瓦礫の王座・中編


 数日をかけて藍田へと辿り着いたわたしは、そこでとある旅商人に雇われた。整えられていない、ちぢれた髪や髭。継ぎ接ぎだらけの麻布でつくられた着物。痩せこけた一頭の馬に、今にも壊れてしまいそうな荷台を取り付けた車とも呼び難い乗り物を引く、身なりからして十分な護衛を雇う金すら持ち合わせていないような男だ。だが贅沢は言っていられない。相手から見ればこちらも素性の知れない女兵なのだから。
 藍田に到着する頃には既に馬を売り払ってしまっており、手持ちの金で宵を越すことができるのかも怪しかった。雇ってくれる人を早急に探さねばと思い、護衛を欲している旅人たちに片端から声を掛け、この男だけがわたしを拾ってくれたのだ。
 時折こちらに向けられる彼の下品な笑みがどうも不気味で、既に気が滅入っていたが、だからといって逃げるわけにもいかない。
 男はわたしを雇うなり直ぐに発つと言った。目的地はどこかと問えば、なんと楚領を経由していずれ斉へと向かいたいと言う。唖然とした。あまりにも無謀すぎる。まさか旅の護衛がわたしひとりだけで務まるとでも思っているのだろうか。腕に自信はあるとは伝えているものの、賊などに襲われてしまったら、きっとひとたまりもない。せめてあと二、三人だけでも雇うべきだと強く提案したが、男は金が無いとの一点張りで、わたしは渋々、軋む音を立てながら進む馬車のうしろに着いて歩いた。
 都から離れた土地の街道は、車がすれ違うのも一苦労であるほどに狭い。物心ついた時から咸陽近辺で暮らしていたから、整備されていない道がこのように険しいものだとは思ってもみなかった。自由を謳歌しのびのびと気ままに流離うような、思い描いていた旅路の夢想は脆くも崩れ去る。石塊が不安定に連なる足元、放置された田畑の長草で溢れた畔、延々と続く殺風景。周囲を警戒しながら、口数少ない雇い主の後にただ付いて歩くだけの仕事は、邸に居た頃の自分を彷彿とさせる。
 結局どこに行っても何をしても、こういった自己定位に収束するのだ。
 狭い邸の中で過ごしてきたから巷間の猥瑣などつゆ知らず、気の利いた世間話のひとつもできない。重い空気の中、今更ながら自分が置かれてきた環境が少し恨めしくもなった。

 初日は何事もなく過ぎ去った。からからと馬車を引く男とともに、藍田からまっすぐ南に向かって歩いた。太陽がいちばん高く昇るその方角へひたすらに足を進めると、やがて漢江に辿り着く。これは広大な面積を誇る楚を、割るように横断する大河の支流である。この川に沿って今度は下流、つまり東方に進めば、迷わず楚へ向かうことができよう。水がある場所には人が住んでいる。商売が捗れば食糧も手に入れられる。勿論、十分な報酬も。わたしはその漢江に辿り着くまでこの男を必死に守れば良い。
 二日目も特にこれといったことは起こらなかった。休みなく歩いただけだ。
 日が暮れると火を焚いて、それを囲むように各々持ち合わせた食糧を口にした。わたしは雨避け用の天幕の下に、男は馬車の中にそれぞれ寝床を作り横になった。開放的な空間で眠りに就けるか心配だったが、体はすっかり疲れ切っていたからそれも杞憂であった。
 朝は日が昇らぬうちに起きる。より遠くへ進むために、東の空が仄かに青色になる頃には出立する準備を済ませねばならない。
 三日目。長い道程をたった二人で歩む羽目になったわたしたちは、危惧していた通り、賊たちに囲まれてしまった。雇い主の男が関所で税を取り立てられることを恐れて遠回りをしていたのだが、賊たちはこの迂回する道を張って、同じような企みをしている旅人を襲っているようだった。
 削がれた頭髪に刻まれた刺青。一目で罪人だと判る風姿を隠そうともせず、賊は武器を構えながらこちらを逃がさぬように距離を詰める。相手は三人。彼らは槍や大鉈、短刀といった、様々な武器を手にしており、近距離戦にしろ遠距離戦にしろ、こちらが不利なことに変わりない。殺されるかもしれないと、背中を冷や汗が伝った。仮にわたしが一人だったとしても、この人数を相手に逃げ切ることは難しいのに、男を守りながら戦うなんて絶望的だ。
 こんな時にあの人が居てくれたのなら。一瞬そのような考えが脳裏を過った。この期に及んで自ら手を切った男を想うなど、未練がましいにも程がある。
「そこの女と荷車を置いていけ。じゃねえと殺すぞ」
 賊たちはそう言って武器を振りかぶった。どうやら彼らの狙いにわたしも含まれているらしい。万が一捕まってしまえば何をされるか、想像できないわけではない。だが翻せば彼らのわたしに対する殺意は薄いということ。ならば勝機は僅かながらありそうだ。こちらの武器は槍一本のみ。距離を詰められてしまえばまともに戦えないだろうから、わたしは体勢を低めて、手をつくと、そっと相手の目をくらませるための為の砂を握りしめた。
 あとは雇い主の男が加勢してくれれば良いのだが。そう思って背後に目を遣ると、なんと彼は武器を構える素振りすら見せず、それどころか馬の手綱を両手でしっかりと握りしめながら、わたしを顎で指した。
「これは儂の商売道具だ。やるわけにはいかん。その女は好きにしろ!」
 まともな人間ではないとは感じていたが、ここまでとは。だが護衛を引き受けたからには、たとえこの身を犠牲にしても雇い主を守り抜くことが仕事だ。憤懣遣る方無いが、心無い発言をいちいち気にしていてはこの先やっていけないと、恥辱に耐えながら槍を握る手に力を入れた。
「では雇い主の命令でわたしが相手をさせていただきます」
「ん?  まさか一人で俺達を倒せるとでも思ってんのか?」
「武才に秀でたお偉いさん方から鬼のような教育を受けて育ちましたから。自信はありますよ」
 勿論はったりを利かせているだけだ。鬼のような教育を受けたのは事実であるが。ここで弱腰になってはいけないと、わたしのちっぽけな矜持がそう告げていた。窮地にも拘わらず、心のどこかでは今が己の人生最大の見せ場なのだと、そう思う自分もいた。旧い主の前ではついに発揮されることはなかった槍術を、培ってきた二十年のすべてを、惜しむことなく出し尽くせるのだ。
「逃げるならば早く逃げてください」
「言われなくてもそのつもりだ!」
「生きて戻ったら報酬はきっちりいただきますよ」
 雇い主の男はさっさと荷車を引き、遠ざかってゆく。わたしは再び目の前の賊たちと対峙した。
「あの男を逃がすんじゃねえ!」
「させません!」
 わたしは後を追おうとする賊魁の前に立ちはだかり、半ば反射的に握っていた砂を投げかけた。眼前に散った砂は運良く男の目に入ったらしく、彼は武器を放り投げて顔を抑えながら蹲った。目くらまし成功だ。三人のうち一人の戦力は削ることができた。残るは二人。両人は賊魁に比べれば体格も小ぶりで、戦いに慣れていない様子。上手くいけば無傷で逃げ切れるかもしれない。
「っぐ、痛え……このクソ女! オメエら、さっさとやっちまえ!」
 狼狽していた子分二人だったが、賊魁の声に触発されるように突如としていきり立ち襲い掛かってきた。一旦体勢を立て直すために数歩下がり、賊魁を盾に槍を構える。相手の武術は素人のそれであったが、わたしより力も素早さもある男だ。とても対等な勝負ではなかった。相手の攻撃を避けながら、一発でどちらかの動きを封じなければ、やられてしまう。わたしは意を決し子分の一人に飛び掛かった。実践は人形相手の稽古とはまるで違う。苦労して身に着けてきた武道の型など頭からすっぽり抜けてしまっていて、死にたくないと、ただひたすらそう祈りながら腕を振るうことしかできなかった。
 狙いも定めぬまま、闇雲に突き出した槍先から、なにか硬いものを刺す感触がする。それから、女々しい呻き声と、己の顔に生温かい液体が降りかかってきたのはほぼ同時だった。
「あああああ、ああ、血、血が……!」
 ――当たった。
 振るった槍の穂先は奇跡的に敵の手甲を貫通していた。自分でも驚いた。残ったもう一人の賊はすっかり戦意を喪失している。己を褒め称えたい気分だ。槍を構え直してその男を威嚇しつつ、地面に転がった相手の武器を奪い、わたしは先に行った主の車を追った。賊たちはもう追ってはこなかった。
 助かった。荷物は無事であるし何より雇い主を護ることができた。運が悪ければ命を落としても不思議ではない状況だったが、最良の形でそれを切り抜けることに成功したのだ。
 恐怖と興奮で昂る鼓動と共に街道を駆け、暫くして男の車を見つけたときには涙が出そうなほど嬉しかった。しかし。
「まったく要らぬ邪魔が入った。お前が目立つ女であったばかりに賊に襲われてしまったのだろうな」
 男はわたしの姿を見るなりそう吐き捨てた。完全なる八つ当たりだ。百歩譲って賊に見つかったのがわたしのせいであったとしても、その原因の発端は彼にある。あんな奴らに襲われたくなかったならば、もっと屈強な用心棒を連れるか、関所に続く表道を通りながら旅をすれば良かったのだ。
「何はともあれ貴方様を守り抜いたのは事実です。それでもわたしの所為と仰るのならば、ここまでの報酬をいただきます。そうすれば一人で藍田に戻りますから」
「ふん。お前にやる金など無いわ」
「約束を反故にするおつもりですか? わたしは貴方様より強い。そして失うものも無い。ゆめゆめ忘れぬようにしてくださいませ」
 強気で攻め立てても尚、男はぶつくさと文句を言っていた。このまま口論を続けてもきっと埒が明かない。落ち着いてからまた話をしよう。今日のところは引き下がって、わたし自身も頭を冷やさなければ。
「明日また答えを聞かせてください。返答次第ではどうなるか、貴方様ならば分かるはずです」
 そう言い残してわたしは天幕を設置し、中に篭もった。寝てまた覚めれば相手の気も変わって、また同じように旅を続けてくれるだろうか。万が一報酬をくれないと言われたらどうしようか。落魄れる覚悟とやらは正直なところまだ固まっていない。どこかで自分は高潔な人間に戻れるのだと錯覚しているのかもしれない。

 ――。――……重い。まるで何かに圧し掛かられているように。まどろみのなかで、わたしは己に覆い被さる大きな影を見た。からだが重い。悪夢を見ているのだろうか。ならばもう一度眠りに就けばこの感覚は消えてくれるかもしれない。そう思い目を瞑ったが、感覚はより現実味を増していく。
 そのうちわたしはただ圧を受けているわけではないことに気づいた。何故か体がむず痒い。虫に刺されたようなそれの比ではない、もっと激しい嫌悪を覚えるものだ。まるで百足のような。否、それよりもずっと滑らかで太い何かが、腿や腹を蛇のように這って、皮膚にまとわりついて。とにかく気持ち悪い。二度寝をして逃避する気も掻き消えて、わたしは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
「…………ん」
 起き上がろうとも、不思議と起き上がれない。わたしの上に乗っているそれを退かそうと手で押せば、生温かい感覚。
 生きている。生きている何かに襲われている。
 虎か。はたまた野犬か、どちらにせよこのままでは殺されてしまう。そう思うと同時に、わたしの意識は一気に覚醒した。濁り切った視界はいつのまにか暗闇に慣れていて、嗅覚も、聴覚も、そして触覚も、瞬時に冴えわたった。そしてわたしは、その者の正体をはっきりと見た。
「ひ……! いや! なに、なにッ⁉」
 それは人間だった。それも昨日、口論になった雇い主の男だ。
 まさか金を払わずに逃げる為にわたしを殺そうとしていたのではないか。瞬時に脳裏を過った可能性はそれだったのだが、束の間、着物の裾から滑り込んでいた生々しく動く掌の気味の悪さに、この男が何をしようとしているか、気づいてしまった。
「退いてください! なんのつもりです!」
「決めた。抱いてやろう。素直になれば昨日のことはさっぱり許してやる。なあ、女ひとりで声をかけてよ。さてはこういうのがお望みだったんだろ?」
「な――違う! 誰がアンタみたいな汚らわしい男と!」
 気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! こんなにも不潔な男に体を弄ばれるなんて死んでも御免だ。もう少し気づくのが遅かったならば。……ああ、想像するだけでも吐きそうだ。
「わたしは正当な報酬が欲しいだけ。好きこのんで見ず知らずの男に抱かれたいと思うわけがないでしょう!」
 身を捩るも男の体はびくともしない。それどころか暴れるわたしを押さえつけるようにますます体重をかけて圧し掛かってくる。肺が潰れて息ができなかった。汚い、苦しい、嫌だ。わたしはこんなところで、こんな男の手で貞操を失うなんて死んでも嫌だ。こうなるくらいならば、あの賊たちに殺されてしまったほうがまだマシだった。
「三日も待った甲斐があった、ここなら邑も遠い、助けも呼べまい。言うことをきかないお前をうっかり殺しちまっても大丈夫だ」
 そう言われて妙に合点がいった。護衛にわたしひとりだけを雇ったことも、最初に見せたあの余裕そうな下品な笑みも。疑ってはいけないと思って、自分自身に気のせいだと言い聞かせていたのだけれども、目的が本当に斉に行くことだけならば、それはあまりにも不自然なことだった。男ははじめから報酬を払う気などまったくなくて、己の安全が脅かされればわたしを囮にして捨て、あわよくば襲ってしまおうと、そう画策していたのだ。
「最初からそのつもりだったのか! は、離せ! 触るなクソ野郎!」
「うるせえ! 殺されたくなければおとなしくしやがれ!」
「誰が、あんたなんかにッ!」
 怒りに震え、歯を食いしばりながら、わたしは再び力を振り絞った。すべてが許せなかった。
 唾棄すべきこの男も。信じてしまった愚かな自分も。
 渾身の力で男の鳩尾に拳を入れる、手を払い、尺取り虫のようにからだをくねらせてなんとか男の下から這い出ると、己の荷物を置いて天幕から逃げ出した。起き上がりざまに武器である槍だけはなんとか拾い上げ、荷車に繋げられていた馬の綱を切り落とす。移動手段さえ奪ってしまえば夜通し追いかけられようと追いつけまい。
 わたしは男に一瞥もやらずその場を後にした。悪いのは相手だ。馬を奪うくらい許されるだろう。
「う……きたない、最悪だ」
 太腿を這う汚い手の感触がまだ残っている。ああどうして、わたしはこんな目にあってしまったのだろう。たとえ必要とされなくても、役立たずだと思われても、あのまま邸にいた方がよかったのだろうか。何が正解だったのか、どうやったらまともに生きることができていたのか。わたしには何も分からない。何も。本当に何も分からないのだ。
「……これから、どうやって生きていけばいいのだろうね」
 馬の鬣を撫でながら呟く。また振り出しに戻ってしまった。とりあえず藍田に戻ろうか。もう一度だけ誰かに必要とされたらその人を信じてみたい。だが再び裏切られてしまったら今度こそ立ち直れそうにない。
 どうしよう。その言葉ばかりが口癖のように漏れた。月明かりを頼りに、懸命に歩いてきた道をひたすらに駆け戻る。こんなはずではなかった。あの邸から抜け出したら、幸せにはなれずとも幾らかは満足のいく生活を送ることができると、根拠もないくせに思っていた。こんなことになるなんて思ってもみなかった。
 わたしは昌平君の手で生かされていた。