浮世夢の如し

  四.捨て去った白日・後編

 黙々と線を綴るという点では傭書も刺繍も大して変わらないが、枠と針を手に俯くわたしの心は所在無い。腹を括って花嫁修業に励むと決心したのは良いものの、藻掻きまわるように縫い潰された不器用な刺繍は窮屈な己の心をそっくりそのまま表現しているようで早々に嫌気が差す。このような益体も無いことを続けてもきっと心が晴れることはないだろう。わたしの喜びは蒙毅の書斎で書を読み耽っていたあの日々にあった。
 武器も握ったことが無いわたしが物騒な世界に興味を持ち始めたのは単なる巡り合わせに他ならない。呂不韋がわたしを蒙家に預けなければ、或いは蒙恬が蒙驁にわたしの存在を認知させなければ、はたまた蒙驁に過去を打ち明けなければ、それらがひとつでも欠けてしまっていたら、亡父の面影を追いかけようとも思わなかった。裏を返せば彼らが亡父の記憶を呼び覚まし、進むべき道を示してくれたのだ。
 はたして蒙恬の意に沿うことはできず、とうとうあれから三日も経たずに、わたしは再び兵法の世界へと手を伸ばしてしまった。孤独なわたしの拠り所は、唯一の身内である男との光に満ち溢れる記憶。のめり込むのも当然だ。
 ひとつ気懸かりなのは蒙恬との関係。彼はわたしが戦の知識を貯め込むことを快く思っていないようである。しかし友として今度こそ蟠りを残したまま別れたくない。彼が邸を去るまでの間に腹を割って話し合う機会が必要だろう。

 まだらに積もった雪が融け、硬い土には苔が生しはじめている。僅かな春の兆しが感じられる季節となった。散歩がてらお使いでも買って出ようと、使用人から銭を預かり、暇を持て余していそうな衛兵を捜して庭を歩いていると、視界の奥に蒙恬の姿が。彼もまたこちらの姿を視認すると、待っていましたとばかりに手招きをしてきた。
。いま暇?」
「いかがなさいましたか」
「二人で出掛けない? できれば少し遠くに」
 声を掛けてくれたのは有り難いが市に行ってくると使用人に伝えてしまった手前、誘いを受けるわけにもいかず断る。しかし蒙恬は引き下がろうとせず、むしろ市まで一緒に着いて行くと言い出した。困り果てどうしようかと辺りを見回していれば、見知った老年の兵士が目に入る。蒙恬が「じィ」と呼ぶ男は彼の傅役かつ楽華隊の副長、わたしが腹に傷を負ったあの時に同行していた人物である。名前は胡漸というらしい。正月の家宴で楽華の人から手に入れた情報だ。
「こ、胡漸さん!」
 名を呼べばこちらに気付いた彼はつぶらな瞳でわたしの姿を捉えて、それから隣の蒙恬に視点を移し「蒙恬様ァ!」と大きな声を上げた。
「あーあ、見つかっちゃった」
「遊び呆けてばかりでは身体が鈍ってしまいますゆえ、どうか稽古の方に顔を出していただきたく!」
 こちらを見向きもせず蒙恬のもとへ一直線に詰め寄った胡漸は必死な形相でそう訴えているが、当の本人は半笑いを浮かべながら目を逸らしている。遊び呆けてばかりという言葉通り、蒙恬と再会してから彼が稽古に参加しているところは一度も目にしたことがない。昼夜を舎かず酒を飲み、ふらりと街に出掛けては二、三日留守にして、土産の代わりに面倒事――主に女性絡み――を引っ提げて帰ってくるのだから、胡漸としてはもう居ても立っても居られないといったところだろう。
 如何あれ、わたしはあまり関わるべきではなさそうだ。
「胡漸さんもこう仰っていますし、たまには稽古に参加されてはいかがですか? わたしは買い物に行かねばならなので、これで失礼します」
「あ! なら俺が一緒に行くよ、良いよね?」
「いや……」
 足早に二人の元を去ろうとすれば、わたしを蒙恬が追いかけ、その蒙恬を胡漸が追いかけるというなんとも不思議な構図が出来上がった。意地でも稽古に参加したくないのだろうか、胡漸の苦労を思うと首肯しかねるわたしを見た蒙恬は踵を返し、今度は胡漸に直接説得をし始めた。
「じィ、ちょっと出掛けたいんだけど」
「ならばこの胡漸も共に参りましょうぞ」
「いやと二人で……ね。お願い」
「ね、とは何でございまするか!」
 前言撤回。説得というよりは可愛いおねだりと言い表すべきか、先程まで真赤になっていた胡漸の表情も蒙恬の媚びる声に少し動揺している。何を隠そう口煩いように見える彼は、本当は、奔放で我が儘なこの長男坊が可愛くて仕方が無いのだ。ああもう、わたしを巻き込まず二人で折り合いをつけてくれ。
「胡漸さんもあのように仰っていますし、わたしは邸の兵を連れて行きますのでご心配なく」
「ちょっと!」
 蒙恬の呼び止める声を無視してその場から逃げたのは良いものの、なんと結局、蒙恬は胡漸を上手く丸め込めたらしく、護衛の兵を探していたわたしに意気揚々と「許可を貰ったから一緒に行こう」と話しかけてきた。彼が良いならば、わたしも良いのだが。ここまで蒙恬を必死に捜して掴まえたものの、連れ帰れなかった胡漸の心境を考えると、申し訳ない気もする。
「馬を出すから厩舎まで着いてきてよ」
「わざわざ出していただかなくても、市は歩けばすぐです」
「ううん。寄り道したくて」
 先程は胡漸の煮え切らない態度に呆れを抱いていたが、駄目かな? と首を傾げる蒙恬の瞳を見てきっぱりと否定できないわたしも大概だ。空を見上げて残された時間を見積もり、そこまで遠くに行かなければと渋々了承した。
「せっかくじィを宥めてきたんだから、もっと嬉しそうにしてよ」
「わたしは別に貴方様と一緒に出掛けたいとは一言も申し上げておりません。それに、胡漸さんは純粋に心配されているのですよ。もう少し真面目に稽古に励むべきかと」
「なんで君にまで説教癖が移っているのさ」
 蒙恬が厩舎から連れ出した馬は見上げるほど大きく、四肢には岩のような筋肉が盛り上がっている。閑雅で雄大な歩みと共に戛々と蹄の音が鳴り、長い鬣と尾が靡く。数多の戦場を駆け抜けてきたであろう軍馬は、邸で飼われている駄馬には無い貫禄に溢れていた。そしてそれに跨がる蒙恬もまた先程までの柔和な雰囲気は何処へ行ったのか、堂々とした振る舞いと風に舞う華やかな衣、背に携えた刀の金色に煌めく柄が美しい。
 手を借りて騎乗すると、途端に視界は大きく広がる。馬の息遣いが間近に感ぜられる距離で新鮮味に満ちた開放感に心躍る反面、不安定な乗り心地に一抹の危惧を覚える。
「蒙恬」
「大丈夫だからしっかり手綱を握って掴まって」
 藤の蔦に止まる黄鳥のささやかな声、厩を掃除する使用人らの慇懃な会釈、軍馬は短く嘶くとそれらすべてを置き去りにして、息をするのも忘れるほどの速さで空を切り駆け出した。やがてその乗り心地に体が慣れ始めてきた頃には視界一面に宏闊な耕作地が広がっており、舞い上がる髪を片手で抑えながら背後を振り向けば、蒙家の大廈は遥か遠くに、今にも点となって消失しようとしている。砂塵を巻き上げながら押し迫る軍馬を見た人々はおのずと道の端に寄る。自然と開かれる道の中央を、まるで戦捷の祝賀凱旋でもしているような気分で進むと、ほどなくして遠くに市の屋並みと群衆が見えた。しかし馬は速度を緩めるどころかむしろそれらを横目にぐんと速まってゆく。慌てて蒙恬に「止めて欲しい」と頼むが、彼は夕餉には間に合うようにするからと悪びれる様子もなくそう言った。
 郊外へ向かうにつれ道は粗くなり、行き交う人や車の数も減ってゆき、ついには家屋のひとつも見当たらなくなってしまった。辺鄙なこの地には人が住む痕跡すら見当たらず視界に映るのは灌木の原野。もうひとりでは邸に戻ることもできないような遠い場所まで来てしまっている。いったいどこに向かっているのか。訝し気な視線を向けるわたしに、蒙恬は沈黙を貫いたまま馬を走らせた。
 やがて鬱蒼と茂った森に足を入れた軍馬は、勾配を蹴り進み木々の合間を器用に駆けゆく。邸を発ってから一、二刻ほど経ち、慣れない馬の乗り心地に酔いにも似た不快感を覚えてきた頃、枝葉の網目から一斉に漏れる光と共に視界が開けた。
 遠くに並ぶ山々の緩やかな稜線と雪解けの水に潤む湿地帯。そこは幽寂な窪地を一望できる切り立った崖の上。視線を下方に移せば、大渓流の傍に家屋が点在しており、米粒大の人の姿も窺える。集落の辺りは大岩に囲まれており複雑な狭路が一本、外に続いているのみ。山紫水明。深い自然に阻まれ半孤立状態にあるこの場所は侵し難く神秘的な雰囲気が漂っている。しかし新鮮味の中に混じる既視感。わたしはこの場所を知っていた。どこかで確かに。
 ――互いの本陣への道を二つの山と険しい崖が阻んでいる単純な地形だ。
「あ……もしかして」
 蒙恬と軍略囲碁をした時の、あの盤上の地形にそっくりだ。単なる偶然ではないだろう。
「ちょうど、あの集落には五十ほどの人が棲んでいる。五十といえば軍略囲碁で使った駒ひとつぶんの兵力くらいかな。こう見ると現実味があるでしょ? 俺たちが簡単に弾いた駒が、どれほどの人間を殺すことに相当するか」
 わたしが未だこっそり蒙毅の書斎に通って兵法書を読み漁っていることを知っていて、敢えてここに連れてきたのだろうか。ばつの悪い思いをしながら蒙恬の言葉に頷き、眼前の景色を眺望する。
「じいちゃんに何を吹き込まれた?」
「そんな言い方……蒙驁将軍はわたしに道を示してくださっただけです。いずれ呂不韋様が選んだ相手に嫁ぐであろうことは決まっていますし、蒙家にも花嫁修業の一環でお世話になっているのは重々承知しております。けれども知識は一生物です、いつかきっと役立ちましょう。何かあった時の為と考えれば決して悪いことではないかと。それにわたしは亡父に近づきたい、ただその一心で」
「甘いな。その知識故に君の御父上は殺されたというのに」
 ぞっとするほど拉げた低い声で突きつけられたのは、蒙家の団欒の中に薄れていた苦い記憶。説客であった亡父はその知識ゆえに殺された。運命を翻弄したのは彼自身の生業であることは言を俟たない。そして愚かしくもわたしはその影を追い求めている。それを止めようとする蒙恬の思案は真っ当だ。しかし己の中に判然としない理由が在る。
「君は自己尊重性が低く寛容で流され易い。しかし譲れないものに対しては梃子でも動かない一徹者の節がある。万が一その知識を活かす立場に就いたとしても、誰かにその性格を利用されることだろう」
 天の啓示のように淡々と述べられる言葉にはやけに真実味がある。まるでわたしの未来を予見されているような気がして悪寒が走った。
「本気ならば今のうちに手を引いておくべきだ。呂不韋の庇護下にいる君は、そんな危険な目にさらされずに生きていける選択肢がある。ならそれで良いじゃない」
「どうしてそこまでして止めようとされるのですか。わたしのような人間にも学ぶ自由はあるはずです」
「友人だからっていうのは狡いかな。どうでもいい人なら止めないよ。でもひと時の好奇心に駆り立てられて茨道を進もうとしている君を、無視できるほど不仁じゃない」
 普段は気怠そうに垂れている彼の目尻が刃のように鋭く尖っている。まるでわたしの心を抉じ開けんとばかりに。目も、口元も、少しも笑ってはいない。
 はじめはほんの興味だった。いずれ輿入れする身、夫に尽くす者として余計な悟性は不要である。愚鈍なほどに従順で、淑やかで。ときに舞や詩で興を添え、そして何よりも健康な男児を産むことができれば、それだけでわたし自身の価値は決まる。疑いもしなかった。盲目に信ずることこそが呂不韋への忠義であったから。
 しかしこの国で、自らの才幹で権力を得た女人たちの存在は、そんな凝り固まった観念を払拭してしまった。息絶える父の前に無力であった己の悔恨を呼び覚ますには十分だ。わたしは力が欲しかった。それは何も富や権力などではなく、たったひとり、大切な人と共に生きるために、この柔弱な体躯であっても打ち振るえる矛戟。
 認めていただかなくとも結構です。
 喉元までせり上がってきた憤懣。しかしすんでのところで理性が働き、飲み込んだ。理解されずとも構わないと独りで抱え込んでしまっては、また同じ事の繰り返しだ。たとえ正反対の持論を有していようとも、蒙恬がこんなわたしの為を思って真摯に説得してくれていることを忘れてはならない。だからこそ受け入れてもらわねば。
「……ひとまず今日は戻りましょう。市へ寄って帰るとなるともう時間がありません。話の続きはいずれ必ず。逃げませんと約束致しましたから」
 たった一人の肉親を喪い寄る辺なき身となった絶望は、蒙恬には想像もつかないことだろう。父の存在はわたしにとって光であり、世界を彩るすべての源だった。救える可能性が僅かでもあったならば一身を犠牲にしても厭わなかった。それほど悔いていた。あんな思いをするのはもう二度と御免だ。


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