浮世夢の如し

  天の桃園で君を俟つ・前編

 長きに渡る魏戦の後、山陽一帯を手中に収めた秦の王都では盛大な祝宴が催された。
 第一功を賜った蒙驁の近くでは花のように可憐で美しい妓女たちが、琴や瑟の囃子に合わせて舞を踊っている。蒙恬はそんな偉大な祖父の傍らで、次々と運ばれてくる美膳を堪能しながら酒を飲んでいた。今夜は楽しく酔えそうだと口元を緩ませるその横では、楽華隊副長兼ね本日の彼の目付け役である陸仙が、主に倦んだような視線を向けていた。
「今日は宴が終わったら寝殿に戻るよう胡漸副長からの言伝です。明日からまた山陽に戻る準備をしなければならないので」
「えー」
「頼みますよ。あの人うるさいんですから」
 この場には居ないもう一人の副長である胡漸は蒙恬の傅役でもある。蒙驁、そして父である蒙武も不在がちであったせいか、蒙恬の教育に関しては殊に責任を感じているのだろう。しかしそんな胡漸の弱点といえば、なんといっても幼い頃から成長を見守ってきた蒙恬の可愛さに根負けして、結局は好き放題されるのが常であるところ。その点、指顧された陸仙は面倒臭そうな態度を見せながらも仕事はしっかりとこなす男だ。彼が居なければどの女性に声を掛けようかとじっくり考えていたところだが、こうも近くで監視されては大人しくしているしかない。
 仕方無く腹を満たして不純な考えを払おうとすれば、いつの間にやら山のように盛られていた料理は殆ど無くなっていた。
「あ、そこのお姉さん。こっちに持ってきて」
 そこにちょうど皿を抱えた給仕が通りかかったから、大きく手をあげて呼びつける。彼女は一瞬こちらを見て固まっていたが、すぐに我に返ると小さな返事をしてこちらへとやってきた。
「へえ、見たことない料理だけど。これは何?」
「……駱駝の羹でございます。柔らかく、滋味に富み、香ばしいですが臭みはありません」
「そうなんだ、ありがとう。この甘味は?」
「蟠桃といいます。伝説の不老不死の果実にあやかって名付けられました。その名に恥じぬ高貴な香り、上品な甘さ、玉のように美しい形貌を具えております」
「そう言われると、なんだかすごく美味しそうに見えるな」
 質問に淡々と答えながら皿を置く彼女は、他の給仕よりも愛想が無い。一度もこちらと目を合わせようとせず、挙措はいたって丁寧だがどこか早くこの場から立ち去りたいという意思が滲み出ているように思えた。普通ならば気に掛けることはないのだが、何故か。表情ひとつ変えることなく目の前で仕事を熟すこの娘が気になってしょうがない。
 蒙恬はそんな違和感の正体に、すぐに気付いた。はじめてと出会ったときの、あの人を寄せ付けたくないような壁を感じたのだ。しかし当たり前だが彼女はここには居ないはずだから、他人の空似であろう。
「なんだかに似てるよね」
 そう思いながら何気なく陸仙に耳打ちをすると、彼はおもむろに桃を手に取ろうとしていた動きを止めた。それから「自分もなんとなくそう思っていました」と娘に聞こえない声量で返した。
 二人は空いた皿を片付ける姿をまじまじと見つめる。すると、その視線に気づいた彼女は慌てて視線を背けた。
 ――間違いない。
 どうしてここに居るのかはともかく、蒙恬の中で目の前にいる給仕はであるという自信は揺るぎないものになっていた。
「えーと、。こんなところで何やってるの?」
「……」
 給仕は言葉を返さない。しかし逃げようともしない。
?」
「……なんで。なんで、わたしを呼び止めたんですか」
 もう一度名前を呼ぶと、普段よりも数段低い声で返事がかえってきた。
「本当に偶然。料理がなくなったときにちょうど通りかかったから。ていうか、本当にどうしてここにいるの? そんな恰好でさ」
 長い髪を側頭部で団子のようにまとめて、宴の雰囲気を損なわない程度の質素な衣に袖を通したは、こちらを恨めしそうに見ていた。
 化粧も薄く、遠くから見れば本物の給仕であると見間違えてしまいそうなほど地味な風貌になっている。しかし、よくよく観察してみれば、袖の隙間から垣間見える玉臂や荒れの少ない指先、なにより力強い意志を隠し切れていない瞳は明らかに臣妾のそれではない。
 何も知らない人からすればただ愛想の欠片も無い給仕であるが、何かわけがあって仕方なくこのような雑事をしているのだと思うと、そしてそれもしっかりとこなそうとする彼女の生真面目な姿勢を見ると可愛くて仕方が無い。無論、口が裂けても本人には言えない。
「先生の頼みで、人手が足りないからと駆り出されました。未だ慣れませんが」
さんも大変なんスね」
「そこまで苦ではありません。学べることもたくさんあります」
「お化粧も髪型も似合ってますよ。もともと綺麗ですから無理に着飾らないほうが逆に可愛らしいのかもしれませんね」
「えっと……ありがとうございます。もしかして結構酔っていますか? 陸仙さん」
「いいえ全く」
 の言葉に返事をするより先に、陸仙が彼女に話しかけていた。それだけならばまだしも会話はなぜか変な方向に進んでいる。というか完全に口説いている。これはわざとか、それとも本気なのか。否、そんなことを考えている場合ではない。どことなく照れたような仕草を見せるに悋気にも似た感情が湧いた蒙恬は、慌てて二人の間に割り入る。
「ちょっと待って。俺もその……可愛いと思ってる」
 情けないことに気の利いた言葉がぱっと浮かび上がってこなかった。普段、女性を口説こうと思えばすんなりと舌が回るものだが、どうしてかの魅力を表現するにはどのような言葉も相応しくないような、或いは薄っぺらい世辞に感じてしまうような気がするのだ。百万言を費やすよりも実際にという人間を見た方が、彼女が類稀なる美しさを持つヒトであるのだと腹に落ちる。とはいえ気付かれたくなかったと恨めしそうに溢す彼女を引き留めた手前、普段と違う格好に対して何も言わないというのも気が引けて。
「ね。まるで蟠桃園の天女様のように美しいよ」
 途端に三人を取り囲む空気が急に温度を失ったような気がした。蒙恬からしてみれば可愛らしいという本音を少しばかり誇張したに過ぎない言葉だったが、は巧言令色と捉えたようである。
「……そんな大袈裟な」
。俺にはなんでそう冷たいの」
「若の日頃の行いが悪いせいじゃないスかね」
 蒙恬が二人に普段の振る舞いを責められたところで、はそろそろ仕事に戻らなければならないと立ち上がった。
「宴が終われば仕事も終わるんだよね」
「はい。その予定です」
「だったら、そのあと一緒に酒でも飲もうよ。どこに行けばに会える?」
 その問い掛けに、彼女はしばらく考え込んでから含みのあるような表情で答えた。
「崑崙山でお待ちしております」
 崑崙山とは西王母が住まうという伝説の山である。蟠桃と呼ばれる桃を運んできた彼女を蟠桃園の天女と例えたことに対して、その蟠桃園がある崑崙山を挙げたのだろう。ただの言葉遊びだ。そして誘いをはぐらかされた。
「それって、つまり会えないってこと?」
 戸惑いながら尋ねる蒙恬に対し、は肯定も否定もせずに小さく微笑んでから、空になった皿を持って立ち去った。
「もしかしたら先約があるのかもしれないですね」
「不吉なこと言わないでよ」
 彼女に限ってそのようなことはないだろう。という反論を言いかけて飲み干した。
 蒙恬の瞳に映るは出逢った頃と同じ、初心で純潔な深窓の姫君だ。しかしいまや養父である呂不韋のもとを離れて久しく、他人との関りも増えてきた。操固い彼女のことだから、さほど心配はしていなかったが、他の男と二人きりで過ごしているということも無いとは言い切れない。
 そこまで思考を巡らせると、途端に気分が悪くなった。身勝手な感情であることは分かりきっている。
「気に障りましたか? さっきの言葉」
「ううん特に」
「だったら良いんですけど」
 平気な素振りでそう答えたものの、気づけば蒙恬の頭はのことでいっぱいだった。彼女よりも艶やかで色気を誘う妓女がこちらに微笑みを見せていても思考はぶれない。
 気晴らしにあの中の誰かに声をかけようかとも思ったが、の存在が脳裏を支配している今では、どうしても他の人間に彼女の影を重ねてしまいそうで、そんな気もすぐに失せた。
 暫くはが近くを通るたびに声をかけようとしたが、呂不韋の義娘であり軍師学校の一生徒である彼女の名を堂々と呼ぶことも憚られた。給仕の格好をしているから猶更。
 しかし昌平君があのような仕事まで任せているのは予想外だった。は、昼間は講義の合間に傭書――書の内容を写したり誰かに頼まれて文字を書いたりといった仕事――をして、夜は軍師学校の生徒以外は立ち入りを禁じられている、対外秘の書物が置かれた部屋の掃除をしている。軍師学校に入学するにあたり呂不韋からの援助は一切無いと約束させられた彼女だが、日々の生活のために寸暇を惜しんで十分すぎるほど働いている。そんな人間に給仕の雑務を任せるとはどうも不自然だ。人手不足? こういった仕事に慣れている人間を即戦力として雇用するのは分かるが、彼女は慣れていないと言っていた。たった一度の酒宴の為に、新人に一から教え込む余裕があるのならば、人を借りてきた方が効率的だ。裏があるのか。ただの考えすぎか。蒙恬の心に懸念が過った。

 蒙恬と陸仙は宵の口から続いた宴を終えて寝殿へと向かう。広間や途中の廊下には、酣娯に浸った官吏や兵士たちが仆臥していた。それらに伺候する者たちは今回の宴には呼ばれていないから、この有様は明日の朝まで続くことだろう。できることならばこれくらい気持ちよく酒を飲みたかったが、のことを気にかけてばかりいたらいつの間にかお開きになってしまった。
「そういえば。さん、途中で居なくなりましたよね」
「うん」
 宴も酣に差し掛かり給仕たちも慌ただしく会場を動いていた、そのような折には忽然と姿を消した。もともとそんなに長く働くわけではなかったのだろう、というのが自然な発想だが、それにしたってあのような忙しいときにさっさと抜けられるような冷たい人間ではないはずだ。
 となると何か用があったのだろう。という考えに至ったところで、その用の中身は何なのかという憂虞が生じる。宴には昌平君の姿もあったが、直接的に彼女に指示を出している様子はなかった。
「蒙恬様。寝殿は南ですよ」
「知ってる。少し待って」
 蒙恬は陸仙を横目で制してから周囲を見渡す。宴会場から皿や盃を持って出てくる給仕が何人かいる。その一人に声を掛けた。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
「は、はい。如何致しましたか?」
「給仕のが寝所に戻っているか確認してきて欲しい、ここで待っているから判ったら伝えに来てくれない?」
「かしこまりました。お待ちください」
 急ぎ足でその場を去って行った女は、しばらくして不安そうな表情を浮かべながら小走りで戻ってきた。その様子を見る限り、何も聞かずともは戻っていないことは明白で、胸裏に蟠る不安はますます膨れ上がるばかりだ。
「寝所に居る全員に確認しましたが、誰も知らないとのことです。調子が優れず、宴が始まった直後から寝所で休んでいた者に訊ねたのですが、途中で誰かが帰ってきた気配はないと」
「一度も戻っていない?」
「我々のこの着物は貸し与えられたものです。寝所と同じ部屋で着替えをしましたから、戻られていないということはどこかで仕事をしているのだと思います」
「わかった、ありがとう」
「いえ。では失礼いたします」
 裏方の仕事でもしているのではないかと思ったが、ただでさえ慣れないがいくつも仕事を与えられているとは考え難い。
 もしくは誰かに呼ばれて席を外しているとか。しかし給仕の侍女だけが着用している着物のまま向かうだろうか。呂不韋のもとで貴族の娘としての教育を施された彼女は、そういった不躾な真似はしないはずだ。
「今日はもう寝ませんか? どこかに行ってしまったとしても宮殿の中ですし、危険に巻き込まれたということはないと思いますよ」
「それもそうか」
 陸仙の言うことも尤もだった。何か特別な用事があったのだろうと思って諦めたほうが良い。彼女にだって知られたくないことがあるかもしれなから、無理に首を突っ込もうとするのは好ましくない。そんなことは判りきってはいたものの、不安が払拭できず悶々としていた。
 窓から皓々たる月輪が顔を覗かせている。蒙恬はいつまで経っても眠れないままだった。このまま夜が明けてしまうのではないかと思えるほど眠気がまったくやってこない。酒も回っていないから変に頭は冴えている。
 目の前に広がる闇の中に、彼がぼんやりと思い浮かべるのはやはりの姿だ。今日の彼女は違和感の塊だった。引っ掛かることがいくつもある。
「陸仙」
「……まだ起きておられたんですか」
 従者の名を呼ぶと、背中越しに気怠そうな返事がかえってきた。
ってさ」
「はい?」
「人の誘いを、あんな曖昧な返事で濁して立ち去るような人ではないよね」
 普段は折り目正しい彼女だが、あの時はどう返事をするか考え込んでいる様子であった。その不自然な姿を確かに覚えている。崑崙山で待っているという言葉の理由はいったい何なのか。そもそも、彼女は意味もないことをわざわざ口にするような人ではないから、もしもあれがただの言葉遊びではなくて別の重要な意味を含んでいるとしたら。
「そういえばこの宮殿には崑崙殿という場所があるらしいですよ」
 陸仙が思い出したように呟いた、その言葉にはっと気づかされた。
 確かこの宮殿は西側の建物がやたらと高く造られていた気がする。それを中華の遥か西方にあると言われている伝説の神山になぞらえてそう呼んでいてもおかしくはない。はそのことを知っていたのだろう。だとしたら。
「おそらく西の建物だと思う」
「西? ああ。西の建物は立ち入り禁止のはずです」
「だったら余計に心配だ。を捜してくる」
 もしかしたら彼女は何かを伝えたかったのかもしれない。中秋節の晩に会いたいと、暗に意味を秘めた書簡を寄越したあの時のように。
 そう思うと居ても立ってもいられなかった。飛び起きてさっさと着替えを済ませて刀を携えると、陸仙もまた腰を上げた。
「俺も行きますよ。蒙恬様をひとりで行かせてもし何かがあったら、胡漸副長にこっぴどく叱られますから」
 と言い訳のように呟いていたが、同じくのことが心配であるに違いない。
 物音を立てぬように回廊を移動する。王宮の衛兵はたとえ蒙恬ほどの立場であっても胡乱な動きをしていれば臆せず詰問してくるだろう。見つからないのが一番である。西の宮殿へと続く大扉は人ひとりがやっと通れるほどの隙間が空いていた。篝火をひとつ拝借して足元を照らす。
 無事でいてくれるなら、それで良い。いまはの姿をこの目で確かめたくて仕方が無い。名状し難い不安に駆られながら、二人は崑崙殿の奥へと進んでゆく。

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