糟糠之妻 -附記-
ええ。あの人は、戦から戻るたびに花だらけになる邸を見てうんざりしていましたけれど。いつか閨の寝台に花瓶を並べた時には「戦場の方が、いくらか気が休まる」と叱られたものですよ。すぐに片付けないと別部屋で寝ると仰ったものですから宥めるのがもう大変で。
あら失礼。これは人にする話では無かったかしらね。
……それで結局どうしたのか、ですって? 数は減らしましたが飾り続けましたよ。ほら。お花って香りも楽しめるでしょう。とまあこのように上手く言い訳をしましてね。最終的にはあの人が折れました。口では何と言おうと優しいお方ですから。
けれどもあの人はお花が嫌い。これからわたしが邸をますますお花だらけにする予定ですから、きっと戻ってきてくださらないでしょうね。
たとえ魂魄になっても。
ええと……戻られる? 絶対に? そうかしら。それにしても十分な自信ですこと。煕。そこまできっぱり言い切れる理由をわたしに教えてくださいな。はい。はい……うっかりね? ふふ。わかりました。
―― ――まあ。
あの人から直接聞いたことではございませんからね。わたしに都合の良いように尾鰭がついた噂であるかもしれませんものね。
ですが確かに、春になると必ず戻ってきた気がします。言われて初めて気づくなんて。わたしってば察しが悪いわね。向こうの不器用さには負けますけれども。
それにしたって言葉が少ないのよ、あの人は。
気づくはずがないでしょう。甘い睦言も一度だって囁かれたことが無いのですもの。
それともわたしがちゃんと言葉にして伝えてあげれば良かったのかしらね。お花も好きですけれど、貴方様もそれ以上に大好きだったのって。
……。ねえ唐様。
きっと長い旅に出る準備をしているのだと思う。
もとより華奢な柳腰であった夫人はここ数年ですっかり痩せさらばえてしまった。ぼんやりと庭を眺めていることが多いが、急に、憑かれたように立ち上がって庭いじりをはじめることもある。
その時の彼女はほんの少しだけ、昔のような元気を取り戻すが、それも束の間のこと。
そしてあまり笑わなくなった。やはり彼女の活力の根源は殿だったのだろう。しかし冴え冴えと光る月のような冷厳さを放つ夫人もまた、雪のように透いた鬢も相俟って、幽玄の美を湛えている。
あれから張唐軍の兵たちは散り散りになった。
多くは禁軍に編入されたが、別な将のもとに移った者もいたし、田舎に退く者もいた。
煕は邸に残り、夫人に代わって庭の花たちを世話することにした。
回り回って父と同じ道を歩んでいる、そういう天命であるのかもしれない。それでもいいと思った。体は鈍るが、それよりも夫人を放ってはおけなかったのだ。侍女も心配している。しかし彼女たちだけで世話をするのは難しいだろう。ここに咲く幾百、幾千の花を育て抜くのは、夫人か煕の父にしかできぬ芸当だ。
もうすぐ張唐を喪って十度目の春がやってくる。
木陰で小休止していると、ひょいと顔を覗かせたのは夫人であった。慌てて立ち上がれば、はしばみの実のような色の瞳を爛々と光らせた彼女が煕の眼前までゆったりと足を進めて。
「会……?」
かつてここの園丁を務めていた、煕の父にあたる男の名を呼んだ。
煕はひと呼吸置いてから、在りし日の光景を思い出しつつ嘘を吐く。
「はい。会ですよ、御夫人」
武芸に励んでいたこの身は父より一回りも二回りも大きく、体躯もまるで似ていなければ声も違う。それに加えて、語り口を真似ただけの滑稽な演技。
だが彼女は信じてくれている。不思議な気分だ。自分が亡き父の体に入り込んで、もう何十年と前の若かりし頃の二人の姿を疑似的に見せられている。
まるで時を遡っているかのように。
「久々の暇はどうでした? ゆっくりと休まったかしら」
「ええ。お蔭様で」
「ややこは……煕はお元気?」
不自然にならぬよう話を合わせる。どうやら自分が生まれたばかりの頃の会話であるらしい。
「はい。あの子は感冒にもかからず」
「まあ立派ねえ。将来は会の後を継いでうちの園丁になってくれるかしらね」
「なにぶんやんちゃなもので、あれは庭いじりは向いていないでしょうな」
会という人間になりきって、ひとつ確信したことがある。やはり夫人と父の間には主従という関係以外は存在していなかったということだ。彼女の口から飛び出してくる話題は花や木の手入れの仕方についてが殆どで、稀に今のように世間話が出る程度。期せずして裏付けが取れたことは素直に喜ばしいことだ。
「そういえば庭に海棠を植えましたのよ。わたしの部屋の目の前に。貴方が居ない間、どうしても新しいものを植えてみたくて、唐様に都の花売りから苗木を買ってきて欲しいと頼んだのです。そうしたら渋々と、もう笑ってしまうくらいに嫌ぁな顔をしながら持ってきてくださって。あのお顔を貴方にも見せてあげたかった。貴方のややこと同い年よ。どうかのびのびと育ってくれますように」
「ありがとうございます。煕が成人する頃には、屋根を越すほど立派に咲き誇っていることでしょう」
煕の目にじんわりと熱い涙が浮かんだ。だから夫人はあの海棠をずっと気に入っていて、時折自分を部屋に招いては嬉しそうに見ていたのである。だがまさにその海棠の下に二人は立っているのだが、彼女はそれに気づかない。
咲き誇る薄紅の花々を仰ぎ見ていると、夫人がこっそりと煕の袖を引いて、それから踵を浮かせてそっと耳打ちした。
「ねえ。その。ところで唐様はいつお戻りになるか御存じ? 御無事だという書信は届いたのだけれど、それきりで。今どこで何をされているのかも分からず」
「いえ……そこまでは存じておりません」
「そう。心配なのよ。あの人ったら、わたしには何もお伝えにならないのですから」
夫人は悲しそうに、きゅっと眉をひそめた。降り注ぐ花弁越しにふと、うら若い彼女の姿が見えた気がして、煕は息を呑む。
「すぐにお会いできるかしら」
その問い掛けに返事をすることはできなかった。
安易に肯定してしまえば、今にも夫人がどこか遠い場所へ行ってしまうような、胸騒ぎがしたからだ。固まる煕を見た彼女は困ったように嘆息し、労いの言葉を残して部屋の方へと戻ってゆく。
漸く長い夢から醒めた。独りになった煕は、正解も不正解も無いあの問い掛けに、暫く頭を悩ませていた。
もしも父がそうしていたように「ええ、きっと」と答えていたら。彼女はまた無垢な花のように美しく、笑ってくれたのだろうか。