上元の佳節を終えてから早十日ほどが過ぎ、めでたい祭りの余韻は徐々に薄れつつあるが、邸は変わらぬ活溌さに包まれていた。楽華隊の面々が帰還してから、広い前院からは稽古をする兵士たちの声が聞こえ、夕餉の席は殷賑とした雰囲気が漂っている。
自分はといえば、正月が終わってしまえば特にすべきこともなく、近頃は空いた時間の殆どを蒙毅の書斎にあった様々な書を読むことに費やしている。亡父の死を思い出してしまうからと避けていた、文字を読むと言う行為に対する抵抗感はとうに薄れた。むしろ知識を貯め込むのは好きだと自覚できたのは良いことだ。
塞いだ小窓の隙間から甲高い音を立てて風が吹き込む。染み入る寒さに深衣の襟元をきゅっと締めて縮こまりながら書の文字を追っていると、部屋の入口から人の気配を感じた。
「おはよう。」
すぐに布で隔てた向こう側から蒙恬の声が聞こえて、慌てて飛び起きた。乱れた髪を手櫛で整え、読みさしの書を無造作に伏せてから急いで声の主に駆け寄ると、彼は「林孟が探してたよ。納屋に居るって」と告げた。林孟とはこの邸の守衛長を務める兵の名である。見上げるほど大きな体躯に加え槍の名手でもあり、精鋭達とその腕を比較しても遜色ない。彼はかつて楽華隊の一員であったらしいが、わたしの知る今の彼は謙虚で物静かな青年である。外出の際に何度か護衛を引き受けてくれたこともあり、気安く接せられる間柄だ。
蒙恬がこの部屋にやってくるなど珍しいことだったから喫緊の用があったのかと思ったのだが、ただ言伝を預かっただけらしい。安堵したわたしは彼に礼を述べてその場を後にした。
納屋に入ると、使用人に混じって肉や魚を紐に括り付け、梁に結んでいる林孟の姿が目に入る。雪や霜ですぐに痛んでしまうため、この時期になると保存食を干すのはもっぱら屋内である。背伸びせずとも梁まで手の届く彼の長身は使用人たちに重宝されているようだ。
「林孟。呼ばれて参りましたよ。どうされましたか?」
そう話しかけると、彼は軍部に所属していた頃を彷彿とさせる俊敏な動作でこちらに向き直った。
「様。私室に伺うのは不行儀かと思い、蒙恬様に言伝を頼んだのです。御足労をお掛け致しました。ご多忙の中大変心苦しいのですが、書簡を代筆していただきたたく」
「わかりました。ちょうど暇を持て余しておりましたから、お気になさらず」
いつだか二人きりで市場へと向かう道中の与太話で、久しく家族に会っていないからたまには田舎に帰らなければと漏らした林孟に、書簡を認めてみてはどうかと勧めたことがあった。すると彼は昔から武芸ばかりで学も無く、自分の名前しか書けないと恥ずかしそうに呟いたものだから、いつも世話になっている礼にと代筆を申し出たのだ。それからたびたび、林孟は家族と書簡のやり取りをしている。幼い頃から培った技術が今こうして人のために役立っていると思うと心底嬉しく、わたしは笑顔を浮かべて彼に返事をした。
「かたじけない。これで田舎の家族も喜んでくれましょう」
「いいえ。またいつでも声を掛けてください」
一仕事終えて蔵に道具類を仕舞い、晴れ晴れしい気分で来た道を戻る道中。わたしは火鉢の火を消すことも、乱雑した部屋の中を整理することもすっかり忘れて、その足で納屋へと向かってしまっていたことにふと気付いた。自室の入り口を覆う帳は捲れたまま。もしも強い風が吹き込んで火鉢が倒れてしまっていたら、とそこまで考えを巡らせたところで、わたしは衣の裾をたくし上げて回廊を駆ける。
息も切れ切れに自室に辿り着くと。
「火の用心はしっかりね」
「蒙恬……! ありがとうございます」
帳は下ろされ、火鉢の傍には蒙恬が座っていた。どうやら見張ってくれていたようだ。良かった、大事には至っていなかった……と胸を撫で下ろしたのも束の間、真冬だというのにわたしの背にじっとりと気味が悪い冷や汗が流れる。礼を述べて彼の方を見遣るとその手には書が握られていた。紛れもなく自分が先程まで読んでいたものだ。
「兵法書……ね。随分物騒なものを読んでいるな。戦に興味あるの?」
心なしか彼の目は少しだけ、冷ややかな気がした。また危ないものに首を突っ込んでいると思われているのだろうか。興味はあるが、それだけだ。その知識を使ってどうこうしようというわけではない、と言い訳をしようかと思ったが、言葉にするにはあまりにも不自然な間が空いてしまっていた。
「ええと、怒っていますか?」
「あまり好ましくはないな」
「……」
「って言いたいけど、予想以上に知識をつけていて驚いた。どう見てもこの内容は素人が簡単に理解できるようなものではない。おいで、。少し見せたいものがある」
蒙恬はわたしの返事を待たずに牡丹色の深衣を翻して立ち上がった。今度こそ火の始末をして、急ぎ足で背中を追う。長い回廊を抜けて辿り着いたのは彼の私室。正月の夜に一度だけ訪れたことがあるこの場所は陽に照らされ、その全貌が篤と伺え、まるで初めてやってきたような感覚に陥る。小綺麗に整頓された内装に、蒙毅の書斎ほどではないが勉強道具らしきものが置いてあるのも目に付く。部下や傅役に遊んでばかりだと評される彼は歴とした武官で、更には前代未聞の早さで軍師認可を得た文武二道の達者なのであるという事実をまざまざと見せられた。
蒙恬は隣の書斎から木製の台座と、見慣れない小道具のようなものを取り出した。玩具だろうか。それにしては精巧な造りをしている。何を企んでいるのか、そもそも彼はこのようなものを引っ張り出して遊んでいる暇などあるのだろうか? 今朝もその傅役が彼を探して大声を上げている姿を見たばかりだ。
「差し出がましいかもしれませんが、蒙恬はわたしばかりに構っていて良いのですか? 楽華隊の皆様は毎日鍛錬に励んでおられますが」
「ああ、いいの。俺は稽古とかしなくても強いから」
「はあ。そうですか」
心配は一瞬で杞憂に終わった。日々鍛錬に励む者からしてみれば怒り散らしたくもなるような台詞に違いないだろうが、それでも憎めない。蒙恬は凡人の前に立ちはだかる努力の壁を何気なしに飛び越えられる、純然たる天才である。現に兵士たちのひとりも彼の素行を咎めていない。心配はしているが。
「貴方様ほどの方であれば真面目に稽古をしていればすぐに出世できましょう。千や三千、五千の将……いずれ将軍になり、楽華隊も楽華軍になる。夢があると思いませんか?」
「今はまだこのままで良いかな。ていうか俺さ文官志望なんだよね」
「なんと勿体無い……」
つくづくこの世は不公平で溢れていると思い、嘆息した。
二人の間に置かれた台座は正方形の木板が張り合わされてできており、規則正しい目が彫られていた。手渡された桝の中には粘土を焼いて丁寧に研磨した触り心地の良い石が入っている。烏鷺の碁盤であることは察しがついた。二色の駒を盤上に交互に打ち、それぞれ石で囲んだ領域の広さで雌雄を決する遊戯だ。烏はからす、鷺はさぎという鳥の名で、碁石の色をそれぞれの羽色に見立てそう呼ばれている。
「やったことある?」
「いえ」
「簡単だから少し打たない?」
わざわざ部屋に招き入れて烏鷺の相手をさせるという彼の意図が汲み取れず、釈然としないまま頷いた。初心者であるわたしを気遣ってか、碁盤にはあらかじめ六つも置き石がされていた。簡単だとは言うが、これといった規制が少なく自由が利くぶん、打つ手は何通りもあり非常に奥深い。当然のように凡人のわたしが頭を捻らせて導き出した作戦はすべて蒙恬に筒抜けで、時折助言を貰いながら打ち続けること数刻。彼に勝利する頃には、午下の陽射しは薄まっていた。長らく丸めていた背中をぐっと伸ばし、息を吐く。ようやく終わった。そう思ったのも束の間、蒙恬は碁盤をひっくり返した。
「次はこっち」
「もう勝負はつきましたが」
「今までのは下馴らしだよ。本当の勝負はこれから」
先程よりも目の大きな盤面に、蒙恬は烏鷺とはまた違う小道具を並べだした。それは無骨な岩のような置物であったり、真四角の駒であったり、はたまた人間の姿を模した人形であったりと様々である。そうして一頻り作業を終えた蒙恬は、朱色の漆塗りされた駒をわたしにくれて寄越した。つやのあるそれは無機的な盤上で一際存在感を放っている。
「この朱色の大将駒がそれぞれ俺と。そしてこの人型をした部隊駒が兵五十人としよう」
そう述べる彼の手には黒に塗られた同じ造形の駒が握られている。成る程。これからこれらの駒を使って戦を模倣した陣取り合戦をするのだ。地の利を生かし、砦を守りながら、大将たる朱い駒を奪われぬよう。戦略に重きを置き駆け引きを行うこの遊戯は俗に軍略囲碁と呼ばれているらしく、地形や兵力比、定め事の自由度によっていくらでも応用が利くため、軍師教育の一手段としても広く用いられている。しかし何故わたしとこの勝負をしようと考えたのだろうか。
「互いの本陣への道を二つの山と険しい崖が阻んでいる単純な地形だ。兵の戦力は五分。勝敗を分けるのは地の利と、補給線の運用といったところかな。の兵は三千で俺の兵は……そうだな。二千で良い」
「二千ですか?」
軍略囲碁は実際の戦で起こり得る要素を単純化した机上の空論である。よって雌雄を決する一番の要素は兵力差となるのだが、蒙恬の口ぶりではわたしとは千の差があっても十分に戦えると言っているようだ。己の勝利を確信している、いやむしろこれから起こり得ることをすべて見透かしているかのような余裕を湛えている彼の表情は、わたしの中に在る中途半端な矜持を嫌に刺激した。
「公平性を保つためにはこれくらいしなきゃいけないからね」
「わかりました。受けて立ちます」
わたしは冷静を保ちながらそう答えた。心理戦はもう始まっているのだから、相手の調子に乗せられてはならない。
手元にあるのは人型を模した六十個の駒と、大将である自分の駒。これらを使って相手の大将首を取る。盤の中心には山々を模した障害が連なっていて、相手の本陣へ繋がる道はそれらを回り込む左右と、中央に設けられた狭路のみ。鍵となるのは険しい山道「険」、崖に阻まれた「挂」という二つの地形。山の中に兵を潜らせるか、または狭路を通り相手本陣へ駆け抜けるかの二択を迫られる。相手より先に「険」の利を得られれば、遠回りではあるが進軍を有利に進められる。攻められれば退却も容易だから、損害は少ない。対して狭路は「挂」であるから進軍は容易であるが退却が難しい。数に押されてしまえば全滅も有り得る。
暫し考えたのち盤上に駒を置いた。それは凡人が考えなしに置いたような簡単な配置である。勝ちたいからこそ、相手がどちらの利を狙おうと機転が利く基本的な配置を選択したのだ。孫氏曰く、凡そ戦いは正を以て合い奇を以て勝つ。まずは正攻法。それから相手を打ち破る奇策を打つ。兵はこちらの方が多いから会戦から奇策を打つべきではない。
「始めようか」
「はい」
駒と駒がぶつかり合う。地の利や戦力差から犠牲となる駒を弾き、彼我の兵数は徐々に減ってゆく。そうして互いの駒を減らし合い続けること数刻。驚くべきことにわたしと蒙恬の兵は同数になっていた。千の差がついに埋まってしまったのだ。残りの部隊駒は十。だが戦況は絶体絶命だった。蒙恬の攻めを一方的に回避するばかりで、こちらの兵は一歩も前進できていない。
「左軍を攻めたら中央軍に挟み打ちされる、後退すれば本陣をやられる。回避したら……こちらの兵が一方的に減るだけか」
諦めるわけにはいかない。今のわたしは盤上の自軍を総べる将である。それほどの心持ちで挑んでいるのだ。勝利は絶望的であるが、辛くも兵数は拮抗している状態だ。最善の手を打ち続ければ犠牲を最小に抑えられる、形勢逆転の一手も望めなくはない。
「左軍を留めて右軍二百を中央へ」
「俺の方に険の利がある。削れても百五十といったとことかな」
「わかりました。では中央軍百五十を討ちます」
択んだのは奇策と呼ばれる部類に入るであろう戦法だ。それまで窮迫を避けようと動いていたわたしは敢えて自ら己の兵を犠牲に、いずれこちらの大将首を獲る動きをすると見た相手部隊の壊滅を優先した。果たしてこの策が吉と出るか凶と出るか、無学なわたしにはまるで想像もつかないが、蒙恬がその顎に手をあてて暫し考え込んだ様子を見るに悪い手ではなさそうだ。それどころか最適解であったのかもしれない。これならばまだ戦い続けられるはず――。
「はい。これで詰みだね」
なんて期待を抱いたのも束の間。蒙恬はパチンと強い音を立てながら駒を進め、涼しい顔でそう言い放った。彼の言う通り、同じ盤面から何度戦略を練って攻めても、相手の本陣にすら手が届かず、朱色の大将駒は呆気なく奪われてしまう。盤面を見れば惜敗にも見えるが、実際に蒙恬を相手にしたわたしにはそれが惨敗であることは自明である。
「の戦策は強いて言葉にするならば弱者の手だ。大将駒を奪われないように本陣の守りを固めすぎて、肝心の攻めが疎かになっている。現に俺の領地には侵冦すらできていない」
「はい」
「……と、柄にもなく真面目な話をしたね。もし知恵比べをしたければ、俺がこうしていつでも相手をしてあげるから。だから君はこれ以上何も知らなくて良いってことを言いたかったんだ。知ろうとしなくて良いんだよ、兵事なんて物騒なことは」
いつになく真剣に蒙恬はそう言った。
「手合わせをして改めて感じた。やはり慈悲深く優しい君には向いていない」
琥珀色の瞳が僅かに揺らぎ、その唇が何か後に続く言葉を発そうとして震えを見せる。怒りにも恐れにも似た負の感情が嫌でも見受けられた。織り交じる苦笑めいた表情は彼なりの優しさであろう。「好ましくない」と言い放った彼の含意に従うべきか、或いは好奇心のままに輿入れまでの限られた学びの時を謳歌するか。わたしの心は思い迷っていた。