浮世夢の如し

  一.皎潔に青嵐・前編

 庭から聞こえる雀の囀りに、夜明けが近づいていることを知る。円窓から差し込む青白い有り明けの光が天井の梁を徐々に浮かび上がらせるのを、寝具に横たわりながらぼんやりと見つめていた。朝まだきにも関わらず、蒙家の使用人たちは既に朝餉の準備に取り掛かっているらしい、厨房がある南の方から僅かに物音が聞こえてくる。
 この邸で過ごし始めて早五日が経った。慣れない場所での暮らしは不安そのものだったが、蒙家の人々は皆わたしに良くしてくださった。
 しかし呂不韋の邸に居た頃よりも不便を感じているせいで、環境の変化に未だ体が追いつけずにいた。否、蒙家での生活は己の身分を考えれば申し分無く幸せなものだが、今まで呂不韋のもとで桁外れの贅沢をしてきたことで感覚が麻痺してしまっているのだと思う。
 しかし心は新鮮さに満ちていた。ここには質素で規則正しく、美しい人々の暮らしがある。じめじめと苔生していた心に一筋の光が差し込んだような感覚。
 何事も億劫になっていた自分を捨て、生まれ変わった気持ちで日々を過ごせば、さすればきっと呂不韋は認めてくれる。彼の方のためにも変わらねばならない。

 朝餉を済ませ、さて今日は何をしようかと考えながら部屋へ戻る道中、ふと違和感に気付く。普段ならば朝の仕事を終えて一息つく時間帯だが、どうも使用人たちはいつにも増して皆忙しそうだ。廊下を行き来する人の数も多い。どことなく自分の存在が彼らに負担をかけているような気がして、訳も分からぬまま逃げるように外へ出た。
 井戸の近くを通りかかると使用人がこせこせと土のついた根菜を洗っていた。老躯の彼女には殊に疲れる仕事であろう。見かねて手伝いを申し出て、桶に汲まれた水に手を入れると、刺すような冷たさに身震いする。
「悪いわねえ。大切な御客人なのにこんなことをさせてしまって」
「いいえお気になさらず。それよりも今日は皆様お忙しい様子ですが」
「急遽、蒙恬様が戻られるとの報が届きましてねえ」
 気になって尋ねてみれば、彼女はそう口にした。
「蒙恬様とは、蒙武将軍の……御長男の?」
「ええそうでございます。様は未だお会いしたことは無かったかしらね」
「蒙武将軍は呂不韋様の邸で何度かお姿を拝見しているのですが、蒙恬様は一度も」
「何かとお忙しい方ですから」
 蒙驁、蒙武、そして蒙恬。彼らの名はたびたび耳にするが、この目で姿を見たことがあるのは蒙武のみ。
 これはわたしが勝手に培った妄想に過ぎないが、蒙武の父である蒙驁は趙の城をいくつも落とした秦国の数少ない大将軍枠であるから、きっと蒙武に似た豪傑な老将なのだろう。一癖も二癖もある将軍を、二人も副将として従えているのだと、誰かが語っていたのをふと思い出した。
 ならば彼らの血を引く蒙恬も同じような人物なのかもしれない。否、そうに違いない。思わず蒙武を若返らせたような青年を思い描いてしまって、胸がずっしりと重くなった。

 そんな使用人たちの準備も一段落付いた頃、正門の方が騒がしくなった。自室から少しばかり顔を覗かせて外の様子を窺っていると、前院の方に甲冑に身を包んだ兵士たちの姿が見えた。
 どうやら蒙恬が帰還したらしい。
 世話になっている身としては挨拶を済ませるべきなのであろうが、しかしいくら呂不韋の養女であるとはいえ立派な身分でもないわたし風情が個人的に伺うなど厚かましいと思われるだけかもしれない。彼がこの邸に暫く留まるのであれば、そう遠くないうちにお目にかかることになるのだから、今は無理な接触を避けたほうが良いだろう。

 大広間の方から賑やかな笑い声が響いている。呂不韋の邸で要人たちがその顔に貼り付けていた笑みとは正反対の、まるで家族のような温かい空気に、天涯孤独であるわたしの胸には漠然とした寂寥感が漂っていた。
 じっとしていられず、わたしは己の心を慰めようと庭に出た。行く宛もなく彷徨い、辿り着いたのは大きな池のほとり。真直ぐに抜き出た蓮の蕾がそよ風に煽られてゆらりと揺れている。流れ込む小さな水流から波紋が広がり、刻々と映し出す景色を変える水面は儚くも美しく、思わず手を伸ばしたくなった。
「あれ? 見ない顔だけど」
 その場にしゃがみこみ、暫し水鏡の向こう側に広がる世界に魅入っていると、背後から声を掛けられた。
 近づいてくる足音にも気づかぬほど夢中になっていたようだ。唐突に降りかかってきた聞き覚えの無い声に驚いて振り向けば、そこには一人の青年が立っていた。ちょうど池に浮かんでいる蓮の蕾と同じような、柔らかくも華やかな桃色の衣を纏って。
 彼が醸し出す雰囲気と一歩後ろに控える従者の存在で、彼が「蒙恬」であるということは瞬時に察知でき、そうと理解するやいなや頭の中に描いていた筋骨隆々で無愛想な青年像は一瞬にして消え去ってしまった。本当に蒙武と血が繋がっているのか疑いたくもなるほど美しい顔立ちの青年だ。自分よりも少し年配だろうか。想像よりもずっと若い。
 慌てて立ち上がろうと腰を浮かすと、池の水気を吸ってすっかり柔らかくなっていた足場がぐにゃりと沈んだ。
「わっ!」
 大きく体勢を崩して宙を掻いたその時、瞬時に伸びてきた手に腕を掴まれ、肩が抜けてしまいそうなほどの力で強く引き寄せられた。
 安堵したのも束の間、眼前には整った青年の顔。かち合った目の中にいる自分の姿がはっきりと見える。彼が助けてくれたのだ。出会い頭でとんだ失礼をはたらいてしまったことを恥じつつ手を合わせて頭を下げる。
「た、助けていただきありがとうございます。ええと……と申します、先日からこちらで世話になっている者です」
「うん、知ってるよ」
 磊落そうでありながら、こちらを深く訝しむような雰囲気を隠していない様子で彼は返事をした。その言い表せぬ不穏さに小さく鳥肌が立つ。この人はいったい何者なのだろう。
「俺は蒙恬。宜しくね」
 蒙恬の挙措に対しぎこちない笑みを浮かべることしかできなかった。呂不韋の養女が突然邸に押し掛けてきたとなれば、何か裏があるのかもしれないと勘繰るのも無理はない。心証は悪くて当たり前、こればかりは仕方が無いことだ。
「すみません。身構えてしまって」
 恐怖に押されて本音に近い言葉を漏らせば、蒙恬は「嫌われたのかと思った」と呟いてヘラリと笑った。
「まあ、ゆっくりしていって。それとあまり近くで池を覗きすぎないようにね。今度は助けてあげられないよ」
「お心遣い、痛み入ります」
 蒙恬は気まずさで俯くわたしに背を向け「じィ」と呼んだ老年の男と共に邸の中へと戻って行った。
 使用人曰く蒙恬は、軍師学校――四柱の昌平君が開いた、軍師養成機関の呼称である――を優秀な成績で卒業しており、今は精鋭部隊を率いて戦う秦将の一人であるらしい。成る程、それほど頭が切れる人物であるならば、わたしが本能的に身構えても何ら不思議ではない。
 噂はかねがねとはお世辞にも言えなかった理由は、祖父である蒙驁が老婆心ながら蒙恬を立派に育て上げるために、昇進を止めてしっかり下積みをさせているからだとか。
 名家の嫡男に恥じぬ素晴らしい経歴に、わたしはますます気圧された。自分は本当にここに居て良い人間なのだろうかと自問しては、どこか彼のいない穏やかな世界に逃げてしまいたくなる気持ちを抱えて日々を過ごした。自然に部屋に篭もることも増え、彼とすれ違うこともなくなった。嫌いなものを避けてばかりでは何も変わらない、頭の中では分かっていたが、それでも臆病なわたしは自分を模る世界の安寧を崩したくはなかったのだ。

 蒙恬率いる精鋭部隊・楽華隊の面々は昨日から遠出して練兵を行っており、また多くの使用人が彼らの補助のために出払っていた。これまでの賑やかさがぱったりと消えて、すっかり静まり返ってしまった邸。朝餉の片付けを終えたその足で、人気の薄れた大廈を散策していると、切羽詰まった使用人の声が耳に入ってきた。
「よしなさい。それ以上動いたらまた足を悪くしてしまうわ」
 年老いた使用人が、足を引き摺るようにして歩く若い使用人の行く手を阻んでいる。どうやら困り事のようだ。
「どうされましたか?」
 思わず声を掛けると彼女たちは押し黙ったが、暫くして互いに顔を見合わせながら弱々しく口を開いた。
「夕餉の食材を仕入れに赴かねばならないのですが、この者が足を挫いてしまったのです。私が代わりになれたら良かったのですが、この老骨では荷車を牽くことさえ難しくて」
 と媼の方が悔しそうにそう語る。
「本来であれば蒙驁様の給地からの食糧で賄えるはずなのです。ですが季節柄、あちらも食糧不足が厳しいのでしょうね。届けられる量はどんどん減って、ついにうちの穀物庫も空になってしまったのです」
 事態はなんとなく理解できた。夕餉の準備に間に合うように買出しに行きたいが、兵や他の使用人たちは殆ど出払ってしまっている。そして重い荷車を牽ける若い使用人は、今は痛みに耐えながら歩くだけで精一杯だ。
 練兵を終え疲弊しきった彼らに、満足のいく食事を用意できない彼女たちの心苦しさを知りながら、自分には関係無いと見過ごす真似がどうしてできようか。
「ならばわたしにお申し付けいただければ」
様のお手を煩わせるわけにはいきません。いざとなれば守衛の兵もおります」
 と彼女らはそう言うものの、その守衛の手を借りることはできないから困り果てているのだろう。彼らには邸を守るという重責がある。対して買い出しは女性の使用人でも日常的にこなしているような仕事であるからわたしでも手伝えるはずだ。
「心配は要りませんよ。どうかお任せください」
 なるべく気負わせないように言葉を紡げば二人は申し訳なさそうに頷いてくれた。
 円銭の入った重い麻袋を腰に括り付け、荷車を牽きながら邸を出立する。衣は動き易い、彼女たちの物を借り受けた。市までの道のりは咸陽の宮城方面へと続いている広く平坦な一本道。迷う心配はなさそうだ。
 蒙家に初めてやってきた日が遠い昔のようだと、しばらくして背後に小さくなった邸を振り向き見ながらしみじみと思う。様々な人たちと関わって過ごす日々はそれこそ呂不韋の元に居た時よりも濃密で、全てが目新しいことばかりで、こうして買い物に遣わされるだけでも胸が弾む。お使いの中身は粟を一石。一人で持ち運ぶには少々重いだろうが、これも日頃世話になっている彼らのためと思えば苦ではない。

 代わり映えの無い景色の中を真直ぐに進み、ようやくそれらしき人だかりが遠くに見えてきたところで、小さく地が鳴った。遠くから響く振動は、やがて閑静な田舎道の空気を大きく揺らす。これは馬群が地を蹴る音だ。邪魔にならないように道の脇に荷車を停めて待っていれば、数十の騎兵がこちらへ向かってくるのが見えた。舞い上がる砂埃が目に入らぬようにと、腕を上げて顔を覆う。しばらくして。目の前を通り抜けようとしていたその集団は何故か自分の眼前でぴたりと止まった。
「あれ、。その恰好……どこに行くつもり?」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、一匹の騎馬がつぶらな瞳でこちらを見つめていた。その背に跨がっているのは――。
「蒙恬様! 戻って来られたのですか? 練兵は」
「もう終わったよ」
「う、嘘……」
 蒙恬の背後には、弓や槍を背負った騎兵たちの姿が。その肌も甲冑も泥まみれで酷く疲れ切った様子でいる。
 騎兵は先に邸まで荷物を運び、歩兵と使用人たちは続いて戻ってくるのだそう。思ったよりも早い帰還だ。夕餉の下拵えどころか買い出しにも行けていない現状に慌てて去ろうとすれば、蒙恬はわたしの進路を塞ぐように馬を御した。
「それよりも、どこに行くつもりなのさ」
「市へ。夕餉の買い出しに」
「どうして君が? それもひとりで」
「紆余曲折ありまして」
「まあいいけど。だったら、俺も一緒に行こうかな」
 間髪入れずにそう返されて、言葉に詰まる。他の騎兵たちが皆こちらを見ていることもあって、口籠もりながらも慌てて拒んだ。
「な、なりません。蒙恬様にご面倒をかけるわけには」
「それでも君ひとりに買い物を任せるわけにはいかないでしょ」
 部外者のわたしを信用するわけにはいかない、ということだろうか。彼の発言は尤もだ。尤もだが、だからといって名家の嫡男に買い出しの同行をしてもらうなどもってのほか。しかし憔悴しきっている騎兵たちに荷物持ちの手伝いを頼むわけにはいかず。
 つまるところ、わたしがひとりで片付けるのが最適解である。目の前に立ちはだかる蒙恬と馬を「失礼します」と振り切って歩き出そうとすれば、彼は慌てて馬から下りてわたしを止めた。
「ここで少し待ってて。一旦戻って厩舎に馬を置いてくるから。ああそれとじィも一緒に来てくれる?」
「ハ! 蒙恬様!」
 そう言い残し、蒙恬は兵を引き連れて邸の方角へと去って行った。そんな蒙恬に心酔している老いた従者も引き連れて行くようだった。何度も引き止められてしまった手前、彼らを無視して一人で市へ向かうのも気が引けて道端で待っていると、暫くして蒙恬と共にすっかり疲れ切った様子の老兵がやって来た。
 蒙恬はわたしに未だ信頼を置いてくれていないような一面を見せながらも、自ら面倒事を引き受けてくれている。相変わらず警戒心は解かれていないようだが、それでも時折垣間見える優しさに、わたしは己を取り囲む世界が少しずつ広がっていくのを感じ取っていた。


目次 前頁 次頁