地獄にも春よ来たれ・後編


 あの甘い茶を気に入ったと伝えれば、李園はわたしの為にそれを用意してくれるようになった。以前は冷たいものを口にしたが、今回は淹れたてだ。芳醇な香りが芬々としていて、殊に美味である。湯呑みからは白い煙が立っていて、それが夜の冷たい空気に静かに溶けていた。
 ここは以前訪れた李園の邸ではなく、王宮に取り囲まれた湖上の小島。簡素な椅子と桌だけがぽつりと置かれた場所。王宮へ向かう二、三十丈ほどの長い橋が一本通じているのみで、周囲は水辺だ。他聞をはばかる話をするにはうってつけの場所である。夜空に浮かぶ望月と夜に映える王都の灯りが、湖面を境に鏡のように反射している光景は美しい。格別の眺望だ。眼前に李園さえ居なければ。
 彼によれば近頃の宮闕は慌ただしく乱れているらしい。高官らは国の行く末を憂い、次の王に誰を立てるべきか――李環の子を擁護する者と、王弟派とが甲論乙駁しているそうだ。その王弟は、噂によればとても政を任せられるような人間ではないと聞くが。とはいえ李環が産んだ子も件の疑惑がある。
 李園も大臣の職務で多忙であるらしい。あれから春申君の暗殺計画に関して彼の口から伝えられる機会は殆ど無く、わたしはその仔細を未だ知らない。漸く今日こうして会うことができたが、遅い時間帯になってしまった。邸には春申君が居る。留守にすると書き置きをして、顔を合わせぬよう昼の間に抜け出してきたが、疑われる危険性は大いにある。さて明日の晩酌でなんと弁明しようか。
「葬儀はいつまで続くのですか?」
「明日には終わるだろう」
「ありがとうございます。無学なもので、王とはいえ斂葬にこれほどまでの時間を要するとは思いもしませんでしたよ。そしてわたしは何をすれば良いのでしょうか」
「二日後。即位の礼が執り行われる朝に、春申君を人気の無い場所へと誘導して欲しい」
 そう言って李園は桌上に春申君の邸の見取り図を広げた。緻密な線画十重二十重に走るそれはまるで一つの芸術作品のようだ。邸に住む間諜から間取りを聞き出し、腕の良い絵師に描かせたものだろう。ここにも李園の入念さが伺えた。手燭を持ち、彼の太い指がさす先を照らす。
「暗殺は邸の中で行う。他の場所で大多数の目に触れるわけにはいかない」
「邸の者たちは李園様が掌握しているのでしょう?」
「ああ。だが食客たちは別だ」
「なるほど。ではなるべく人気の無いような場所で、かつ外部からの闖入者の仕業にできるような場所が良いでしょう。食客たちを犯人に仕立て上げれば貴方様に与する者が真っ先に疑われ、芋づる式に足がつく可能性もある」
「その通りだ」
 あくまでも暗殺だ。李園の立場が無くなってしまっては意味が無い。できるだけ密やかに、確実に、計画を実行しなければならない。そのためにはどうすべきか。李園に目配せをすると、彼は口を開いた。
「主卧の裏手から西に回り、道なりに進むと、こちらにも小さな門がある。ここには食客たちは近寄ることはできない」
 春申君や彼に近しい人物たちしか出入りを許されない場所からの一本道である。
「つまりここで春申君を?」
「その予定でいる」
 どうやらわたしの仕事は彼をここに誘導することのみ。その先は李園が雇った暗殺部隊に任せるようだ。
「上手くやってくれるか」
「お任せください」
「春申君のもとに居るのが惜しいな。お前のような有能な娘は、早々にこちらに引き入れるべきだった」
 芸も学も無い自分をそのように評価してくれることは喜ばしいことなのだが、不思議なことに、李園の言葉に何の感情も湧かなかった。彼はかつて己を食客として迎えてくれた恩人を殺そうとしている。殺そうと思い定めるまでの過程はどうであれ、この事実は消えない。そのような仁侠の欠片も無い男が発した言葉もまた、信じるに値しないものだと、そう思ってしまうのかもしれない。
「わたしの何を見て有能だとお考えになるのです。蓋を開ければ真逆でございますよ」
「あの男になにも悟られずに生きていることだ」
「それほど難しいことでございましょうか」
「少なくとも私はそう思っている。故に奴との接触は避けている」
「きっと李園様は深く考えすぎておられるだけ。春申君の顔を見るたびに、計画の成否や、楚国の行末、李環様の処遇など、心のどこかで思い悩んでいらっしゃるのでしょう。わたしの方は気楽なもので、ただ言われた通りに動いていれば何も憂うことなどありませんから」
「それにしても反抗的な態度の片鱗くらいは見せるものだと思っていたが……まあ良い」
 李園は近くに立っていた私兵を見て顎をしゃくると、その私兵は桌の上に広げた見取り図に油を染み込ませて火を点けた。瞬く間に黒く焦げたその残骸は、湖上へと放り投げられる。
 話は終わったようだ。証拠は一切残らない。ここに居る人間たちの証言を除けば。
「油断はするなよ」
「ええ」
 彼は一足先に席を立ち、暗闇の中へと消えていった。
 わたしもそれに続き、細い橋の上をゆっくりと進む。ふと足元が暗くなった。月に雲がかかり、光が届かない。暗澹はすぐそこまで差し迫っていた。
 こんな状況になりながらも、心のどこかで、まだ夢を見ているような感覚をおぼえていた。春申君はどこで間違ったのか。最近はそのことばかり考えてしまう。そもそもの根源である李環の件もわたしは詳しく知らないのだ。李兄妹が春申君を唆したのか、或いは春申君が自らの野望のために李環を差し出したのか。真実は一切分からない。ただ李環を献上したことで春申君はますます揺るぎない立場を得ることができたのは事実で、彼自身が汚濁にまみれた我欲に、一瞬でも溺れてしまったことだけは確かと言えよう。愚かな方だ。しかし今になって王弟に王位を継承させるべきだと言ったのは、彼の心にかつての、王に対する篤く清らかな忠誠の欠片のようなものが、残っていたからなのかもしれない。

 邸に戻ったのは薄明の頃。それから床に就いたものだから、次に目を覚ますと午を過ぎていた。春申君の姿は無い。別な従者の車で王宮へと出向いたようである。
 部屋はあまり片付いていない。誰かが申し訳程度に整頓したようだが、この様子では、わたしが不在であった昨晩はかなり荒れていたのだろうと容易に想像がつく。
「御召し物を干して、酒舗に行って晩酌の準備を整えて、掃除もしなければ。それから――」
 やるべきことを独り言ちながら手を動かす。きっと今日が春申君と共に過ごす最後の夜になるというのに、いつもと何ら変わらない過ごし方をするのは些か勿体無い気もするが。だからといって特別なことをしようとは思わない。春申君がもしわたしの異変に気付いたとして、李園の計画やら何やらを洗いざらい吐かされようとも、彼の力ではもう止めようもない。ただこの主従関係が、最悪の幕引きを迎えるだけだ。そう考えると、春申君は最期まで何も知らない方が幸せなのだろう。
 それでもあと十年、二十年くらいは、傍に居られると思っていた。
 どれほど尾羽打ち枯らした姿になろうとも、わたしはずっと、ついていくつもりだった。

 夜は静かに更けてゆく。
 夕餉を済ませた春申君は、その秀眉を訝しげに歪めながらわたしに問い掛ける。
「昨晩はどこかへ出掛けていたのか」
「はい。李園様の邸へ。その……貴方様との関係が芳しくないことは承知しておりますが、どうしても、御傷心の李環様に悔み状を認めたく」
 ここで無理にはぐらかすのは得策ではないと判断し、わたしは真実に嘘を混ぜた。春申君は納得してくれたようで、それ以上追求されることは無かった。我ながら上手な言い訳だと思う。
 李環はわたしの古い主だ。そして春申君は何を隠そう、その主従関係を断ち切った男。だからわたしが李環を言い訳に勝手な行動をしても、咎められない。

 十二で後宮に出仕したわたしは、考烈王が寵愛する側室・李環の世話をする侍女の一人であった。彼女は見識のある素敵な女性で、あどけなさをとどめた顔立ちをしているのに、幼いわたしに母のような慈愛を注いでくれるような不思議な人。他の后のようなぎらつきはなく、物静かで、時折うら寂しそうにしていることもあった。
 李環のもとで平穏な日々を過ごしていたある時。宰相の春申君が後宮の視察という名目でわたしたちの元へとやってきた。本来男性は立ち入ってはいけない空間であるが、春申君に恩のある考烈王はなんとこれを許していた。実際は視察などではなく、自身が王に献上した元妻の顔を見に来ただけなのだろうが、幼いわたしはそのような事情を知るわけもなく。やがて何度かその場に同席しているうちに、わたしは春申君の邸へと連れ帰られた。理由は分からないが、有無を言わせぬ圧に、わたしは従うしかなかったのだ。
 それからまた数年が経ち、春申君が私に心を許し始めた頃。酒の入った彼の口から、懐かしい名がこぼれ出た。
 李環の話を聞かせてくれ、と。
 もしかすると。本当はこの人も寂しかったのかもしれない。

 当時の自分は宰相という位がどれほど偉いのかすら分からないような、無知な子供だった。しかし未熟ながら、春申君が只者ではないことは感じ取っていた。その言動の端々から彼という人間が秘める漠然とした煌めきや、高潔さといったものが垣間見えたのだ。
 だから密かに、春申君のためになることを決めた。
 それがわたしを拾い上げてくれた彼と、出逢わせてくれた李環への忠誠だった。
 ――。
 長い間、物思いに耽っていたらしい。心ここに在らずといったわたしの様子を窺う春申君の顔が、目の前にあるのを認識することにすら寸刻を要した。
「具合でも悪いのか?」
「いえ考えごとです。お気になさらず」
 冷たい手が額に触れる。その時まで、春申君は純粋にわたしを心配してくれたのだと思う。
 触れ合う皮膚に自分の体温が融けていって、そうして違和感に気付いたのは暫く経ってからのことだった。
 まただ。
 彼の目には静かな情欲が滲んでいる。薄い唇がゆっくりと近づいてきて、そうして躊躇いもなくわたしの喉に吸い付いた。抵抗はしなかった。できなかった。明日この人は死んでしまうのだと思うと、拒むことなんてできるはずがない。
「何故わたしなのですか」
「理由が必要か?」
 耐えきれず目を閉じる。二、三度、わたしの上唇を食んだ彼は、性急な、荒々しい手つきで帯を解きはじめた。わたしの気持ちなどはなから尊重しないと言わんばかりの態度に、ただ驚き固まっていることしかできなかった。
 置かれていた酒杯が衣に引っかかって傾き、中身が床敷に染み込む。掃除をしようと手を伸ばすと、あとで拭けば良いだろうと怒気を含んだ声で言われた。手を引かれ、無理に立たされて、そのまま寝台へと投げられるように押し倒される。仰向けに寝たその上に、主の影が覆いかぶさった。何度も唇がかさなる。意味の無い行為にしては少々重すぎるような気がした。これだけでも精神的に疲れてしまったが、まだ終わったわけではない。

 かつて後宮に居たとき、とうに皆が寝静まった夜更けの頃に。部屋に設けられた小さな窗から外を覗いていたら、偶然、宮女と宦官の不義を目撃してしまったことがあった。幼いながらそれがいけないことであると瞬時に理解したが、不思議と嫌悪感は生まれず、それどころかその一部始終に惹き込まれてしまった。それは淫猥というよりも神聖で。愛とは斯様に美しいものであるのだと。王からお声がかかるその日を、何百夜、何千夜と待ちわびる女の園に放り込まれた十の娘からしてみれば、本当に、そのように見えたのだ。
 これから始まるのは、昔日に見た男女らと似たような行為であろうが、しかしわたしの胸に幸福感なんてものはあまり生じなかった。春申君が、この世でただひとり敬畏した人間が、自分のような者を抱く事実に悄然としている。かといって、そんな素晴らしい人に抱かれる女としての悦びも無いわけではない、というなんとも言い表し難い心持ちだ。
 だが、やはり気持ちとしては前者のほうが圧倒的に勝っているようで、どんなに優しく口づけをされても、わたしの感情が乱れることはなかった。
「貴方様を心の底から慕っております。けれども、それは本当に純粋でまっすぐな感情でございますれば」
 わたしは春申君をそういう目で見たことはたった一度も無かった。そもそも彼とは親子ほど年が離れているのだ。いくら実年齢よりずっと若く見えるとはいえ、その事実を知っているから、なんというか、湧き上がるものがない。
 嫌かと聞かれたら、少しだけ嫌だ。
「足掻いても無駄でしょうか」
 返事は無い。紅い下着の紐が音もなく緩められて、わたしの肌はいとも簡単に晒された。拒む手は振り払われ、春申君はわたしの肢体を暫く眺めてから、舌を這わせた。嫌がる素振りを見せると、皮膚に歯が立てられる。足掻いても無駄かと問うた答えはきっとこれだ。それからわたしは一切の抵抗を止めた。
 ひとつに纏まらない思考に溺れながら、快か不快かもわからない波に耐えていた。怨言のひとつも漏らさなかったのは、主君の命を奪うわたしの最後の情けであったのかもしれない。これが己に課すせめてもの罰だ。ここのところ沈んでばかりいた彼の心が少しでも救われるのならば、わたしは、それでいい。

 寝台から降りようとすると、背後から伸びてきた手がわたしの腕を掴んだ。これ以上、彼の寝床を穢したくはなかったのだが、暗に行くなと言われてしまっては断れない。
 床に散らばった己の着物を眺めながら、おとなしく従った。いままで受けた中で最も嫌な罰だった。下腹が痛い。腿も、腰も。まさかこんなことになろうとは、幼いわたしがこのことを知ったらいったいどう思うだろうか。少なくとも、この人の下でずっと生きていこうなんて意志は薄れてしまっていたに違いない。
「……貴方様は変わられてしまった」
 言葉を切り出した。まごうことなき、わたしの心の声だ。このようなこと、召し使いごときが口を出すべきではないことは重々承知している。しかし、春申君はそれを咎める様子も無かった。熱が冷め、わたしに手を出したことを少しは悪いと思ってくれているのだろうか。
「この話をするには黄歇様と、そう呼ぶべきでしょうか」
「お前のような若い娘に語られるとは、俺も凋落したものだ」
 自嘲的な笑みを浮かべながら主はそう言った。真っ暗な天井にかつてわたしと彼が出逢ったときの光景を思い描く。邸にやってきてから、黄歇がいかに素晴らしい人物であったかを多くの者に説かれた。そして、そのような貴人に引き取られたわたしがいかに幸福であるかとも。
「わたしは、貴方様が左徒であった頃を憶えてはおりませんし、亡き頃襄王に仕えていたその姿を想像することすら難しいのですが。きっと貴方様は美しい人だった。胸に秘めた大望を、その叡智と理性で誰にも悟られないように綺麗に包み込んで、謙虚に、勇敢に生きていた。これは後付けの記憶かもしれませんが、初めて出逢った時、直感的にその欠片を拾い上げました。この方がわたしを必要としてくれるならば、ずっと仕えていたいと、そう感じました」
「いまの俺は老いたか」
「ええ。どんな人間でも、そうです。いつかは老いるものです。穢れの無い夢を抱いていたあの頃のまま生き続けるなんて、できない」
 取り巻く環境も変われば、人もまた変わる。
 やがて考烈王から最上の地位と権力を与えられた黄歇は、その後何十年も己の力に溺れず社稷の臣のままでいることはできなかった。名立たる政治家の中で唯一、才覚だけで上り詰めたと評されているにも関わらず。或いは王族の血を引いていないことが結果的に影を落としたのかもしれないが。いずれにせよ、彼の転落は大きかったように思える。
「失礼ですが貴方様はあれから酒に浸るようになり、言葉癖も悪くなりました。突然、怒りをぶつけることも増えました。それと」
「もう良い」
 寝台が揺れた。春申君の腕が、わたしの躯体を掻き抱いた。胸板に顔を押し付けられて、呼吸が苦しい。
「無礼をお許しください。ここからが本当にお伝えしたいこと。わたしはそんな黄歇様の苦しみを少しでも取り除いて差し上げたい。そのためにたとえ何十年先まででも、喜んで手となり足となりましょう。貴方様を深くお慕い申し上げております。……何の芸も持たぬうえに主の悪口だけは立派に宣うなんて。最低な召し使いですね」
「嫌って欲しい、とでも言いたげだな」
 彼が最後の最後でわたしを嫌ってくれたら、いったいどれほど良かっただろう。自らの手を汚さねばならない、この重苦しい遣る瀬無さも少しは薄れてくれたのかもしれない。
 だが春申君はこんなわたしを突き放すどころか、その腕に抱いたまま離そうとしない。
 決意が、仄かに揺らぐ。できるならばこのまま二人でどこかへ逃げてしまいたい。遠い国へ。静かな場所へ。李園の刺客がそこまで迫っていると、そう告げて。
 けれども主はわたしの言葉を軽くいなすのだろう。少し前に彼の忠実な部下がそのことを訴えたらしいが「承知の上だ。こちらも既に手は打っている。心配には及ばん」と流されたのだそうだ。人づてで聞いた話だ。本人はもう、この世にはいないから。
「案ずるな。お前はどこまでいってもただの召し使い。好く、嫌う、それ以前の問題だ。ただ黙って仕事を熟してくれればそれで良い」
「こうして抱かれることも仕事でしょうか」
「主の気紛れに付き合うのも立派な仕事だ」
 それきり会話は途切れた。
 一昨晩に李園の邸で夜更かしをしてしまったせいで、昨日は悠長に午過ぎまで寝てしまっていたからか、まだ眠気はやってこない。
 颯々たる夜風が邸を揺らす。あたりは蕭索に満ちていた。素肌に冷たい空気が触れて、より寂寥感が増す。
「霖の季節はさびしい気持ちになります」
 そうだな、と短い返事がかえってきてから、暫くして深い寝息が聞こえてきた。かなり疲れていたのだろう。わたしがその腕から逃れて寝台から降りても、気付く気配すら無い。
 床に足をつけてゆっくりと立ち上がった。変な気分だ。操を捨てた、なんとも言えぬ感覚に酔っている。散らかった着物を拾い上げて袖を通し、帯を巻き、乱れた髪もひとつに纏めて油を塗った。
 少し目を覚まそうと部屋の外に出ると、雨の匂いを感じた。起きている人の気配もある。何をするわけでもなく、気の向くまま縁側に腰掛けて澱んだ空を見上げた。
 ぱらぱらと降り注ぐ雨がわたしの体を濡らす。明日は、涙を流すことは許されない。だから今のうちに、少しくらいは泣いておかなくては。

 昨夜から降り始めた雨は、いつまで経っても止む気配が無い。
 朝早くに李園の手下であろう兵士に「計画は予定通りに決行する」と告げられた。暗殺部隊はもう待機しているはずだ。ついに春申君の刃は李園まで届かなかった。僅かな差であったのかもしれない。しかし敗けは敗けだ。
 湯浴みを済ませた春申君の髪を乾かし、白い喪服に着替えさせる。何も知らない彼と普段のようなたわいもない会話を交わしながら。
「今日こそはわたしが貴方様を内城までお連れしたいと存じますが。その……たまには北の裏門から如何でしょうか」
「それはまた変な気紛れだな」
「邸の裏に花が咲いておりました。わたしは花の種類には詳しくはないのですが、あまりにも美しいものですから、貴方様にもお見せしたいと思いまして。ご迷惑でしたか?」
「いや」
 もっと上手な誘い文句もあったかもしれないが、あまりにもそつがないとそれはそれで卑しいわたしらしくないだろう。幸運にも春申君は怪しむこともなく納得し、主卧の裏手へと歩き出した。湿気を含んだ長い茶髪が風に揺られて宙を舞う。微かに、昨日嫌というほど嗅いだ匂いがした。
「花は好きか」
「はい」
「ならば春になったら汨羅に連れて行ってやろう。あそこに行く道中に美しい花圃があったはずだ」
「わたしのような者にそこまでしていただかなくても」
「俺の誘いが気に食わんか」
「いえ。ありがとうございます。ぜひご一緒させてください」
 叶うはずのない約束に静かに頷いた。こればかりは仕方のないことなのだが、思えばわたしは彼とともに景色や楽事を楽しむことなどたった一度も無かった。宰相とはそれほど忙しい身分である。加えて彼は仕事熱心であったから、当然だと言ってしまえば当然だ。
 この期に及んでわたしは彼と生きた長い月日ではじめての約束を交わすことになった。切なさに胸が痛む。春には花圃で色とりどりの花を愉しみ、夏は三江五湖を巡り、秋には淮北の山々で紅葉を眺め、冬は邸で火鉢にあたりながら、共に穏やかな時を過ごしたかった。鮮やかな四季に映える穏やかな主の顔。それをずっと見つめられたのなら、他に何も要らなかった。しかしそのようなささやかな願いでさえ、もう叶うことはない。
「あちらでお待ちください。車を出す準備をしてきます」
 門を守る兵士がこちらを見て僅かに頷く。李園の計画は恙無く進んだ。
 主に背を向け、厩舎に向かうふりをしてわたしは物陰に隠れた。何も見ないまま部屋に戻ってしまいたかったが、己が選んだ終末を見届けるのも贖いのうちだ。
 春申君は、屋根のない場所から曇天を見上げていた。雨に濡れる、愁いを湛えた横顔は、ただ美しかった。
 わたしにもう少し力があったならば。あの男を屠る武力、或いは脅かすほどの権威、はたまた誑かせるまでの美貌。たったひとつ李園に勝る何かがあったならば良かった。召し使いの身分で十分だなんて、嘘だ。今迄の人生の膨大な時間を、主を救うための研鑽にあてていたのならば、もしかすると未来が変わっていたかもしれない。だが所詮は後の祭り。
 ――我が儘で不甲斐ない召し使いを、どうか憎んでください。わたしにはもう貴方様と顔を合わせる資格すら無いのです。ですが貴方様を心から慕っておりました。それだけは確かです。だからこそわたしは李園の策にのりました。貴方様とわたしが気高き主従で結ばれている幸福な時を、もっとも引き延ばす為の、最善手だと考えて。
 ぱっと、視界に鮮血が飛んだ。
 真っ赤な飛沫が花弁のように舞って、散って、雨の中に融けていく。
 これで良かった。良かったはずだ。誰かに認めて欲しかった。自分は間違っていなかったと。目の端がじんわりと熱くなった。鼻の奥がツンと痛んで、わたしは堪えるように目を見開き、息を止めた。

 昼間の景色も良いものだ。とぼんやりと思った。
 ここはいつかの夜に訪れた湖上の孤島。広大な湖面は陽の光を受けて煌々と輝き、内城を取り囲む豪華な宮殿を一望できる眺めが広がっている。
 葬儀を終えてから数日が経ったが、王と宰相を同時に失った楚の都は未だ荒れており、春申君が暗殺されたという噂もどこからか広がってしまっていた。李園に呼ばれたのはそのような最中であった。
「先ずはご苦労だった。やはりお前の手を借りて正解だったようだ」
「勿体無いお言葉でございます」
 仕女から注がれた茶からは変わらず良い香りがした。
 他に馳走や酒も用意されている。王も春申君も亡くなったばかりであるというのに、贅沢で華やかな食事を供するとはかなりの不謹慎さを感じるが、きっと彼の中では祝杯でも挙げたいような思いでいるのだろう。その意志を隠そうともしない態度に呆れた。
「李園様はこれからどうするおつもりで? 空いた宰相の席はどなたが?」
「難しい話はあとだ。料理が冷めてしまう」
「これは失礼致しました」
 李園は膾を口に入れた。それを見たわたしも、同じものを口に入れる。細く切った魚と薬味に、濃厚な醤がたっぷりと絡まっていて美味しい。わたしのような身分では、まず口にすることがない料理である。
「しかし。主を欺きその死に様をしっかり見届けるとは、なかなか肝が据わっているな。何故、十年以上も春申君に仕え続けていたのか、召し使いのままでいたのか。まことに不思議だ」
「そうしたかったから、そうしたまでです。無欲なもので。ただ言われた通りに雑務をこなしていれば衣食住には困りませんでしたし、あれ以上の地位や身分はわたしには必要ないと思っていましたから」
「だが暗殺計画を知ったお前は、安寧を求めるためにこちらに寝返ったと」
 その言葉を聞いた瞬間、わたしの口からは思わず笑いが漏れていた。
 寝返った? わたしが?
 春申君を裏切って李園のもとに?
 冗談ではない。そんなことがあるはずないだろう。
 あの癇癖が強く気が難しい主に長年仕えている人間の心はそう簡単に変わらない。もしも本気で寝返ったと思われていたのだとしたら、わたしも相当舐められたものだ。
 李園はこちらの態度を見てすっと表情を変えた。不穏な空気が二人を取り囲む。衛兵が無言のまま武器を構え、その切っ先をわたしに差し向けた。
「どうやら大きな勘違いをされているようですね」
「なんのことだ」
「わたしは主を欺きましたが、だからといって李園様の味方になったつもりは毛ほどもありませんよ」
 嫌悪感を込めた強い声で言い放った。
 李園の計画に加担したのは、もうわたし一人が反発したところでどうにもならない状態まできてしまったと悟ったからだ。あの場で誘いを断って殺されてしまうくらいならば、たとえ主を裏切ることになろうとも、最後まで傍に居たかった。
「さて。いったいどの料理に毒が入っているのです?」
「……」
「貴方様は用心深いご性格であられますから、都合の悪いものはすべて排除したがるでしょう。例えば、この胎に宿るかもしれない小さな命の灯火……とか」
 李園は驚く素振りすら見せない。それどころか眉ひとつ動かさずにいる。彼はゆっくりと片手を挙げ、兵たちにわたしを囲ませた。まあこんなことだろうと思っていた。李園はどこまでも慎重な男だ。昨夜の密事も間諜を通じて露見しているであろうことは想像に難くない。
「話が早くて助かる」
「とうに臍を固めておりました。暗殺計画を持ち掛けられたときから。……もう春申君の時代は終わったのだと。そして最期まで仕えると誓ったわたしもまた、共に終わるべき人間なのだと」
 わたしはもう誰かに忠誠を誓うことも、身を粉にして尽くすこともできやしないだろう。かつての春申君よりも輝かしいものを持つ人はきっとこの世界には居ない。あの人を知ってしまったら、もう二度と心の底から他の誰かのものになることなんてできない。
 だからわたしは行かなければ。たとえあの方がわたしを赦してくれなくても。
 李園は茶に目をやった。それを飲めということだ。最後に口にするものが、このような美味なもので良かった。薄茶に透き通るその色を見て、主の髪を思い出した。
「わたしは主を裏切った厳罰を受けねばなりません。あの方が死の間際に感じた痛みよりもずっと残酷なものを。どうか強い毒であれば良い」
「……西方から仕入れた、虎をも殺せる毒だ。途中で吐き出されて逃げられるようなものではない」
「ありがとうございます。それと、厚かましいお願いではございますが、どうか李環様にも感謝をお伝えください」
 自ら命を絶とうとするわたしを止める者は誰もいない。考烈王と春申君が築き上げたひとつの時代が終わる。これからは新たな王と李園らの時代だ。この国はどうなってしまうのだろう。彼らが列強を打ち破りやがて七雄を制すかもしれない。或いはこれまで同様に都を遷して逃げ続け、緩やかな滅亡の一途を辿るかもしれない。
 わたしは李園も、彼の側についたすべての人間も恨んではいない。春申君がその地位と名誉を得る為に払った犠牲、その報いがとうとうやってきただけのこと。救われた者もいれば苦しむ者もいた。多くの憎しみが幾重にも膨れあがって、やがて彼ひとりでは抱えきれなくなった。だから主は排斥された。誰かが悪いわけではない。
「早く迎えに行かねばなりません。どうやらあの方はわたしが牽く車でないと不機嫌になるらしいので」
 一息に毒を呷る。
 立ち上がると、周囲の兵がわたしを取り押さえようとしたが、李園はそれを制した。
 あんなに酷い言葉を吐いておきながら、最後に少しだけ情けをかけてくれるとは。見かけによらず嫌な人ではないのかもしれない。……それもそうか。なにしろ李環様の兄なのだから。なんて。今更そう感じたところで仕方が無いのだけれども。
 覚束ない足取りで欄干を乗り越え天を仰ぎ見ると、抜けるような青空がずっと果てまで広がっている。この頃はずっと雨が降り続いていたから、このような美しい空を見るのは久しい。隣に主が居てくれたのならばもっと良かったが、我が儘は言えない。
 ――召し使いの最期にしては上々だ。そのまま背後に倒れて湖に身を投げた。
 この湖の水はいったいどこに流れつくのだろう。宮殿を抜け、細い川を下り、やがて淮河となって楚を走り抜けて。そうして遠い四海へと続いているのならば。
 もし、そうだとしたら。
 いつかわたしは広い海で主とまた巡り合えるのだろうか。

 …… ……。
 ――もう一度だけ。貴方様のために車を牽くことを、お許しいただけるのであれば。

 二頭の馬の毛並みを整えてやって、銜を噛ませ、手綱を結びつける。誰も乗っていない車を牽いて、朧げな道をまっすぐに進んだ。
 爽やかな風が頬を撫でる。春風駘蕩。今日はなんて良い日なのだろう。遠くの地平線までまっさらな路傍の、どこか夢心地な景色に目を奪われて、ゆったりと向かっていたせいか、目的地に着く頃には主の姿が既にそこにあった。
 かなり待たせてしまったようだ。彼は腕を組み、眉を顰めて、口を真一文字に結んでいた。少しでも思い通りにならないと、不機嫌そうな態度を取る主。こうなると機嫌直しには手が掛かるのだ。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
「まったくだ」
 待ちくたびれたと、そう吐いて彼は車に乗り込んだ。
「やはり、おまえが手綱を引くと快適だな」
「ありがとうございます」
 先程の苛立ちはどこへ行ったのか、主の声色はいつのまにか柔らかくなっていた。こうも易々と優しくされるのは珍しい。戸惑いながらも、安堵した。それだけで心は幸福感に満たされる。
 わたしの人生のすべては、この人のためにただ車を牽くだけのものであったのかもしれない、なんて馬鹿みたいなことを考えていた。
 それでも良いと思った。
「さて。これからどこへ行こうか」
「仰せのままに。どこへでも、どこまででも」
 この道の先に何があるのかまったく判らないが、春申君が共に居てくれるのならば何も案ずることはない。いずれ辿り着く場所にどうか綺麗な花が咲いていますようにと、唯一の心残りであった願いを想いながら手綱を握る。
 白い世界の果ては見えない。
 誰の人影も無く、平坦な道がただ続く。車を牽く馬の足音も、車輪の軋みも、何も聞こえない。それでもわたしたちの美しき主従の形は、確かにここに存在している。