瓦礫の王座・前編


 きっと、この世に生を受けたその日から、わたしの人生の筋書きというものはとうに決められていた。寒々しい原野を走る、岐路の無い、どこまでも平坦な一本道。己に課せられた使命はひとつ。生みの親に捨てられ、故国に戻ることを許されなかった哀れな一人の男を、死ぬまで守り抜くこと。ただ、それだけだ。
 わたしの父は楚の頃襄王の時代に若くして顕官にまで成り上がった傑物であったという。彼は太子完の侍従の一人であり、楚と秦の和平交渉の際に、主と共に秦へと入った。それから昭襄王が完に自らの公女をめあわせると、その頃父も同じく妻を娶り、子を儲けた。人質として異国の地に生きる主とその嗣子を、楚の公人の血を守り抜くという使命を、世代を超えて果たすために。しかし、父の願いは思うに任せなかった。不運にも男子は夭折し、妻も産後の肥立ちが悪く身罷った。まっとうに成長したのは末の娘ひとり。それがわたしだった。更に追い打ちをかけるように、やがて完は別の侍従である黄歇という人物の策で楚へと逃げた。弟である公子と、子女たちを置き去りにして。
 太子完は帰国後、即位して考烈王となった。その傍に令尹として控えるは黄歇。自らの身を挺して主を秦から逃がした男だ。一方で途方に暮れた父の前には、人質として永久的に秦に留まることを余儀なくされた子女たちが残されていた。そしてその中のとある美しい令息が――十にも満たないような幼き子が、まるで己が置かれた状況を識っているかのような目で、問うてきたという。貴様が奉公すべきと考えるは、我々を捨て置いた男であるのか、と。その日から父は彼を主君と定め、事あるごとにわたしにこう言うようになった。
 ――儂は、まことの王を見た。あの御方は父君よりもずっと楚の国を統べるに相応しい。

 すべては主たるあの男のために。わたしはそう育てられた。
 昼は己が躯体よりも大きな槍を振り回し、陽がくたてば、手燭の仄かな灯りの下で眠気に耐えながら書物を渉猟して知識を蓄えた。繊弱な女の身にとっては、その生活は苦痛以外の何物でもなかった。何よりも父が信義の限りを尽くすあの不愛想な男のために生きる所以などまるで持ち合わせていなかったから、わたしは嫌々ながら熱い忠誠をこの面に貼り付けながら生きてきたのだ。
 なんと窮屈で益体のない日々であったことか。だが幼い自分には、それを嘆くことさえもかなわなかった。
 やがて長い時が経ち、父はその老躯をまともに動かすことすらできなくなった。それでもしきりに「我が家の名にかけて、かの人を護り抜け」と言う。あの御方には命を賭す価値があるのだと、見舞いのたびに口を酸っぱくして繰り返すものだから、ほとほと嫌気が差していた。わが父もすっかり耄碌したな――と。敬うべき父はいつしか自分の中で、過去の栄華に縋ることしかできない固陋な人間と化していた。
 幾度となくあの男が素晴らしい人間かを訴えられようとも、わたしはやはり彼を心から慕うことはない。あれは父の病床にも殆ど顔を出さずに、書楼に篭もり、文机に向かって忙しそうにしていた。
 それから数年が経って父が亡くなった時に、男は少しだけ顔を出しにきた。わたしを一瞥し、しかし何も言葉をかけることもなく、細枝のように痩せた侍従の亡骸をじっと見つめていただけだった。その時に見た、そっと頬を伝っていた一筋の雫をも、紛い物ではないかと疑ってしまった。それほど毛嫌いしていたのだ。

 孤独な王を守る一振りの薄弱な剣。
 男はそれすらも要らぬと言わんばかりに、わたしに任を与えなかった。父の信儀を継いだ事実だけに依り立ち生きていた自分に、その存在意義すらもくれない。もしかすると彼も同じ感情を抱いているのではと、わたしたちは互いに相手を疎んでいるに違いないと、気づき始めたのはその頃だった。敏いあの男のことだからこちらの抱える拒絶や憎悪を薄々感じ取っていたのだろう。
 父が亡くなってまもなく、わたしは二十を数える歳になった。幼き時分に初めて「楚子」と対面した、あの時の彼をとうに超える年齢である。だが追いつけない。父が近侍した男は達観しており、十代半ばにして既にその鋭い双眸で世の趨勢を見極めていた。対する自分はこの小さな世界で、主と従者の在り方について、有りもしない最良の答えを模索している。
 男が才能に恵まれた人物であることには気づいていたが、それがあまりにも桁外れであると確信したのは彼が官吏として幾度となく恩賞を賜り、列侯という爵位まで上り詰め、その封地の名を――昌平君という名を掲げるようになってからであった。また彼は文道のみならず剣術や槍術、騎馬術などの武芸にも非常に優れていた。「中華最強」などと謳う血気盛んな馴染みの武官よりも強いと密かに噂されているほどだ。彼が考烈王とともに楚に戻り、秦に攻め入る未来もあったかと思うと背筋が凍る。
 ともかく守るべき主は己よりもずっと聡明で腕が立つ人であったということだ。武の腕も頭の出来も劣る自分が彼を守ろうとするなど差し出がましいことなのだと、暗にそう言われているようでどうしようもなく悔しかった。どうしてだろう。わたしは物心ついたときから、この男を守るためだけに努力を重ね、日々を浪費していたのだ。だがそれも無意味なものであった。
 ならばわたしは何故ここに居るのだろう。否、ここにいるべき人間ではないのかもしれない。このまま彼に仕え続けたところで互いに何の利も生まれないのだから。

 傍に置くべき人を決する物差しは利があるか否かであると、人の上に立つ者は往々にしてそういう考えを持っている。要らぬ者は切り捨て優秀な者だけを拾い集める。他人に情けをかける余裕など無い。さもなくば己が足を掬われる。
 いつか自分も昌平君に不要であると判じられ、突き放される時が来るだろう。幼い頃から仕えているという理由だけで忖度してもらえるとは思っていない。既に身内は亡くなっているから、彼がわたしをどうしようと咎める人は居ないのだ。
 だから今のうちに、己に若さという僅かな価値が残っているうちに、新しく根を下ろす場所を探さねばなるまい。そう考えてわたしは自らここを去ろうと決めた。
「この邸を出ようと思っています」
 藪から棒に、そう口にした。彼はわたしの言葉にまったく耳を傾けていないようで、なにやら書き物に集中していた。返答どころか反応すらも無い。これが普段の二人だ。冷ややかなこの関係が、主従を冠するに相応しいものであるはずがない。
「貴方様にとってわたしという存在はきっと利となり得ない」
「……そうだな」
 少し間を置いて、おおかた予想していた言葉が返ってきた。静かに溜め息を吐く。面倒そうに発されたその一言に、傲慢にも僅かに抱いていた彼への期待が一気に泥沼に沈んだ。やはり昌平君はわたしを必要としていなかった。とはいえ免黜すると角が立つから放置していたといったところだろう。今迄の人生を、二十年もの長い人生を総じて否定された気分だった。しかし反面、漸く諦めもついた。
「だが――」
「最後にその言葉を聞けて安心しました。それではどうか御達者で」
 昌平君が口にしかけた言葉を遮るようにそう言うと、わたしは彼の部屋を後にした。随分とあっさりした別れ方だ。所詮、偽物の主従。関係性は希薄だった。予め纏めておいた荷物を取りに戻り、足早に邸を飛び出した。これから何をしようか、どのように生きようかなど全く考えていなかったが、ただ昌平君の元から離れようと必死であった。

 まずは宿を探そう。旅籠に泊まると出費が嵩むから、どこか安価で風雨を凌げる場所を。納屋でも良い。横になれればどこでも。それから……どうしようか。腕はまあまあ立つはずだから用心棒にでもなろうか。住み込みで働くことができたら良いのだが、最初から上手くはいかないだろう。まずは短期間の雇われでも問題無い。芸妓にでもなれれば良かったのだが、生憎武術や勉強ばかりで舞にも楽器にも触れてこなかったからその道は厳しい。ならば金が尽きそうになったら最悪この身を売るしかないのだろうか。未婚の女は操を守るべきであるという観念を持って生きてきたが、それをも崩さねばならない時がくるかもしれない。
 そう考えると急に、足元からぞわりと寒気が駆け上ってきた。
 自分は己の尊厳を地に落としてまで昌平君から逃げ出したかったのだろうか。決断を下したのはたった寸刻前の自分自身であるはずなのに、まるで分からなくなってしまった。
 本当は止めて欲しかったのではないだろうか。わたしには何らかの価値があるのだと、認めてもらいたいがための行動ではなかったのか? そうだとしたらあまりにも愚かだ。呆れるほどの大馬鹿だ。勝手に傷ついて自棄になって何もかもを失ったのだ。今更あの邸にどの面下げて戻れば良いのかもわからない。……死んでも戻れるわけがない。

 こうした時に頼ることができる人間は存外少なかった。幼い頃から周囲との交流は無く、父やあの男の近くで過ごすことが殆どであったから、友人と呼べる存在どころかまともに会話を交わしたことがある人物も片手で数えられるほどしか居ない。
 もうじき日が暮れる。夜を乗り切るために恥を忍んで助けを借りようと、必死に馬を走らせた。
 目的地に到着したのは、もうすっかり夜の帳が下りた頃だった。咸陽のはずれにある大きな邸。その門扉を強く叩く。煩わしそうに中から出てきた衛兵が怪訝そうな表情を浮かべていたが、押し切って中へ飛び込んだ。わたしにはもうこの人しかいなかった。
「ご無沙汰しております。蒙武殿」
「……貴様一人か。奴はどうした」
 他人の家を訪ねるには失礼極まりない時間帯であるが、どうにか元主の名を借りて彼を呼び出すことができた。蒙武という男は昌平君の友であった。と言うと当の本人は苦い表情を浮かべるが、幼少の頃に知り合って現在まで縁が続いているというのだから、よほど親しい仲なのだろう。昔は血気盛んな蒙武がよく邸を訪ねてきていたから、わたしとも自然に顔馴染みになったというわけだ。今となっては彼の剛情な利かぬ気はすっかり鳴りを潜め、寡黙で威圧的な人になってしまったが。
「一晩だけ納屋を貸していただけませんか」
「奴はどうした。まずは質問に答えろ」
「お願いですから何も聞かないでください」
 こちらの様子を窺う蒙武の、睨むような視線から逃げるように俯き、わたしは納屋の扉を開けてくれと懇願した。咸陽を出て一人で生きてゆくつもりだなんて言おうものなら、力ずくで連れ戻されるに決まっている。
 暫し無言の攻防が続いたのち蒙武は邸の中に入るようにと言ったが、納屋さえ貸してくれれば良いと伝えた。彼には生まれて間もない稚児がいるはずだから、夜更けに泊めてくれとせがむほど無礼極まりないわたしでも、そこまで迷惑をかけようとは思わなかった。
 長年住んだ邸の私室に比べれば納屋の中は凍えるほど寒かった。まだ秋口だというのに、藁に包まっていないと体の震えが止まらない。好きに使って良いとの言葉に甘えて、手探りで物を動かして場所を作り、身を横たえる。舞い上がった土埃に何度も噎せて苦しいが、屋根の下で夜を越せるだけでも十分恵まれているのだと思うと、己が愚かさを激しく後悔した。
 目を閉じて眠りに就こうとしていた時、なにやら香ばしい匂いとともに、納屋の扉が静かに開いた。途端に隙間から入り込む行灯の火が、岌峨のように険しい、彫りの深い顔を仄かに照らしている。
「兎の炙りだ。腹に溜めておけ」
「しかし」
「くだらん遠慮はするな」
「ありがとうございます」
 兎だ。それも足の一本ではなく丸々一匹。なんて贅沢な飯だろう。食欲をそそる脂の匂いに、無意識のうちに腹が鳴る。思えば昼過ぎに邸を飛び出したから、朝餉を食べたきり何も口に入れていなかった。わたしは蒙武から受け取ったそれに勢い良くかぶりついた。こんがりと焼けた皮から滴る脂は骨身に染みる美味しさだ。
「痴話喧嘩も大概にしろ」
「……違います。わたしとあの方はそのような間柄ではございません」
「ならばどうした」
「暇を貰ったので、暫く旅に出ようと思い立ちまして。遠くの地にでも」
 わたしは努めて平静を装いながらそう言った。半分は嘘だ。もう戻るつもりはない。しかしそのことを蒙武に悟られてはいけない。
「これからどうするつもりだ」
「わかりません。まずは用心棒として雇われながら、南を目指そうかと」
「そうか。ならば藍田へ行くが良い。あそこの関所は洞庭湖へ通ずる要衝……旅商人が護衛を欲しているはずだ」
 蒙武はそう言い残して納屋から消えた。あたりには光のひとつもない。わたしは再び横になって目を閉じた。旅商人の護衛であるならば迷わずに大きな邑へ行くことができるだろう。南へ下って行けばいずれ楚に辿り着く。先祖の故郷まで自分の足で歩いてゆくのも、きっと悪くはない。