回廊に腰を下ろして日の光を浴びながらうんと背伸びをする。腹の傷が治るまで長らく安静にしているようにと口酸っぱく言われていたものだから、こうして堂々と表に出られるのは半月ぶりだ。
眩しさにくらむ視界をゆっくりと慣れさせ、すっかり夏に移り変わった庭の風景を楽しむ。池に放たれている香魚が陽射しを避けるように蓮の下や岩陰に隠れ、呼吸に合わせて小さな泡を吐いている。植物が地面を隠すほど青々と生い茂り、視界を鮮やかに彩っている。すべての生命が活力と幸福に満ち溢れる季節だ。
天に向けて目一杯広げられた青葉の香りを深くに吸い込みながら、この邸にやって来た時のことを思い出す。あれからもう一月が経とうとしていた。呂不韋は、侍女たちは元気でいるだろうか。そろそろ書簡をしたためるのも良いかもしれない。元気でいるということ、蒙家での暮らしにもなんとか慣れたこと。それから呂不韋の望む「」の姿に少しずつ近づいているであろうことを添えて。
「こんなところで何やってるの」
「!」
唐突に背後から声を掛けられて、肩が大きく跳ねる。わたしの顔を覗き込むように腰をかがめた声の主――蒙恬は固まるわたしの横に座り込んだ。二人の間を流れる静寂が非常に気まずい。というのも彼と直接顔を合わせるのは随分と久しく、その理由はわたしが彼の面会を拒否していたからに他ならない。彼の美しい着物を血で穢し、整った顔を怒りに歪めてしまった。何度謝り倒しても足りないほど酷いことをした。そんな彼から投げかけられるであろう言葉や態度を受け入れる余裕が今までのわたしには無かったから、逃げてしまっていたのだ。
「……池の魚を見たり、考え事をしていたりしていました」
嫌われただろうと思っていた。それほどのことをしたのだから仕方無いと覚悟を決めていた。だからこうして話しかけてくれた彼にどう接して良いのか分からず、とりあえず投げかけられた問いに対しての返答をすると、蒙恬は柔らかく微笑んだ。その姿にますます罪悪感がつのり、わたしは堪らなくなって頭を下げた。
「あの、お伝えしたいことがございます」
「ん?」
「長らく面会を拒否してしまい申し訳ありませんでした。蒙恬様にはなんとお詫びを申し上げれば良いか。己が不甲斐なく、多大なるご迷惑をお掛けしてしまったことが心苦しく、貴方様の顔を見るのが恐ろしくなってしまった」
「そこまで気にしてないよ。それに俺もに嫌われていないって分かってちょっと安心した」
そう言って微笑む蒙恬は燦燦と降り注ぐ夏の陽よりもずっと眩しくて、身構えていた自分が恥ずかしくなる。彼の寛大さに戸惑って再び言葉に詰まった。素敵な方だ。わたしがこうして面と向かって話をしているのが不思議なくらいに。
「じゃあ、仲良くなった印。今からって呼んで良い?」
「はい。どうぞご随意に」
「俺も『蒙恬』で良いよ、俺の父上はの養父の臣であるから立場的にはむしろそう呼ばれるべきだ」
「いえ、できません。お世話になっている身ですので」
「そう?」
それに比べて相変わらず無愛想な自分ときたら。
「蒙恬様はどうしてここへ?」
「うーん、なんとなく君の姿が見えたから。だからそう身構えないで」
蒙恬からは出逢ったばかりの頃の、あからさまに警戒するような雰囲気はすっかり消えており、今はわたし――という人間をじっくりと見定めているように感じられる。賊との件で、少しだけ二人の距離は縮まったらしい。決して良い縮まり方をしたわけではないが。
薫風に揺れる木々の枝葉、隙間から点々と零れる下午の光が静かに肌を焼いている。頬をさする清涼な風に、僅かに蒙恬の匂いが織り交ざっていた。彼の背に凭れかかって邸まで戻った日、顔を埋めた項から胸いっぱいに溜め込んだ。痛みに耐えながら臥せっていた間ずっと、鼻腔に張り付いて離れなかったあの匂いだ。
「傷はもう大丈夫なの?」
「ええ、すっかり塞がりました」
「それなら良かった。痕が残ったのは気の毒だけど」
幸い切創は深部に達しておらず、大事には至らなかった。邸に戻ってすぐに止血処理を施され、また患部が腐らぬように膏薬を塗り続けていれば、痛みは和らいだ。それでも腹部を大胆に走る一閃の痕は赤黒くへこみ、もうどうやっても元のまっさらな肌膚に戻ることはない。亡父が知ったらさぞ悲しむであろう。自分の娘にも生涯消えぬ傷が残ってしまったと。
「あまり気にしていませんよ。誰に見られるわけでもないですから……なんて少し楽観的ですかね、わたし」
すると蒙恬はぴんと張った綱が切れたように笑った。腹の底から息を吐き出しながら、それまでの起伏の無い莞爾とした顔とはまるで正反対の様子で。
「あの」
「ああ、ごめんごめん。なんだか面白くって」
わたしは努めて面白くなろうとはしていないから、彼が言ったそれは決して誉め言葉ではない。溜息を押し込んで、続く言葉を待った。滅多に感情を表に出すことのなかった己の眉が不意に顰められる。
「知ろうとすればするほど、のことが分からなくなる。普通はね、そんな酷い傷を背負ったら誰だって少しは落ち込むものだよ。……と思ったけれど君はきっと普通じゃないんだ。丞相の邸から客人が来るって聞いていたから、正直、我儘で厭味ったらしい人だと期待してた」
どうやら面白いもの見たさの嫌な期待をされていたようだ。一応、蒙恬からしてみればわたしは父である蒙武を囲う有力者の養女であるのだが、彼はそのような立場など露知らずと言ったように明け透けに言い放ったものだから、失礼だと指摘する気も失せてしまった。
「みんなから聞いたけど、文字の素養があるなんて立派だよ。市場でもやたらと慣れた動きをしていたし案外逞しくて驚いた。だから、かな。ほど聡明な人ならばまず、見ず知らずの人のために危険を冒すとは思わなかったな」
風がざわついた。先程までからりと晴れていたはずの東の空がほの昏く、重たい雨雲で濁っている。
蒙恬の、その何気ない言葉はわたしの心をいとも容易く抉った。言わずもがなわたしの選択は決して正しいものではなかった、ただ偶然にも蒙恬の助けがあって最良の結末に至っただけだということは理解している。結果論だけを推して己の行動を正当化するつもりもない。しかし、彼がわたしの人となりを見て断定的に放ったその槍に、まるで「」が歩んだ半生をすべて否定されたような、そんな気分になってしまった。
「武器を持っている相手に向かって丸腰で戦おうなんて、まともな人間の思考じゃないよ。あの時はたまたま親切な商賈がの行方を教えてくれたから良いけれど、俺たちが気付かなかったとしたら」
「蒙恬様は、あの娘を見捨てるべきだと?」
「うーん。俺が君の立場ならば、それが正解だっただろうとは思う」
己の翳りのある表情に、徐々に怒気が滲んでいくのが嫌でも分かった。この醜い感情が、無意味なものであることは知っている。蒙恬は、わたしではないから。わたしの過去を知らないから、だから良かれと思って敢えて冷静に、それでいて強硬な態度で言ってくれているのだ。また、無茶をしないように。
そんな彼なりの優しさに嬉しさの欠片も感じないなんて、ああ遣る瀬無い。認めたくないのだ、あの選択が間違っていたということを。それは己の信念だけでなく、取り巻く世界すべてを否定されるのと同義であったから。
「でも、わたしは――」
「実際に俺が助けに入らなければ、死んでいたか売り飛ばされていたかのどちらかだろう。、君は蒙家が丞相から預かった大切な客人だ、最悪の結果になっていたらどうなっていたことか」
ごもっともな正論に逃げ道を次々と塞がれて返す言葉もなく、決まりが悪い思いをしたわたしは視線を下に向ける。羽虫の欠片をせっせと運んでいる蟻の列がふと目に入った、自分の惨めな気持ちなど知る由も無い、ただ齷齪と働くそれらが心底羨ましかった。
蒙恬はまるでという人間のすべてを知っていると言わんばかりの目をして、わたしを叱った。叱られるとは有り難いことなのだと、誰かがそう口にしていたのを思い出したけれど、いまの自分はそんな彼の慈悲を受け止めることすらできない。何もかもを見透かしているような険のある瞳が、ただ鬱陶しかった。放っておいてほしかった。知らないくせに、知った顔をして。……とは命の恩人である彼の前ではとてもじゃないが口にはできず、わたしはそれらをすべて飲み込んで立ち上がる。爪先にじんわりと感じる微かな痺れが無ければ、冷静さを保てたいかさえ危うい。
「部屋に戻ります」
努めて平常にと思い発した声はわずかに上擦っていた。
自室に辿り着いた瞬間、興奮が解けて全身からどっと汗が噴き出した。焦点の合わない目で滲む虚空を掻きながら、全身にまとわりつく不快感から逃れるように几帳面に整えられた褥にその体を沈め、僅かに身をよじらせる。己の体温よりも幾ばくか低い絹の生地に夏のほとぼりは瞬く間に溶けていって、後味の悪さだけが胸につかえたまま。いつまでそうしていたかわからない。
後日、蒙恬に声を掛けられた。まるで、わたしたちの間には何も無かったかのような爽やかな調子で、散歩でもどうかと、そんな誘いを受けたような気がする。そこで頷くことができていればかの日の軋轢は有耶無耶になっていたであろうが、わたしは彼の気遣いをにべもなく断ってしまった。
その出来事から数日と経たないうちに蒙恬らは何の前触れも無く邸を発った。なんでも魏国境付近の辺塞で警備の任にあたるよう緊急の招集決定がなされたらしい、楽華隊のような少人数で構成された独立遊軍は特定の将の下に属しておらず、ある程度融通が利くためこうした急な任務も珍しくないそうだ。使用人の「暫くは戻られないでしょうね」という言葉を聞き、どこか落胆した自分が居た。蒙恬を避けて過ごしていたはずなのに、いざ居なくなってしまえばこんなにも胸が苦しい、彼の厚意を無下にしておきながらそのようなことを感じた己の身勝手さに腹が立ったのは言うまでもない。