浮世夢の如し

  傍らに微睡・前編

 車蓋に飾られた金紗の花々が揺らめく。その影から日毎に賑わいゆく晩冬の街並みを伺い見る女は、注がれる幾多の視線から身を隠すように裘を深く被っていた。女――は、ここ咸陽では密かに名の知れた存在だ。相国の位を免黜された呂不韋の養女でありながら、毐国反乱の際に一族の中でただひとり罪を問われなかった人物。加えて貴人の女にあるまじき、儒教の考えに背く短い髪。異様な彼女を取り巻く巷間の噂は未だに消えてはくれない。
 しかしそんなにも手を延べてくれる人がいる。軍師学校という居場所もある。だからこそ残された僅かな時間を使って彼らにできる限り恩を返してゆこうと決めていた。今日の出門もそのひとつにあたる。
 やがて車は王都咸陽へと入り、それからほどなくしてとある武官の邸へと到着した。同乗していた侍衛が慇懃にへと手を貸し、それから門扉を大きく叩いて「先生が到着されました!」と声を張り上げる。
 すると暫くして向こう側から忙しい足音が聞こえてきたかと思えば、重い門扉が鈍い音を立てて開き、綺羅の装いをこらした娘が顔を覗かせた。彼女はを見るなりぱっと弾けるような笑顔を見せて。
「姐姐! 待ちくたびれたわ! もう十日も前から会えるのを楽しみにしていたの。さあどうぞ入って!」
 欣喜としての腕をぐいと引く。
 軍師認可を得てすっかり有閑生活を送っていたは、傭書などの雑務に加えてこうした臨時の仕事も引き受けていた。今日はこの娘に兵事の初歩的な知識を講義することになっている。とはいえ余暇の手すさびであり「先生」と呼ばれるほど立派なものではないが。
 花の舗地を軽快な足取りで歩むこの娘は武官である父兄らの影響で兵事に興味を持ったらしい。父もこの娘を目に入れても痛くないほど鍾愛しており、ついには彼女のために軍学に造詣の深い女賓を募った。高額な報酬とともに。その話が軍師学校にまで広まり、兄弟子らに勧められたのががこの邸に通うことになったきっかけだ。頻度は二週に一度ほど。送迎も行ってくれるという好待遇である。
 娘はによく懐いている。「姐姐」と小鳥のように可憐な声で甘えられると、これまで常に守らてばかりでいたの中に生まれて初めて庇護欲のようなものが湧いてきた。自分に年の離れた弟妹が居たならば、或いは茅焦との間に子を儲けていたのならば、このような心持ちになったのかもしれないと、荒涼とした空に在りもしない世界の幻影を茫と思い浮かべた。
 娘の私室は邸の深奥にある主卧の一角に位置する。そこに至るまでに前院を抜け、回廊をぐるりと大きく巡り、石造りのくねった橋を渡る。道中では園丁たちが木々の剪定を施していた。植物は殆ど枯れて葉も落ちているが、木槿の殻や南天燭の赤い実が目を楽しませる。
「春が待ち遠しいですね」
 冬が明ければきっと、もっと美しい庭になるだろう。
 しかし娘は目を伏せて静かに首を振った。
「わたしは嫌だわ。花の盛りを迎える前に姐姐は遠くへ行ってしまう」
「いつか咸陽に戻ってこられると先生――昌平君も仰っていましたから、きっとこれから何年先も、何度だって会うことができますよ」
 春の訪れとともには河南の洛邑という城へ赴くことが決まっている。逐客令などの複雑な事情が絡んだ紆余曲折があり、中央官吏ではあるが遠地へと向かわされることになったのだ。ここから河南までは約千里。地図の上ではさほど離れていないように感じられるが、驥尾を乗り継いでも二十日はかかる距離だ。の愛馬である星騅の白駘ではひと月ほどはかかるだろう。彼はその名の通り歩みが遅い。
 当然、咸陽を出立してしまえば容易に戻ってくることはできない。そうとなればこの娘と会うこともなくなってしまうだろうし、彼女が嫁いだら尚のことである。
「それでもアタシはずっとこのままが良い。姐姐とだって離れたくないわ。臆病で弱いの。変わりたくないの。稚拙な願いだって分かってる……情けないわよね。でもどうしたってアナタみたいになれない」
「わたしもそこまで立派な人ではございませんが」
「だったらどうして中央官になんてなろうと思ったの?」
 世間から見ればは変わり者だ。呂不韋の養女という立場を笠に着て蜿蜒と続く華美な毛氈の上を歩いてゆくこともできたはずだ――と余人は考える。しかし実際は呂不韋に道具として使い潰されそうになり、その桎梏から這う這うの体で逃れたまで。弱さの先に行き着いた場所で、は齢十五にしてようやく思い定めた道を歩き始めた。その原動力は目の前で父を殺された昔日の悔恨。幼く無力であった自分への忌ま忌ましい嫌悪の念。
「強いて言うならば己の弱さから脱したかったからでしょうか。それと」
 そして若い頃に友と交わした口約束、と言いかけて口を閉ざす。
 互いの祖国へ。すべての濫觴たる海へ共に帰る誓い。相手はもう忘れてしまっているかもしれないとは思う。……これはあまり他人に打ち明けるべき話ではないだろう。
「それと? なあに?」
「なんでもありません。さあ。感冒に罹ってしまっては貴女様の父君に申し訳が立ちませんから、そろそろ中に参りましょう」
 主卧の客間に足を踏み入れると、中の熱気が荒波のように襲い掛かってきて、毛皮に覆われていたの全身からどっと汗が滲む。部屋の中央に置かれた新絹の上質な茣蓙には、邸の主である男――娘の父親にあたる人物が腰を下ろしていた。彼ほどの高官であれば戦の少ない冬季であろうと多忙であり滅多に邸宅には戻らないと聞いていたが。
「ご無沙汰しております」
「これは先生。いつもすまないな」
「とんでもございません。こうして何度もお招きいただき光栄です」
 は恭しく拝礼する。
 早朝から火を焚いていたであろう室内は噎せるような暑さだった。加えて巷では荒々しい武辺者と評される彼が、綾錦の衣に袖を通し威儀を繕っているものだから、さすがのも奇妙な違和感に気付いた。
「今日はこの後なにか?」
「ああ。急遽来客の予定が入ってしまって。ちょうど先生がお帰りになる頃に」
 その発言からよほどの賓客であるらしいことが伺える。彼ほどの高名な武官がここまでのもてなしをする人物など幾人といない。いったいどこの家の者だろうかと考えを巡らせていると、娘の方がツンと唇を尖らせながらこう言い放った。
「アタシは断って欲しいって頼んだのよ? 講義の方がずっとずっと楽しいに決まっているのだから。あーあ。せっかく姐姐と会えたのに引き留められないなんてあんまりだわ。せめて日付だけでもずらしてくれたのならば良かったのに」
「先方も忙しいところわざわざ来てくださると言っているんだ。あまり文句を言うな。それと姐姐ではなく先生と呼びなさいと何度も言っているだろう」
「えーでも」
「先生がお前くらいの年の頃にはとうに呂不韋殿の元を離れ、軍師学校で精励されていたというのに。我が娘ながらなんと情けないことか。これではますます」
「ハイハイ分かったわよ。あー耳が痛いわ」
 わざとらしく耳を押さえる素振りをする娘を見て、父はくしゃりと笑う。この娘は末の子で彼が三十半ばの頃に生まれた。上の兄弟は全員男子で、彼女は唯一の姫様。だからこそ雨にも風にもあてずに大切に、それでいて知的探求心を否定せず、愛情をかけて育ててきた。娘と接するこの時ばかりは彼も鬼になり切れないようだ。威厳ある偉丈夫の敵兵を射すくめるその双眸は鳴りを潜め、今は穏やかな父親の顔が満面に溢れている。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。申し訳ない。では先生、娘をよろしく頼みます」
「かしこまりました」
 娘の私室はいつにも増して脂粉の香りが満ちていた。今日は殊に念入りに化粧を施したのだろう。改めて見ると彼女だけでなく侍女たちも盛装している。何の気なしに筆套を取り出しそうとしていたは慌てて取り止めた。彼女たちの召し物に墨の一滴でも零してしまえば取り返しがつかない。
「今日は何を教えてくださるの?」
「そうですね。お召し物を汚してしまうといけませんので座学は止めにして、たまには軍略囲碁の実戦でも」
「まあ嬉しいわ! ついに兄様方と鍛えた碁の腕を姐姐に披露する時がやってきたのね」
 娘は意気揚々と腕まくりをして、精緻な文様が彫られた上質な黒檀の駒箱から小道具を取り出して並べてゆく。軍師学校からの貸与品であるこれらは、昌平君の近衛兵らの甲冑にも似た美しさとつややかさだ。
 駒の一つをなんとなしに摘まみ上げながらは考える。かつてこうやって友と烏鷺を戦わせたことがあった。あの頃の彼の歳をとうに追い越した自分は、この娘に何かを施してやれるほどに強くなっているだろうか。
「では貴女様は兵三千を。わたしは」
 ――の兵は三千で俺の兵は……そうだな。二千で良い。
 懐かしい声が脳裏に蘇る。青春の純然たる幸福の最中にいた頃の、甘くて、それでいてほろ苦い記憶。
「二千で結構です」
「なにそれ。アタシを見縊り過ぎよ」
「一応軍師認可を得ている身ですので。これくらい不利な状況でなければ対等な勝負はできないでしょうから」
 娘は一瞬戸惑いと不服が入り混じったような顔を見せたが、すぐに盤に視線を移して思考を巡らせる。まるで往時の自分のようだとは思う。これは姫の無聊を慰める知恵比べ。それ以上の意味は持たせないようにする。けれどもこちらの本心は悟られないように。心を傷つけないように優しく。優しく。そして突き放すように勝たなければならない。
 この娘は何をせずとも幸せな人生を約束されている人間なのだから。
 ……。かつてののように。
「どうしたの? 姐姐。なんだか悲しそう」
「いえ。何も。さあ始めましょうか」

 彼女の言う通り見縊っていたのかもしれない。
 の背につっと汗が流れる。これでも軍師学校での軍略の成績は「良」だ。校内では良くも悪くもないといった成績だが、知識階級の人間だらけの環境下では十分健闘しているといえよう。なんせ軍略囲碁に初めて触れたのは入学の一年前だ。その事実を考慮すれば、もとより高い素質は持ち合わせていたのだということは言を俟たない。さらに軍師学校で研鑽を積み、数年をかけて知識に磨きをかけ軍師認可を得るまでに至ったの思考に、兵事を知らない一般人が、ましてや深窓の佳人が追い付くはずがないと彼女自身も思っていたのだが。
 我が儘であどけない姫はが教えた軍形・地形の基礎をすっかり我が物としていた。九変の応用もできている。そのうえ勘が鋭い。時折、の思考を的確に読んで予備軍を配置するような手を指してくる。姐姐と甘えるあの娘と同一人物であることが信じられない。
 ――どちらが本当の姫様? いや。考えすぎか。
 なんとか千の兵力差を覆して戦いには勝った。娘の朱い大将駒はの手中に収まっている。しかし勝てたことに安堵しているくらいには必死であった。そんなの当惑げな視線に気づいた娘は、緊迫した空気を解くように、長いため息を吐きながらやや大袈裟な身振りで桌に突っ伏す。
「あー惨敗ね。姐姐の兵、五百も残っているし」
「そんなことはありません。貴女様がこの圮地で退避の判断をもう少し早く出し、迂回して攻めてきていたのならば、こちらの援軍が間に合わず、本陣の立て直しが利かないまま潰れてしまっていたでしょうから。そうなればわたしの負けでした」
「ほんと!?」
「ええ本当です。御立派な戦いぶりでしたよ。では忘れてしまわないうちに振り返りですが……」
 娘は講評を受けて一転、目を輝かせて満面に喜色を湛えた。いつも通りの彼女だ。先程までの違和感はただの思い過ごしであったのかもしれないとは胸を撫で下ろす。
「ふああ……久しぶりにこんなに頭を使って疲れたわ」
「お疲れ様です。今日はこれで終わりにしましょうか」
 駒を清潔な手巾で拭き上げ、一つずつ丁寧に箱に戻しているの横で、普段は率先して片づけを手伝ってくれるはずの娘は珍しく虚空を眺めながらぼんやりとしていた。
「ねえ」
「はい」
 声を掛けられたは娘に視線を向けるも、目はかち合わない。
「言いたくなかったら無理して言わなくても良いのだけれど」
「ええ」
「姐姐の結婚相手ってどんな方だったの? 風の噂で聞いて……その、ごめんなさい。思い出したくないわよね」
 は十五になった春に一度、呂不韋の決めた男のもとへと嫁いだ過去がある。男の名は茅焦。の祖国である斉で名を成す武器商で、元は呂不韋の商売敵であったと聞いている。彼に関する委細は知らない。その頃のは幼く政情に疎い娘であったし、なにより茅焦には夫婦となって間もなく離縁を言い渡されたから。原因はにある。相手にとっては紛れもなく不幸な結婚であったことだろう。
 半年も経たぬうちに秦へと戻ってきたの噂は瞬く間に広まった。自身、そのことを否定することも隠し通そうとすることもしなかったことが拍車をかけたのかもしれない。今となっては周知の事実であるから、この娘が知っていたとしても何ら不思議ではない。
 あの結婚のことを嫌な思い出かと訊かれれば意外にもそうではなかった。毎日が辛く苦しかったのは呂不韋邸に帰還したあとのことだ。爪弾きに遭い、あそびめたちが住まう狭い楼に追いやられるという、養女として屈辱的なあしらいを受けた。対して斉の臨淄で暮らした数か月はじつに穏やかな日々であった。それは紛れもなく茅焦のお蔭だ。
「素敵な方でしたよ。自分よりもずっと大人で、頭が良くて、優しくて」
 そして真摯で。どこまでも臆病な人。
「離縁の原因はわたしにあった。けれどもあの方はそれを責めなかった。歳を重ねた今ならば分かります。あれほどの徳を持つ人間はこの世に何人とおりません。そんな素晴らしい方を傷つけ、あまつさえ憎んでしまった過去の自分が恥ずかしい」
 出逢ったばかりの頃、花嫁となるへの挨拶も程々に呂不韋と小難しい商道の話を始めた茅焦を見た時は「この人も亜父と同類なのだ」と悟った。何をするにも頭で算盤をはじき、損得勘定で物事を見極める人。義理人情とはもっとも遠いところにいるような人。しかし彼は結果的にを庇った。妻としての役目を何も果たせない無力な女に、最後まで夫としての誠意を尽くしてくれた。一銭の得にもならないはずなのに。
 愁いを帯びた視線をあてどなく宙へ向けている娘は、次の春で十五になる。は立ち上がり、向かい合って座っていた彼女の隣へと移動して腰を下ろすと、その細い肩をそっと抱いた。
「あまりご不安になられませんように。貴女様を愛する父君が決められるお相手なのですから、きっと素晴らしい殿方です」
「なーんだ気づいていたの。変なところで鋭いんだから。でもね、今日は縁談ではなくて試しにお会いするだけ。よほどイイ人でなければお断りするつもりだけど、それでも怖いものは怖いわ。父様がアタシに選択の余地を与えてくれているだけでも幸せだと思わなければならないのに」
 露命をつなぐ黎民のように政治的派閥や権力といったしがらみに囚われず好き合った人同士で結婚するなど夢のまた夢。貴人にとって婚姻とは家と家との結びつき。当人たちの意志は一切尊重されない。夫婦となるまで顔を知らないことすら珍しくないから、承諾の可否を委ねられている娘はよほど恵まれていると言えよう。
「……あ。そうだわ!」
 が娘をどのような言葉で励まそうかと考えあぐねていると、彼女は妙案を閃いたかのように、ぽんと手を叩いて顔を上げた。
「せっかくだから姐姐もお相手の方にお会いすれば良いのよ!」
「え」
「だってアタシは父様や兄様方以外の男性を殆ど知らないのよ。でも姐姐は男性中心の苛烈な世界で逞しく生きている。隣に居てくれるのならとても心強いわ」
「できません。第一わたしはこの家の者ではございませんので。心細いのであれば父君に同席をお願いしたら如何でしょう」
 あまりにも突飛な提案に茫然としていただったが、すぐに我を取り戻して、敢えて強い口調で娘を諫めた。罪人まがいの身形をした人間から兵事の手習いを受けていることが露見するのはいただけない。ここの父娘はのことを快く受け入れてくれたが世間は決してそうとは限らないだろう。だからこそ身を隠しながら通っているのだ。これから招かれる客人のように高貴な家柄の者であれば尚のこと儒学の教えは深く浸透しているのだから、背教者と懇意にしていると見做されれば、下手をすれば自分のせいでこの娘の将来が奪われることも有り得るのだと思うと、は何が何でも娘の願いを退けなければならなかった。
「どうしてもダメ?」
「ええ駄目です。さて。訪客の時間も迫っておりますからお邪魔にならないようそろそろお暇させていただきます」
 頑として断ったは、はやばやと桌の上を片付けて荷をまとめた。この一度決めたことを中々曲げようとしないしたたかな娘に「どうして駄目なのか」を丁寧に説いてやるよりも、さっさと逃げてしまったほうが良いと判じたからである。しかし娘はそんなを阻害しようと腕を掴む。
「待って! それにもしかしたら姐姐も知っている方かもしれないのよ! なんでも元々軍師学校に在籍していたことが――」
 娘がそこまで言いかけたところで、部屋の外に控えていた侍衛が彼女のもとへ歩みを進めてきて、長揖しながら静かに告げる。
「失礼します。御客人が到着されました」
「――え」
 固まるをよそに、先程までとは打って変わって居住まいを正した娘は、堂々たる口跡でこう言い放った。
「こほん。お待ちしておりましたわ蒙恬様、、、。どうぞお入りになって」



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