浮世夢の如し

  補遺 兄弟子の煩悶

「蒙毅様。ただいま戻りました」
「おかえり。兄上とは楽しめた?」
「ええ、お陰様で」
 はそう言って両手に抱えた包みを持ち上げてみせながら、たくさん買っていただいてしまってと、照れ臭そうにはにかんだ。
 普段の控えめな装いとは打って変わって、侍女たちの手でめかしこまれた彼女は、まさに高貴な佳人という表現が相応しい。月白色の襦裙と半臂に、明るく上品な槐黄の披帛をなびかせ、結い上げられた髪には小さな秋牡丹があしらわれた歩搖が可愛らしく揺れていた。日に焼けず蒼く冴えた肌は、香粉をはたくと抜けるような白さで、鮮やかな赭の化粧が良く映えている。
 この頃は胡服に帯剣して勇ましく軍馬を御す姿や、知恵者らしい達者な弁口で朋輩らと討論をする様子ばかりを見ていたからか、盛装した彼女の目映さは益々際立っているように思える。都の女性たちのような煌びやかさはなけれども、儚げで慎ましやかな美しさには惹かれるものがあった。
 蒙毅が着飾ったの姿を見たのは昨年の春節以来であるが、約二年の月日でより色香溢れる女性へと変わった。兄である蒙恬が、そんな彼女を今日一日独り占めしたという事実は少し羨ましくもある。自身が仲立ちしたとはいえ。
(――これで兄上も落ち着いてくれると良いが)
 土産話を聞きながら、蒙毅は胸中でそう呟く。
 昔から女性関係にはだらしなかった蒙恬だが、に対しては堅実的で、互いに年を重ねた今も清い友人関係のままだ。彼女が相国の娘御であるという理由も大きいだろうがそれ以上に、の清純さに邪な気持ちを抱くことに背徳感を覚え、そうこうしているうちに彼の中で大切な存在になりすぎていたのだろうと推察する。だからこそ彼女に対する劣情を露わにすることは無い。まるでの秘めた穢れのない美しさを、他人に悟られまいと、隠しているかのように。
 兄の真意は知らないが、少なくともはこれ以上の関係を望んではいないようである。とはいえ互いが満たされない気持ちを抱えたままという関係性に、蒙毅はもどかしさを感じていた。
 近い将来、が呂不韋の元を離れて立身し、何者にも縛られず、自由に生きてゆくことができたのならば。もしかすると二人の道が交わることもあるかもしれないと淡い期待を抱く。僅かに口元が緩んでいる妹弟子の微笑ましい姿に、日々の些細な幸せをひしと感じていた時だった。
 まるで時機を図ったように、呂不韋の使者が送られてきたのは。

 長廊の床が軋む。こちらへ近づいてくる足音に名状し難い不穏さを覚え、互いに息を殺して顔を見合わせたのはほぼ同時だった。
様はこちらにいらっしゃいますか。相国の邸から使いの方がおいでです」
 重厚な帳を隔てて伝わる奴婢の緊迫した声に、二人の間に流れていた空気が急激に温度を失う。
「呂不韋様が?」
 そう呟くなりは一瞬、表情を曇らせた。
 何も聞かずとも察しが付くと言わんばかりの態度であった。そんな彼女の諦念を湛えた瞳を見て、蒙毅の脳裏にある事実が過った。彼女はもうじき二十歳を迎える。世間では行き遅れと言われる年齢で、数年前に夫と離縁したきり独り身であった。もう結婚をする気はさらさら無いが、軍師学校で婿探しをすると説得してここに来たのだと、いつか話してくれたことがあった。有事の際は――つまりは呂不韋が痺れを切らして縁談を取り付けたら――呼び戻されるという約束で、それまでの時間を存分に楽しみたいと。
 嫌な予感がした。なんせ呂不韋は彼女が軍師学校に移り住んでからの数年間、使者を送ってきたことなど一度も無かった。
 はっとしてを見遣ると、目が合う。それから、まるでこちらが何を言わんとしているか分かっているかのように、少し悔しそうに俯く。蒙毅の予感がおおよそ当たっているであろうことを裏付けていた。
 さだめから脱する術があったとするならば、やはり官吏として出世をし、呂不韋の影響力が及ばぬまでの地位を築くというのが、最も正当で安全な方法だった。それは彼女自身も心得ており、学内の推薦を得て中央官吏の登用試験を受けられるまでには知識を深めていたところだというのに。
 まさにあと一歩というところで折悪しく、彼女の努力は水泡に帰した。否、呂不韋はもとよりの好きにさせる気など微塵も無かったのかもしれない。偶然にはできすぎだ。まるで彼女が幸福の絶頂にあった、この瞬間を付け狙っていたかのような。
「僕も付き添おうか」
 耐え切れずそう申し出ると。
「いえ。心配には及びません。わたし一人で行って参ります」
 彼女は微笑みを湛えながらそう言った。描いた未来のすべてが眼前で瓦解しようとも気丈に振舞うその姿に、折れぬ覚悟を見る。この時に引き留めていれば良かったと強い後悔に苛まれることも知らずに、蒙毅は二の句を継ぐこともできず、ただ頷くしかなかった。

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 が趙国の門閥に嫁ぐという話が流布してからほどなくして、彼女は腰元まで伸びていた髪を自ら切り落とし、呂不韋に拒絶の意志を示した。
 この事態を受けて、もとより呂不韋派の門下生が多い軍師学校は荒れに荒れた。恩知らずの馬鹿者だと陰で揶揄する者もいれば、反して不孝を犯してまで憎い敵国との縁を切った勇気を褒め称える者もいた。だがほとんどは、あまりの痛ましさに慰めの言葉すら掛けられず遠巻きに眺めているだけで、それは蒙毅も同様であった。
 髪を切ってからはまるで別人かと見紛うほどに威勢良く、吹っ切れたような立ち振る舞いをしていたであったが、ある日突然、張り詰めた糸が切れたかのような落ち込み様を見せたかと思えば、部屋に篭ってすっかり姿を現さなくなってしまった。

 そんな折、官務で咸陽を訪れていた蒙毅は偶然、兄と邂逅した。

「兄上。のことですが」
 世間話もそこそこに蒙毅が切り出すと、蒙恬は驚く様子も無く「場所を変えようか」と呟いて、人気の無い城雉へと誘った。冷たい風が轟々と吹き荒ぶ中、硬い表情を崩さぬまま眼下に広がる王宮の景色を見つめている兄の顔を見て、やはりの一連の行動に深く関わっているのだろうと、蒙毅は確信した。そうでなければ結婚を毅然と受け止めていたはずの彼女の、急な心変わりに説明がつかない。
「おおよそ察しの通りだよ。に会った」
「いつです?」
「彼女が髪を切った、前の晩になるかな」
 結婚を控えていたは蒙恬と会うことを固く拒んでいた。ましてや彼女の周りには、万一にも他の男との密通が無いようにと常に監視の目があったはず。ならばどうやって……と聞くのは野暮だろう。かつて、兄がここまで何かに頓着を持つことがあっただろうかと蒙毅は考えを巡らせるが、そういったきらいを見せることは一度も無く、むしろ往く者は追わずといった風でいるのが常であった。
 それがどうだろう。蒙毅の眼前で虚空を睨む男の瞳は、普段の飄々さからは想像もつかないほど爛として、猛獣をも睨み殺さんばかりの威容に満ちた鋭さを湛えている。
「素性の知れない趙の人間に身柄を易々と受け渡すくらいならば、手籠めにしてでも止めてやるのが国の為、彼女の為だ。たとえ死ぬまで恨まれることになろうともね」
 蒙毅は息を呑む。
 普段の兄であれば相手に姦淫をはたらくとは思えないが、状況が状況なだけに否定はできない。嫌な汗が背を伝う。
 ……まさか。
「――と思ったけれど、残念ながらお前の想像通りにはいかなかった」
「まだ何も申しておりませんが」
 ひとまず兄と彼女の間にそのような事は無かったようだ。蒙毅は深い安堵の息を洩らした。
 ただでさえ縁談を受けて気落ちしている妹弟子が、最も信頼を置いているであろう人間から辱めを受けることがあったならば、その心に負う悲しみは計り知れない。
 それから蒙恬はぽつり、ぽつりと、かの夜のことを語り出した。

「では兄上の申し出を断る為に、は髪を切る羽目になったと?」
「正確には蒙家を守る為に、といったところだろう。どちらにせよ起因は俺だ」
 蒙毅はすべての事情を知っての心を理解した。彼女が自ら髪を切ったのは、気が触れからではなく、能う限り周囲に累を及ぼさぬようにと考えて下した献身的な判断であったのだ。どれほど辛く、残酷なことをさせてしまったか。その種が、兄が蒔いたものであるということと、その本人はさも何事も無かったかのように平然と日々を過ごしている事実は、蒙毅に腹の底から沸々と湧き上がるような怒りの情を生んだ。
「恐れながら身勝手が過ぎます。僕に頼っていただければ彼女を見ていられましたし、大事には至らずに済んだかもしれません。そもそも勝手に娶るなどと言い残して去るよりも、他に良い方法があったでしょう」
「俺も考えたよ。例えば遠い土地に逃がすとか。けれども自身はそういった手段を望まないだろう。兎にも角にも、もう過ぎたことだ。何を言っても現実は覆らない。それに」
 蒙恬は一瞬、言葉を溜めた。
「他人の俺たちが、彼女の覚悟を否定するべきではないよ」
 どことなく嗜められているような冷静な口調に、蒙毅は柄にもなく自分が感情的になっていることを自覚する。を可哀想だ何だと色付けしているのは外野の揣摩臆測であり、それは彼女の意志を軽んじる行為であると、蒙恬は言外に匂わせていた。まったくもってその通りであると蒙毅は自省する。勇を鼓したの尊い選択を型に嵌め、勝手に憐れみ、やり場の無い怒りの矛先を彼女が最も守りたかったものに向けた。
「申し訳ございません。兄上の仰る通りです」
 酷い物言いをしたことを詫びると、蒙恬は気にしていないとでも言うようにひらひらと手を振った。
「元を辿れば、俺が軍師学校に推薦したばかりに呂不韋の不興を買い、辛い目に遭わせてしまった。だからこそ俺が本意でない結婚を申し込んだものだと彼女は推察していた。実際にそのうしろめたさが理由の一つであることは否定しないけれど。でも純粋に助けてやりたかったというのが本音かな。でもどうやったっては楽な方に逃げるわけでもなく、誰かの為に自己犠牲の道を選ぼうとする。俺も相当な覚悟を決めたつもりだったが、それ以上に彼女は譲らなかった。呆れるほどに依怙地な人だよ。だからこそ……」
 蒙恬は言葉尻を濁す。真意を隠す為ではなく、に抱く様々な感情は平易な言葉では表せないといったふうであった。誰にも打ち明かすつもりがなかったであろう底意をひとしきり語った蒙恬は、その日はじめて弛緩した表情を見せて踵を返す。
に伝えておいて。頼んだ着物は俺が受け取っているから、戦が終わったらうちに遊びにおいでって」
「はい。申し伝えます」
「あとお前はしっかり彼女を守ってやってよ。きっと今頃、熱が冷めて一人で思い詰めているだろうから」


 雪に覆われて眠る草木花のように静まり返った構内。かつての賑賑しさの幻影を遠くに感じながら、蒙毅は宿舎へと続く長い橋廊を渡り、自室の二つ隣にあるの部屋の前へとやってきた。帳は隙間無く下ろされていて、心なしか、近づく者を拒絶しているようだ。
。居るかい?」
 声を掛けても返事はない。
 しかし耳をあてて中の様子を窺っていると、かすかに物音が聞こえた。
 床が歪力に耐えかねて小さく軋む音。仄かな衣摺れの音。動悸を抑えるような、深い吐息の音――。僅かな要素の数々が、壁を隔てた向こう側にの存在を裏付けている。
 きっと誰にも会いたくないのだろう。彼女の心境を慮れば、そっとしておいた方が良いのかもしれない。しかし蒙恬から託された手前、黙って去るわけにもいかなかった。
「居ないの?」
「……」
「入るよ」
「まっ、待ってください!」
 帳に手を掛けると、は慌てたように声を荒らげ、せわしい足音を響かせながら、反対側を強く抑えつけた。
「その……いまは、会えません」
「どうして? いつなら良い?」
「それは……ええと」
 は言い淀む。彼女の心情を無碍にするわけではない。ただいつまでも部屋に篭ったままというわけにはいかないのだから、その一歩を後押ししてやるのが優しさだと、蒙毅は忍びない気持ちをぐっと堪えた。自分には責任の一端を負う兄の代わりに、傷ついた彼女を手助けする責務がある。
「理由が無いなら開けるからね」
「な、蒙毅様――!」
 の注意が会話に向いた隙に、不意を衝く形で力を込めると、帳はすんなりと上げられた。虚に付け込まれた彼女は驚き固まったまま目を見張っていたかと思うと、唐突に、普段の姿からはまるで想像もできないほどの身体能力で部屋の隅へと奔り、姿を隠すように褥を頭から被った。
 名前を呼び掛けるも、嫌々と首を横に振るばかり。その様はまるで頑是無い子供のようだ。躊躇無く人前で感情を曝け出すほど追い詰められている彼女の髪は、ほっそりとした白いうなじが垣間見えるほど短く切り落とされていた。うらぶれることも厭わず、自らの手で消えない傷を刻んだ、が抱える罪の意識はどれほど重く苦しいものであっただろう。
 相国の義娘という厳めしい肩書きとその重圧。一度婚姻を解消されていることに対しての負い目。秦国に少なからず累を及ぼすとつくにへの輿入れを、受け入れねばならない苦悩。そのような石塊が幾重にも積み重なり、彼女を押し潰そうとしていた。
「顔を見せて」
「……できません」
 絶え入るような声は確かに震えている。普段、何事に対しても文句を言わない彼女が、こうも本気で嫌がっているのを見ると胸が痛い。
「いつまでも閉じこもったままというわけにはいかないよ。手始めに僕と向き合って欲しいと思っているのだけど」
「合わせる顔がありません。特に蒙毅様には」
「どうして?」
「その……いただいた剣でこの髪を」
 蒙毅から身を守る為にと授けられた剣で、彼女は自身の体に傷をつけた。そのことに対して深い罪悪感を覚えているようだ。しかし蒙毅からしてみればそれは些末なことだった。むしろその剣が無ければ、彼女はどのような手段で呂不韋に許しを乞うことになったのだろうかと考えるだけでも恐ろしい。
「お気を悪くされているのではないかと」
「僕が怒っているように見える?」
「……いえ」
 は暫く閉口して悩んでから、褥をその身から剥いで姿を現した。乱れた髪が顔を覆っており、その隙間からは愁いを帯びた瞳がこちらを覗いている。泣くまいと、潤んだ両目をいっぱいに見開いて、こぼれようとする涙を堪える姿は傷ましい。
 孤独を孕んだ物悲しい眼差し。心労で痩せた顔。その姿は今にも消えてしまいそうなほどに儚げで、蒙毅は彼女の細い躯体をそっと抱き込む。僅かに兄に対しての罪悪感が生じたが、自分の行動は妹弟子への純粋な思いの延長上にあるものだと信じ、気づかぬふりをした。
「ありがとう、。なにも気に病むことはないんだ。君の居場所は変わらずここにあるのだから」
 その言葉を聞くなり、耐えに耐えていたものが堰を切ったように溢れ出したのだろう。は蒙毅の肩に顔を埋めながら紅涙を絞る。黒々とした不揃いな髪が、体の小さな震えと共に揺れた。
 ……。幾許かの時間が流れ、落ち着いた彼女は泣き疲れた子供のような擦れた声で蒙毅に謝罪を述べた。それから顔を上げてそっと距離を取ると、目元に朱を滲ませながら、自虐的な微笑みを見せる。
「自分はなんと情けない人間なのだろうと。ご迷惑をお掛けしてばかりで」
「ずっと頑張り続けて立派に生きてきたのだから、たまにはこうして誰かに背中を預けて休んでみても良いと思う。迷惑なんかじゃないさ」
「皆様、わたしを立派だと、そう仰いますが……本当は違います。わたしは弱い。弱いからこそ呂不韋様への恩義に報いるべきだという信念を曲げることができなかった。けれども蒙恬様が気づかせてくださったのです。自分の周りにはとうに見返りを求めず手を伸べてくれる方々がいたのだと。わたしは呂不韋様に固執しなくても、あの方から情愛を与えられるその時を待ち侘びて献身せずとも良かった」
 濡れた睫毛をしばたくと、小さな涙の粒がまた一つ零れ落ちる。しかしはもう泣いてはいなかった。それどころか彼女の顔には、くびきから解き放たれたような安堵があった。潤んだ目元に手燭の火が照りかえり、澄みきった瞳に強靭な光を湛えている。
 一段と洗練され、逞しくなったその姿を見て、蒙毅は初めてと出会った時のことを思い出していた。呂不韋の義娘としての価値を求められ続けるための虚勢と、その底にあった心細さやあてどなさを、当時の自分は気の毒に感じたものだ。今の彼女も呂不韋という枷から完全に解き放たれたわけではないのだろう。しかしあの男の支配を振り切るほどの英気が、確かに輝いている。

 ――あえかなる蕾は強く咲いた。
 妹弟子の堅調な成長ぶりに、蒙毅は心からそう感じて目を細めた。
「そういえば。兄上から言伝を預かっているんだ」

(了)


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