浮世夢の如し

  傍らに微睡・後編

 斯様な偶然があってたまるか。
 いや実際に起こり得たのだけれども。
 の眼前には瀟洒なぬいとりがあしらわれた礼装に身を包んだ蒙恬が立っている。淡い色の髪は後頭部で一つにまとめられ、惜しげもなくさらされたうなじは武官らしからぬ玉肌。思わず息を呑むほどに艶やかで美しい男だ。しかしにはそんな彼の姿に目を奪われている余裕などない。もはや自分のせいでこの娘の沽券が下がる心配をしなくても良いことすらも頭から抜けていた。
 ――すぐにでもここから逃げ出してしまいたい。
 華美な装いの彼らと、みすぼらしい布衣の。呂不韋の養女という立場を手放し貴人たちのきらびやかな世界から離れたことを、今更惜しいと思ってしまう。この娘や蒙恬はもはや自分とは住む世界が違う人間なのだとまざまざと突き付けられ、惨めさに臓腑がぎゅっと締め付けられた。
 貴顕の息女たちとの縁組を取り進めようとするのは、名家の嫡男として当然のことである。重々承知しているし、何なら蒙恬が色里に繰り出して遊んでいることも知っているから、この程度のことで悄然とするはずがないと思っていたはずなのに。けれども居合わせたくはなかった。自分の知らない彼の姿を見たくはなかった。
 が顔を伏せると、蒙恬はその意図を察したようで僅かに視線を逸らす。
 いたたまれない二人をよそに、娘は蒙恬の死角となっている桌の影で逃がさないと言わんばかりにの腕を掴みながら、表向きには取り澄ました顔をして滔々とこう述べた。
「こちらは軍師学校から来てくださっている先生よ。アタシ一人では心細いから同席していただこうと思って。さあさ先生、あちらがかの有名な蒙家の御嫡男様。正真正銘ホンモノよ。大変優秀な成績で軍師学校を卒業されたようだから、お名前くらいは聞いたことがあるでしょう?」
 品を作った娘の言葉が右から左へと抜けてゆく。しばしの間の後、ようやく質問を投げかけられていたことに気付いたは慌てて声を上げた。
「あ……ええと」
 その様子に違和感を覚えたのであろう娘が不思議そうにの顔を覗く。その瞳がやけに無機質に見える。
先生? あ。もしかして既にお知り合いとか?」
「いえ。まったくの初対面です。初めましてモウテン様」
「……どうも」
 蒙恬。散々呼び慣れたその名前を、まるで初めて口にするかのように唇を動かすだけで精一杯だ。彼からのすげない返事は、きっと本心ではないはずだと分かっているのに。二人が出逢わなかったもしもの世界線をそっくりそのまま体現しているようなやり取りに、は息が詰まるような苦しさを覚えた。
「ではご相伴にあずかるわけにはいきませんのでこれにて」
 なけなしの気力を振り絞ってこの場から一刻も早く立ち去ろうとすると、娘はの腕を掴む手にぎゅっと力を込める。
「あら? 先生ってば軍師学校の大先輩に是非ともお会いしたいと仰っていたではありませんか。あんなに楽しみにされていたのに、どうしたのでしょう」
 言っていないし、楽しみにもしていないが。初対面というていである当人を目の前にして否定の言辞を述べることなどできるはずもなく。
「蒙恬様は先生のことを御存知なの?」
「まあお噂はかねがね」
「ふうん。ならば同席しても問題無いわよね」
 きっぱりと拒否してくれれば良いものを、どうしてか蒙恬は曖昧に返事を濁す。それよりもの隣に座るこの娘の弁舌、やはり普段の姿とはかけ離れた振る舞いである。この日のためにいっそう濃く引かれた紅が、おそろしく似合っているような気さえした。先刻の軍略囲碁の時にも感じた違和感が徐々に輪郭を帯びてゆく。彼女はもしかすると自分が思っているよりもずっと、悧巧で、そして悪辣なのではないか?
「彼女大丈夫? 顔色悪そうだけど」
「あら本当ね。緊張されているのかしら」
 娘の手から送られるかざしのぬるい風では汗ばんだ皮膚の熱は拭い取れない。ここにきてようやく助け舟を出してくれた蒙恬の言葉に背を押され、は「外の風に当たってきます」と告げて部屋を去った。


 たたらを踏みながら部屋を出たを見送って暫くして。人払いをした娘は身体を弛緩させ、倚懸に体重を預けながら気だるげな瞳を持ち上げて蒙恬を見遣った。そこにはつい先程までのお高くとまった御息女の姿は無い。この陋習を軽蔑するような冷ややかな眼差しで、彼女は蒙恬の威容に寸分も臆することなくおもむろに唇を開いた。
「本当はお知り合いなのでしょう? むしろ深い仲だったりして」
「どうしてそう思う?」
「姐姐は嘘が下手なのよ。目線や声の抑揚で丸わかりだわ」
 娘の言う姐姐とは実姉か或いは親しい年上の女性への呼称である。つまり彼女はを姉のように慕っているということであろうが、それにしては――些か歪んでいやしないか。
「知らんぷりするなんて酷いヒト」
「君も大概だよ」
「あらどうして?」
を隣に置いて縁談相手の心象を損ねようとするなんて随分と小利口な真似をするね。おおよそ彼女の優しさにつけ込んで引き留めたのだろうけれど」
「そんなに分かり易かったかしら。でも仕方が無いじゃない。結婚なんてまだイヤなのよ」
 学問は男の道であるという考え方は古いと陳じる人間は一定数存在するだろうが、それはあくまで上辺の話であって、遠い昔から世間に、人々の心底に強く根付いた価値観というものはそう易々と覆るものではない。殊にそのような偏見に晒されながら生きてきたは痛いほど承知していたはずだ。しかし娘は悪びれる様子も無く、不気味に口角を持ち上げる。平生は巧みに猫を被っているのだろうが、しかしながら馬脚を露わすのが早い点は詰めが甘い。所詮はまだいとけない子供だ。
「それにしても。あの生真面目を絵に描いたような姐姐が蒙恬様とねえ」
「どういう意味?」
「ケーハクそうな男性は好みではない気がするのに」
 随分な言い草だ。蒙恬はに一定の好意を寄せられている自覚はやや持ち合わせている。端正な美貌でひとたび微笑めば、あの澄んだ瞳がわずかに揺らぐことを知っている。そのうえ懸想する男など聞いたこともない。だが事実、袖にされているから否定できないのが悔やまれる。
「残念ながら君が想像しているほどの仲ではないよ」
「そう。でも大切に思っているのでしょう? まさか姐姐の淳良さを弄んでいるわけではないわよね。もしそうだとしたら承知しないわ」
「俺は彼女が恙無く生きていてくれるならばそれで良い」
「貴方様らしくもない綺麗事ね。姐姐が何をしようと誰を愛そうと幸せならばそれで良い? 本当かしら? そんな崇高な愛情を持ち合わせている人間なんてこの世に何人たりともいないと思うのだけれど」
 娘の口調が徐々に熱を帯びてゆく。御し難い女は苦手だ。と蒙恬は密かに息をついた。見目麗しく、如才ない、まさに非の打ち所がないような彼の裡に潜む不遜を目敏く拾い上げる人間は一定数いる。こういった相手には地を出さずにのらりくらりと躱しながら気魄を削いでゆくのが最善だ。一枚、また一枚と駒を剥ぐ盤上の攻防のように。
 ややあって。目論見通り攻めあぐねた娘は桌に肘をつき、ぷっくりと頬を膨らませていた。
「アタシね。姐姐にはこの家に嫁いでほしいと思っているの。兄様方の妻としてね。勿論父様も賛成しているわ。軍師学校から何度もお呼びするほど気に入っているくらいだから。……けれども蒙恬様が大切だと仰るのならば少しは手を抜いて差し上げるわ」
「はは。どーも」
「少しだけね。あ。勿論この後の縁談はナシよ。最初からお断りしようと思っていたの。もっと誠実な男性であれば一考の余地はあったかもしれませんけれど」

 一方のは娘の父親へ手短に挨拶を済ませると、摺り足で厩へと向かっていた。軍師学校へ戻る車を出してもらうためだ。あの部屋に戻って二人の邪魔立てをするつもりは毛頭ない。別れの言葉すら告げずに去る自分を彼らは薄情だと非難するかもしれないが、それでも構わない。強がりかもしれない。けれども、半分くらいは本意だ。
 洛邑までの長途は難路が続く。雪解けの季節であることは言わずもがな。道中の邑は秦領内とはいえ近年併呑されたばかりの土地であり政情的にもまだ不安定である。娘にはああ言ったが、本音では無事に戻ってこられるかも分からなかった。亡父と諸国を流浪していた頃のように、客死することも覚悟しておかねばなるまい。しかしそれこそが元来の自分であるかもしれないとは思う。蒙恬の慈悲と呂不韋の威容によって手に入れた軍師学校での生活は間違いなく過分な幸福でありすぎた。糾える縄の如く、その裏で膨れ上がっているであろうわざわいに怖気立つほどには。
 しかし臍を固めたは厩へ辿り着くなり違和感に気付いた。肌を刺すような凍てつく風が吹き荒れる中で、飼い葉桶に腰を下ろした馬丁が仕事もせずにじっと縮こまっているのだ。は不思議に思いながらも、恐る恐る話しかける。
「すみません。車を出していただけないでしょうか」
「これは先生。お待ちしておりました。……ところで姫様はご一緒ではないのですか?」
「ええ」
「それは困りましたな。じつは姫様から厩の錠をおろして決して何者も通さぬようにと仰せつかったもので、ご覧の通り仕事に取り掛かることもできずにおりまして」
 は愕然とした。
 まさかあの娘はここまで先読みをして手を打っていたというのか。


「姫様。先生がお帰りになりたいと」
「もう入っていただいて結構よ」
 部屋の外に控えていた侍衛が二人の間に沈黙が降りた頃を見計らって声をかけると、娘からはあっさりとした返事がかえってきた。長らく酷寒の外気に晒されていたの肌は耳まで真赤に染まっている。体を小さく震わせ、眼を潤ませているのは寒さの所為か或いは。
「あら先生。何も言わずに帰ろうとするなんて水臭いじゃない」
 あっけらかんとしているこの娘にとってはどちらであろうと関係無いのであろうが。
「蒙恬様。この後のご予定は特にございませんのよね?」
「まあ」
「でしたら先生を軍師学校まで送ってくださらない?」
 それにしても、どことなく先程よりも二人のやり取りに棘があるような気がするが、縁談の件に関してはうまく纏まったのだろうか。疑問に思うも、しかしこの場で問うのは野暮天だ。は娘に促されるがまま蒙恬と共に部屋を出た。軍師学校に帰る足が無いから、彼女の提案を断るわけにもいかなかったのである。

 四方を帆布に覆われた車箱は快適そのものであるが、の顔色は悪い。隣には拳一個分ほどの間を空けて蒙恬が腰掛けている。なんとも気まずい状況だった。
「はあ。どうしてこんなことに」
 は頭を抱えながら大仰に嘆息した。その顔貌には疲労の色が濃く滲んでいる。ぐったりとするに蒙恬は密やかに憐憫の情を寄せつつも、平淡な声で言った。
「あの子との話は無かったことにする予定だから安心して」
「何をもってわたしが安心するとお考えなのか、分かりかねますが……。早く身を固めていただいた方が蒙家の皆様も安心するかと思いますよ」
「辛辣だなー。独り身なのは君も同じなのに」
「生憎わたしには継ぐモノも、世間様への体裁を取り繕う理由もございませんから。まだまだ遊び足りないなどという貴方の言い訳と一緒にされるのは心外です」
 いつにも増して舌鋒鋭いに蒙恬は曖昧な微笑を浮かべるしかなかった。普段であれば胸の裡を吐き出したあとは過言を詫びようとする素振りくらいは見せてくれるはずだが、今日ばかりはそのような気力すらも湧かないらしい。しかし少しの間を置いて彼女は、僅かに落ち着きを取り戻した様子でぽつりと呟いた。
「彼女は良い子ですよ。まだ幼さがありますが」
「そう言われても。あの子と長く続けられる自信無いし」
「左様ですか」
「それに。俺にそういう女性ができたらも悲しむでしょ?」
「いえ。蒙恬の自由ですから。わたしのことなどお構いなく」
「本当にそう思ってるの?」
 蒙恬は半身を乗り出してその端麗な眉目をぐっとに近づけた。琥珀のような淡い色の瞳がまっすぐに差し向けられる。こうすれば女など簡単に愚かしいまでに従順になると、知っているかのような驕傲を潜ませながら。だがはそんな彼の明け透けなまでのいやらしさに辟易しながら冷たくあしらった。
「はい。悲しみません」
「嫉妬もしない?」
 軍師学校を優秀な成績で卒業した名家の御嫡男様とやらが裏でこのような稚拙な会話に興じていると知ったらあの娘は酷く幻滅するだろう。殊に今日はしつこいこの男は、がうんざりしてふいと視線を逸らすたびに、追いかけるように覗き込んでくる。甘やかな薫き物のかおりが鼻腔を擽った。色気のある薄い唇はからりと乾いた冬であってもなめらかで、赤く冴えていて、さすがは天性の艶福家であると他人事のように思ったりした。
「嫉妬は……少しはするかもしれませんが、だからといって貴方を独占しようとまでは」
「するんだ。可愛い」
「からかわないでください。一番仲が良いと思っている友人が他の人と親しくしていたら、少しモヤモヤしませんか。そんな感じです」
「あれ俺は友達枠?」
「ともかく。わたしは貴方と彼女とのことに一切口出しはしませんが、後始末は胡漸さん任せにしないでしっかりとご自分で対応なさってくださいね」
「はーい。先生」
 おどけるような蒙恬に言葉を返さなかったのはせめてもの仕返しだ。
 ほんとうは。心のずっと奥底では、純粋で、意欲的で、可愛い自慢の教え子に対してほんの少しの羨望と嫉妬を抱いている。だがこの醜くねじれた感情を曝け出してしまうわけにはいかない。蒙恬が好む自分は「身持ち堅く醇正で、それでいて良き理解者」なのであるとは思う。だから理性を取り逃がしてしまわぬように、必死に耐え忍んでいる。凛冽な冬の夜に彼の腕にきつく抱き寄せられた時のことも、静謐に満ちた闇の中で触れるだけの口づけを交わしたことも、すべて忘れたふりをして。そうでもしなければこの恋慕の先には破滅しかない。

「……。ねえ、うちに少し寄っていかない?」
 少し経って、蒙恬が改まった声でそう言った。
 蒙家も軍師学校も貴人たちが甍を争う街からずっと離れた場所に建っている。方角的にはほぼ同じで、往訪するのは何も面倒ではない。それに両人の過去に若気の過ちのようなものがうっそりと存在していたとしても、元来は互いに気を許した友人同士である。誘いを受けたい気持ちはあった。それでもすんでのところで克己心が打ち勝った。二人きりになってしまった時に、抗える確信など無かったからだ。
「いえ。軍師学校に戻ります。門限もありますし」
「そう。相変わらず真面目だね」
「それだけしか取り柄が無いもので」
 しかし蒙恬はあろうことか物見の懸戸を僅かに開いて馭者へ蒙家に向かうようにと指示を出した。
「! 蒙恬」
「もう暫く会えないだろうから」
 慌てて身を乗り出そうとするを制しながら、彼はうら悲しそうな微笑を浮かべる。その様子を見たは渋々と諾した。こういった甘さが、また彼の驕傲さを太らせてしまうのだろうと、知ってはいたけれど。
「前院までです。奥には入りませんよ」
「残念。飲餞はまた次の機会か」
「酒を飲む口実にわたしを使わないでください」
 気色ばみながらそう告げたものの、普段の彼に戻ってくれたようで内心安堵していた。

 華やかな蒙恬の出で立ちからはあまり想像できないが、蒙家の邸は古典的で質朴だ。加えて彼の亡祖父である蒙驁が東国斉から長い旅路を経てこの国へとやってきた頃、僅かな禄を食んでいた時分に建てたものであるから、大将軍の旧居にしてはそこまで豪奢なわけでもない。蒙驁は度々繕い普請をしていたが、身罷って息子の蒙武に代替わりしてからはそれも無くなった――なんせ彼は自身の武力を示威すること以外、甚だ興味が無いような人なのだ――から、久々に訪れた邸は相変わらず美しいものの、どことなく寂しく見えた。
 内院の蓮池や主卧へと続く石畳の百日紅など、この邸の庭を存分に知り尽くしたは、この前院では優美な枝垂れ柳をえらく気に入っている。枝々には既に可憐な芽が育っており、一足先に春の訪れを告げてくれているようである。糸のように華奢な枝がさらさらと鳴るその様に思わず見惚れていると。
「髪。伸びたね」
 風を受けて緩く舞い上がったの髪を眺めていた蒙恬がそう呟いた。彼が柳ではなく自分を見ていたことに面映ゆさを覚えつつ、は頷く。呂不韋と袂を別ったあの日から、自身の手で髪を切り落としてから早いもので一年が経っていた。儒教において父母から授かった身体髪膚を毀傷することは不孝とされている。それは罪人の風采と相違ない。ときに厭われ、畏れられながら、は咎人のようなその髪をずっと晒して生きてきた。
 痛々しいまでに露悪的な振る舞いをしようとする理由は呂不韋を裏切った戒めなのかもしれないと余人は考える。蒙恬も然り。しかし彼女から言わせてみれば、それだけではない。はこれから降りかかるであろう不幸を少しでもやわらげるために、敢えて自身が傷つくことを厭わないでいる。己の弱さと脆さを踏まえた上での、言わば一種の自己防衛である。幸福というのはあまりにも儚く、そして零落はとても恐ろしいものであると、彼女は痛いほど知っているから。
「未だに貴方からいただいた釵を挿すことができないのが残念です」
 物憂げな笑みを浮かべながら、は静かに睫毛を伏せる。
。ちょっと後ろを向いて」
「はい……」
 唐突な申し出に困惑しつつも言われた通り蒙恬に背を向ける。視界にはひび割れた石壁のような柳の太い主幹しか映らない。訳も分からずそのまま佇立していると不意にの髪にやわらかな感触が降りてきた。
「あの」
 蒙恬が何やら自分の髪を五指で丁寧に梳いてくれているらしいことは理解できた。その意図までは読めないが。侍女たちに香油をなじませた髪を結い上げてもらっていた数年前の感覚を思い出したが、はたしてここまでの心地良さはあっただろうか。頭皮をまるで愛撫するように滑る手が、時折、耳朶に触れると弥増しこそばゆくなる。
「できた」
 やがて満足気にそう呟いた蒙恬の言葉を受けて、が振り向けば、彼は肩口まで伸びた髪を平時の見て呉れのように下ろしてしまっていた。一方での髪は先程までの彼のように後頭部でささやかに纏められている。むすばれた元結は言わずもがな彼のものであろう。
「そんなつもりで発言したわけではなかったのですが」
「うんうん。似合ってるよ」
 気恥ずかしさのあまり俯き加減でいると、蒙恬はおもむろに近くにあった柳の枝をぷつりと折り、それをしなわせて円く編み始めた。彼は案外手先が器用だ。そうこうしているうちに柳の枝で掌に収まるほど小さい環を作った蒙恬は、の背後へ回って元結にそれをそっと差し込んだ。
「君が無事に帰ってきますように」
「花柳の流行事ですか?」
「本当に俺のことを何だと思ってるの」
 彼曰く三晋の方には旅立つ人に柳を折ってはなむけとする習わしがあるのだとか。柳の枝はしなやかで強い生命力の象徴。そして環は還との掛詞である。無事に還ってくるようにという意味合いが込められているらしいが。
「ありがとうございます。ですが蒙恬もすぐに黒羊丘へ戻られるのでしょう。わたしだけここに帰ってきてしまっても、互いに生きて再会できるかどうか」
 哀愁を帯びた薄笑みを浮かべながらが言う。すると蒙恬は彼女の背後に居ることを良いことに、不意打ちの如く、その細い躯体を強く抱き竦めた。
「! ――な、なにを」
「そうだね。こんなおまじないだけじゃ心もとないよね」
「そんなこと一言も」
 髪をまとめられ、露わになった白いうなじに蒙恬のくちづけが降る。の肌もひどく熱を帯びていたが、それ以上に、押し当てられた唇は燃えるように熱い。は目を瞠ったが、やがて清冽な瞳を静かに閉じた。沈黙の湖に身を沈めながら、の胸中には様々な思いが渦巻いていたが、どれひとつとして言葉にすることはできなかった。
「唇は駄目だろうから」
 耳元で囁くように彼が言う。吐息がいっそう肌を撫でる。
「唇以外も駄目に決まっています」
「もう遅いよ」
 にはほんの少しだけ未練がある。蒙恬の妻になる道を拒んだことを。あの甘美な微睡に呑まれなかったことを。彼と共に生きる道を選べば、このささやかな悦びなんて比にならないほどの至福に満ちた日々を送ることができていたに違いない。
 けれども。これまでの覚悟を放擲してまで蒙恬の優しさに甘え、一時の快楽に身を委ねてしまっていたのなら、この慚愧の念はどう贖われるというのか。
 無力なばかりにまた大切な人を失うことがあったのなら今度こそ絶対に耐え切れない。
 ゆえに亜父にそむいて袂を別った。
 不孝の罪を犯した。

 だからこの身に残酷なまでの優しさをくれないでほしいものだ。


 寒梅の蕾が膨らみ始めている。
 件の娘が住まう邸を訪れたのは、あれから半月後のことである。白んだ空からは僅かに温かい光が降り注ぐようになった。春はすぐそこまで迫っている。
「姐姐」
「はい」
「蒙恬様との話はナシになったわ」
 娘はを邸へ迎え入れると丁寧に以前の非礼を詫び、そして私室に入るなりそう告げて文筥から縁談を取り止める旨が記された書簡を取り出して広げてみせた。蒙恬から予め聞いていたことだったから驚きはしなかったのだが、心なしかこの娘が、縁談が流れたことを喜んでいるような気がするのは何故だろうか。
「そうなのですね」
「あの方の浮いた話が父様の耳に入ってね。けれども蒙恬様ったらわざわざそのことをお詫びしにいらしたのよ。まさかあんなに丁寧な方だとは思わなかったわ。ちょっぴり好きになっちゃいそうだなあーって」
「はあ」
「うふふ。冗談よ冗談。蒙恬様はアタシよりもずっと大人の女性が好きでしょうから、執着するだけ時間のムダだわ。今度はもっと誠実な男の人を紹介するように父様にお願いしようかしらね。ところで姐姐は蒙恬様のこと、素敵だと思う? 素行に関してはさておき」
「わたしは、そういうのはあまり」
「ふうん」
 娘はにじっと貼りつくような視線を差し向ける。
「まあ話を振っておいてなんだけど、姐姐には蒙恬様みたいなハデな男の人は似合わなそうだものねえ。そこでどう? アタシの兄様方との結婚は! みんな真面目で誠実で優しくて昔の父様に似た美丈夫で」
「さあ今日は築城の講義ですよ」
「もーはぐらかさないでよ」
 どうやらこの娘は自身の兄たちと自分の結婚を望んでいるらしいとは知っている。彼女の父からもそれとなく、嫁に来るならば大歓迎だという旨の言葉をかけられているが、愚鈍なふりをして気づいていないような演技をしていた。だからこそ余計に、口が裂けても言えるはずがないのだ。その「ハデな男の人」に心底惚れていて、ずっと昔に交わした口約束に今でも未練がましく縋りついていることなど。

(了)


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