浮世夢の如し

  二.血を泳ぐ殉情・後編

 朱夏の面影は日を追うごとに色褪せ、庭の木からは物寂しい蜩の鳴き声が響く。たちまちのうちに月日は過ぎ、夏に入り櫃から取り出した薄衣ももうすっかり用を成さなくなってしまった。
 変わりゆく季節に対して、わたしは何も変わってはいない。心にぽっかりと穴が空いたあの日から何も。
 一度だけ、鬱々とした気持ちを払拭したいと業を煮やして「蒙恬様はいつ戻るのか」と使用人に問いかけたことがあったが、全ては上からの命令だから見当がつかないという、ごく当たり前の答えが返ってきただけだった。
 それから彼のことはもう忘れてしまおうと思った。滅多に帰らない彼との仲に関してそこまで深く悩まずとも、この邸で普通に過ごすぶんには問題無い。使用人たちも相変わらず良くしてくれている。ここで過ごす限られた時間はわたしの人生の一通過点にすぎず、遠くないうちにここを去ることになるのだろうから。……そう思って逃避するしか、この苦衷から解放される手段は無かった。

 その日、わたしは暫くぶりに市場へと足を運んだ。隣には若い衛兵がひとり。彼は、もとは楽華隊に所属しており年若ながら腕の立つ勇士であったが、先の戦で隻眼となり、軍部を離脱して今は邸の警備をする守衛長を担っている。こうして護衛を必ず同伴させるという条件付きではあるが次第に外出を許されるようになり、とうとうこの市場に赴く許可も得た。その背景には、商賈との交渉力を認めてくれた蒙恬とその付き人であったあの老兵の口添えがあったのだと、半歩後ろを歩く彼がそう教えてくれた。
 頼まれたものは穀物や野菜の他、普段ならばまず口にすることは無いような海産物や果実、珍味などの高級食材。本日の買い出しは少々特殊である、というのも邸の主である蒙驁将軍が長逗留していた遠征先から戻ってくるというのだ。竹蓀、龍眼、名前も聞いたことがないそれらの価値は、ずしりと重い円銭が入った麻袋が物語っている。
 そのようなものを取り扱っている商賈は露店ではなく、市場から少し離れた場所に建てられた大きな邸で商いを営んでいた。母屋もさることながら庭も厩舎も立派である。蒙家の使いの者だと伝えると石造りの蔵に案内され、そこで二人して牽いてきた荷車に食材を積んでゆく。瑞々しい果実や風味の良い燻製の香りに交じるのは、遥か遠くに置き去りにされた記憶を揺り動かす潮の匂い。腕に抱えた壺の中には塩蔵された海魚が綺麗にその形を保っている。海から遠く離れた秦ではあまり馴染みの無いそれは故郷である斉を偲ばせるものであった。
 幼少時の記憶はあまり無い。物心というものが自我の原点であるならば、わたしのはじまりは故郷を失った父と二人きりで歩いた旅路である。されども胸の中に溢れる郷愁の念は確かに、生命の濫觴たる大海の、形無い何かを覚えていた。
「その海魚が気になりますか」
「ええ。わたしは斉の出身なのです……どこか懐かしいような、そんな気がして」
 霞がかった昔日の記憶を思い起こしながら口にする。
「それは奇遇ですね。蒙驁将軍も斉で生まれ、息子である蒙武様と共にこの地へ移り住んだのですよ。大殿の宴にいつも海魚が並ぶのには往時を懐かしむといった理由もあるのでしょう」
 衛兵の言葉を受け、回顧の中にかつての故郷の姿を思い浮かべて、眼差しを宙へ向けた。蒙驁将軍。未だ相見えぬその人物との邂逅にわたしの胸は熱くなる。会って一言でも言葉を交わしたい。わたしの祖国を知る人。かつて亡父が見た景色を知る人――。

 中午を過ぎた頃、ひとりの兵士が颯のように転がり込んできた。蒙驁帰還の報せである。それからまもなく邸は大歓声に包まれた。何百もの騎馬が地を蹴り、大地を揺らす。午餉を済ませ満腹感と眠気に身を任せて牀に横たわっていたわたしは、飛び起きて南房へと駆け出し、小窓から正門の方を見遣った。湧き上がる人波、その中央を悠々と進む白銀の甲冑。白老様! 大殿様! 人々の呼び声に弛んだ目元に笑い皺を作りながら満足そうな表情を見せる老将。逞しい兵士たちに囲われてもなおその雄健な体躯はよく目立つ。
 あれが蒙武の父、蒙恬の祖父にあたる蒙驁である。
「うそ。まったく似ていない……」
 思わず失礼な言葉を独り言ちたが、辺りに誰の姿も無いことを確認して胸を撫で下ろした。容貌こそ似ても似つかぬが、その血脈が色濃く受け継がれているのは彼らの赫々たる功績を見れば明白である。
 大広間には豪奢な膳と酒がずらりと並べられていた。昼前に市場から仕入れてきた食材はどこか旧い田舎を思わせるような温かさのある料理に仕上がっている。客人であるわたしの席も遠くに用意されていたから、畏れ多くもそれらを口にしながら横目で蒙驁の方を見遣った。甲冑を脱いだ姿は絵に描いたような好々爺であり、どこか親しみのある柔和な雰囲気を醸し出していた。傅く使用人たちも穏やかな様子だ。しかし大将軍たる崇高な、常人と懸絶した存在感は、蒙驁が打ち立てた偉業をひとつも存じ得ないわたしでも聢と感じられる。

 今日は忘れられぬ日になった。朝から慌ただしい一日だったが、未だ興奮が冷めぬせいか眠気は訪れない。黄昏まで続いた宴の鼻腔に染み入る強い酒精の匂いと、塩辛く淡白な懐かしい魚の味を思い出しながら、僅かな明かりを頼りに牘の上に並べられた文字を追っていると、ふと視界を小さな影が過った。
 小さな羽音が耳元を掠める。豆皿の火を行燈に移し、立ち上がって辺りを照らせば、積み上げた書簡の山のてっぺんに燃えるような赤い腹の蜻蛉が止まっていた。四枚の翅をぴんと伸ばして警戒した様子で、大きな両の目を彼方此方に動かしている。逃がしてやろうと部屋の入口を開け放ち、わたしは行燈と読みかけの書簡を手に持って、内庭に面する回廊へと向かった。
 釣瓶落としのように日は沈み、そこはもう穏やかで美しい夜だった。うだるような夏の面影は消え去り、波立つ水面に反射する月明かりには僅かに赤みがかった紅葉の影が落ちている。いつのまにか邸からは人の声が消えていた。まるで広漠な草原にひとりほっぽりだされたような孤独に満ちたしじまの中で、早い蟋蟀が数匹、糸を引くように鳴いている。わたしは冷たい通路に座り込み、柱に背を預けて膝の上に書を広げた。

 気づいたときには、辺りは真暗闇に覆われていた。行燈の火は消えていて、視界に飛び込む唯一の光源は西の空に浮かぶ細い上弦の月だけ。どうやらうたた寝をしていたらしい。部屋に迷い込んでいた蜻蛉はもうとっくに外に逃げていることだろう。そろそろ戻らねばと思い肘をついて起き上がろうとすると、身体に覆い被さる重みを感じた。
 大きな一枚布。それもただの布ではなく、なめらかな風合いで生地が幾重にも重ねられている、上等なものである。立ち上がって両手を広げて持ってみて、それがようやく外套であることが分かった。いったい誰がこれをわたしに掛けてくれたのだろう。これほど大きな体躯をしている者は、顔見知りの邸の面々には誰一人として居ない。この西廂房には本来であればわたしの世話係の女性たちか蒙家の親類しか立ち入ることはないから、蒙驁兵の誰かということでもなさそうなのだが。

 明朝。わたしは両手いっぱいに外套を抱えながら、この持ち主を探して礼を伝えねばと邸を彷徨っていた。それを見ていた蒙驁兵の一人が、目を眇めながらゆっくりとこちらに近寄ってきて、そうして「あっ」と驚きの声を上げた。
「やや! それは白老様の召物では」
「蒙驁将軍のもの、でございますか?」
「ああ間違いない。確かに昨晩の宴では確かにお召しになっていたところを見たが、寝所へ向かわれる際は晩夏だというのにやけに涼しい恰好をしていたのだ。それをどこで拾った? どれ預かってしんぜよう」
 伸ばされた手を避けるようにやんわりと体を捻り、首を横に振る。
「どうしても直接お礼を申し上げたいのです。蒙驁将軍のもとへ案内していただけないでしょうか」
 兵はこちらに訝しげな視線を寄越した。無理もない。ただの客人であるわたしが謁見を要求するなど烏滸がましいことである。それを承知の上で深々と首を垂れると、彼は暫しの逡巡の後「よかろう。着いてくるが良い」と答えて歩き出した。
 短く息を吸い、こほんと咳払いをする。大きな二枚の木戸を左右に控える衛兵がぐっと押し開けると、部屋の中央に置かれた巨大な牀の上に佇む山のような影がひとつ。窓から差し込む日の逆光に塗り潰された黒い影はゆっくりとこちらを振り返り、そして緩慢な挙措をもって立ち上がった。
「フォッフォ……これは可愛らしいお客人じゃの」
 蒙武とおっつかっつの巨躯であるが、重圧はまったく感じられない。一歩ずつ眼前まで歩みを進めてきた蒙驁は、わたしの手から外套を受け取り、それを羽織った。
「どれ少し散歩に行くとするか。ついて来てくれるかよ」
「わ、わたしの名前……」
 何故知っているのだろう。面識は無いはずだが。そんな疑問を持ちながら、わたしは早足で蒙驁の後を追った。どこへ向かうのかと思いきや、やがて彼が立ち止まったのはわたしに充てられた部屋の前だった。広い庭を臨む回廊にどっしりと座り込んだ蒙驁に、隣に来るようにと促され、恐る恐る腰を下ろす。
「ふむ。ここの景色はいつ見ても美しいのー。良い部屋を充てられたようで何より」
 満足そうに微笑む蒙驁。わたしは彼に体ごと向き合い、改めて自らの名を告げた。
と申します。晩春からこちらでお世話になっております。失礼ですが、わたしの名をどちらでお知りになりましたか? もしかしたら過去にお会いしたことがあるとか」
 そうでもなければ、呂不韋の邸で誰とも関わりを持たず父の喪に服してひっそりと生きてきたわたしの名などきっと知る由もないはずだ。垂れた上瞼に隠された瞳孔を不安気に見つめながら問いかけると、蒙驁はどこか一点を見つめながら。
「話は聞いておる。恬からたっぷりとな」
「……蒙恬様から?」
 そう呟いた。テンと言われて思い浮かぶ人物など一人しかいない。忘れよう、忘れようと努力して、それでも忘れられなくて。悩み苦しみ抜き、その懊悩がようやく翳りゆく夏と共に薄れてきたというのに。それでも彼の影はわたしの愚かさを許してはくれなかった。
 呆れられたと思っていた。わたしたちの束の間の友情は砂上の楼閣が如く崩れ、彼の中で「」は取るに足らない人間となり、もう二度と関わらずに生きていくものだと。だからまさか、蒙驁との会話で己のことが話題に上るなど思ってもみなかった。
「若いうちにぶつかり合うことは良いことじゃ。歳を取ると、反発する気も失せてくるからの」
 しかも、どうやら全て筒抜けになっているような口ぶりである。思わず頭を抱えそうになった。自分の愚行がよりによって世話になっている邸の主に知らされているなど、これ以上最悪な初対面があるだろうか。もっともそのような関係性になった原因はわたしにあるのだが。これでは呂不韋の養女としての面目が立たない。
「も、申し訳ございません! わたし、蒙恬様にとても酷い態度を……」
「まあまあ、落ち着くが良い。儂としては仲良くなって欲しいのじゃよ。彼奴にはおぬしのような存在が必要だと思っておる」
 焦るわたしの横で蒙驁はそう言い放った。わたしは誰かに必要とされるほど立派な人間ではないはずだ。父の隣、或いは呂不韋の下で、行く雲や流れる水のように大きな存在に身を委ねて生きてきた。からっぽだった。蒙恬と比べれば己の価値の矮小さがより一層際立って、居た堪れなくなるほどに。
「恬も同じことを望んでおる。やり方はちーと不器用であったようじゃが」
「蒙恬様がわたしと? そのようなこと」
 あるわけない。
 わたしは彼に何を与えられた? 迷惑ばかりかけて、挙句突き放して。そんなことをされてもなお、わたしと仲を深める利点などあるわけがない。しかし蒙驁が嘘を吐いているようには、どうしても見えない。少なくとも蒙恬がわたしとの関係を蒙驁に漏らしたのは事実である。ならば何か理由が在るはずだ。怜悧な彼が情動的に、ただ溜飲を下げるためだけに愚痴を漏らすような人ではないことは知っているから。
「儂に聞かせてはくれぬか? 。おぬしは何故、あの童女を助けんとしたか」
 すぐに返事をすることはできなかった。あの日のことをつまびらかに語るには、わたしの過去にも踏み込まねばなるまい。明日をも知れぬ身の上であったが人生で最も幸福に満ちていた父との二人旅。幸せでありすぎた故に、喪失の代償は甚大であった。きっと死ぬまで癒えることのない渇き。わたしは今でも、とうに瓦解したあの夢のような日々を守ろうと躍起になっている。
 養父である呂不韋にすら詳らかに明かしたことの無い過去だった。わたしは考え抜いた末、渋面で静かに頷いた。拒むこともできたが、それをしなかったのは蒙驁の生い立ちが、柔和な笑顔が、どこか父と重なって見えたからだ。
「長くなります」
「よい」
 何から言い出そうかと悩み黙りこくっていたわたしを急かすことなく、蒙驁はじっとこちらに耳を傾けていた。やがて胸の内を固く絞り出した第一声を皮切りに、紡ぐ言葉は次々と思い起こされる記憶に比例するように滔々と溢れ出る。

 わたしの父の出生は不明なことが多い。そもそも、彼を知る人物はその多くが故人である。娘であるわたしが知っているのは、彼はもとは或る小国に生まれ、智謀に秀で文官として名を馳せていたが、国の滅亡によりすべてを失い、やがて斉に流れ着いたということ。黥をして身分を隠しながら説客として生きていた父は才を買われ、斉の城邑に食客として迎えられた。その主の姓を「」といった。父は城邑の主に大層気に入られ、彼の娘――後にわたしを産む女性の家に入贅したのだ。
 父の不幸は止まない。妻は産後の肥立ちが悪く、わたしを産んでから寝たきりになり、ついぞ容体が復することが無いまま亡くなった。それからまもなく隣国魏の侵略により城邑は戦禍に見舞われた。必死の応戦も徒花に終わり、故郷を二度も失う羽目になった彼は、陥落する城から未だ幼かったわたしを連れて命辛々逃げ出すことになる。
 それから父は斉の邑を転々とし、嬰児であったわたしの面倒を見ながら宵越しの銭を稼ぐ日々を続けた。だが元はとつくにの人間であること、そして魏との戦いで「決して逃げぬ戦略を貫徹し多大な損害を出した」という失態も重なり、再び食客に迎えられることもなく、生まれ育った国を離れることを心に決める。それから趙、韓、そして憎むべき魏へも知己を頼り赴くが、成果に乏しかった。やがて辿り着いたのが中華の最西に位置する秦国であり、ここでようやく呂不韋の目に留まったのである。僅かに二年前の出来事だ。そうしてようやく平穏な日々を取り戻したものの――。
「父は謀者の手にかかり命を落としました」
 その尻尾は今も掴めぬまま。浮かぶ瀬もなく不運に蹂躙されたその様は、花に嵐の喩えが如く。
 顧みれば父の生涯は薄幸である。しかし暗く影に呑まれたその姿は、幼いわたしにとっては紛れもなく万朶の雲間から差し込む力強く暖かな光。
 父と娘という関係には語り切れぬほど沢山の思い入れがある。それがわたしを突き動かした一番の誘因であるのは言を俟たない。

 静寂の中に溜め息がひとつこだまする。長い半生の中で遥かに惨い経験を幾度となく味わったであろう蒙驁に、如何ほど辛く悲しいことがあったかを必死に弁じ立てるというのは少々礼に欠いた行為であったが、ここまで彼はじつにひとつも言葉を発さなかった。その姿勢に、目頭がじんわりと熱を持つ。泣くまいと、そう胸の中で唱えて堪えなければ、必死に壅蔽していたものが堰を切ったように流れ出してしまいそうだった。
「ふむ。恬にはあとで説教をせねばな」
「説教だなんて。反省すべきはわたしでございます。蒙恬様はわたしの為を思って強く言ってくださったのに、その気遣いを蔑ろにして逃げてしまった」
 ほとぼりが冷めてからずっと、胸には悔恨が渦巻いている。天涯孤独となったうら淋しさの中に突如として現れた春嵐は壮麗で眩しくて、わたしには勿体無いくらいの人。そんな彼を傷つけたわたしを、この方はどうして許してくださるのか。
「言っておくが、儂は愛孫には甘いつもりじゃった。よ」
 その口調はどこか懐かしい祖国の訛りを僅かに含んでいる。晩夏の下午、穏やかに流れる鱗雲の波には秋の兆しが交じり、まもなくしてやってくる凋落の季節を告げているよう。わたしは潤んだ目元を小指の先で擦り、蒙驁の方へ向き直った。
「儂も斉国の出での。祖国では武将としての芽が出ず、倅を連れて中華を旅していた」
「はい」
「倅には苦労をかけたと思っておる。だが二人旅は、存外悪いことばかりではなかった。あれも今となっては代え難いもの。……おぬしの行動は無謀であった、それは言わずもがな。しかし幼子を助けたあの行為は、決して間違ったものではない」
 その言葉を受けたわたしは息を殺して落涙を耐えながら、拝むように堅く手を包んだ。ただの慰めかもしれない。それでもいい。己の愚行を喉を嗄らして叱責されようとも、万人の醜声に咎められようとも。たったひとり認めてくれたのなら、それだけでわたしは報われる。

 わたしの心がようやく落ち着いた頃、蒙驁は静かに立ち上がった。美しい庭の景色を眺めながら、次は楽しい話をしようと言継いで。
「恬には儂の思い出話をたっぷりと聞かせてやることにしようかのー」
 数多の城を落とした老将とは思えぬほど穏やかな人柄に、膝を進めて再び頭を下げる。幾許かの時間そうして顔を上げたときに、ふと思い出したのは蒙恬のことだった。結局彼の真意を知ることはかなわなかったが、もしも、こんなわたしを嫌わずに居てくれているのならば。何度も歩み寄ってくれた彼に、謝らねばならない。心密かに詫び言を呟いていても届くはずがないのだから。
「蒙驁将軍、どうか蒙恬様にひとつお伝え願います!」
 そこまで思考を巡らせたところで、わたしは無意識のうちに叫んでいた。長い回廊の奥まで響き渡るよう声高に、使用人たちの目も気にせぬまま。衣の裾をたくし上げて蒙驁のもとまで早足で歩み寄り、息を整えながら跪く。
「申してみよ」
 わたしはずっと逃げていた。しまいには蒙恬のことなど考えるだけ無駄だと、愚かしくもそう片付けてしまった。しかし彼は厚情を持って真摯にわたしを叱り、そうして離れてからも見放してはくれなかった。ならばしっかりと向き合わねばなるまい。心奥に秘めた辛苦をもしっかりと受け止めながら、彼に心からの感謝を。
「絶対に逃げませんと」
「うむ、心得た」
 蒙驁は口元の皺をくっきりと窪ませ莞爾として笑い、おもむろに踵を返して、そうしてそのまま肩に羽織った衣を寛雅に揺らしながら寝所のほうへと消えていった。

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