主従は三世


※史実バレとかなりの捏造

 咸陽の中心部には百以上もの宮殿が岌峨の如く立ち並んでおり、そのひとつに秦国最大の軍師育成機関――通称軍師学校と呼ばれるものが存在する。御史台と併設された広大な学び舎、もとはたったひとりの男が立ち上げた私塾であるという事実は、にわかには信じがたいだろう。
 男は楚王の血を引いている。その昔、秦と楚の間で和睦が結ばれた際に、人質となった太子と秦の公女との間に生まれた子女の一人だ。しかし彼は故国に帰ることができなかった。父の太子は単身楚へ逃げ戻り、これに当時の昭襄王が激昂し、秦に永久にとどまることを余儀なくされた。
 楚子と呼ばれた男はとつくにの丞相まで上り詰めるほどの類稀なる手腕の持ち主であった。何も知らぬ人は天賦の才と口々にほめそやし、本人もまた多くを語らない。やがて養母である華陽夫人の手を離れ官吏として立身すると、咸陽に根を下ろし、軍師学校を創設した。先生と慕われ、昌平君という号を授かり、やがて彼を楚子と呼ぶ者はひとりもいなくなった。

 堅牢な邸の一室で山のように積まれた書簡を整理していた。ひとつずつ隅々まで目を通し、大切なものは正式な受取人の元へ。それ以外のものは適切に処理をすることになっている。それが己に課された仕事のひとつだ。
「おかえりなさいませ。重要な書簡はそちらに」
「助かる」
 すっかり夜も更け、都の賑々しさが薄れた頃、彼は風のようにひっそりと私室へ戻ってきた。連日の睡眠不足がたたっているのか、目元には濃い隈が浮かんでいる。それでも彼は欠伸ひとつせずに山のように溜まった書簡へと手を伸ばしたものだから、わたしは急いで青銅の火鉢に木片を焼べた。
 パチパチと小さな音を立てながら燃ゆる陽炎の上に、茶銚を置いて温かい湯を沸かす。あくびを噛み殺しながら白湯に茶葉を濾し、それを手渡すと、消え入りそうな声で礼を言われた。
。これを」
「はい」
 名を呼ばれて傍へ寄ると書簡をひとつ手渡された。何も言われずとも、もう目を通したから処理をしておけという意味であると理解する。公印が押してあったそれは、主の確認を待ってから目を通すもの。明かりが届く場所へと移動し内容を検めようとする。
「あまり近づくと燃えてしまう。こちらに来れば良い」
「あ……」
 火の粉を吹く火鉢に不用心に近づいてしまったと気づいた頃には、彼の手がわたしの肩を支えている。いつも主に気苦労をかけている罪悪感に苛まれながら、畏れ多くも、隣に腰掛けた。
 主に手渡された書簡の内容は彼の祖国である楚の内情が記されていた。楚王族の尊い血脈を受け継ぐ「昌平君」を次の王に擁立する動きが見られるというものだ。主は何も言わない。何十年も前に己を捨てた国が今更と、鼻で笑ってくれたのならばどれほど良かっただろう。指先を震わせながら、隣で次の書簡に目を向ける彼に、恐る恐る問いかける。
「どうするおつもりですか」
「さあな」
 彼は言葉を濁した。韓、趙、魏を滅ぼした秦が次に目を向けているのは楚だ。破竹の勢いで七雄を制圧する秦軍を取り仕切るのは紛れも無く軍総司令である主。祖国を己の手で滅ぼそうとする人間が迷いを生んでいるという事実は秦の命運を左右する。
 幾刻か答えを待ったがそれ以上の返事は無かった。やがて疲労が蓄積した体は眠気を訴えはじめる。持っていた書簡が音を立てて床にすべり落ち、甲高い音が響いた。しかし拾おうと手を伸ばす気力も無い。
「眠いか」
「……はい」
 重い瞼に抗う意識の挟間で、主が自分の上衣をわたしの肩にかけてくれたような気がした。彼は一徹してわたしに従者としての役目しか与えないが、どうしてか昔から、まるで妻や子供にそうするような優しさを与えてくれることがあった。固い忠誠を誓い、矢のように過ぎ去った十数年。散りばめられた一瞬の幸福を噛みしめながら、わたしは眠りの海に落ちた。

 意識が覚醒すると、まず腿の付け根が酷く痛んでいることに気がついた。それから嗅覚や聴覚、視覚に次々と違和感を覚えながらゆっくりと体を起こす。
「あ、あれ……」
 何度か目を擦ってようやっと、ここは私室ではないこと、あろうことか主の寝台で横になっていた経緯を思い出した。秋の白んだ日の光はそれでも眩しく、目を眇めつつ窓から顔を出し、外にある大きな日時計を見ると、時刻は既に正午を回っている。
 まさか昼まで一度も目を覚まさないとは思わなかった。いくらなんでも人の部屋で気を緩めすぎだ。主はとうに身支度を整えており、文机に向かって書き物をしている。ばつが悪い思いをしながら小さな声で謝れば「構わない」と返された。
 しかしこの時間は登朝しているはずだが。
「そうえいば何故ここに居られるのです?」
「このところ働き詰めでな。昼まで暇を貰った」
 彼はこちらに背を向けながらそう呟いた。ならば自室で仕事をしているのはいかがなものか、と小言をこぼしたくもなる。それにしても、彼が自ら休暇を取るなど滅多に無いことだ。
 ふと虫の報せのような、嫌な予感が脳裏を過った。
「珍しいですね」
「じきに王からの勅命も届くだろう。その前に休んでおくべきだと判断した。それだけだ」
 軍総司令である彼に宛てる勅命の内容とはつまるところ、韓、趙、魏を滅ぼした秦が次に侵攻を開始する国──「楚」を滅ぼすための策を講じろというものであろう。

「私もお前も不幸な星の下に生まれたものだな」
 何の前触れも無く、彼は独り言のようにそう呟いた。彼が珍しく「らしくない」ことを言ったことに驚きつつ、わたしは間髪入れずに返事をする。
「同じ星の下に生まれたのが貴方様ならば、わたしは決して不幸とは思いません」
「お前の家は一家揃って頑固者だ」
「……そうかもしれませんね」
 父は亡くなる直前まで、「楚子様を御守りするのが家の役目」だと口酸っぱく言っていた。そしてわたし自身もまた、紆余曲折あったが、今は亡父の言葉通り主のために生きている。それは何も家の役目であるからという理由だけで果たしているわけではなく。わたしが彼を主に相応しい人物であると認めたからこそ仕え続けている。
 だが主は薄氷のような鋭く冷たい瞳をこちら向けた。そうしてわたしを突き放す言葉を放ったのだ。
「あまり家系のしがらみに囚われるべきではない」
「どういう意味で?」
「私は近いうちに此処を去るだろう」
 二人を取り囲む空間に不穏な空気が流れた。彼は筆を置いて立ち上がると、わたしの前へとやってきた。胸騒ぎがさらに激しくなる。
 いつか彼がここを去るということを知らなかったと言えば嘘になる。それこそ昨日、彼が楚国からの書簡をみつめていたときから、長らく感じていた違和感はようやく確信に変わった。
「ついてくるなと、そうおっしゃるのですか。わたしは何年経ってもやはり貴方様にとってお荷物なのでございましょうか」
「お前の為を思ってのことだ」
「ならばそのような気遣いは不要です。何度も申し上げておりますが、わたしが仕えるべき御方は貴方様ただひとり。これは家ではなく己で決めたことです」
 主が望むのならば何をしても、いっそ全てを放り投げてしまっても構わない。海の果てでも、名も知らない遠い国でも、どこまでもついてゆく所存だ。だから除外されたという点に関しては憤慨した。わたしは己の意思で彼の側に居る。国も家も関係なく、ただ主のために生き、主のために在るというのに。

 我が主は特別な人間だ。二十年以上も仕えているわたしでさえ、そんな彼の本質が分からないでいる。彼がこの異国の地で号を授かり、地位を築き、その傍らで学校を開き人材の育成に精を出しているのは何故なのか。きっとこの方には、凡人には到底考え付かないほどの高邁な野望があるのだ。祖国に捨てられようとも、絶望に打ちひしがれようとも、悲嘆に暮れず虎視眈々と来たるべき時を待っているその強さを心から尊敬していた。強い意志が満ちた切れ長の目がわたしを捉える度に、本能が訴えた。どうかこの人のためになりたいと。
「それに貴方様は……子を残すつもりはないのでしょう。ならばわたしも独りで、死ぬまで傍に居ります。己が役目を末代まで遂げることができる、素敵なことではありませんか」
 彼が妻を迎えて子を残そうと思うのならば、わたしも彼を守る意思を継ぐために婿を迎えよう。彼が一人で生きていこうと思うのならば、わたしもそれに寄り添おう。最も重要なことは彼に仕え続けるということである。それはいつまでも変わらない。そこまで言うと、彼は呆れたように小さく笑い、立ち上がった。
「王に呼ばれている。残った仕事はお前に任せる」
「はい」
 端正な指が、わたしの髪を優しく撫でた。漆黒の従者を引き連れて去る背中を見送りながら、喉元まで出かかった不安を呑んだ。本当ならばこのままで居たかった。この部屋で、彼の傍らで書簡を整理する変わらない日々がずっと続けば良いのにと、幾度願ったか分からない。けれども彼がそれを打ち壊すというのならば、粛々と従おう。許されるのならばこの命が尽きるまで共に在りたい。そのために、生きているのだ。

 結局、主は秦を離れた。
 否。元から秦の人間になったつもりなど無かったのかもしれない。中華の平定を夢見る彼が楚に着いた理由は与り知らない。わたしは共に来ることだけを命じられたのみ。彼だけが経験してきた稀有な人生は、荒波に揉まれるように激しく、広漠な原野を彷徨うように寂しいものだった。誰にも理解されず、されようともせず。そのようなものを不肖なわたしが知り得るはずがなかった。

 槍を強く握る、指の節に汗が滲む。
 主の手前、毎日欠かさず鍛錬を重ねてきたものの、薄弱な剣はついぞ大成することはなく、むしろ歳を重ねるたびに若い頃よりも衰えた。しかし雑兵相手ならば打ち勝てるほどの力は残っているはずだ。それにしても、まさか秦人をこの手で殺めるためにこれを振るうなんて思いもしなかった。
 しかし彼のためと思えば、たとえ相手がかつて酒を酌み交わした仲であれど、はたまた軍師学校の教え子であれど、躊躇は無い。

 主の隣まで馬を乗りつけると彼はわたしの名を呼んだ。漆黒の兜を僅かに持ち上げて、その表情を伺う。冷ややかな顔貌は二十年前と変わらなかった。血も涙もない男だと思っていた、実父である楚王が子女である主の意志を度外視し、寵臣の進言を嘉納した、その絶望と怒りに身を焦がしていることなど知らずに。
「お前には迷惑を掛けたと、つくづく思う」
「いいえ。むしろわたしこそ、未熟であったがゆえに散々ご迷惑をお掛けしました。それでも捨て置かず、傍で飼っていただいて幸甚でございます。わたしはあれから貴方様を守るために在ります。どうかお任せください」
「あいわかった」
 もはや口癖のようになってしまった忠誠の文言に主は慣れたように短く返事をする。日が暮れる頃には互いに五体満足で生きているのかも分からない二人の会話にしては少々軽薄だが、それも悪くはない。

 秦軍を迎え撃つまでの時が随分と長く感じる。知己である蒙武を前に彼は何を感じているのか。背後から見るその姿が小さく思えて、わたしは我慢できずもう一度彼に話しかけた。
「ひとつ宜しいですか」
「どうした」
「必ず貴方様のお側におります。許してくださるのならば、いつまでも。来世というものを信じておられるのならば、きっとその時まで」
 彼は静かにこちらを振り返った。
「余計な話は終わった後に聞いてやる」
 わたしの目を見据えながらそれだけを言うと、前を向き直り、主は深く息を吸い込む。そして雄叫びをあげて檄を飛ばした。彼の声は大きな波となって、自軍を駆け巡る。感化された兵たちの士気が鼓舞され、激しい興奮が雷光のように体を走った。喉が枯れるほど、意味を成さない声をあげた。脛で馬の腹を蹴り上げ、大将の後に続き濛々たる砂塵を蹴立てる。
 そのとき確かに、わたしは「王」を見たのだ。
 ――儂は、まことの王を見た。あの御方は父君よりもずっと楚の国を統べるに相応しい。
 数多の苦衷の残骸の上。焦土と化した中華の大地で、王座に君臨するその光景を。それは彼が楚国と共にその身を滅ぼうとしているのではないかと疑っていたわたしの不安を、瞬く間に払拭する夢幻だった。