えかねて瞼を開けた。
すすけたこの世界の中で、掌中に閉じ込めた珠玉だけはやはり変わらず、何よりも美しく鮮烈な色を放っている。