浮世夢の如し

  一.皎潔に青嵐・後編

 市場は多くの人々で賑わっていた。咸陽からやや離れたこの場所に、これほど多くの商賈が集まっているのもまた珍しいのか、遠くの地からやって来たであろう旅人たちの姿もある。言葉の訛りがここよりも南方のそれに近い。
 人々の視線は悉くこちらに、正確には蒙恬に向けられていた。牡丹色の派手な戦衣に勝るとも劣らないほどに際立つ、少年の面影を幽かに残した中性的で美しい顔立ちと透き通るような櫨色の髪は、市井の人々の目を強く惹き付ける。本人はそれをさも当然であるかのような様子で、鼻にもかけず、名を呼ばれると軽々に手を振り返している。
「市場なんて久しぶりに来たなー。それでお使いの内容は?」
「粟だけです。一石ほど」
「はは……若い女の子が一人で運ぼうとする量じゃないよ」
「ならば猶更、怪我人や御老体にはお任せできないでしょう」
「うーん。君ってかなり剛毅な人なんだね」
 蒙恬は眉尻を下げながら笑った。確かに女人が一人で運ぶような重さではないだろうが、邸から市場までは平坦な道が続いており、荷車も借りられたから、どうにかなると思っての判断だった。
 午を過ぎているにも関わらず、なかなか荷車を押し進められないほどに賑わっている。この辺りは咸陽へと続く衝路のほかに様々な道が交錯しており、立地的にも方々から人が集まり易いのだとか。大路の両端にはずらりと露店が並び、食糧や着類、役畜、塩など様々な物が売られている。ゆっくりと見て歩けば日暮れまで時間を潰せるだろう。当然、目的の粟を売る商賈は一人や二人ではない。
「さて。どの店で買うのが良いのでしょうか」
「さあ、俺はあまり詳しくはないから」
 慌てて邸を飛び出してきたから前知識は一つも無い。このようなことならば、詳しい情報を聞くべきであったと後悔する。
「手分けして良い店を探しましょう。なるべく早く邸に戻らねばなりませんから」
「お金なら沢山あるし、どこの店でも良いんじゃない?」
 肩肘を張るわたしの横で、いかにも御令息らしい発言をする蒙恬。彼からしてみればどの店で扱っている商品もさほど変わらないように見えているのだろうが、市はわたしたちが考え無しに物を購入する場所ではない。売り手と買い手の駆け引きの場だ。
「いいえ。粟以外のものでかさ増しをしている者や、相場よりもずっと高い値段を吹っ掛ける者もおります。良い商賈をきちんと見極めなければなりません」
「そうなんだ。勉強になったかも」
 とはいえ彼らも生活のために騙せる相手は騙し、巧みな弁舌と交渉術でより多くの利益を得ようと必死なのは仕方が無いこと。しかし何も考えずにいれば大損するのはこちらの方だ。かつて亡父と旅をし、日々の食事も満足に摂れないような苦境に晒されたわたしはそういった知識には長けていると自負している。食べられるか否かを判別できるし、主要な食材の平価は頭に入っている。昔のほろ苦い経験も、案外役に立つものだ。

「それではわたしは東方から回ります。お二人は反対側をお願い致します。良い店を見かけたら互いに報告致しましょう。では」
「えーと。君って本当に丞相の養女?」
「? そうですが。いかが致しましたか」
「あーいや、うん。気丈夫なのは良いことだよ」
 陽光はその輝きを徐々に失いつつある。残された猶予は少ない。意味深長な蒙恬の言葉に構うよりも、手早く必要な物を買って邸まで運ばねばならないだろう。三人で回っては余計に時間がかかってしまうから、わたしは単独で行動をすることに決めた。
「いらっしゃい。何をお買い求めで?」
「粟はおいくらですか?」
  普段こういった場で物を買う時には、会話を重ねて売り物の本来の価値を探るといった手法を用いるが、今日ばかりは時間が惜しい。ゆえに直接的に問いかけてみたが、どうやらそのせいか店主はわたしを「無知な娘」だと判じたらしく、預かった円銭ではまったく足りない金額を提示された。足元を見てあまりにも高い金額を吹っ掛けるようなしみったれた商売人が、他に不正を働いていないわけがない。無言で踵を返そうとするとやけに必死になって引き留めてきたが、無視して次の店へと向かった。
 良い商賈を探して歩き回っていると、唐突に眼前を髫髪の童女が横切った。彼女は道にずらりと並ぶ売り物の、目新しさに夢中になっているようで、あてどなく歩き回っている様子である。少し離れた場所に父親らしき人物が居たが、商賈との交渉に熱中しており、娘の様子を気に掛ける素振りすら見られない。
 心配に思ってその娘を目で追っていると男に声を掛けられた。
「お嬢さん。何をお探しで」
「粟を売っている店を捜していまして」
「ならちょうど良い。うちに寄っていかないか? あんた目利きが良いだろうから、きっと気に入るよ」
 彼女が気懸かりではあるが、本来の目的を遂行すべく旋踵する。
 男が言う通り店に並んでいる品はどれも良いものだ。質も粗悪ではなく、値も預かった金で十分足りる額である。
「同伴者を呼んでまた戻って参ります。それまでしばし荷車をここに置かせてください」
 そう告げて蒙恬らに報告をしようと西方に向かおうとしたが、その足はすぐに止まった。視界の端に先程の童女が映っていたが、その手を強く引いているのは父親らしき人物とはまるで違う胡乱な者。質素で清潔な娘の身形とはかけ離れたその男の風采は、どこからどう見ても善人のそれではない。
 あれは人攫いではないだろうか? あからさまに嫌がる娘を見て、その疑いは徐々に確信へと変わってゆく。弱々しく抵抗する幼子を怒鳴りつけ、強引に藪へと押し込むその男の振る舞いに全身の血が沸き立たんばかりの怒りを覚えた。我関せずといった周囲の人間の態度にもまた。あの子の父親に伝えに行くべきか、しかしその間に見失ってしまったらどうしようか。そのような葛藤をしていると、こちらの心を読んだかのように店主の男が口を開く。
「悪いことは言わん。首を突っ込むのはよしな。ここらの田舎では人攫いなんて珍しくない。都とは違って取り締まる人間もいないからなあ」
「……」
「巻き添えをくらったら面倒だ。ああいう輩は関わらないのが一番だよ。冷たいようだがあの娘をしっかり見ていない親が悪いさ」
 このような片田舎では法の効力なんて無いようなもので、賊が跋扈し犯罪は絶えないことは知っている。我が身を守るためには、彼のように素知らぬふりをすることが最良であることも承知している。しかしわたしの体は迷うことなく動いた。蒙恬らを呼びに行かなければならないことなど、すっかり頭から抜けていた。
 旅をしている父娘の組み合わせが自分の過去の記憶と重なったのだ。どうして見捨てることができようか。

 まずあの賊を逃してはならない。そう思い、二人が消えて行った藪の中へと奔り躊躇なく踏み込んだ。灌木の枝が手足に刺さり皮膚を裂く。刹那、鋭い痛みに襲われたが、それでも進む足は止めない。退路を確保するために太い枝を折りながら進み、やがて開けた場所に辿り着くと絞り出すように叫んだ。
「……っま、待ちなさい!」
「ああ? 誰だテメエは」
 髪や衣服についた枝葉を払い、目の前の男と対峙する。
 ここでようやく我に返り、武器になるような物を何も持たぬまま追いかけてしまったことに気付いた。一瞬体が固まったが、迷いを振り払うようにぐっと拳を握りしめた。ここまで来て退くわけにはいかない。逃げようとしたところでこの賊は自分を見逃してはくれないだろう。
 拘束されている童女は、その瞳に溢れんばかりの涙を溜めながらこちらを見ていた。きっと己の置かれた状況も判らぬまま、わたしと賊の間に流れる殺伐とした空気に漠然と恐怖を覚えているのだ。しかし声は一切上げなかった。泣いてはいけないと、それだけは厳しく躾けられていたのだろう。
「貴方はその子の父親ではないはず。何故このような場所へ連れ込んでいるのです」
「女ひとりで、それも丸腰。どうして俺の跡を付けたんだ? ん? こいつの身内じゃあなさそうだが」
 男は腰に差した鞘から剣を抜き、構えた。刃こぼれが悪く、あまり手入れもされていないような鈍(なまくら)には、至る所に血液と思わしき赤黒い染みが付着していた。
 対するわたしはといえば武器など持ち合わせていないどころか、手に取ったことすらもない。何か身を守る物はないかと辺りを見回し、足元に落ちている良い太さの長枝を拾い上げる。太腿を軸にして二つに折ると、鋭利な木槍のようになった。
 見様見真似でそれを構え、賊へと向き直る。
「野での殺傷を看過し援けぬ場合は論罪されるという法があります」
「あ?」
「それが理由だと思っていただければ」
 分が悪い相手にどうしてこれほど強気でぶつかっていけるのかが、自分でも理解できなかった。跳ね上がる鼓動と手足の震えを抑えるように賊を睨みつける。彼はそんなわたしを見て高笑いをし、それから頭から爪先までをじっくり舐めるように見つめてきた。整えられていない、不潔な髭が生えた口元に舌を這わせながら、暫くニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべたあと、賊はこちらに数歩詰め寄った。
「よくよく見たらここらの貧乏臭い農民じゃあなさそうだな。おい小娘! こいつの代わりに売り飛ばされてえなら飲んでやるよ」
「ふざけるのもいい加減にしてください」
「こちとら金も食うモンもねえんだよ! ガキを助けてえなら、テメエが代わりになるんだろうな? これでもふざけているように見えんのか? え?」
「きゃっ!」
 小さな悲鳴と共に、賊に持ち上げられた童女の体は地面に強く叩きつけられた。必死に上体を起こそうとする彼女の腹に、男は躊躇うことなく蹴りを入れる。
 青い草本の上を球のようにごろごろと転がる躯体、その動きが止まれば再び蹴り出される男の脚。
「やめなさい!」
 呻く娘をまるで玩具のように扱うその態度に、とうとう怒りの情を抑えきれなくなり、尖った枝先を構えて、賊の脚を目掛けて思い切り突き下ろす。だが男はそれを軽々と躱し、こちらへ向き直って剣を振り上げた。それは束の間のことだった。
 剣筋はわたしの持つ木の枝を容易く弾き飛ばし、肉を掬うように抉った。痛みも感じぬうちに直感で「斬られた」のだと悟る。
「……うあっ、ぐ……」
 刹那、腹部に火が点いたような感覚と、次いで痺れるような疼痛が襲い掛かってきた。裂けた着物の切れ口からは、じわじわと真赤な血が滲み出して止まらない。視界が眩み、切創は烈しく脈を打ち、焼けるような熱を生む。ともすると意識が飛んでしまいそうだ。しかしここで倒れては呂不韋への返恩もままならない。何よりも亡父が繋いだこの命を無駄にするわけにはいかぬと、割れてしまいそうなほど強く歯を食いしばり、必死に耐えた。
 一瞬でも退けるのが遅れていたら、或いは武器を持たぬまま飛び込んでいたのなら。わたしの命の灯火はとうに消えていただろう。

 立っていることが不思議なほどの傷を負っていたが、それでもわたしは二本の脚で地を踏みしめていた。絶望的なこの状況でどう動くべきか、必死に考えを巡らせる。賊を倒す算段は、あの子を連れて逃げる方法は何か無いのか。だがいくら考えても思い浮かばない。
 それもそのはず。賊を追った段階で自らを袋小路に追い込んだようなものである。無茶をした。馬鹿をした。それでもわたしは。
「ちちうえ……」
「……っ」
 きっとあの童女は父と長い旅をしているのだ。たった二人きりで。幼き日のわたしと亡父のように。赤の他人に追憶の影を重ね、無謀にも丸腰で武器を持つ男に挑むなど、我ながらなんと情けないことかと思う。だが無茶な希望に賭けた自身の選択を否定できなかった。たった一人の家族を喪った、胸が張り裂けそうな苦しみに何年も苛まれているがゆえに。
「殺されたくなければ大人しくしろ。まあ助かったところでこの娘と一緒に女衒に売られる運命だがな。ざまあねえなァ」
 じりじりと寄ってくる賊の男に、わたしはなおも枝を構える。再び繰り出されるであろう斬撃を受け止めるべく両の手でぐっと握り締め、弾かれぬように力を込めた。
 その時だった。不意に背後の藪がガサガサと大きな音を立てて揺れた。目線をそこへと逸らした賊につられてわたしも振り向く。
 すると突如として深緑の葉を掻き分けるように白刃が飛び出してきた。
、伏せろ!」
 言葉を受けて反射的に身を伏せる。黄昏に染まりゆく空を反射して煌めいた閃光は頭上を通り過ぎ、賊の腕をいともあっさりと切り落とした。恐る恐る顔を上げたわたしは、しばし茫然としていた。状況が理解できない。平衡感覚を失い、尻もちをついた賊が、無残に転がっている自身の腕に縋り寄って情けない悲鳴を上げているのを、どこか悪い夢でも見ているような気持ちで眺めていた。
 暴戻であった賊の威勢は萎え、虚脱状態のまま動かない。やがて堰を切ったように鳴き出した童女の声で、わたしはようやく我に返った。どうやらあの絶望的な状況から運良く助かったようだ。そして願ってもなかった救世主の姿は――。
「も、蒙恬様……」
「まったく、こんなところで何をしてるんだ! その傷は……ああ、クソっ!」
 蒙恬はそれまでに見たことが無いような烈しい感情を見せた。目を細めて臍を噬み、美しいかんばせを歪ませている様を見て、わたしは暫く言葉を発せられなかった。彼に何という表情をさせてしまったのだ。
「じィはその子を頼む。俺はを運ぶから」
 童女の意識はあった。じィと呼ばれた老兵が彼女を背負ってあやすようにゆすってやれば、泣き腫らして真赤になった顔に僅かな安堵の色が戻った。無事で良かったと胸を撫で下ろしていると、今度は蒙恬がわたしの前にしゃがみこんだ。この背に乗れと言わんばかりに。しかしわたしは首を横に振る。
「ひとりでも歩けますので平気です」
「はあ……強がって何の得になるんだ」
「蒙恬様のお召し物を穢してしまいますから」
「そんなもの、どうだって良い」
 頑なに拒んでいると、彼は痺れを切らしてわたしの肩の下に手を回し、半ば強引に背負った。己の体に抵抗する力は微塵も残っていなかった。両足が地面から浮くと、腹の傷が裂けるよう痛みに襲われたが、呻き声に変えてぐっと耐える。
「ごめん我慢して。さすがに横抱きにしたまま邸に戻るのは難しいから」
 蒙恬は小さな声でわたしに詫びた。謝らなければいけないのはわたしの方であるのに。
「どうかこのことは内密に。わたしを送り出してくれた者たちに申し訳が立ちません。お願い致します」
「この状況でよくそんなことが言えるね。傷が塞がるまで部屋から出られないのだから、どう考えても隠し通せるはずがないでしょ。このことは彼女たちにも伝えるつもりだ、君がまた無茶をしないようにもね」
「……」
 わたしがあの子供を追わなければ、丸腰で男に立ち向かわなければ、こんなことにはならなかった。送り出してくれた使用人たちは何一つ悪くないのだが、わたしが怪我を負ったことを知れば弥が上にも自責の念に駆られてしまうだろう。
 怪我が治ったら彼女たちの心傷も癒やさなければならない。全てが自分の責任だ。
「ではせめて呂不韋様への報告はお控え頂きたいです」
「それは俺が決めることじゃないから」
「ありがとう……ございます。我が儘を言って、本当に、申し訳ございません……」
「説教は後からだ、まずは戻って手当てをしないと」
「あ、粟は……」
「はあ。今はそんな場合じゃないだろ。飯が少ないくらいで死にはしないから」
 帰路につく頃には、橙色の西陽が山々を照らしていた。腹の傷口が熱を持っているせいか、薄い布を隔てて触れ合う肌は温かい。
 心地良い揺れに身を任せて蒙恬の背中に頭ごと持たれれば、薄れゆく意識の中で、ふと彼がこちらを見て困ったようにくしゃりと表情を歪めた気がした。

 数日後。宵の口に部屋を訪ねてきたのはじつに珍しい客人だった。
 わたしは「じィ」と呼ばれる翁の名を未だ知らないでいる。こうして対面するのは数日ぶりだ。蒙恬に至っては顔も合わせていない。彼はあれから何度か部屋を訪ねてきてくれていたものの、きまりが悪く、適当な理由をつけて一方的に面会を拒否していた。だから「じィ」に会うのも少し気まずかったのだが、この翁がどうしてもと仰っているからと使用人づてに伝えられ、勇気を出して首を縦に振ったのだ。
「傷の具合は?」
「お蔭様でもう殆ど痛みはありません。あと二、三日で動けるようになるだろうと、医者も仰っていました」
 本来であれば深々と頭を下げて詫びるべきだろうが、身を捩らすたびに痛む傷はそれを許さない。
「あの幼子は無事に父親の元へ送り届けました。どうかご心配なく」
「ありがとうございます。そのことを伝えに来てくださったのですね」
「貴女様が気に掛けているご様子であると伺っておりましたゆえ」
 あの童女が救われて良かった。あの親子が離れ離れにならなくて本当に良かった。わたしが臥せっている間、あの娘を案じる譫言を度々発していたことを使用人に聞いたのだと、翁は言った。
「ひとつお尋ねしても?」
「はい」
「どうしてあのような無茶をされたのか。蒙恬様も気にしておられました」
 命の恩人にそう尋ねられては答えないわけにはいかないだろう。昔日を思い返すのは未だに気が進まないが、意を決して口を開く。
「わたしもかつてあの父娘と同じように中華を旅している身でありました。その父は既に物故しておりますが……」
「左様でございますか」
「彼女に幼き頃の自分を重ねてしまって、殆ど無意識のうちに、気付けば丸腰のまま連れ去られた娘を追っていました」
 父と娘という間柄には特別な思い入れがある。わたしはあの童女を通じて自身の無念を少しでも晴らしたかったのかもしれない。そう言うと翁は硬い表情のまま静かに目を伏せた。
「どうかお大事に。蒙恬様にも申し伝えておきまする」
「ありがとうございます」
 未だ肌寒い孟夏の夜。腹を一文字に走る傷口にくすぶる熱だけが、冷めきっていたわたしの心を救ってくれた。己の愚かさにも意味があった、それだけで十分だ。これは言うなれば罪滅ぼしなのだろう。かつて父の死を眼前にして何もできなかった無力なわたしの、悔恨を埋めるための、鈍くも愛しい痛みなのだ。


目次 前頁 次頁