瓦礫の王座・後編


 藍田の門を抜けて街中に到着するなり、わたしは馬の背から滑るように落ちて路上に倒れ込んだ。丸一日以上も必死になって馬を走らせ、漸く戻ってくることができた。思えばあの日の朝から飯どころか水すらも口にしていなかったが、それよりも知っている土地に、群衆の中に戻ってくることができた安心感が勝り、人目もはばからず暫く横になっていた。
 今後どうするかはまた考えればいい。この馬を売れば今晩の宿もどうにかなる。少なくとも一日は生き延びられる未来は見えた。そのことに安堵すると共に、自嘲的な乾いた笑いが漏れた。啖呵を切って邸を飛び出してからたったの数日でここまで堕ちてしまった馬鹿なわたしを、あの方が見たらどう思うだろう。

 空腹と寒さに耐えかねて目を覚ました。
 あれからかなり眠ってしまっていたらしい、道の真ん中で倒れ込んでいたはずだが、気づけば小路に運ばれていて馬も近くの柱に繋がれていた。随分と心優しい人がいたものだ。もっとも痩せこけた馬であるから売り物にすらならないと思われたのだろうが。
 しかし嫌な時間に起きてしまった。夜更けである。食糧を手に入れようにも商人の姿は無い。
 朝まで待つ間に、また誰かに襲われてしまうかもしれないという恐怖が湧き上がったが、しかし自分には行くあてがどこにもないのだ。柱に寄りかかるように座り、膝を曲げ、身を縮めて顔を伏せた。日が昇るまで耐え忍ぼう。そう思って再び眠ることにした。

「……――」
 次にわたしを眠りの世界から連れ戻したのは、己の名を呼ぶ誰かの声だった。素知らぬふりを突き通すこともできたのだが、反射的に顔を上げてしまった。まだ日が昇って間もないようで往来の人は少ない。ぼやける視界には、顔も知らぬひとりの男。だがその格好──漆黒の甲冑には、確かに見覚えがあった。
「ああ。良かった。お気づきになりましたね」
「あ……ええと」
「詳しいことは後程ご説明しましょう。すぐに邸にお戻りくださいませ」
 昌平君の近衛兵だ。なぜ咸陽から遠く離れたこの場所に居るのか。しかも朝未だきに。わたしはあの男に、利になり得ない人間であると首肯されたのだ。ならばなぜ連れ戻そうとするのか。憐れだと思われたのか。野垂れ死んでしまっては後味が悪いからか。
 とにかく理由は何にせよ一度邸を去ったのだから、また戻ったところでわたしは昌平君の傍に居続けられるわけではない。ならば帰るだけ無駄だ。そう思い、近衛兵の男に目もくれず、ひたすら座ったままでいると、彼は痺れを切らしたのかわたしの腕を強く掴んだ。
「さあ行きますよ」
「離してください。わたしはもう邸を」
「これは殿からの命令です。急ぎましょう」
「え……」
 ますます意味がわからなくなってしまった。連れ戻そうとしているのはこの近衛兵の勝手ではなく、昌平君の命であるという。どうして。いくら考えても納得できる理由が思い浮かばない。逡巡する間もなく、わたしは半ば無理矢理立たされた。もはやそれに抵抗する体力もつまらない意地を張る気概もなくなってしまっていて、促されるままその男について車に乗り込んだのだった
 邸へ戻るなり、わたしは水場に押し込められ、すっかり汚れ切った体を清めるように言われた。致し方無く沐浴を済ませると、侍女が体を拭くための麻布と、真新しい着物を用意していた。邸を去る際に余計な私物は処分してしまったから、新しいものを用意されたのだなと、ぼんやりと考えながら袖を通す。
 水場を出ると、次は濡れた髪を整えられた。ひと房ずつ布で水分を拭きとられ、櫛で梳かれと、なんとも丁寧な待遇であった。ということはこの後、昌平君の元へ赴かねばならないのだろう。どの面を下げて何と言葉を交わせばよいのだろうか。
 数刻後。わたしは予想通り、昌平君の前に鞠躬如として座していた。呼び出しておきながら話しかけてくる気配もなく、ただ沈黙が流れるばかり。扉の外に見張りの兵がいなければ、すぐにでも逃げ出してしまいたかった。
 彼のかんばせを伺った。いつもと変わらず、心内が読めぬ目をしている。しかしどこか、焦りや怒りを湛えているようにも見受けられた。
「その」
「勝手に邸を抜け出して何処へ行っていた」
 堪らず沈黙を破るとほぼ同時に、彼もまた口を開いた。恐ろしく低い声に聴こえた。まるで悪戯が露見した子供のように、わたしの背中はたまらずぴんと張って、息もできぬほどの緊迫感に圧されていた。
「……藍田の方へ」
「蒙武に聞いてすぐ兵を向かわせた。丸三日、いくら探しても見つからぬと報告を受けてばかりいたが」
「旅商人の護衛を申し出て、漢江へ向かっておりまして」
 そしてわたしは薄汚いあの男に――そのことを思い出した途端に、空の胃袋から胃液が迫り上がってきた。気持ち悪さが拭えず、吐きたくても吐ききれず、何度もえずいた。そのたびに目の端から、はらはらと涙が零れ落ちる。初めは疑り深い視線を向けていた昌平君は、やがてその異常に気付き、こちらに手を伸ばしてきた。
 男の指先が肩に触れる。それだけであの這うような感触を思い出し、反射的にそれを振り払ってしまった。刃のように細く鋭い彼の目が、僅かに見開かれた。
「なぜ怯えている」
 震えが止まらない。今更になってあの時の恐怖がぶり返す。目に溜まった涙を拭うことも忘れ、わたしは必死になって落ち着こうと呼吸を繰り返した。
「何を恐れている」
「や、やめ――て」
 何も知らない昌平君は再びこちらに手を伸ばす。血管が青く浮き出た大きなそれが悪夢と重なる。わたしの腰を、太腿を、首筋を。まさぐっていたあの汚らしい手。眼前の美しい我が主は間違ってもあの不潔な男とは似ても似つかないはずなのに、本能的に拒絶してしまう。
「私か? いや。この手か」
 昌平君は伸ばした己の手をまじまじと眺める。わたしが何に怯えているのか、考えを巡らせ、すぐに答えに辿り着いていた。暫くして彼はこちらに目を向けた。頭から爪先までじっくり目を遣るうちに彼の視線は首元に注がれていることに気付く。嫌な予感がした。あの男と揉み合いになったとき、首から胸にかけて痕が残ってしまっていたらしく、気づいた使用人が化粧でどうにか隠すしかないと言っていたことを思い出す。
「さては穢されたか」
 確信的な態度でそう問われて何も答えられなかった。辱められたわけではないが、出逢ったばかりの男に一瞬でも体を許す隙を作ってしまったことは間違いない。自分で自分が情けなかった。
「相手の男は誰だ。名は知っているか?」
「それは」
「戸籍があるならば関門で旅券を確認しているはずだ。出るぞ」
「お、お待ちください! その……未遂なので、大丈夫です」
 立ち上がろうとする主の袖を掴み、なんとか声を絞り出してそう伝える。すると彼は瘧が落ちたように動きを止め、暫しこちらを見つめると再び腰を下ろした。
「そうか」
「はい」
「取り乱した。悪かった」
 牀に凭れた昌平君は深い溜め息を吐き、額に手を当てていた。この男がここまで心を乱した様を見たことがあっただろうか。分からない。わたしがどうなろうと構わないのではなかったのか。
 二人の間には再び静寂が訪れる。用が済んだのならばそう言ってくれれば良いものを、彼は黙り込んだまま。さっさとこの場を離れてしまいたかったが、しかし主の険しい表情を見ていると、もう少しここに居なければならないような気がした。わたしは彼の口から次の言葉が紡がれるのを待つことに決めた。庭から聞こえる虫の音や、待機している近衛兵が退屈に足を組み替える音に耳を傾けながら。

「お前の父には世話になった」
 唐突に、鏡のような水面に小石を投じたように静寂が破られる。昔日を懐かしむような穏やかな声だった。彼の口から父の名が語られたのは記憶に在る限り初めてのことだったから、わたしは驚きながらも息を凝らした。
「楚に手放された幼い私を、奴は見捨てるどころか死ぬまで守り抜くと宣っていた。秦で身を起こすと決めた時には、自分も祖国での地位など惜しくないと笑ってみせた。そんな男の忘れ形見を……突き放すはずがないだろう。たとえお前がどんなに役立たずで、私が何一つ対価を受け取れずとも、面倒を見てゆくつもりだった」
 ならば長年抱えていた憂いは取り越し苦労であったということか。昌平君はどのみち、わたしをずっと傍に置いてくれるつもりでいたらしい。彼からこの言葉を引き出すまでに長い年月がかかってしまった。もっと早くから歩み寄っていれば、彼に対して心を開いていればと、後悔が蟠る。
「ならば存在意義をください。我が家筋の使命に則り、貴方様をお守りする為に心血を注ぎましょう。どんな些細な雑用でも構いません。それが、わたしがずっと欲していたものです」
「それでお前は満足なのか」
「はい。父母の願いとこれまでの二十年をどうか認めてくださいませんか」
 平伏し乞うと昌平君は「相分かった」と深く頷く。再び眼前に述べられた手に嫌悪の情は一切湧かなかった。清雅で気高き我が王の掌。わたしは縋るようにそれを己が両手で包み込み、込み上げた感情の波濤に流されてしまわぬように強く握りしめた。粗雑な部屋に佇む二人の影。それは風格も格式も無い主従の儀だが、しかし粛然として犯し難い尊さがあった。

 それから昌平君はわたしの望み通り様々な雑務をくれたが、幼い頃から父の後を継ぐ為に世俗の女子教育とはまるでかけ離れた、凝り固まった薫陶を受けてきたからか、掃除にしても針仕事にしてもかなり要領が悪かった。初めのうちは不慣れな仕事を懸命に行うわたしを見た者達が箕帚の妾などと囃し立てていたが、あまりの出来の悪さに無理をするなと心配されるばかりになり、ついに主にまで気の毒だと思われたらしく別な仕事を与えられた。なんとも恥ずかしい話だ。
 数年が経つ頃には、主の補佐という立ち位置に落ち着いた。
 二月。わたしの住まいは、かつてとつくにの公人の為に設けられた屋舎から大厦へと移った。ここは昌平君が創設した私塾である。あまりにも広大な施設ゆえにいくら火鉢をつけても熱が掻き消えてしまって温まらない。寒さに悴む手に息を吹きかけながら、氷のように冷え切った廊下を早足で進む。漸く目的の部屋に着いた頃には、真赤になった四肢に痛みを覚えるほどだった。扉を開けると、そこには主の背中がある。大きな背だ。初めて出逢った時は線の細い青年という印象を抱いた記憶がある。彼の悲惨な生い立ちを知っていたがゆえに先入観があったのかもしれないが。
 部屋には熱気が篭もっていた。書き物をする手が凍えぬように常に温めてあるのだ。昌平君の傍には軍略囲碁の碁盤や駒、軍事学の書物が転がっていた。門下生の相手をしていたのだろう。教育熱心な方だ。しかし彼がどうしてこの秦で、祖国を滅ぼし得る人材を育てようとしているのかは分からない。わたしはまだ主の心底を理解できていない。そしてこれからも、永劫的に、理解しきることは無いのだろう。
「失礼致します。内史からの報告が届いております。定陽付近から辺塁へ二百ほどの小隊が断続的に送り込まれているとのこと。被害は少ないですが近くの城は門を閉じるように早急に鳥を飛ばしまし……っくしゅ、し、書信はこちらに」
「あまり体を冷やすな。倒れられては私が困る」
「申し訳ございません」
 すんと鼻をすすりながら頭を下げると、ふと柔らかい感覚に身を包まれた。昌平君がわたしの肩に、自らの上衣をかけてくれていた。己の体躯より大きなそれは体に深く巻き付けていないとずり落ちてしまいそうで、慌てて掴んで持ち上げる。
「あの……これは」
「書信は預かる。それと、そこに置いたものを介億に届けてくれ」
「し、承知致しました」
 主は目配せで行李の被せ蓋の上に纏められた荷を指すと、そのまま机に向き合い、渡した書信に目を通し始めた。こういう時の彼は集中しているから、上衣を返すためだけに話しかけるのも躊躇われ、またせっかく貸してくれた物をそこらに置いていくわけにもいかず、わたしは芳香漂うそれに身を包んだまま部屋をあとにした。
「相変わらず殿とは仲がよろしいようだな。羨ましい限りだ」
 介億の元を訪れると、彼はわたしを――見慣れた深紫の上衣を羽織っている姿を見ると、鯰髭を撫でながら口角をにぃっと上げた。揶揄われている。無視をするのが一番なのだろうが、この状況を楽しんでいるようなあまりにも悪意に満ちた笑みに我慢できず、言葉を返した。
「お優しい主が貸してくださったものを、そのような目で見られるとは遺憾です。そもそも、あの人とわたしは別にそういう」
「わっはっは。そう隠さずとも、真面目そうな顔してやることはやっているのだろうに、今更恥ずかしがる必要はあるまい。昔を思えば随分と仲睦まじくなったものよ」
「介億。そのような根も葉もないことを吹聴すれば許しませんよ」
 わたしと昌平君が、主従以外の関係で結ばれることは無いと知った上でのこの発言だ。ただ介億は主が最も信頼を置いている人物――本当はわたしが一番であって欲しいが、この人は憎たらしい性格以外は素晴らしく有能であるから、そこは認めざるを得ない――であるから、どうしても無下にあしらうことができないでいる。
 煩わしい介億のもとを早々に去り主の部屋へと戻ると、安堵が溢れた。
「はあ。介億と話していると疲れます」
「ご苦労だった」
 筆を置いた昌平君がわたしに労いの言葉をかける。
 昔を思えば随分と仲睦まじくなったものよという介億の言葉がふと蘇った。この軍師学校に、かつての自分との関係を詳しく知る者は少ない。それほど長い時が流れていた。昔といえば思い出すのが邸を飛び出した時のこと。今となっては笑い話のような、過去の汚点のような、そういった形で片付けられている。だがその時のわたしは必死だった。己の運命を嘆き、守るべき人を恨み、認められないことに反発して外の世界に飛び出した。結果的に主に多大なる心配をかけたが、あの件が無ければ彼の心を知ることも無かっただろう。脆い忠義に縋りついてみじめに生きていたか、或いは耐え切れずに彼の元を離れていたかもしれない。
「そういえば、わたしは貴方様のお役に立てているでしょうか? ふと昔のことを思い出してしまって。ほら。邸を出て行った時の。覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、はっきりと覚えている。思い返すだけでも心臓に悪い」
 あれから関係は良好だ。主はわたしの適性を鑑み様々な仕事をくれる。補佐としての務めの他にも、例えば軍師学校の臨時講師を任せられたり、遠方の視察に同行させてくれたりといった具合に。傍に居ることを認めてくれている。必要としてくれている。寡黙な彼が直接的な言葉で表すことは殆ど無いが、そう感じられていた。昔日に誓った忠義は一度たりとも揺らいでいない。
「あの時まではお前を部下として勘定したことは一度も無かった。最期まで私を守って死んだ忠臣の忘れ形見だという認識だった。だからこそ利となり得ないと判じたのだが」
「そうなのですね」
「だが心を汲むことができなかった。……いや、私が向き合おうとしていなかっただけか」
 独り言のように呟きながら主はおもむろにわたしの手を取り、自身の手で包んだ。武人にしてはいささか細いが、常に筆を執り、時には矛を振るう掌は硬い。それは主従を契ってから常にわたしの拠り所となっているもの。
「結果的に腹を割って話せた。蒙武には迷惑を掛けたがな。傍にお前が居なかった未来があったと思うと肝が冷える」
「恥ずべき愚行でした。何度お詫び申し上げても足りません」
「許しを乞うべきは私の方だとこのやり取りも何度目か。段々と死んだ父親に似てきたな。親子二代で頑固で変わり者だ。お蔭で今でもこうして傍に居てくれるのだから助かるが」
「それは」
「冗談だ。……さてそろそろ夕餉の時間か」
「配膳の支度をするように伝えて参ります」
「ああ頼む」
 火照った頬の熱を誤魔化すように立ち上がり、部屋を飛び出した。あんなに饒舌に心の内を話す主は珍しい。自らわたしに触れることも同様に。過去を振り返り、何か思うところがあったのだろうか。
 足早に廊下を歩いていると、すれ違う人々の視線がやたらとこちらに刺さっているような気がする。訳が分からぬまま暫く歩き、厨房まで辿り着いたところで、奴婢の一人が気まずそうに声を掛けてきた。
「炊事場に入られては右丞相の御召し物が汚れてしまわれますよ」
「……」
 声をかけられてはっとした。昌平君から借り受けた上衣を羽織ったままだったのである。部屋に戻った時に返そうと思っていたが、すっかり忘れていた。これではまた介億をはじめとした噂好きな面々の、話のタネにされることは間違いないだろう。わたしは口早に、膳部に食事を運ぶように伝えると、頭を抱えながら来た道を引き返した。