無意識のうちに「寒い」と何度も口に出してしまうほどに、全身が粟立つほどの凛冽な空気に満ちた日だ。かつて馨しい花々が咲き乱れ、生命の息吹に溢れていた蒙家の庭は、すっかり寂れてしまった。枯蓮は茶褐色の花托を痛ましく垂らして、池の香魚は薄氷の下で眠りに就こうとしている。冬はもう眼前まで迫っていた。
庭石に降り積もる落葉は、簡単に風に煽られて散らばってしまい、いくら掃いてもきりがない。桶いっぱいに集め、厨房へと運び、竈に入れて再び庭に戻る頃には、無情にも元の風景に戻っている。邸の者は冬を越す準備に追われていて、野菜を漬けたり、肉や魚を干したりと日々忙しそうにしていた。そんな彼らの助けになればと思い、手伝いを申し出たのは良いが、ほとんど非生産的な作業に徒労感を覚える。思わず重たい溜息を吐くと、寒空にくっきりとした白煙が立ち昇っていった。
そんな陰鬱とした寒威の到来に反して、嬉しい報せもあった。
正月に合わせて蒙恬が咸陽に帰ってくるのだそう。彼が邸に宛てて寄越した書信には、わたしの身を案ずる短い一文が記されていたと聞いて、長らく喉につかえていた溜飲が下がった。今はただ、会いたかった。非礼を詫びて、友人としてまた一から関係を築くことができれば嬉しい。知って欲しいことが沢山ある、逆に彼のことをもっと知りたいと思っている。久しぶりに会ったらまずは何を話そうかと、考えるだけで時は瞬く間に過ぎて行った。
咸陽の冬は厳しい。朝から晩まで雪が降り、時折肌膚を鋭く刺す風が容赦無く吹き荒れる。都の外へ足を踏み出せば氷が張った小川と葉を落とした喬木の森。雄大な自然に溢れていたはずの景色に、既に生命の痕跡はどこにもなく、細い寒鴉が一匹、腐った死肉を貪っているのみ。
当然、人間の行動も大きく制限される。蔵に貯め込んだ穀物や保存食などの限られた食料で日々を凌ぎ、雪解けを待たねばならない。この頃はじっと邸の中に閉じこもって、衣服の仕立て方を使用人に教わる毎日だった。火鉢の炭も油も勿体無いから、昼間はなるべく皆でひとつの部屋に集まるようにして、日が暮れてしまえばすぐ眠るようにしている。たまに雪の重さにたわむ裸になった木の梢に、饐えた柿餅の欠片を刺しておいて、それを目当てにやってくる鳥たちの姿を小窓から眺めるのが唯一の楽しみだ。
そのような日々をひと月あまり過ごせば、いよいよ正月だ。人は暦に従ってそのはじまりとおわりを明確に定めて生きていて、殊に年の継ぎ目の慶祝事は遥か古代から重んじられている。裕福な武門の蒙家でさえ冬場の暮らしには厳しいものがあるが、迎春の準備は堂々と豪奢に執り行う。年の瀬が近づくにつれ、わたしも邸の装飾や除夕に向けた食材の調達に朝夕奔走するようになった。
光阴は箭の如く。この時期になると一年という時間がいかに早く過ぎ去ったかを思い知らされる。昨年のわたしには蒙家で暮らすことになるなんて想像もつかなかった。同様に一昨年のわたしは父の命が奪われてしまうなど予想だにしていなかった。来年の自分はまだここに居るのだろうか。きっと新たな出会いに揉まれ、多くの経験をし、それなりに大変な思いもすることだろうが。それでも少しは幸せだと思える日々を過ごしているだろうか?
正月元日。蒙家で暮らす人々は総じて身を正し、接神を終えたその足で、門戸から前院を抜けて邸の入り口へと続く道にずらりと立ち並んだ。悴む手をぐっと握りしめながら、待ち続けること半刻。冬風に紛れて鳴り響く馬蹄の音に胸の鼓動が早まる。
蒙恬そして楽華隊の到着に、邸は大いに沸いた。和やかな雰囲気の中にどこか粛々とした緊張感が漂っていた蒙驁の帰還とは異なり、楽しげな雰囲気が溢れるその様子は蒙恬の人柄が魅せるものなのだろう。
「おかえりなさい! 若様!」
「蒙恬様! お待ちしておりました!」
蒙恬の周りには、馬に乗ったその姿が視界の奥に埋もれてしまうほど沢山の人だかりができていた。再び彼と会った時は開口一番に謝罪を述べると心に決めていたのだが、今はまだ話しかけられそうにない。それぞれの持ち場に戻る使用人に続いてわたしも去ろうとしたその時。ふと蒙恬と目が合ったような気がした。
「あ……」
再び相見えてもすぐに言葉も交わせないこの距離が、少しだけ寂しい。
幼い頃から彼の成長を見守ってきた使用人たちに比べれば、たった半年ほど前に出逢ったばかりのわたしは、まだ遠くにいる。いくら彼が己の心を掻き乱す存在であろうとも、相手からしてみればわたしはただの居候。それも中々に厄介な立場の。その事実に、僅かに胸が詰まる。
再会を喜ぶ人々を沸き立たせるように、空気を裂く大きな音を立てて燃ゆる庭燎。硝煙の匂いに混じるは必勝祈願の声。親子三代にわたり武官を輩出している、蒙家ならではの催しである。
昨年は呂不韋の邸で正月を過ごしたが、これとはまた異なった毛色の盛大な宴が開かれた。肩が痛くなるほどに重たい錦の衣を着させられて、昼も夜も区別がつかない絢爛豪華な空間で、頭が痛くなるような酒と噎せるような香に包まれながら過ごしたことを覚えている。何日も続いた宴には諸国の要人も多数招かれ、そこには影の権力が深く絡まり幾重もの思惑が交錯していた。そのような場であるから当然のように、唐突に人が消える。慰み者にされた舞妓が数日後に奴隷商人に売られていたり、はたまた薄氷が張る庭の池から慶事の美しい衣を着たいくつもの水死体が出てきたこともあったりした。あれに比べれば規模的には矮小であるが、汚濁まみれの饗宴よりもこの邸で過ごす正月はずっと清らかで温かい。
大広間は人で溢れ返っていた。今日は無礼講である。いつもは端のほうで静かにしているわたしも、酒が入ってご機嫌になった使用人たちに連れられて楽華隊の兵士たちの間に押し込まれ、恥ずかしくなるほど散々ほめそやされた。
ふと蒙恬の方を見遣ると、彼も自軍の兵と楽しそうに笑いながら酒を飲んでいた。淡い色味を帯びた髪は少し伸びていて、背もいくらか高くなっている。
半年前の彼の姿が徐々に塗り潰されてゆく。わたしの知らない蒙恬がそこに居るみたいだった。もう彼は自分のことなどまるで気にしていないのではないか、という思いさえ浮かんでくる。現にあれから一度も目が合うことはない。少しでも仲を深められたなんて思い上がっていたのはわたしだけなのかもしれない。
「ほう。さては蒙恬様が気になりますか?」
「……楽しそうなご様子だと思いまして」
わびしさを感じるわたしの心境など露知らず、隣で酒を飲んでいた兵が何か意味を含んでいるような口調でそう言った。
「ええわかります。若様は眉目秀麗ですからねえ。街に出れば若い女性はまず決まって釘付けになるんですよ。もうあからさまに」
傍から見ればわたしもその「若い女性」に含まれているらしい。異性としてお近づきになりたいなどというつもりは無くて、ただ以前の確執を解きたいだけなのだが、ここで否定してもますます怪しく映るだけだ。喉まで出かかった言葉を飲み込み、曖昧な返事をする。仮に蒙恬自身からもそう思われていたとしたら、呂不韋の養女という肩書きがあるぶん、わたしは煩わしい存在であることだろう。
夜の帳が下りても未だに広間は賑わっていた。隣でずっと酒を飲んでいた楽華隊の兵は既に酔いが回っており、大袈裟な口ぶりと興奮した面持ちで、わたしに向かって戦の武勇伝を延々と話している。同じ話を何度も。何度も。
「それで俺がその隙に敵の百将の後ろに回って、こうスパッと首を刎ねてやったってわけよ」
彼は危うく酒杯をなぎ倒しそうな大振りな動作で戟を振るう真似をする。はじめの慇懃な口調はすっかり崩れていた。酔った人間の相手をするのは楽ではない。わたしは酒を飲んでいないから猶更だ。とうに聞き飽きた話に愛想良く頷き続けるというのは少々疲れる。しかし戦線で常に死と隣り合わせであった彼らが今日という日をどれだけ心待ちにしていたかと思うと、その嬉しそうな表情をすげなくあしらうことなどできるはずもなく。
やがて呂律も回らなくなった兵は桌に突っ伏してそのまま動かなくなってしまった。茹だったような顔で酩酊状態に陥った彼に、わたしはかつて蒙驁がそうしてくれたように、自身が羽織っていた上衣を掛けた。それから痺れた足を引き摺るようにしながら静かに腰を上げる。あれほど盛り上がっていた宴の賑やかさは徐々に薄れ、大広間の人間は酔い潰れて床に寝転がる人とそれを介抱する人の二役に分かれていた。
ねっとりと身体に絡みつくような、酒精の香りが満ちた空気から逃れると、肌を裂くような冷気が襲い掛かる。朧月の僅かな明かりだけを頼りに、片手で壁を伝いながら自室へ歩み進めれば、前方からひたひたと足音が聞こえた。暗闇で人とすれ違うことに緊張を覚えながら恐る恐る顔を上げると、そこにはこちらを見据えたまま立ち止まる人影が。
「?」
わたしの名をそう呼ぶのは亡父と、それから――。ああ、これは慶賀すべき日がわたしに魅せてくれた幻ではないだろうか。雲間から差し込む月光が漸次にその姿をはっきりと浮かび上がらせる。彼はその端正な顔を一際引き立たせる長い睫毛をゆっくりとしばたいた。
「……蒙恬様」
かつて同じ時間を共に過ごした間柄であるはずなのに、その距離感は未だ測りかねる。互いの息遣いが聞こえるほどの至近距離で、わたしは彼と見つめ合ったまま、再会の言葉を必死に考えていた。お久ぶりです。息災でしたか? 口調はこれであっているだろうか。もう少し砕けていたかもしれない。……ではなくて。それよりも先に伝えるべきは身勝手なわたしを許し、あまつさえ歩み寄ろうとしてくれた、彼への謝罪である。
「以前は申し訳ございませんでした。貴方様のご厚意を無下にしてしまって」
絶対に逃げないと蒙驁に言伝を頼んだからには、わたしは蒙恬に真正面から向き合わねばならない。そう思って深々と頭を下げると同時に、なんと彼も口を開いた。
「前はごめん。君の気持ちも知らないで」
それはわたしを咎める言葉ではなかった。
「え……?」
まさか逆に謝られるとは思ってもみなかったわたしは、顔を上げて彼を見る。
「謝られるようなことなんて何も」
そこまで言いかけたところで、蒙恬はこの重たい雰囲気を払拭するように花笑んでみせた。
「よし。これでお互いにごめんなさいは済んだね。寒いから中に入って飲み直そうよ」
蔵から酒を貰ってきたのだと、わたしの眼前まで持ち上げた酒瓶を嬉しそうに揺らして見せる彼。大広間は既に酔い潰れた人間が累々と転がっているが、この男からしてみればまだ物足りないらしい。確か昼過ぎから飲んでいる気がするが。
「飲み直すもなにも、わたしは飲んでいません」
「あーそういえば俺の隊の兵に絡まれて大変そうだったもんね。まあ積もる話もあるし付き合ってよ」
柔らかな夜の光も相俟り、その肌は繊細な白磁器のように見えて、とても酒精が巡っている人間の体とは思えない。大した酒豪ぶりだ。それよりもわたしが楽華隊の兵に絡まれているところを見ていたらしいことにいくらか安堵した。気にしていたのは自分だけではなかったようだ。蒙恬の誘いには二つ返事で了承した。わたしも話したいことが沢山ある。酒は、あまり得意ではないけれども。
ここならきっと誰にも邪魔をされないだろうからと言われて招き入れられたのは、東廂房にある蒙恬の私室だった。同じ棟には他に蒙武の部屋がある。蒙家の総領たる人間に与えられた場所であるから、人通りは少なく、彼の言う通り邪魔は入らないだろうが、だからといって赤の他人であるわたしが足を踏み入れるのは如何なものか。しかし迷っているうちに、上機嫌な彼に手を引かれて部屋に入るように促されてしまった。
行燈の淡い光に照らされた室内は、派手な彼の装いとは反して質朴で綺麗に整頓されている様子である。適当に座ってと言われた通りに腰を下ろすと、彼は行李から牡丹色の深衣を取り出して、わたしの背に掛けた。
「うちのに貸したんでしょ? ありがとね」
「あ……いえ」
小粋なその仕草に思わず惚けてしまっていた。頬に溜まる熱に、わたしは途端に恥ずかしくなってそっと顔を伏せた。果たしてこれは友人としての適切な距離であるのだろうか。産まれてこのかた異性どころか同性の友人すら持ったことがないから判別がつかないが、少し、近いような気もする。蒙恬がそのようなことを気にしていることは絶対に無いと断言できるけれど。……と内心どぎまぎしているわたしに対し、彼は平然と杯に酒をなみなみと注いでいた。
「はい。かんぱーい」
「か、乾杯」
杯に顔を近づけると、嚥下するまでもなく酔ってしまいそうなほどに強い香りが鼻腔を支配する。
酒を飲むのは何年ぶりだろうか。あの時もまた今日のような寒い日のことだった。露宿も珍しくなかった厳しい二人旅の最中。寒さに打ち震えるわたしの体をどうにか温めようと、厩の一角を貸してくれていた邸の主人に頼み込んで亡父が酒を貰ってきたのだ。これを飲めば温かくなると必死になって言い聞かせる父に圧し負けて口に入れてみたものの、束の間、喉を焼くような衝撃が走り、思わず吐き出しそうになった。
酒精の独特な味はあれから苦手で避けていたのだが、酒戻しはせぬもの。この期に及んで「要りません」と突き返すのは失礼極まりない。それに歳を重ねた分、あの頃よりかは酒に強くなっているはずだ。
息を止めて酒杯のふちにそっと唇をつける。冷たい蔵で眠っていたはずの液体は瞬く間に烈しい熱を持ち、ひとたび嚥下すれば全身をいなずまが駆け巡り、喉や鼻から抜ける息までもが体を内側から焼いているようだった。
「良い酒なんだよ。美味しいでしょ?」
「うーん……あまり慣れていないからでしょうか、味どころではなくて」
いくら彼がその手で注いでくれたものとはいえ世辞でも美味しい思える味ではなかった。言葉を濁したわたしに彼はくすっと笑いながら、全身を包む火照りも、地に足がついているのかもわからない浮遊感も、すべて引っ括めて、いつか酒を美味しいものだと思える日が来るだろうと言った。さほど歳の離れていないはずの蒙恬が大人びて見えるのと同時に、来年には笄礼を迎える己の未熟さが浮き彫りなった気がして、少し無理をして酒杯を呷る。喉を駆け抜けたのは、相も変わらず不快感だけだ。
伝えたいことが沢山あったはずなのに口下手なわたしと二人きりでは相手が蒙恬であろうと盛り上がるものも盛り上がらない。どちらからともなく、断続的に取り留めの無い話題が飛び出しては、地に落ちた雪のようにじんわりと融けていく。
「少し前にじいちゃんに会ったんだ。そこでのことを全部聞いたよ」
「蒙驁将軍から……」
「珍しく少し説教されちゃってさ。一方的な態度を取って悪かったって反省した」
「そんな。あの時に蒙恬様が仰っていたことは正しいです。わたしは蒙家に無理を言って受け入れて頂いた立場ですので、如何なる理由があれ、貴方様や蒙武様にご迷惑をお掛けする行為は慎むべきでございました。そのうえ命を助けていただいた身でありながら、あのような失礼極まりない反駁までしてしまって」
言葉にすると、過去の自分がどれほど愚かな振る舞いをしてしまったかが痛切に感じられる。
「そのようなわたしに貴方様は寛大なご厚情を寄せてくださいました。ですが、あろうことかそれまでも蔑ろにしてしまい……本来であればこうして言葉を交わしていることも許されないほどでございますのに」
「わかった、わかった。お互いに謝るのはもう止めにしようか。俺は何も気にしていないから」
無礼を働いた相手に宥められるなんて情けない。己の至らなさで圧し潰されてしまいそうだ。
そのような懺悔をしているうちに体は微醺を帯び、まるで頭の中に石くれ詰められたかのように重く思考がぼんやりとしてきた。わたしの体が、わたしのものでないような気怠さに襲われている。制御しようと努めて冷静に振る舞おうとするも、挙措のひとつひとつが大雑把になって、それでいて不思議と口だけはやけに饒舌になっていた。
「蒙恬様が邸を発たれてから胸にぽっかりと穴が空いたようで、何も手につかず……そんな折に蒙驁将軍から、貴方様がわたしのことを話してくれたのだと伺って戸惑いました。けれども、とても嬉しかったんです。こんなわたしを見限らずにいてくださっていたなんて。それからはずっとお詫びを申し上げたくて。ずっとそのことだけを考えていて。だから早く会いたくて」
「へえ、そんなふうに思ってくれていたの? 嬉しいな」
薄い唇でゆるりとした弧を描き、どことなく意地悪そうな笑みを浮かべながらそう答える蒙恬の顔は、今までに見たことがない彼の姿のひとつ。さらりと甘い言葉を吐く彼の仕草や表情は、かつてのわたしが知らない色気に満ちている。彼の部下の陸仙という男から特に異性関係に対する放蕩ぶりを聞かされていたから、こうして女性が舞い上がるような言葉を普段から無意識のうちに口にしているのだろうということは容易に想像できた。彼とどうなりたいという感情を持ち合わせていない自分でも、思わず心臓が跳ね上がってしまうほどの妖艶さである。気づけば恍惚としていた己を律するように、両の手で頬を軽く叩いた。
この部屋に来てからどれほど時が過ぎただろうか。光も届かぬこの空間と、体躯を巡る酒精の熱は、確実にわたしの時間感覚を惑わせていた。
酒の肴には似合わない己の過去から、蒙家での近況まで、一頻り話しても未だ夜が明ける気配は無い。しかしわたしの体は確実に、限界に近づいていた。目に映る景色は重く歪み、むかむかする胸の不快感に苛まれ、やがて揺るぐ視界に耐えきれず手をついた。異変に気付いたらしい蒙恬に、咄嗟に双肩を支えられる。
「。大丈夫?」
「水を……いただけませんか」
少し無理をして飲み続けたのが祟ったか、水瓶を手にわたしを抱き起こす彼との距離さえも測れない。喉に静かに流れ込む冷たさをもってしても、酩酊の火照りを少しも掻き消すことはできず、心配そうに眉根を寄せながらこちらを見つめる蒙恬を見つめ返すことでさえ精一杯だった。
「ご迷惑をお掛けしてすみません」
「いやが謝ることじゃない。俺が酒に慣れていない君のことをもっと慮るべきだった。部屋に戻るのも辛そうだし……今夜はここに泊まっていきなよ」
「へ?」
僅かに残っていた理性が警鐘を鳴らす。
「い、いえ……それは」
婚前の男女が、それも互いに体裁には人一倍気を付けなければならない立場である者同士が、たとえ何も無くとも同じ部屋に寝泊まりするのはいただけない。そのような弁えを見失わないほどの判断力は辛うじて残っていた。気怠さが蟠る躯体に鞭を打って立ち上がると、わたしの意を察した蒙恬がやわく肩を抱いて支えてくれる。
外気に触れていくらか気分が良くなると、次にやってきたのは眠気だった。ふあっと欠伸をして瞼をきつく閉じれば、目の端から涙が一筋、頬に線を描いて垂れる。やがて人気の無い内院を抜けて歩き、ようやく自室へと辿り着いたが、肩を支える手は離れない。蒙恬はわたしを寝台まで誘導し、寝苦しくないように帯紐を緩めてから布をかけ、更には傍に水瓶を置いてくれた。至れり尽くせりで恐縮至極である。
「蒙恬」
「うん……うん?」
「ずっと、そう呼びたかったと言ったら怒りますか」
――俺も『蒙恬』で良いよ、俺の父上はの養父の臣であるから立場的にはむしろそう呼ばれるべきだ。
以前彼からそう言われたことがあった。すげなく断ったことまで聢と覚えている。思えば、心を解し瞬く間に距離を詰めてくれた彼に対し、わたしは何も報いることができなかった。ならばせめて友と呼ぶにふさわしい間柄までになったと感じたこの日に、ひとつ、勇気を振り絞ってみても良いのではないかと、酒の力を借りてその名を呼んだのだが。蒙恬からは間が抜けた声が返ってきた。
「あ……わたしってば、また失礼な」
「違う。驚いて拍子抜けしたというか、の大胆さを思い出したというか。酒が入っているせいかな?」
伸ばされた手が頬に触れる。所々に剣だこのある厚い手皮の感触がくすぐったく、思わず目を細めた。平然としているように見えるが、実は彼も酔っているのだろうか。それともこれが「素」なのか。やがて結び目が解けるようにそっと手が離れても、感触だけはいつまでもそこに残っていた。じんわりと熱を持ち、引き剥がそうと思っても離れないむず痒さが。
「仲良くなった印です」
「俺はずっと前からそのつもりだったよ」
「はい。存じております」
去りゆく背中に語り掛けると蒙恬は静かにこちらを振り向いて微笑む。ああ良かった。てらいなく一人の人間として向き合ってくれた彼の優しさに、幾月の摩擦は掻き消えて、わたしの胸は温かさに満ちている。どうかこの友情が確執へと変わることなく、いつまでも穏やかなものでありますように。いずれ来る別離の時まで、この衝突の果てに生まれた清純な関係性を腐らせたくはない。それがわたしの次なる切な願いだ。