「随分と遅いお帰りでしたね」
難しい顔をしながら虚空を見つめていたわたしに抑揚の無い淡白な声で話しかけてきたのは、陸仙という楽華隊の副将を務めている青年。その立派な体躯と恬淡な振る舞いから一見近づき難い雰囲気を持ち合わせているが、自由奔放な蒙恬の片腕なだけあって、武の腕はもとより怜悧な頭脳に捌けた思考の頼り甲斐ある人物だ。以前――この邸に来たばかりの頃、傍近の案内を頼んだことがあり、渋々といった素振りを見せながらもしっかりと引き受けてくれたことを覚えている。
「聞けば蒙恬様から直々にお誘いがあったそうではないですか。ついにお堅いさんが折れたのだともっぱらの噂ですよ」
「誤解です。わたしのお使いが、稽古をさぼる託ち種にされて呆れていますのに」
「それは失礼しました。災難ですね」
あれから山を下って市場まで戻ると既に陽が舂いており、手早く買い物を済ませて邸に到着する頃には足元も朧げだった。門前には行燈を掲げた使用人たちが自分たちの帰りを待ちわびていて、お二人の身に何かあったのでは……と心配する彼らに平謝りをしたのがつい先程のこと。広間に入ると楽華兵たちの視線を一斉に受け、たいそう気まずい思いをしたが、一方の蒙恬はといえば悪びれる様子などまったく見せずに「お待たせー」と愛想の良い笑みを浮かべながら酒蔵へと消えて行ったものだから、気が抜けてしまった。同様の苦労が絶えないであろう陸仙はわたしの苦い表情から何かを察したのか、それ以上何も追及することはなかった。彼はがらんとしたわたしの隣にやおら腰を下ろし、使用人に混じりながら渋茶を口に含んだ。どうやらあの騒がし人の輪に交ざることなく夕餉を済ませるつもりのようだ。
「わたしの隣で宜しいのですか?」
「今日はもうあの人たちの間に挟まれるのは嫌なので、さんさえ良ければ」
「構いませんよ」
遠くから「陸仙副長ー!」と既に出来上がった兵士の声が飛んできたが、心なしか疲れ荒んだ顔をしている彼はそれを無視して目の前の料理を黙々と口に入れていた。細い眉と窪んだ瞼はいつにもまして縮められていて、鼻根部には小さい皺が寄っている。
「胡漸副長、今日は殊に容赦無かったんスよ……誰かさんの所為で」
「心中お察しします」
彼自身、隊の屋台骨を支えているが故に苦労が多い人間だ。短い付き合いではあるが、あの蒙恬と胡漸に挟まれているとなれば彼という人間性を鑑みると嫌でも得てしてそういう立場になってしまうであろうことは、たとえ本人が嫌がっても逃れられないだろうと容易に想像がつく。今日もきっと蒙恬を取り逃がした胡漸の矛先はおのずと楽華兵に向けられ、その矢面に立つ羽目になったのは陸仙の役であったのだろう。返事の代わりに零れた長い溜め息は、まるで苦患を憂う老翁の如き悄然に満ち満ちていた。
山のようにあった料理を黙々と平らげてゆく彼の健啖家ぶりを見て、わたしも我に返ったように食事を口に入れ、茶を喫した。さほど腹は空いていなかったが、うかうかしていてはすべて無くなってしまうと思うと、少しでも己の腹に蓄えておかねばと考えてしまうのは当然の帰結である。ことに今日の夕餉は贅沢だ。白い湯気と煎った胡麻の香ばしい匂いが立ち昇る粥。中までしっかりと塩気が染み込んだ葉菜の古漬け。昨年の秋に獲れたものであろう立派な香魚の焼き干し。更には口直しに酒浸しの苔桃までも用意されていた。口の中で弾ける甘みが酒の芳醇さと共に鼻から抜けてゆく口当たりが堪らず、うっとりとしてしまう。冬は塩辛いものばかりが食卓に並び、反して水菓子は一切流通しなくなるから、こういったものは特に今時期は滅多に口にできない。貴重な甘味である。
「幸せそうに食べますね」
「陸仙さんは随分と物憂げに見えます。差し出がましいようですが、お疲れでしたらもうお休みになっては如何ですか」
「そうするつもりですよ。なんせ明日は早いので」
「また胡漸さんの猛特訓ですか?」
「もしかして何も聞いていないんですかね。今日の昼に中央から徴兵のふれぶみが届いたんですよ。いやあもう少しここでのんびりできると思ったんスけど」
ゆっくりと咀嚼をしながらくぐもった声でそう返した陸仙の言葉に驚き、沈黙した。成る程。この不自然なほどに豪奢な夕餉は兵士らの賜暇を締め括るものであったというわけだ。未だ山道に根雪が張っているような露宿も厳しいこの時期に出兵とは気の毒なことだ――と、まず湧いてきたのはそのような所感。寂しさはまだ遠くに居て、こちらをじっと見据えていた。
「今回は後腐れの無いように、蒙恬様としっかり腹を割って話し合ってくださいよ。さんはもう笄礼を迎えるんでしょう。嫁いでしまえば自分たちと会うのも最後になるかもしれませんからね」
明朝には戦地に出立する人間にしてはやけに落ち着き払っている彼の声色に、酒が入り夢心地であった頭が徐々に冴えてきた。そうだ。他人事ではない。わたしだっていつまでもこの邸に留まるわけではないのだから、これが彼らとの別離となる可能性もあるわけだ。実感は湧かないが、後々臍を噛む思いをするよりかは残された僅かな時間を有効に活用すべきであるということは以前の件からしっかり学習していた。
熱さの残る粥を喉に流し込んだわたしは、その足で大広間を出て自室とは逆方向へと歩き、回廊の柱に背を預けた。東廂房への通路は一本道であり手前には衛兵の詰め所、奥は主卧へと繋がっている。蒙恬は独りでこの道を通るであろうから、待ち伏せて否が応でも二人きりになろうという魂胆だ。
暫くして現れた人影は暁の逆光を受け、煤を被ったように黒く塗り潰されていた。人差し指と中指を顎にあて、真剣な様子で何かを考え込んでいるようだったその人物――蒙恬は、こちらの存在に気付くなり別人のように相好を崩してにこやかに笑う。
「蒙恬」
「……部屋に入って少し話そうか。早く温まらないと感冒にかかるよ」
まるでわたしの考えを読んでいるかのように、蒙恬はそう言った。招かれて仄暗い部屋の中に入り、そろそろと歩き進む。茣蓙に腰を掛けて、彼が手燭の火を火鉢に移しているのをぼんやりと眺めていると、ようやくこの男と過ごす時間がもう殆ど残されていないのだという事実が、宵闇に蝕まれてゆく空に乗せられてじわじわと押し寄せてきた。
「明日、行ってしまうと聞きました」
「俺もさっき知らされたよ。急な招集だけど従うしかない。武官になったからにはね」
赤く燃える火鉢の炭を何が無しに見つめるわたしの横で、蒙恬は武具を手に取り油を差したり布で磨いたりと、手際よく手入れをしていた。黄金色の甲と籠手、脛当て。何よりも目を引いたのは休め鞘から取り出された立派な剣だ。その刀身はまるで鏡のように鮮明に景色を映し出しており、傾けられるたびに、暁に呑まれる陽の光や火鉢に組まれた炭の燃えるような赤が、きらりきらりと瞬いている。珍しいと思った。わたしの知る蒙恬はもっぱら瓶を片手に酒精を体中に廻らせているか、頑是ない子供のように傅役の胡漸を困らせているか、おおよそはそのような振る舞いばかりであったから。
「面倒事はだいたいじィに任せてるんだけど、自分が身につけているものにはなんだかんだ愛着が湧いてね。こうして手入れをしているわけ」
物珍しそうな視線に対し蒙恬はそう答えた。無垢な白布が抜き身を滑る。互いの息遣いが感じられる静謐の中に、火鉢の灰に匙一杯塗された仄かな香の匂いがした。
やがて新しい油を馴染ませた刀身は黄昏の僅かな光源さえもつぶさに拾ってみせるほどに輝きを増しており、思わず感嘆の息を漏らす。彼もまたその美しさに満足したように、孔雀の尾羽を彷彿とさせる人一倍長い睫毛を伏せてみせた。
「官吏になるってのは大変だよ。何も背負わずに生きていた方が気楽で良い」
「左様でございますか」
「うん。だから呂不韋という権力に無条件に守られて生きていける君を、少し羨んだこともあった」
それはきっと嘘偽りの無い彼の本音であっただろうが、ちょっぴり嫌な気持ちになった。断っておくが、わたしにとって呂不韋とは亡父へ向けるような思慕と畏怖畏敬を足して二で割ったような感情を抱く相手である。しかし、かの戚里の大廈では散々な思いをした。
呂不韋にとってわたしは軸のぶれた捻り独楽のような出来の悪い玩具であった。金紗の絵端に身を包んだ食客たちは、とりわけ美しくも愛嬌があるわけでもないわたしが呂不韋に目をかけられているのが気に食わないらしく、小汚い、貧乏臭い、厚顔無恥だと散々言い詰められた。貪婪な欲に溺れた女たちは、男を知らぬ初心なわたしを揶揄し、面白おかしく侮蔑した。呂不韋はそれを咎めるどころか不敵な笑みを浮かべたまま静観しているだけ。それでも、好いていた。愛していた。だからこそ大義を貫くことで彼に認めて欲しいと願っているのかもしれない。閑話休題。今更そんなものを蒙恬に訴えたところで気が晴れるわけでもない。彼には彼なりの苦労があり、それらはきっとわたしの想像の域を超えるほどに大変なものであっただろうから、悌順に頷いた。
「守られるだけじゃ駄目なの?」
思う。わたしを守って死んでいった人間の人生はそこで終わったが、彼らの犠牲と引き換えにわたしが生きているという事実は影法師のように延々とつきまとっている。一緒に死にたかった、なんて言えたものではないが、それほど耐え難いことであった。生きながらえたという事実は、足枷にしかならなかった。
「守られ、生かされて、わたしは独りになりました。少しでも自分に力があったならばと、深い後悔と悲しみに今でも苛まれています。このまま呂不韋様や貴方の御身に何かがあれば、わたしにはもう……本当に何も残りません。一度は貴方に救われたこの命。愚かしくも死地に足を踏み入れるのは心苦しいですが、どうか身勝手をお許しくださいませ。大切な人の不幸を前に、手をこまねくほか許されない無力さが憎いのです」
契機は何であれ、わたしの心にはそのような根柢が存在していたのだろう。だからこそのめり込んだ。蒙恬からの掣肘に怒りにも似た感情さえ湧き上がってしまうほど。
暫しの静寂があった。気づけばあれだけ盛り上がっていた夕餉の酒宴はお開きになったようだ。遠くに点在する呂律のまわらない兵士たちの会話が、彼らの寝床がある大部屋や詰め所の方角へと散らばっていく。言いたいことをすべて言い切ったわたしの心には、漠然とした気まずさが生まれていた。気の弱い以前の自分であったなら、居た堪れなさに「出過ぎた真似をしました。今の発言はご放念ください」とでも言い残してこの場から逃げてしまっていたかもしれない。しかし今日は逃げなかった。わたしは蒙家に来てから自身の主張がある程度は尊重されることを学んでいた。すべては亜父の御心のままに、と生きていた頃と比べればかなり自恃が芽生えたように思える。蒙家で過ごした半年という月日は、という人間を斯くも強くした。
「君の御父上が生きていたらなんと言葉をかけていただろう」
「何も語らず、背中を押してくれたかと思います」
「そうか。なら俺に止める権利は無いね」
蒙恬は手入れの済んだ刀身を休め鞘に収め、こちらに向き直った。文火が彼の端麗な顔の面貌の右半分を赤赤と映し出している。目元に燃えるような朱の黥を入れていた亡父と、ふと重なった。
「生真面目な君のことだから中途半端では終わらないだろう。以前も忠告したけれど、いずれ君を利用しようとする輩が現れる。その時に、自分の命を簡単に投げ打つような真似はしないでよ。約束。絶対に死なないこと」
「はい。心得ました」
「それだけ守ってくれたら、あとはなんだって良いよ」
首肯の代わりに静かに目を伏せる。あれほど反対していた彼がついぞ課した約束はあまりにも単純なもの。その重みに圧し潰されそうだった。
夜の庭は静寂に包まれていた。月の明かりは薄く、一歩踏み出せば飲み込まれてしまいそうな深潭を擁している。池に架けられた九曲橋の、洒落た石造りの欄干に腕を乗せた彼の半歩後ろで、泥のように黒い景色を眺めた。凪いだ水面には星ひとつ映っておらず、首を垂れた枯れ蓮の陰影が無数の人の手や足のようにも見えて、酷く不気味であった。
「我らが王は中華統一という壮図を抱いておられる」
蒙恬は普段の自由闊達な態度とは打って変わってお役人的な口調で呟いた。その一言は秦将としての威厳に満ちており、無意識のうちに背筋を伸ばす。青磁のように浮かび上がった白皙の肌膚は夜の帳にも呑まれぬほど皎とし、彼のかんばせと佇まいは神聖さに杳然と包まれているようで、わたしたちの間にある大きな隔たりをますます色濃くした。
中華を平定するという思想を抱いた傑人は少なくないが、その覇業を成し遂げた者は史実に誰一人として記されていない。未だ夢物語と嘲る王侯も多いほどだ。それを即位したばかりの若い王が成し遂げようとしている事実を、わたしはこの時はじめて知った。蒙恬らがそんな無謀とも言われる宏謨を背負っているのだということも。
「薄情かもしれないが、俺は国のために戦っているわけでもないし、なんなら武官にすらなりたくなかった。も、秦という国自体には特に拘りなんて無いだろう。けれども俺はその覇業が成し遂げられるまで戦い続けなければならない。君もこちら側に足を踏み入れればいずれそうなる」
「とは言われましても恥ずかしながらあまり実感が湧かないのですが、いつかこの西の果てから、海が見える我が祖国の端まで、ひとつの国になる日が来るかもしれない。そう思うと感慨深いものがありますね」
「呑気なものだね。まあそれでこそ君だというべきか。しかし、そうか。斉国には海があるのか」
暫くぶりに蒙恬は表情を緩めた。
これは最近気づいたことだが、わたしが無知蒙昧で能天気な発言をすると彼は決まって破顔一笑する。将であるときの腹の底が読めない無機的な表情は、相も変わらず不安を掻き立てられるものであったから、わたしは堅苦しい気づまりを覚えるくらいならばいっそ愚かしい人間を演じていたいとさえ思ってしまうことがある。高い志を抱いていなければ、わたしはその重圧に負けてしまっていたことだろう。
「海を見たことはありますか?」
「無いよ。俺は
「記憶にありません。物心ついた時には生まれた城はとうに陥落し、亡父と共に他国へ亡命をしている旅の最中でした」
母が亡くなった時、遺された子供はわたしただひとり。代々城主を務める血を絶やしてはならないと、雨にも風にも当たらぬようそれはそれは大切に育てられてきたらしい。ならば、城の外には一歩も出して貰えなかったであろうから、きっと海を見たことは無いのだろう。しかし海にゆかりのあるものにはどことなく親近感が湧く。川ではまず獲れることのない立派な体躯の魚や、素朴な潮の香りが漂う海藻は好物だ。滅多に口にできるものではない上に秦まで届けられる頃にはすっかり塩辛くなっているが、それでも旨い。漁村の出身だという呂不韋の客人の、癖のある方言がどことなく興奮した亡父の喋り方に似ているような気がして、懐郷の情に浸ったこともあった。普段は初春の陽光のように穏やかであった亡父は、兵を率いる立場になると途端に荒っぽく、男々しげで勇ましい弁口になるのである。曰く、一本調子な口調は兵を奮い立たせるのに適しているとのこと。斉を渡り歩くうちに染みついたらしいその癖は、ついぞ死の直前まで消えることはなかった。
現在はそのようなものとは縁の遠い土地で過ごしているが、それでもわたしの人格を形成する一部として「海」は確かに意味を持っている。
「死ぬ前に一度で良いからこの目で見てみたいものです」
「じゃあ見に行こうか」
刹那、陸仙から「蒙恬様は悪意無く甘言を弄し女性を誑かすのがお上手ですから、あまり本気にしないことを勧めます」と忠告された記憶がぽんと脳裏に蘇ってきた。部下からも軽薄のそしりを受けている彼からの「海を見に行こう」という誘いは、陸仙の言う通り本気と捉えるべきではないかもしれない。
「戦う理由が無くなったら二人きりで行こう。血脈を辿れば俺たちの故郷、幾星霜を経た里帰りだ。悪くは無いだろ」
「わたしはいずれ誰かに嫁ぐさだめですから、もしかしたら貴方に二度と会えなくなるかもしれませんのに」
「たとえ君が輿入れして離れ離れになったとしても、同じ強い志を持っていれば必然的に再び道は交わる。いつか、俺は君と海を見たい。君がそう望んでくれるのならば」
戯れでもなんでも良い。反故にされて傷つくのは未来のわたしだけ。ならば信じてみても良いだろう。
凪いだ水面に映る糸のような繊月が揺れた。ぼんやりと滲んで、いよいよ輪郭が不明瞭になってきたところで、指でこっそり目の端を拭う。わたしも見てみたい。貴方の隣でその景色を見られるのならば、きっと、その景色はより美しいものになるだろう。
「なんて。少し重いかな」
「……いいえ」
時の流れも人の心も百川のようにいずれひとつに結び付くなら、わたしたちの果てにはきっと海がある。幸甚だと思った。この男は誰よりも終着点への伴侶にわたしを選んでくれるようであった。切り立った断崖の上、或いは白く光る砂浜、はたまた藻が絡まった浮き桟橋で、互いに歳を重ねた二人。紺碧の水面を眺めながら、潮風の匂いや波の音を存分に堪能するところまで妄想が捗った。なんとも単純な女だ。