浮世夢の如し

  天の桃園で君を俟つ・後編

 権力を持つ者が入り乱れる場には、必ずと言って良いほど他国の間諜が紛れ込んでいる。特に今回のような大戦の勝利を祝う宴は彼らにとって狙い目だ。皆が浮き立って警戒心が薄れてしまっているから、国の内情を探る絶好の機会だと言える。
 わたしが昌平君から与えられた「本当の」命は、給仕に扮してそういった不届き者を探し出すことだった。山陽に赴いていた兵士たちが咸陽へと戻ってくる間に、料理の出し方、品物の説明、皿の下げ方、酒の注ぎ方、それらを短期間ですべて仕上げ、あとは愛想さえ良くすれば完璧だとまで言われるところまで技術を身につけた。着替えれば見目もさほど目立たず、内城で何度か実際に働いてみたが顔見知りの人間に気付かれることすら一度も無かった。自国の人間にすらまるで怪しまれないわたしを他国の間謀が気に留めるとは思えない。
 下働きの殆どは文字の読み書きができないから、間諜も油断して馬脚を露わしやすい。彼らの主な連絡手段である陰書・陰符を理解しているわたしにはこの任務は最適だった。
「如何でしょうか」
「上出来だ。良く似合っている」
「ありがとうございます」
 給仕の格好を昌平君に見せると心なしか満足気な表情を添えた誉め言葉が返ってきた。なんとなく自分には絢爛豪華な着物や宝石よりもこういった格好のほうが合っているのだということは判っている。呂不韋の邸に居た時はせっかく買い与えてくれた物を上手く着こなせない事実に複雑な感情を抱いていたが、今となってはこういう時に役に立つ風貌の人間であったことを嬉しく思う。

 いよいよ宴が始まり、宮殿は逸楽と賑わいに包まれた。怪しい素振りを見せる人間が居ないか横目で窺いながら、大皿に盛られた料理を運ぶ。はじめは大勢の前に出ることに戸惑ったが、目線の殆どが美しい妓女に向けられているのだと思うとすぐに緊張は解れた。
 やがて皆の酔いがまわりはじめてきた頃、こそこそと手を背にまわして何やらやり取りをしている貴族の姿を見つけた。さすがは昌平君の読み通りだ。給仕のわたしがさりげなく近くを通っても彼らはまったく意に介さない。歩く速度を少し落として、手に握られたそれを目視する。
 布切れのようなものに一見意味の無い文字の羅列が書かれている。
(西の、宮殿の……三階で……)
 しかし暗字の素養があるわたしからすれば、それはすぐに読み解けた。一瞬で目に焼き付けた文字の形を思い浮かべて、頭の中でその暗号を整理する。西の宮殿は関係者以外立ち入りを禁じられているから、わざわざ暗字で人気の無いような場所を共有しているということは、あの男たちはやはり間謀で間違いなさそうだ。
 これは大きな収穫だ。昌平君は顔だけ確認してくれれば十分だと言っていたが、彼らが場所まで報せてくれたのだからもう少し攻めれば有力な情報を引き出すことができるかもしれない。あとは彼らの様子を窺いながら宴が最も盛り上がる頃に喧騒に乗じて会場を抜け出し、あらかじめ待ち伏せをしておく。そうして話を盗聴すれば決定的な証拠となり得るだろう。

 宴に蒙恬が呼ばれていることは知っていた。彼は此度の戦で大きな功を挙げている。無事な姿を見ることができるのは嬉しかったが、しかし声を掛けられないのが残念だ。
 任務の間は本来のと給仕としてのは切り離したほうが良いから正体が露見しないように気をつけねばならないが、彼の勘は人一倍鋭い。いくらわたしが給仕に扮しているとはいえ、気づかれてしまう可能性は大いにある。だから、せめて近づくことがないようになんとか立ち回っていたのだが。
「あ、そこのお姉さん。こっちに持ってきて」
 よりによって本人に呼び止められて、思わず固まってしまった。いまの仕草で聞こえていることは伝わってしまっているから、無視をするわけにはいかない。どうかであると気づかれませんように……と心の中で祈りながら返事をして、両手で抱えた皿で己の姿を蔽うようにして彼らに近づく。
 蒙恬の隣には陸仙も座っていた。彼もまた目端が利く人物であるから正体が露見する危険性はますます高まった。さっさと立ち去ってしまったほうが良い、そう思ったがこんな時に限って蒙恬は妓女にやっていた目線をこちらに向けているし、さらには料理の説明まで求めてきたものだからどうやっても逃げられない。
「へえ、見たことない料理だけど。これは何?」
「……駱駝の羹でございます」
 料理に興味があるような会話を交わしているのにも関わらず、蒙恬の意識はこちらに向いている気がした。ついでに陸仙も様子を窺っているようではある。言葉を交わすうちにその疑念はますます深まっているようで、しまいには二人が何やら小声で話し始めて、じっとこちらを見つめてきたものだから、耐えきれずにそっぽを向いた。
 あとから聞いた話だが、どうやら視線を背けなければわたしであるという確信は得られなかったらしい。
「本当にどうしてここにいるの? そんな恰好でさ」
 どうしてと聞かれても本当の理由を話すわけにもいかないから、人手不足ゆえ昌平君の命で働くことになったのだと説明すれば、彼らは納得してくれたようだった。

 周りに綺麗な妓女たちがたくさんいるのにもかかわらず、蒙恬は普段のように一緒に酒を飲まないかと誘ってくれた。嬉しかった。笑みが零れそうになったのも束の間、任務の最中であることを思い出して少しだけ落胆した。
 いつもならば二つ返事で頷いていたところだが、生憎わたしには大事な用がある。きっぱりと断るべきであるが、断るための偽の理由がまったく思い浮かばない。だからといって正直に間諜狩りの手伝いをしていると述べるわけにもいかない。誰がこの会話を聞いているかも分からないのに。
「崑崙山にてお待ちしております」
 間諜たちが指定した西の宮殿――崑崙殿と、蒙恬が先程口にしていた蟠桃園という言葉を掛け合わせてわたしはそう答えた。単なる遊び心と、もしものときの保険だ。もしかしたら蒙恬はこの発言で、わたしに何かやらなければならないことがあると理解して、さらには場所まで突き止めてくれるかもしれない。
 なんて幽かな期待を抱きながら口にしたものの、彼はそれよりもわたしが曖昧な返事を残したことを気にしているようだった。さすがに、そこまで察して欲しいというのは我儘が過ぎていただろうか。

 宴はますます盛り上がり、給仕の仕事もそれにつれて慌ただしくなってきた。
 このごたくさに紛れて今のうちに崑崙殿に行かなければ。忙しそうにしている他の給仕たちには申し訳ないと思ったが、この好機をみすみす逃すわけにはいかなかった。
 中央から西の宮殿へと続く扉を抜け、しばらく歩くと物置がある。ここから宴に必要な皿や盃を持ち出しているから、まばらだが人通りはあった。そこからさらに奥へと進んで、階段を上るとそこはまったく使われていない客間と、書簡や地図を保管する書房がある。あの間諜たちがどの部屋で落ち合う予定なのかまでは判らないが、身を潜めるには物が多くて隠れやすい書房のほうが良いだろうと思って、棚の裏に座り込んでその時を待つ。

 やがてあたりが闇に包まれ、窓の無い書房には一切の光が届かなくなっても、遠くからは未ださんざめく人々の声が聞こえていた。あの男たちが来るのをいまかいまかと待ちわびて、随分と長い時間が経ったように思える。
 階段を上る足音が聞こえてきたのは、ちょうどそのようなことを考えていたときだ。ギィ、ギィと一歩ずつ静かにこちらに近づいてきたそれは書房の前で立ち止まって、あたりを警戒しながら扉をゆっくりと開けた。
「はあ……埃臭えな」
 松明の灯りに照らされた男の風貌を、棚の隙間から矯めつ眇めつ眺める。間違いない、怪しげなやりとりをしていた男二人の片割れだ。彼は幸いにもこちらの様子に気付いていないようだった。

 もうひとりの間諜はいつまでもやってくる気配が無い。
 時折長い溜息を吐きながら仲間を待ち倦んでいた男は、しばらくして松明を片手に持ち立ち上がった。暇潰しに、行李の中から適当な書を取り出しては眺めたり、部屋の中を物色したりしているようだ。
 松明の灯りはやがてこちらに近づいてきた。物音を立てるわけにもいかないから、逃げられない。なんとか彼の視界に入らないようにと奴隷のように背を丸めて隠れていたのだが、その願いは叶わなかった。
「ん……んん? おい」
「は、はい……」
「どうしてここに居る」
 男は最初こそ驚いていたが、わたしが生身の人間であると判ると目角を立ててこちらを見た。燃える灯が互いの顔を真っ赤に照らす。
「嘘をついてみろ、痛い目に合うぞ」
「……わ、わたし」
 凄みを利かせた言葉に体が竦み上がってしまって声が出ない。
「書簡を片付けに来て、それで、い……いつのまにか眠ってしまっていて……起きたら、人の気配があって、怖くて、隠れていました……」
 精一杯絞り出したものの、随分と下手な言い訳になってしまった。やはり一から嘘を作り出すのはどうしても苦手だ。これは怪しまれても致し方無いと観念の臍を固めたが、そんなわたしの覚悟に反して、男は訝しげな表情を見せながらも扉の方を顎で刳った。
「そうか。だったらこんなところにいつまでも居ないで、さっさと下に降りて働いてこい」
 意外にも解放してくれるらしい。もしかすると、彼はわたしのことをあまり警戒していないのではないだろうか。ゆっくりと立ち上がって扉へと向かう道中、わたしの心からはすっかり恐怖が消えていて、代わりに浮かんできたのはこれを好機と捉える強欲だった。
「貴方様はどうしてこんな場所へ? この書房は邸の者以外は入ってはならぬはずです。もしかして道に迷ってしまったとか」
「貴様には関係の無いことだ」
 せっかくここまで来たのだ、何も得られないまま帰るよりは少しくらい面皮を剥いだほうがきっと先生も喜んでくれるはず。そう思って、わたしは男に向き直った。
「ここに居る目的が何かお有りなのですか?」
 しかしその選択は、本来の任務に蹉跌をきたした。否、間諜の顔を見るだけにとどまらずこの書房に身を潜めてしまっていた時点で、誤っていたのかもしれない。
 今度こそわたしを不審がった男はじわじわとこちらに近づいてきて、出口を塞ぐように立ちはだかった。危機感を覚えたときにはもう遅い。
「あの」
「本当にただの下働きか?」
「や、めてください」
「それにしては手がやたらと綺麗だな」
 眉に迫った双眸はねぶるようにこちらを捉えたまま離してくれない。抵抗も虚しく壁に圧され、そのままずるずると床に押し倒される。
 藻掻こうとも、足をばたつかせることすらできない。大声を上げれば下の階には響くだろうが、相手がどのような武器を隠し持っているか判らない以上、大胆な行動もできない。
「筆だこ、ねえ。文字が書けるときたか」
 やがてわたしの手をじっくりと見ていた男は、それに気づいた。給仕の仕事だけを続けている人間にはまず見られるはずのない特徴だ。文字を書くことができる人間は相応の教育を受けることができる特別な環境下で育っている、つまりはわたしがそのような人間であるということが露見してしまったということ。もう何も言い逃れはできない。
「離して」
「そういうわけにはいかねえな。俺がここに居ることを誰かに言わない保証はないだろう」
 男はそう言って懐から小刀を取り出すと、わたしの太腿に勢いよく振り下ろした。
「っ、う……」
 皮膚が熱で溶けだしてしまったかのような激しい痛みと共に、赤黒い血があっというまに着物に滲む。こんなときなのに借り物を汚してしまったという申し訳なさまで湧き上がってくる、冷静なのか混乱しているのかもよくわからない。痛みに耐えるように歯を食いしばりながら、それでも顔を上げた。腿をつたう生ぬるい感触は止む気配がない。
「わたしを、どうするおつもりですか」
「ツレが来きたら、殺すか連れ去るか売り飛ばすかしっかり話し合うとするよ。少なくとも解放するつもりはない」
「その方はいついらっしゃるのです」
「さあな」
 いつの間にかあたりは静まり返っていて、廊下に差し込んだ月の光が扉の隙間から僅かに漏れていた。宴はもう終わってしまったらしい。あれだけはっきりと聞こえていた人々の声はすっかり消えてしまっている。
 いつまでも戻らないわたしを、蒙恬は少しでも気にしてくれていたりするのだろうかとは一瞬考えたが、変に期待をしてそうでなかったときが辛いからその可能性に縋るのは取り止めた。それよりかは、自分にできることをしなければ。逃げるという選択肢はとうに消えてしまっているから、いまはとにかく情報を引き出すことに専念するべきだ。
「間諜ですか」
「随分と素直な質問だな」
「どうせ助けてくれないのならば、話してくれても良いのではないですか。暇ですし……わたしの助けも、来ないでしょうから」
 男はしばらく様子を窺って本当に助けが来ないことを確認すると、気を緩めたのか少しずつ質問に答えてくれるようになった。どの国から来たのか、誰に雇われたのか。
「金しか持っていない弱い連中だ。己の身が一番可愛いから、簡単に国を裏切ることができるんだろうよ」
 宴に参加するための印章を金で売った貴族に対して男は吐き捨てるようにそう言った。新たな王が即位してから腐敗しきっていた王宮もずいぶんと変わったから、未だ他国と内通している貴族が何人も居るとは思わなかった。しばらくして少し喋りすぎたなと呟いた男はそれ以上答えを返してくれることはなかったが、これだけでも十分な収穫のように思える。あとはこのことを昌平君に伝えることができていたらこの計画は完璧だった。
 書房の扉が静かに開いた、そこに立っていたのは蒙恬ではなかった。
「待たせたな」
「いや」
「その女はなんだ」
「自称下働き。書房に潜んでいた。字も書けるし顔も悪くはないだろう。売り飛ばしたら良い値段になりそうだ」
 こちらを松明で照らしながら事の経緯を述べる男は、どうやらわたしに金になる程度の価値を見出してくれているようだった。一方で、仲間のほうはあまり良い表情を見せてくれない。疑い深くこちらを観察して、しばらく考え込んでから首を横に振った。
「……念の為、殺した方が良い」
「! ……っ」
「ということだ。運が悪かったな」
「や、だ……嫌だ……」
 ようやく自分の置かれた状況を理解した頃には遅きに失した。
 首元に冷たい刃があてられて、皮膚に食い込む。この男が少しでも手を動かせば、わたしの命は簡単に消えてしまう。
 ぎゅっと目を瞑って、脳裏にふと浮かんできたのは父の姿だった。こんなところで、夢見たことを何一つ成し遂げられないまま簡単に死んでしまって、向こうの世界で彼はわたしにどのような言葉をかけるだろう。心の中には優しかった父の思い出しかないのに、何故か思い浮かぶ彼は怒ったり、呆れたりしていて。何も抵抗せずに諦めかけているいまの自分を叱咤しているようにも見えた。
「誰か、誰か助けてッ!」
 突然大声を上げたわたしに、男は一瞬隙を見せた。怪我をしていない足で己の上に跨っていた体を蹴り上げて、短刀の柄を握る手の甲に思い切り爪を立てる。無抵抗のまま死んでしまうよりも希望を、信じたひとつの可能性に縋って必死に足掻くべきだ。
 慌てたもうひとりの仲間がわたしの体を押さえつけようとしたが、髪から抜いた簪を腿に突き刺して回避した。しかし男二人を相手に稼ぐことができる時間など限られている。床に強く押さえつけられ今度こそ窮地に立たされた。
 ――その時だった。書房の扉が勢いよく開け放たれる。
「見つけた!」
「間に合いましたね」
 決死の覚悟が功を奏したようだ。耳慣れた二人の声がやけに懐かしく感じる。蒙恬と陸仙は、わたしが何気なく残したあの言葉から居場所を突き止めてこうしてやって来てくれた。本当に来てくれたんだ。
「貴様、何者だ!」
「それは俺が聞きたいくらいだよ。とにかくその子から汚い手を退けてくれない?」
 それからの出来事はあっという間だった。間諜たちから武器を奪い、手足を斬りつけて動きを止めた蒙恬は彼らの動きを簡単に封じ、それから陸仙が手際よく彼らを拘束した。
 息をついた蒙恬はわたしのほうへ向き直った。安堵の中に切なさが紛れ込んだような痛々しい表情をしている。
「……気づいてくださったんですね」
「なんとかね。でもまさか、こんなことになっているなんて思わなかったよ。ひとまず無事で良かった」
 彼にそんな顔をさせてしまったのはわたし自身だ。罪悪感から逃れるように訥々とここに至った経緯を説明しようと言葉を繋げたが、蒙恬はもはやそんなことはどうでも良いようで、無事を確かめるように何度もわたしを抱きしめた。細身に見える体に直に触れると筋肉質でとてもかたい。腕も、胸板も、わたしとはまるで違う。
 このひ弱な体は、蒙恬という盾によってたしかに守られていた。彼がいなければ、わたしは無力で。こんな無茶をしてはいけない人間なのだということが痛いほどわかる。
「本当に、心臓に悪い。こんなところで簡単に死ぬような真似はしないで。俺の前から突然いなくなるなんてことはやめてよ、頼むから」
「ごめんなさい。でも、もしかしたら蒙恬が来てくれるんじゃないかって。傲慢ですが信じていましたよ」
「その言い方は狡いよ」
 やがて騒ぎに駆け付けた奴婢が衛兵を呼び、あたりには人が集まってきた。
 間諜の男たちは捉えられて牢へ連れていかれたようだ。きっと彼らも、そして手を組んだ貴族たちも大辟罪は免れないだろう。わたしは蒙恬の手に抱きかかえられて医者のもとへと運ばれた。衆人環視の的になるのは恥ずかしいからやめて欲しいと頼んだが、患部に負担をかけるわけにはいかないからという真っ当な理由で却下された。

 出血は酷かったものの傷はさほど深くはなかった。止血の処置を受け、わたしはそのまま軍師学校へと戻ることになった。
 二、三日も経てばだいぶ良くなって、痛みに耐えながら歩けるまでには回復したが、そんなわたしを待ち受けていたのは昌平君からの呼び出しだった。その中身は言わずもがな。いままで何度かやんわりと注意をされることはあったが今回はそのようなものとは比べ物にならないほど激しい剣突を食らってしまったものだから、ようやく解放された頃にはすっかり憔悴しきっていた。

「……介億先生」
「疲れ切った顔をしているな」
 部屋を出ると扉のそばには介億が控えていた。わたしがたっぷり絞られている様子も丸聞こえであっただろう。これでわたしは冴えない一生徒から思慮分別の無い愚か者になってしまった。それだけのことをやらかしたのだから仕方が無いが。なんというか、こんなときに限って過去の失敗やら何やらがぶり返されて、本当に自分は野盗に腹を斬られたあの日から何一つ成長していないのだと思うと悲しい気持ちにもなる。そんなわたしを見て気の毒に思ったのか、介億は普段よりもどことなく優しい声で言葉をかけてくれた。
「殿がおまえを叱るのは愛ゆえだ。それだけ大切に思われている証拠でもある」
「そう思うようにします」
「して何と言われたのだ」
「しばらく任務は無し、外出も禁止。しっかり反省しろと。それだけです」
 介億の手を借りて部屋に戻り、筆を手に取って牘に文字を書く。認められたのは傭書のみ。外出を禁じられた代わりに仕事はたくさん任せてくれていたから退屈なわけではない。
 息抜きもせずに粛々と作業を進めて、どのくらい時間が経っただろう。部屋の扉を叩く音で我に返った。
。兄上が来ているよ」
 その声を聞き躄って扉へと進む。そこには蒙毅と、旅衣に身を包んだ蒙恬が立っていた。そういえば楽華隊は平定のために再び山陽に向かわねばならないと聞いた。きっと旅立つ前に軍師学校に寄ってくれたのだ。
「傷の具合はどう?」
「安静にしていれば痛みは無いです」
「それは良かった」
「せっかく来ていただいたのに申し訳ないのですが、お見送りには行けません」
「さっき弟から聞いたよ。先生に怒られて悄気ているって」
 陸仙には最後まで感謝と謝罪を伝えることができなかった。平定だってすぐに終わるわけではない。民を移し、堅塁をふたたび築き上げ、不落の地とするためには長い年月がかかる。そのうち大きな戦が始まってしまったりして、更に長期化するかもしれない。
 そう考えると、彼らと会える時間はとても貴重なもので、それゆえあのとき書房に向かっていなかったらという後悔が蒸し返される。
「引き際を見誤ったわたしが悪いんです、最初から先生の言う通りにしていれば良かった。調子に乗って大胆な行動をしてしまって、ご迷惑をお掛けしました」
「結果的に助かったからもう謝罪は良いよ。でも先生が叱る気持ちはすごくわかる」
「そのわりには、あまり怒らないんですね」
「たっぷり絞られたばかりなのにまだ怒って欲しいの?」
「いえ。もう結構です」
「あはは、正直でよろしい」
 わたしの隣に座り込んだ蒙恬はあの日の切ない眼差しが嘘であったかのようにカラっと笑ってみせて、それを見た途端にまるで変な術でも受けたみたいに陰鬱とした気持ちがすっきりと晴れた。彼は不思議な力を持っている。
「お陰で殆どの情報を引き出せたし、奴らと手を組んだ貴族も根こそぎ摘発することができた。先生は敢えて君を褒めることはしなかったようだけど、助かった部分もかなりあったと思うよ」
「そうでしょうか」
「だから俺が代わりに褒めてあげる」
「ありがとうございます」
 彼も本来ならば褒めるよりかは叱咤したい心持ちでいただろうに、昌平君から説教を受けたわたしがだいぶ疲弊しているようだったからか、こうして慰めてくれたに違いない。蒙恬はわたしの扱い方をよくわかっている。優しい言葉をかけてもらえなかったら、申し訳ない気持ちではち切れてしまいそうだった。
「兄上そろそろ」
「わかった。じゃあ俺は行くよ、
 せめて部屋の中からでもしっかり見送りをしようと立ち上がったが、完治していない傷に痛みが走って体がよろける。そんなわたしを支えるように蒙恬は背に手を回してくれたから、有難く思いながらなんとか彼に捕まるようにして立ち上がった。
 しかし蒙恬はいつまで経ってもわたしを離そうとしない。傍から見れば抱き合っているようにしか見えないということに気付き慌てて逃れようとしたものの、さらに強く抱き竦められてはそれもかなわない。
「……も、蒙毅様がうしろに」
「あー、そうだった」
 わざとらしくそう言い放った蒙恬はそれでも手を止めることはしなかった。
 しばらくして満足そうにしながら去って行った彼の背中を、寂しいのにどこか安堵しているという不思議な心地のままぼんやりと見つめていると、呆れ顔の蒙毅がわたしの肩を叩いた。
「あんなあからさまな牽制をされてもねえ」
「牽制?」
「まあ、とりあえず仕事に戻ろうか。先生にまた怒られてしまうから」
 そう言ってわたしを文机の前に座るよう促すと、蒙毅も部屋を後にした。
 蒙恬が居なくなってしまった部屋の中は嵐が過ぎ去ったあとのような孤独を助長する静けさがある。わたしはその煢然たる憂いに蓋をするように再び筆を握って文字を書く。

(了)

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