浮世夢の如し

  三.在りし日の轍をなぞる・前編

様。お客人がいらしてますよ」
 使用人に声を掛けられ、朝餉の後の満腹感にうっとりしていたわたしは跳ね起きた。邸で羽を休める蒙驁兵たちの間を縫うように、足早に正門へと向かう。守衛が大きな門扉をぐっと押し開けると、軋む枢の音と共に待ち焦がれていた男の姿が現れた。
「お元気でいらっしゃいますか」
「ええ。貴方もお変わりないようで何よりです」
 彼は呂不韋の邸で世話をしてくれていた家僮の一人であり、月に一度ほど、呂不韋からの贈物を届けに蒙家へとやってくる。暫くぶりの邂逅は嬉しいものであったが、同じくらい楽しみにしていたのは男が連れた駄獣の背に括り付けられている行李の中身。門柱に馬を繋いで、二人がかりでそれを敷地の中まで運び入れた。低い身分である彼をこれ以上招き入れることはできず、そこで別れ、わたしはその中身を少しずつ取り出して布に包み、腕一杯に抱えて自分の部屋へと向かう。
「……ふう」
 荷を床に下ろし、独りきりになった空間でわたしは息を呑んだ。これを待ちに待っていたのだ。逸る手つきで布の結び目をほどき四隅を広げると、からんと音を立て転がるそれは兵法書や史書。すべて呂不韋の邸に保管されていたものの写しである。
 亡父と肩を寄せ合って書を読むのが好きだった。その一文、一文字に至るまで彼に授かった大切な宝物にも等しかったから。ゆえにここ一年は文字を眺めるたびに喪失感に駆られてしまって、なんとなく遠ざけていたが、蒙驁に過去を吐露してからそんな悲しみに満ちた記憶と向き合おうと思えるようになった。無理にでも読み書きをして知識を吸収し続けなければ、記憶は瞬く間に削がれてゆくものだと、父は口酸っぱくそう言っていた。その教えに倣って読み慣れたものだけではなく彼の生業であった兵法が記された書も手に取るようにしたのだが、これが意外と面白く、ついには呂不韋の邸からこうして取り寄せるまでになったというわけだ。とはいえ女であるわたしが戦の知識をつけるのは、あまり誉められることではない。勉学は男の道である。そのような無駄なことに時間を割くならば機織りや刺繍を習い針の選び方や糸の取り扱いを身につけるべきだと思われるかもしれない。だからこそ呂不韋や彼に近しい人物に露見せぬよう、たまに蒙家にわたしの様子を見にやってくる彼に密かに命じて、蒙家までこっそり書簡を運ばせたのであった。

よ。随分と嬉しそうな顔じゃな」
 再び庭へと戻り荷を運んでいると、庭の方から声を掛けられた。目を向ければそこには蒙驁の姿があった。庭を彩る百日紅の大ぶりな花房と、雪のように白い彼の髪が優美な対比を描いている。新たな知識との出会いに頬が緩んでいたようで、彼の目にはこの喜々とした感情がそっくりそのまま映っていたらしい。腕一杯に書簡を抱いて再び部屋までの道のりを歩まんとしていたわたしは、はにかみながら、回廊から石造りの階段を下って蒙驁のもとへと歩み寄った。こうして一対一で話すのはじつに久しい。
「実は呂不韋様の邸から書を沢山運んでいただいたのです」
 蒙驁はわたしが腕一杯に抱えた物に目をやって、それから緩慢な挙措で隆々とした腕を組みながらほうっと感嘆の息を漏らす。
「前院に積んであった荷はおぬしのものか」
「はい。申し訳ございません。急いで片付けますので」
「ふむ。あのように沢山あっては部屋が書で埋まってしまうじゃろうに。書斎を別に用意せねばならんの」
「いえ。とても良い部屋をあてがっていただいて、お蔭様でゆったり過ごせております。お気遣いいただきありがとうございます」
 実際に与えられた部屋は自分ひとりで使うには勿体無いほどに広かった。室内には大きな榻に茶器や化粧道具、火鉢など数々の家具調度品が備え付けられていたが、それでも窮屈さはまったく感じられないほどに。
 崇高たる己の権力を笠に着ることなく、傲慢や不遜を一片も見せずに下の立場の者を敬い気遣ってくれる蒙驁に対し、わたしは言下に恭しく頭を下げる。すると手に抱えていた書がひとつ抜け落ちて、庭石に当たり高い音を立てながら大きく跳ね上がった。
「あら……申し訳ありません」
 すぐさま腰を下ろそうとするも、それよりも先に蒙驁が落ちた書を回収してくれていた。厚く広い手に収まったそれは細枝のように小さく見える。そうして拾い上げた書を握ったまま、しわがれた声で「この歳になると腰を曲げるのも一苦労じゃの」と呟きながら、わたしの腕から零れ落ちそうな書をいくつか抜き取った。
「ほれ。前を向いて歩かんと躓いてしまうぞ」
「は、はい!」
 どうやら共に書を運んでくださるようだ。申し訳なさを感じながら部屋までの道を急ぐわたしには、蒙驁が戦場でその老躯をものともせず、勇猛に矛を振るい敵兵を薙ぎ払っていることは知る由も無い。

「散らかっていますが、どうぞ」
 床に開きっぱなしの荷を急いで片付けて、蒙驁を部屋に招く。
 殆ど奇跡のような僥倖で呂不韋の養女となってからも、わたしはかつての貧しい生活の癖が抜けずにいて、物欲も無く、部屋には生活する上で必要最低限の家什しか置いていなかった。天涯孤独となってからはますます活力も失せて、かつて無聊を慰めるために読んでいた書や玩具にも一切、触れずにいた。ゆえに今の部屋の散らかり具合には、己が初めて何かに興味を持ち、のめり込めた、わたし自身の心境の変化が如実に表れている。
「む。これは兵法書か」
「はい。以前、貴方様に過去のことを打ち明けてから、やはり亡父のことを忘れてはならないと強く感じまして。呂不韋様の邸からこれらを取り寄せることに決めたのです」
 単純に軍事力の差が雌雄を決するとばかり思っていた戦に、このような緻密な軍学や兵学が存在し、さまざまな策略が蜘蛛の巣のように巡らされていることを知ったのもつい最近のことだ。とはいえ女人が兵事の知識を得ることは好ましくないというのが一般的な価値観である。蒙驁はともかく他の人からしてみれば決して好くは思われないだろう。この道に通ずるにはあまりにも高く厚い牆壁があった。
「あくまでも趣味として、過去を偲ぶための一手段となればと」
 決して本気ではない。敢えてそう言ったのは、己の旺盛な知識欲にけじめをつけるため。蒙家で世話になっているのは花嫁修業の一環である。呂不韋の為にも節度ある態度を示さなければ、迷惑をこうむるのは受け入れを許諾してくれた蒙武なのだから――と、そのような葛藤を抱える羽目になるほどかつて亡父が見たであろう景色はわたしを引き付けて離さなかった。
 しかし蒙驁はそんな意志を見透かしたような口ぶりで、想像を遙かに超える言葉をわたしに投げかける。
「フォッフォ。もしもおぬしの父が歩みし道を究めんとするのであれば、それができるやもしれんぞ。この国は恵まれておる」
「まさか。わたしは萎え草の如き女の身でございます。非力であるのもさることながら、特別な知識や才なども一切持ち合わせておりません」
「男じゃろうが女じゃろうが関係無いわい。女の武将もおったくらいじゃからの。己を短才だと卑下するならば、今からいくらでも努力をすれば良いだけじゃ」
「女の武将……ですか」
 女人で戦に出る者がいるなど聞いたこともない。武将どころか一兵卒であってもだ。しかし蒙驁が大胆な嘘を述べるとは思えない。
 きっと真実なのだろう。それは己の中の陋習が音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。力も知恵も無い女は、より良い家の男と婚姻を結ぶことが生かし育ててくれた親への唯一の孝行であり、そして自身の幸せである。丈夫な子を産み、夫を支えることこそが役目。そう望まれているのだ。身寄りの無いわたしに救いの手を差し伸べてくれた呂不韋も然り。
 しかし武を生業にする彼女たちはどうか。幼少の頃から男にも負けぬ血の滲むような厳しい鍛錬を繰り返し、そして性別の壁をも超越した力を手に入れ、己の信念のために戦場に立っている。世の偏見や確執に囚われず孤高に生きているのだ。
 わたしの持つ固定観念は、いまや古き時代のものであるのかもしれない。七雄が鎬を削る世の趨勢はめまぐるしい変化を見せている。物の価値を決めるのはいつしか貝ではなく銅の円銭となり、乱れた秩序は律令によって整えられ、国は諸邑に人を封じず、その権限を中央に集約するようになった。たかだか百年ほど前の話だ。これからもきっとたくさんのことが変わってゆく。いずれ産まれ授かった性に宿命づけられた役割さえも、もしかすると……。
「秦は中華統一の大業を遂げるため、いずれ才のある者を多く求むるようになる。武官だけでなく、文官もじゃ。努力はきっと実を成す。おぬしに父のような素質が眠っていれば、案外夢では終わらぬやもしれん」
 そんな世の中で、わたしはどう生きていく? 呂不韋の決めた相手のもとに嫁ぎ、ひたすらに家のために尽くす従順な妻を演じて終幕を迎える人生もきっと悪くはない。けれど、もしも亡父から授かった言語の知識を活かして、何らかの力を得ることができるのならば。わたしはきっと過去の悔恨を少しでも払拭できるのかもしれない。身の丈に合わぬ夢であることは重々承知している。だが闖入者に襲われた父を前に無力であったわたしは、あのとき少しでも自分に力があったならばと何度後悔したか分からない。
 あくまでも夢だ。頭の中で理想を思い描くことは容易いが、現実として為し得ることは難しい。
。おぬし自身が何をしたいのかをじっくりと考えるべきだと思うがの」
「ほんの数か月前であれば、呂不韋様の為になりたいと即答していたでしょう。しかし今は……正直決めかねています」
「よいよい。無理に道を作らずとも、どう生きるかは己がゆっくりと決めよ。幸いにもこの国にはそれを叶える手段があるというだけじゃ」
「ここでお世話になっているうちに、少しずつ知識を蓄えてみます。どのような道を選んでも、それ自体はいずれどこかで役に立つはずですから」
「うむ」
 だが呂不韋はわたしが知識をつけることを望まないであろう。わたしとて恩人である彼を裏切り、悲しませたくはない。蒙驁から与えられた一閃の明光に、素直に手を伸ばせない自分は、やはり武将となった女性たちとは違う保守的な人間なのだ。
「そういえば毅の部屋にあれがあったか」
「あれ……とは?」
 去り際、蒙驁は何かを思い出したように呟いた。
 彼が毅と呼ぶその人は蒙武の次男で蒙恬の弟にあたる人物の名である。わたしと同じくらいの歳であると、使用人から聞いた。彼は兄を追いかけるように軍師学校へと入学し、軍師となるべく勉学に励んでいるらしく、邸には滅多に戻ってこないのだそう。現に一年の半分以上をこの邸で過ごしているにもかかわらず、未だに会ったことがない。

 面白いものがあるという蒙驁の言葉につられ、跡を追って部屋の外へ出る。目的地はこの西廂房の北側で、自分の部屋から然程離れていない場所であった。とはいえ普段は道中で内院へと続く道を曲がってばかりいるから、訪れたことは一度も無い。
 光も届かぬ奥まった一室。邸の者もまったく足を踏み入れないというここは、蒙毅の私室兼書斎であるらしい。もっとも衝撃的であったのはその内装。書を傷めないためか、窓は塞がれており、昼間であるというのに部屋は黄昏時よりもずっと暗い。行李の中身もすべて書物。生活感は一切無い。
「これは……酷い有様じゃの。しかし勝手に動かすわけにもいかぬからな」
 廊下から幽かに差し込む陽の光を頼りに進み、足場に置かれた書物を適当に拾い上げて眺める。兵法書や法律書ばかりだ。内容は難しくて理解できそうにないが、あれもこれも、わたしが呂不韋の邸から取り寄せていたものと似た内容だ。
「毅も暫く戻らぬであろうから好きに使うが良い。優しいあの子のことじゃ。文句は言わぬだろう」
「ありがとうございます」
 蒙驁がその場を去ってから暫く、わたしは書の山を漁っていた。行燈を文机に置き、狭い視界に映る文字を指の先でなぞりながら何度も眺める。使い古されたそれらは文字が掠れ、手垢がついており、幾度となく読み返されたのであろうことが伺える。書斎は物の多さから乱雑に見えていたが、よくよく観察してみればきちんと整頓されていた。たとえば、寡兵の戦法をまとめたものは文机の左側にある行李の中、築城に関するものは棚の三段目右に、といったような具合だ。一括りに兵法とは言い表せるが、蓋を開ければ非常に多岐にわたる知識が織り交ざった複雑な学問である。しかし彼はそれをこの小さな書斎の中に、それらを見事に纏め上げていた。わたしは蒙毅という人物を知らないが、きっと勤勉で廉直な人間なのだろう。そんな持ち主に愛された書物を有り難く拝借し、自室へと持ち帰った。
 はじめは、ほんの少しの興味だったはずだが、次第にそんな言い訳も通用しなくなるほど、わたしは兵法の世界にすっかりのめり込んでいた。呂不韋の邸で過ごした曠日を取り返すかのように、背を丸めて峙つ複雑な知識に向き合う毎日。たまに生じる養父への罪悪感を埋め合わせるため、使用人に刺繍や機織りを教えてもらいながら過ごす生活は満ち足りていた。
 しかしそれと同時に、烏滸がましくも、己の運命を酷く呪いたくもなったのだ。
 充足は次第に退屈に変わり、人はますます強欲になってゆく。知識を追求した先に何も無いと気づいたわたしは、いずれ呂不韋の選んだ男に嫁ぐさだめを受け入れるのが怖かった。蒙驁はわたしに「夢では終わらぬやもしれん」と言ってはくれたが、どうしたってあの呂不韋を易々と説得できるわけがないだろう。彼は決して善良ではない。すべては高邁な欲望のために、どんな我が儘も不義でさえも、あたかも正当かのように、その聡慧さをもって世に瞞着させる、そんな人間だ。しかしそのような男を一概に悪であると割り切ることもできず、それどころか心の底から敬い畏れている己の心もまた、更なる桎梏の枷を打つ要因でもあった。


 蟠る霞の中に、白露に濡れた葉が揺れている。夜明けまでは幾許も無い。
 蔓延る静寂を破ったのは熟練兵たちの鬨だ。質朴な邸の雰囲気とは相反する、輜重を載せた荷車が視界いっぱいに並び、その中央には大将たる蒙驁が堂々と佇んでいる。いつかこの邸に帰還した時と同じように、新雪の如く優しく光り輝く白銀の甲冑を纏いながら。
 蒙驁の御立を報せる早馬があったのは昨日の午中。それから夕暮れ時には、中央から武器や兵站が次々と運ばれてきた。濃密な時間は唐突に終わりを迎えて、湧き上がる寂寥感に追い打ちをかけるように冷たい秋風が背を撫でる。
「もう行かれてしまうのですね」
 そう声を掛けたのは昨日の宵の口のこと。自室に近い回廊の、廂の影。内院の景色を眺めている、すっかり見慣れた背中がぽつんとあって、わたしは思わず話しかけたのだった。
「む。か」
 蒙驁はこれから死地に赴くとは思えぬほど温和な表情をしていた。一見お気楽そうにも捉えられる態度には大将軍としての悠然さが洋々と満ちている。
「次は何処へ向かわれるのです?」
「うーむ。韓の国境付近かのー」
「激しい戦になりますでしょうか」
「判らぬ。だが案ずるでないぞ。この蒙驁、そう簡単に倒れはせぬ」
 きゅっと眉を顰めて不安そうな表情をしていたわたしを見てか、蒙驁は立ち上がり、普段よりも力強くそう言い切った。その巨躯は得々と溢れ出る自信と誇りで、何倍も大きく見えた。戦のことなど何も知らぬわたしが心配するのも差し出がましいと、そう思えるほどに。
「遠きこの地より蒙驁将軍のご武運をお祈りしております。どうかご無事で」
 右手で作った拳の上に左の手のひらをぴたりと被せ、深々と頭を下げる。わたしが彼に贈る言葉はきっとこれだけで十分だ。
「うむ。よ。再び相見えることを楽しみにしておるぞ」
 またいつか。その希望を胸に、わたしはもう一度、強く目を閉じて拳を固く握りしめる。そして姿形の無い何かにいちずに祈り続けた――。
 盛りを終えた虫の声が虚しく、岩のような雲が聳えていた空にはからっと晴れた日々が続くばかり。わたしの心に忘れえぬ熱を、亡父の面影を焼き付けた晩夏は過ぎ行った。人々が惜別と激励の声を上げる。兵も使用人も、男も女も、大人も子供も。開門を告げる鉦が朝まだきの遠くの山々にけたたましく響き渡り、塒から飛び起きた鳥たちがばさばさと翼をはためかせ舞い上がった。
 いざや行かん。空を切り裂く軍馬の嘶きと共に、蒙驁軍はおもむろに前進する。やがてその姿は彼方へ朧に溶け消え、さっぱり見えなくなった。東の水平線には白い陽が燦然たる目映さをもって顔を出し始める。寥々たる、秋の朝だ。

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