地獄にも春よ来たれ・前編


 この邑は数年前まで寿春と呼ばれていた。北には淮河が流れ、南には大きな山脈が聳え立ち、中心部には淝水や施水へと至る水路が引かれている。豊かな自然に満ちたここが国都となったのは、ほんの三年前のことだ。
 長閑な土地には不調和な豪壮華麗の王宮と、それを取り囲む官衙などは、まるで下界を睥睨するかのように高く設計されている。わたしが今、居る場所も。
 ――物々しい雰囲気が漂うこの場所は、楚国では密かに名の知れたとある男の邸。
 空の上に造られた庭園の、青々とした茂りの中には小さな四阿が設けられている。ここよりも更に高い王宮の、城壁の櫓からよほど目を凝らして見ぬ限りは、草木に覆われたこの場所に人の姿を認めることすら難しいだろう。邑の中枢にありながら隠匿された場に、賤民の自分が客人として招かれたという事実は、なんとも奇怪だ。わたしが仕える人物がこの国の宰相たる御方だということを加味したとしても。
「それで。わたしのような下賤な人間を、わざわざ呼びつけるとは。いったいどういったご用件でございましょう?」
「……」
「李園様」
 男の名を李園という。
 わたしの主たる人物、宰相・春申君の食客の一人であり、また先日崩御した考烈王が寵愛した側室、李環の実兄でもある。そのことから大臣の位に就いている者だ。
 その容貌を一言で表すならば、不愛想な大男。わたしは彼が苦手であった。濁った太い声も、眉ひとつ動かさぬほど表情に乏しいことも。慇懃な素振りの裏に、静かな不遜が滲んでいることも。何度か顔を合わせることはあったが、あまり関わりを持たないようにしていた。
 そんな李園と自分を結ぶ縁があったとするならば、それはわたしが後宮で彼の妹・李環の侍女として介添えをしていたことくらいだろうか。しかしそれも一瞬のことで、数年と経たずにわたしは春申君の邸に連れて来られてしまったわけだが。
 だからこそ奇怪極まりない。世俗から切り離されたこの庭で李園と相まみえるだけでなく、酒食まで饗されているこの状況が。主の春申君とこの李園は、考烈王の後継者を巡って熾烈な角逐を繰り広げていたはずだ。彼にとって敵方に属するわたしをここに呼んだという事実。それはつまり。
「わざわざ聞き返さずとも判っているはずだ」
 李園は地の底から響き渡るような、凄みを利かせた低い声で言う。わたしがここに呼ばれた、その理由を察せられぬほど愚鈍ではないだろうと。これがあの寡黙だった彼と同一人物であるとはにわかに信じ難い。しかし大旱の雲霓を望むが如く、何年も権力者の陰に隠れながら密かにこの時を狙っていたのだろう。
 わたしは春申君が最も信頼を寄せる召し使いであると自負している。畏れ多くも卑しい身の上でありながらあの御方から有り余る幸福を賜った。だからこそ答えることはできない。李園の不興を買えば簡単に首が飛ぶこの状況下で、しかしわたしの篤い忠誠はそれを固く拒んだ。
「ある程度予想はついていますが、しかしわたしの口からは申し上げられません」
「……仕方が無い。ならば私が言葉にしよう」
 驚きも戸惑いも無かった。いつかこうなると判っていたから。ただ、そのときがついにきてしまったのだと、そう思うだけだった。
 李園は立ち上がり、わたしの背後まで歩みを進めると、静かに呟く。
「春申君を暗殺する。協力して欲しい」
 重く昏い言辞。
 わたしはそれに首肯せずに、どこまでも澄み渡る青色を眺めていた。
 間違いなく楚国を――否、中華全土を揺るがすような大事件の幕が開いたこの瞬間も、相も変わらず都の空は美しかった。その視界の奥につがいの鳥が仲睦まじく飛んでいる。あれもいつか地に落ちるのだろうと思うと、少しだけ、虚しい。

 冷めた茶を口に入れると、水菓子のような爽やかな甘みが咥内に広がる。貴人にとっても格別な嗜好品であろう。卑しい人間にはもっとも無縁のものだ。
 主の暗殺計画を持ち掛けられたにも関わらず、出された茶の値踏みをするほど、心は不思議と落ち着いていた。李園は淡々としているわたしを見て、満足そうに頬を緩める。普段から表情に乏しい者の笑みは、口角が歪に上がっていてひどく不気味だった。
 そういえばここ数日の間、考烈王が崩御してから、かつて春申君やその近しい人物らに仕えていた者が次々と不審死を遂げたり、行方不明になったりしているという事件があった。政事に干渉すればするほど数多の恨みを買い、誰かの陰謀に殺される。人が忽然と消えるのは、この世界に身を置いていれば日常茶飯事だ。だから特に気に留めてもいなかったのだが、今考えてみれば彼らは人一倍正義感に酔っていた。
 きっと眼前の男が裏で密かに手を回していたのだろう。そうして召し使いの中でも古株であるわたしにこのような話が舞い込んできたということは、外堀は完成しているということ。邸を守る兵たちも、大人しそうな侍女も、総じて李園の手に落ちていると考えて良いだろう。
 名君として中華全土に名を馳せる春申君は、元臣下の造反に手を打つこともできないほどには零落した。従者のわたしも認めたくは無いが、彼は殆ど、過去の栄華により生かされているようなものだ。執政の手腕は歳を重ねるごとに鈍り、先ごろは趙の李牧と組んで合従軍を起こして秦を攻めるも、臨武君や汗明を失うという苦杯を喫した。媧燐という知略に秀でた女将軍がいなければ、被害は更に大きかったであろう。楚軍が秦軍の猛攻を受ける中で、春申君はといえば、その様子をただ見ているばかりで、思うように事が進まなければ人や物に当たり散らしていたようだ。
 それでもかつて彼に命を救われた考烈王が宰相の地位を剥奪することはなかったが、昔を知る者からの信頼が地に落ちたのは確実だろう。現に古い腹心の部下は殆ど居らず、また彼の癪癖も相俟って、周りは新顔ばかり。わたしがこの歳で古株と呼ばれているのもそのような事情があってのこと。だからこそ暗殺計画はあっという間に進んでしまっていた。若くして秀明であった、かつて威容を誇った彼を思えば信じ難い事実ではある。
 しかし人はいつか老いて朽ちるもの。咲き誇った花がいつまでもその姿を保てるはずがないように。
「わたしは何をすれば良いのですか」
「随分と冷静だな。……驚いた。忠誠心が厚いと聞き及んでいたから、どう説得させようか悩んでいたというのに」
「質問に答えてくださらねば困ります」
「ああすまない。暫くは、春申君に怪しまれぬよういままで通り過ごしてくれれば良い。暗殺は、王の葬儀のあとだ。しかし即位の儀礼までには実行しなければならない」
 春申君と李園の確執の大部分は王位継承問題である。王弟を支持する春申君と、妹・李環の子を王に立てたい李園。
 そして李園には更なる懸念がある。それは長年の呵責に耐えかねた春申君が、王弟の即位と共に、自身の子を孕んだ李環を考烈王に献上した事実を、公然に剔抉する可能性があるということ。そうともなれば春申君自身には恩赦が与えられるかもしれないが、真実を知りながら不義の子を擁立していた李園らの極刑は免れられない。
 葬儀が終われば、次の王を立てるための即位の儀礼は直ぐに執り行われる。時間は切迫していた。
「承知いたしました」
 長年仕え続けてきた春申君に対する忠誠心が無いわけではない。しかし、わたしが仮にここで李園に反発しても、扉の向こうに控えている彼の私兵に簡単に切り捨てられて終わりだ。万一李園の手が及ばなくとも春申君はいずれ殺される。わたし一人がどう足掻いたとてそれを止めることはできない。そう知っているからこそ、主に対する罪悪感を押し殺して李園の言葉にのったのだ。
「ひとつ。主を失ったわたしは、いったいどうすれば良いでしょう」
「心配は無用。私が面倒を見ると約束しよう。妹もおまえのことを気に入っている。また世話係として後宮に入っても良いと思っている」
 静かに頷くと、李園は席を立った。
 ひとり取り残された庭でわたしは感慨に耽っていた。我ながらとんでもない女だ。それでもこれが主の傍に居続けられる最善の手なのだと思うと、李園に阿る他ない。
 思えば短いようで長い旅路であった。春申君がわたしを後宮から引き抜き邸に迎え入れたあの日から、はや十余年。考烈王の命が尽きると同時に幕を引くこの物語の終焉を、いまは何も余計なことを考えずに享受しよう。そう思って、残った茶を喉に流し込んだ。

 都の近くには淮という大河が流れている。その北は山稜、南は平野である。ここら一帯は、主が春申君という号を授かるにあたって与えられた土地であり、彼は度々ここにやってきては難しい仕事をしていた。
 具体的に何をしているのかは知らない。卑しい身分の人間は、高明な者たちを理解する知識すら持ち合わせていないから。しかし中央で執り行われている考烈王の葬儀がいくら長ったらしいとはいえ、死を悼む暇すら与えられないのは少し可哀想な気がする。
 わたしは車を牽いていた。先導する二頭の馬を操り、定められた刻よりも少し早めに淮河のほとりにある邸にそれを停める。主の送迎も、立派な召し使いの仕事である。
「待たせたか」
「いえ。ちょうど到着したところです」
 春申君が車に乗ったことを確認すると、わたしは馬をゆっくりと走らせる。怖いくらいに、いつもどおりだ。平気な顔をして手綱を引くわたしが、まさか主を殺す計画に加担しているなんて、誰が想像するだろうか。
「おまえの車は乗り心地が良いな」
「そうでございましょうか」
「ああ。揺れが少ない。馬もおとなしい」
 春申君は満足そうな声色でそう言った。
 いつの日か、体調を崩した馭者に代わってわたしが車を操ってから、乗り心地をお気に召してくれたようで。以後、危険が少ない近場への移動の際は、こうして送迎を任されるようになった。滅多に人を褒めることがない彼に、そのような言葉をかけられるのは嬉しい。わたしはこれでも春申君という人間を少なからず好いている。勿論、主として。

「おかえりなさいませ」
 邸の者は揃ってこうべを垂れて主の帰還を歓迎した。表向きは何も変わっていないが、李園の手はとうに及んでいると思うと、彼らの慇懃な態度が気味悪い。
 ――わたしも、人のことをどうこう言えたものではないのだけれども。
 私室で召し替えをして、やっと寛ぐことができるようになると、春申君はまずわたしに酒瓶を開けさせた。次いで邸に届いた書簡を検め、重要なものとそうでもないものに選り分けるよう命じる。それが終われば、あとは主の仕事が滞りなく進むように、酒を注いだり、窓の開閉をしたり、水を汲んできたりと。そのような雑事をして過ごしている。
 昔はここも活気に満ち溢れていた。それこそ、わたしのような召し使いが彼に近づくこともはばかられるほどに、絶えず客がやってきていた。あれは魯を滅ぼし、数多の食客を迎え入れはじめた頃だ。
 順風満帆なはずであった。どうして瓦解したのだろう、どこで道を誤ったのだろう。考えだしたらキリがない。寵愛していた李環を考烈王に献上したときには破滅の道を辿ろうとしていたのか。
 気が付けば、馴染みであった召し使いもその大半が邸を去っていた。それでも未だに楚人の輿望を集めているのは、それほど過去の功績が評価され続けているから。
「静かな夜は酒が美味いな」
「あまり飲みすぎては、お体に障りますよ」
 今日は特に酒が進んでいた。普段の癖で彼の身体を気遣う言葉をかけると、判っているとぶっきらぼうな返事がかえってきた。
 部屋にはわたしと春申君以外誰も居なかった。入室を制限しているわけではない。いつもならば何人か勝手に出入りをしては、掃除をしたり物を運んだりしていたのだ。いったいどうしてかと深く考える前に、一つの結論に辿り着いた。
 わたしたちは知らぬ間に監視紛いのことをされていたのだろう。計画が露見していないか、李園は邸の人間を間者として遣わしていた。そしてわたしを取り込んだ今は、逆に漏洩を防ぐべく、余計な者を下げたのだ。これで辻褄が合う。もしこの推察が正しいとするならば、李園という人物がどれほど注意深く計画を進めていたのかが伺えよう。しかし春申君もそこまで鈍くはない。
「ふたりきり、というのは妙なものだな」
 同じ違和感に気付いた彼は、眉根を寄せながら部屋を見渡した。酒精が巡っているにも関わらず素面のような洞察力を見せた主に、わたしは息を呑む。
「ええ。そういえば昨日から雨が降っておりますから、きっとその掃除で皆忙しいのでしょう」
 咄嗟の嘘はあまり上手なものではなかったが、春申君は納得して再び酒杯を呷った。これまでの実直な仕事ぶりが功を奏したのかもしれない。主に嘘を吐いたのは初めてだ。
 静かな部屋に、主が酒を嚥下する音だけが響く。昔に比べて随分と飲むようになったなと思う。数年前までは書簡の整理を主に任されていたが、近頃は酒の入った壺を運ぶことのほうが多いくらいだ。
「隣に来い」
「? はい」
 手招きをされ、そこから先の言葉は無かった。主の様子を窺うと、手元の杯も、酒瓶も空になっている。新しいものを開封して注げという暗黙の指示である。
「お体に障りますと申し上げたばかりですのに」
 とはいえ、春申君の命はもう五日も無いだろう。王の葬儀が終わるとともに彼の命も消える。ならば、いまのうちに好きなだけ飲ませてあげるのがせめてもの温情だ。心配する素振りを見せながら杯いっぱいに酒を注ぐと、彼は柔らかく笑った。
「お前だけは変わらず俺の傍に居続けてくれる」
 荒っぽい普段の主にしては珍しい、穏やかな顔。
「敬愛する主君でございますから。仕え続けるのは当たり前のことです」
 不意に逸る鼓動を隠すように素っ気なくそう返すと、春申君はまだ六分目ほどまで入った酒杯を置いて、代わりにわたしの肩を静かに抱いた。
 骨ばった指が衣に食い込む。ぐいと寄せられる顔と共に、生温かい酒息が鼻腔に舞い込んできた。なにやら不穏なこの空気の意味を察せぬわけではない。
「御所望ならば、美しい芸妓を連れてきましょうか」
「……いや」
「わたしのような者に手を出そうとするなど、貴方様らしくもない」


 自分でも驚くほど冷たい声が出たが、それでも春申君は退けなかった。李環を王に献上してから色事とは縁遠い生活を送っていたからか。或いは女と二人きり、更には酒も入っている状況で、惑乱されているだけかもしれない。それにしたって、あれほどの美人の代わりなんて、わたしのような卑しい人間には務まるはずもない。
 と考えを巡らせていた最中、硬い床に押し付けられた背に痛みが走った。春申君はわたしの体に跨がり、手足の自由を奪う。
 燭台の灯りが一瞬、大きく揺れる。屋根にあたる雨音がやけに大きく聞こえる。主の腕が伸びてきて、どことなく官能的な手つきで頬を包まれた。熱を帯びた掌は汗ばんでいる。
 これはまずいな――と頭の中でひとり呟いた。仕方のない人だ。
「綺麗な顔をしている」
「召し使いにかける言葉ではありませんよ」
「好い男はいるのか」
「いいえ。そのようなことを考えたこともありませんでした」
 耳に掛けられた長い茶髪が眼前に垂れ、首を擽った。影に覆われたその表情は見えない。荒い呼吸の音だけが、はっきりと聞こえる。
 目に見える抵抗はしなかった。わたしは彼の召し使いであるから、逆らうことは許されない。
「ずっと、李環様が忘れられませんか」
 春申君がかつて愛した女性の名を出すほか手段は無かった。きっと彼を傷つけてしまうことになるだろうとは判っていたが、それよりも主にはわたしのような女を抱くまで落ちてほしくなかったのだ。
 李環の名前を聞いた途端、春申君は動きを止め、それから静かに退いて杯を手に取ったかと思えば中身を一気に飲み干した。わたしも汗ばんだ額を拭いながら、乱れた着物を整えつつゆっくりと起き上がる。
「悪酔いをした」
「そのようですね。水を汲んできましょう、お待ちください」
 力が抜けた体を奮い立たせ、空の瓢を抱えて部屋を出る。
 外には一人の兵が居た。歩いているのか立ち止まっているのか、一貫性のない怪しい動きをしている。先程の会話を聞かれていただろうか、聞かれていたところで今更どうということはないのだが、それでもわたしの心は更に重くなった。
 真夜中の井戸は恐怖に満ちている。
 この体にまとわりつくような気味の悪い暗澹が苦手であった。風に吹かれて消え入りそうな手燭をそっと置いて、手探りで桶を沈めてゆく。両手で縄を持って身を乗り出すと、目の前は黒一色だ。まるで奈落に繋がっているような、果てしない闇がこちらに手を伸ばしている。
 きっとわたしは死んだらこのようなところに落ちてしまうのだろう。長年世話をしてくれた主を、心から敬愛する人の命をこの手で奪おうとする愚かな女。救われるはずがない。今更救われようとも思っていないけれども。