浮世夢の如し

  六.曇天の蝃蝀・前編

 寒樹からは初々しい緑が芽吹いた。
 太陽の光を受け止めようと、うんと背伸びをする嫩葉は、瞬く間に殺風景だった庭を彩ってゆく。残雪が融け切り、足元には小指の先ほどの小さな花々が咲き、池の蓮も花托を伸ばし始めて、邸はいつしか鮮やかな生命の色に包まれていた。
 希望に満ちた爽やかな空気に、ほんのりと香る梅の馥郁な匂い。
 蒙家で過ごす二度目の春。
 変わらず美しい春。

 ――とある午下。
 咸陽の中心部の方から続く道を堂々と駆けてきた一騎。蒙家の正門前まで乗りつけると、騎乗していた男が門扉を叩いた。空の青と豊かな緑の二色で構成される田舎の景色には到底似合わぬ、派手な恰好をしている。呂不韋の使いの者だと名乗った彼の身分はそれほど高くはないが、錦の衣に革の沓、手指に嵌めた玉石、そして御する馬までも大層立派なものだ。亜父は相も変わらず使いのひとりに掛ける金さえも惜しまないようである。
 長らく音沙汰無かった呂不韋の元より仰々しく着飾った使者がやって来たという事実に、嫌な予感がしたのは言うまでもない。恭しく手渡された書信はこれまた丁寧に絹の包み布にくるまれており、ささくれのひとつもないつるりとした木簡には、呂不韋の邸へ戻る日時と手筈について簡潔に記されていた。今までに亜父から送られた書信はこれ以外にたった一通、冬至を過ぎた頃に「何か変わったことは無いか、あるのならば仔細に返書を寄越すように」といったものが届いたのみである。賊にやられた腹の傷のことを正直に打ち明けるべきか迷ったが、結局は呂不韋に余計な心配をかけまいと隠し通すことにしたのであった。

 蒙家を去ると決まるやいなや、引っ越し準備は着々と進んでゆく。もとより短期滞在を前提としていたとはいえ、約一年を過ごした部屋が空っぽになっていく様はどこか寂しいものであった。
 蒙驁や蒙恬とは満足のいく別れ方をしたが、二度と会うことも無いのだろうと思うとやはり心残りがある。わたしを引き受けてくれると決めた蒙武本人には、ついぞ顔を合わせることもかなわなかった。そんなわたしの複雑な心境など露知らず、あれよあれよという間に袂別の時はやってきた。蒙恬に宛てた書簡を林孟へと託し、迎えの馬車へと乗り込むと、寂しさに胸が疼く。

 古巣は今も昔も変わらない。高い土壇の上に聳える三階建ての建造物の、太い柱と梁は漆で塗装されており、壁は朱と豪奢な金具で飾られ、屋根には花の文様を模った軒丸瓦が規則正しく並んでいる。
 宮城区の戚里にまで跨がる広大な敷地は人で溢れかえり、邸というより小さな邑と言われた方がしっくりくる。驚くべきは、ここは呂不韋が登朝するための別墅であることだ。彼の封地は河南の洛邑という土地にあり、そこにはこの何倍も広い本邸があるらしい。
 一年空けた私室は綺麗に整頓されており、埃もさほど溜まっていない。どうやらこまめに掃除をしてくれていたようだ。顔なじみの侍女と再会の挨拶を交わし、荷解きをさっさと終わらせ、脇息に腕を預けて凭れかかりながら一本の兵法書を手に取った。蒙家での思い出を懐かしむようにその文字を追っていたが、やけに鼻につく香の匂いに掻き消される。
 堕落し、酒色と贅に溺れた人間の、蕪雑な活気に満ちた坩堝。
 ここは随分と居心地が悪い。まるで弱い毒にじわりじわりと心身が蝕まれていくような感覚。少なくとも蒙家での質素な暮らしの方がよっぽど性に合っていた。ほどなくして居ても立ってもいられなくなり、わたしは微服して部屋を飛び出したのだった。
「衛兵。着いて来てください」
様、いったいどちらへ」
「気晴らしに外の空気を吸いに行きます」
 肝心の呂不韋は留守にしているようで、目立たずに抜け出すのは容易であった。
 官衙を幾重にも囲繞する壁を越え、民居区の街路を進む。往来に隙間なく並ぶ露店、蜿蜒と続く車の列、闘鶏や碁などの賭け事に興ずる群衆。いまや見慣れた光景であるが、父と初めて咸陽を訪れた時は、この祭りのような賑わいに圧倒されたものだ。
「何かお探しで?」
「いえ。特に欲しいものは無いのですが、見て回るだけでも十分楽しめます」
「失礼ですが、頑なに外に出ようとしなかった貴女様がそう仰るとは意外ですね」
「こう見えても買い物は好きですよ。蒙家では近くの市場に赴くことも何度かありました」
「然様ですか。あちらでの生活は如何でしたか?」
「手放すのが惜しいほど良いものでした。呂不韋様には感謝してもしきれません」
 打ち笑みながらそう答えると、衛兵は珍しいものでも見たかのように三、四回ほど大きなまばたきをした。不安に圧し潰されそうになりながら向かった蒙家で、すっかり塞ぎ込んでいた自分がまさかここまで変わるとは思いもよらなかったのはわたしも同じだ。刺繍や機織りの手並みはともかく呂不韋の狙い通り従順でよく笑う性格にはなったのだが、ならば笄礼を迎えるまであと一年近く残されているこの時期に連れ戻されたのは何故か、少し気懸かりにもなる。

 この時期の咸陽はいつにも増して活気に溢れていた。田畑を墾る農民や、西の行き詰まりであるこの地で旅支度を始める商賈が郭の外から一斉に集うのである。軒を連ねた板葺きの店には旬の野菜が所狭しと並び、梅の花弁に彩られた水路は幾隻もの舟が浮かんでいる。
 裏路地に入ると不自然な人だかりが目に入った。死体でも転がっているのではと呟いた衛兵の言葉に怯みながらも興味本位で覗きに行くと、そこには碁盤を挟んで対峙する二人の男。周囲には二重、三重にもなる観客の輪ができている。どうやら賭碁のようだ。優勢に見える男の傍には布や酒などの戦利品がひけらかすように堆く積み上げられており、それらが人々の目を引いているらしい。
 まもなく勝敗は決し、優勢であった男にそのまま軍配が上がった。彼は猫のように目をすぼめて悦に入り、次なる挑戦者を見定めるべくねぶるように周囲を見渡している。とその時、ふと勝者の男と目がかち合った。えも言われぬ気まずさを感じ、一旦目を逸らして再度横目で様子を窺うと、口角をにっと持ち上げて聢とこちらを見据えていた。
「そこの娘さん」
「……」
「あんただよ。こっちに来な」
「……もしかして、わたしですか?」
 男は鷹揚に頷く。
「ここらへんでは見ない顔だな。まあいい。碁は知っているか」
「はい」
「だろうな。盤をじっと見ていたのはあんた一人だ。戦況を見極める良い目をしていた。是非とも手合わせ願いたい」
「せっかくお誘いいただいたところ申し訳ないのですが、生憎賭けるものを何も持ち合わせていないのです」
「構わん。むさくるしい野郎どもとの勝負にうんざりしていたんだ」
 碁を打ったのは蒙恬との一度きりであるが、高水準な戦略的思考を要するものであるという点で軍略囲碁と極めて似ている。男はそれなりの手腕を有しているから、もし勝負を受ければ今まで学んできた兵法書の戦術が存分に活かされるに違いない。そして有り体に言えば興味があった。独りでこつこつと溜め込んできた知識がどれほど通用するのか、知りたくもあったのだ。衆人の注目がこちらに集まった。しかし期待に膨らむ視線の中で、ただひとり、衛兵だけが露骨にやれやれといったような表情をしている。
様。御自分の立場を今一度深くお考えくださいませ。丞相の養女たる貴女様がああいう輩と下賤な遊びをされることを、恥ずかしいとは思われないのですか?」
「何も呂不韋様の顔に泥を塗るようなことは致しません。物を賭けなければ、これは単なる知恵比べです。赤貧にあえぐ窮民から千軍万馬の統帥まで、隔てなく平等な勝負をする場。ですから決して下賤な遊びなどではありません」
 衛兵は何も言葉を返さない。彼なりにわたしを思っての進言であったと察するからして多少なりとも不満はあるだろう、年端も行かぬ娘の駁撃に屈辱さえ感じているかもしれない。しかし彼が呂不韋に仕える身である以上、養女であるわたしの意向を無視することはできない。
 歩みを進めると観客は引波のようにおもむろに一歩下がった。その先に待ち構える男の姿は雲まで聳える険しい岩山のような威圧に溢れている。裾を踏まぬよう腰掛けに座り碁石を受け取るとようやく緊張が襲ってきたようで、蒸気が溜まったように頬が熱くなった。碁盤に置き石は無い、公平な勝負である。
 ――初めてにしてはなかなか良い手ばかりだ。しかし手厚く打っているだけでは勝てない。それどころか俺の布石を万全とする時間を許してしまうことになる。
 ――ああ、自棄になって攻めに転じようとしない方が良い。努めて冷静になろうとしても深く集中している相手には伝わってしまう。の強みを活かした戦い方でまず基盤を築くべきだ。
 ――起手からじっくり時間をかけて仕掛ける、焦る必要は無い。勇敢さも必要ない。君らしく、頑固で生真面目に戦ったらどう? 揶揄っていないよ。ほら、とりあえずやってみようよ。
 蒙恬の言葉を思い出すと不思議なことにおのずと手は動いた。勝たなければ、強くならなければ、遠くにいる彼に追いつくことなどできやしない。ぱちっと石を置く音が鳴る。暫くしてまた音が鳴る。一手一手があまりにも長い。大路の賑わいが遙か遠くに聞こえるほどのしじまである。そうしていくらか時が経つと蝟集していた人の群れは静観に飽きたのか段々と去って行った。
 男が手を止める。腕を組んで二、三回うんと唸って、こちらを見た。
「強いな。俺の負けだ。自慢じゃないが俺はコレで食いっぱぐれないくらいには稼いでたんだ。あんた何者だ?」
「特にこれといった肩書きも無い、凡庸でありきたりな人間としか」
「そうかい。良い勝負だった」
 それは己の実力を省察することすらできていなかったわたしにとっては今まで積み上げてきた知識が誇らしく思えるほど嬉しい誉め言葉であったが、同時に幾分か虚しさが湧いてきた。男が烏鷺の駒を片付ける。盤上はまっさらになった。わたしのこの束の間の勝利は何にもならない、いずれ嫁ぐ身であるがために。
「あんたがもし男だったら軍師学校の門戸を叩けとでも言っていたさ。最後の六将・王騎は死に、王宮では王弟派と丞相が未だ弑逆の時機を窺っているそうじゃないか。若くして優秀な人材が育たなければ咸陽も、秦も廃れる。最近はこうして銭を稼いでいっそ遠くに逃げたほうが良いかもしれないと按じているところだ。……おっと野暮な話をしたな。気を付けて帰りな」
 男は車に荷物を積み、轅の先にあばらが浮き出た馬を括って去って行った。まばらに残っていた見物人も後を追うように往来の中に消えてゆく中、わたしは衛兵の元へと足早に駆け寄った。
「すみません。お待たせしてしまって」
 深々と頭を下げて非礼を詫び、足早に帰路へ着いた。万一邸を抜け出したのが露見してしまえば譴責を受けるのは彼である。
「いいえ。それにしても、良いものを見せていただきました。あれほど素晴らしい実力をお持ちだとは。今日は様に驚かされてばかりですね」
「運が良かっただけですよ。貴方に大層なことをぬかしてしまったのが今更になって申し訳なく思えるほど、まったくの素人です」
「某もそのむかし碁を嗜んでおりましたがゆえ、見応えのある勝負に感銘を受けました。貴女様は不思議な御方です。したたかに生きようとせずとも何も不自由ないほど、止ん事無きご身分ではございませんか」
 その身分とやらを笠に着て、贅を尽くし、人を物のように使い潰しても心が痛まないような人間であったらどれほど良かったことか。確かに衣食住には事欠かない、漫然と日々を過ごしても誰にも文句は言われない。決められた相手の子供を産めばその役割はまっとうできる。果たしてそれは幸せなのか? 温かい寝床と十分な餌は与えられるが、狭い鶏舎からは出られず、産んだ卵は奪われてしまう雌鶏とさして変わらないだろう。静かに無念を噛みしめる。貴方が心底羨ましい、こんなわたしに羨望の眼差しを向けられる貴方が――。

 とっぷりと夜が更け寂歴とした邸。僅かな眠気を覚えながら床に就く準備にとりかかろうとしていると、侍女がわたしの名を呼んだ。このような時間に何の用かと不審に思いながらも部屋の入口へと向かうと、なんとそこには呂不韋が立っていた。
 久しい邂逅だ。嬉しいはずなのだが、言葉は出ない。この男を前にするとわたしはいつも欽慕とも畏れとも取れぬ感情に揺さぶられながら、息を呑んだまま驚き固まることしかできなくなるのである。すると、大きな手のひらがわたしの肩を強く抱く。気品に溢れた香の匂いが強く漂う胸元に、体躯をぐっと寄せられ、力強く見開かれた目がかち合った。凛々しい眉、くっきりとした瞳、厚い唇。すべてがわたしを捉えて離さない。
「久しいのうよ。随分と美しく成長したではないか」
 胡粉を塗った頬を太い指がつっと這った。品定めをするようにじっくりと、全身をつぶさに観察され、気恥ずかしさに下を向く。並んで歩く回廊は、まるで昼間のように沢山の光に溢れていた。暫くして呂不韋が歩みを止める頃には、辺りには人の気配が一切無かった。人払いをされている、さしずめそれほど重要な話があるということであろう。そしてわたしには彼の口から語られる言葉が何たるか、あらかた想像がついていた。
「蒙家はどうであった? 斯様な辺鄙な土地に一年も居たのでは、我が邸の賑わいにはすぐには慣れぬであろう」
 たわいもない会話を交わす。本題にはいつまでも入らない。
 ――嫁ぎ先が決まったのならば、さっさとお伝えしてくだされば良いのに。
 呂不韋にも何か意図があってのことなのだろうが、輿入れする相手というのは今後の人生の明暗を分けると言っても過言ではないほど重要なものなのである。ただでさえ急に邸に連れ戻されて疲れているのだ、じれったさに耐え得る余裕は無い。痺れを切らして致し方なく口を開いた。
「不躾な質問でございますが、わたしを邸に呼び戻された理由を教えていただけませんか」
 それでも敢えてそ知らぬふりをして聞いてみれば、呂不韋はまるで嘲るように笑ってみせた。回廊に並ぶ燭台の火が湾曲した鼻唇溝にくっきりと深い影を落とす。
 それから思わせぶりな沈黙が暫く続いたあと、彼はわたしの耳元に口を寄せた。生温かい吐息が耳朶を擽り、背筋がぞわりとする。
「少しばかり不穏な話を耳にしておる。どうやら書庫にある兵法書の写しを家僮に命じて取り寄せていたそうではないか。よもや蒙家の輩に何か吹き込まれて変な奸策を巡らせているのではあるまいな?」
「!」
 小さく跳ね上がった肩の震えから呂不韋に動揺が伝わっていることだろう。疚しさを感じていたわけではない、しかし女人の嗜みとしてはあまり好ましくないものであろうから、わたしはこの方を怒らせてしまったのではないかと堪らなく恐ろしくなってしまったのだ。
「いえ。あれは亡父を偲ぶためだけのもの、他意はございません」
「ふむ。そうか、そうか」
 わたしを抱き込んだ手で、呂不韋は何か考えるように髭を撫でる。
「まあ、結局は何を考えていようが構わんのだ。どのような企てがあろうとこの儂にとっては詮無きこと」
「承知しております」
「よい」
 そうして呂不韋は踵を返し、わたしを置いて一歩、二歩と来た道を戻るように歩き出した。果たしてこんな話をするためだけにわざわざ夜更けに連れ出されたというのか。心情を弄ばれ、間抜けな反応を見て面白がる戯れに付き合われただけだと。まったく厭らしいことをされる。呆れて言葉も出なかったが、しかし安堵したのもまた事実。立ち上がり、複雑な心境のまま彼の後を追った。
 そうして自室の前までやってきたとき、先を歩いていた呂不韋が音も無く振り返った。胸がざわめき、一抹の不安が過る。この御方がどのような人間であるか、ようやく思い出してしまった。こうしてわたしが油断するまで機を図っていたのだ。
「斉の豪商と縁談を取り付けておいた。祖国の者とならば安心であろう。若い頃の儂によく似たなかなかの美丈夫であったぞ」
 何かを言わなければならないのに、声が出ない。それでも振り絞って吐き出した言葉は、大きく震えていた。
「……あ……ありがとう存じます。呂不韋様のお役に立てるよう、精一杯務めを果たして参ります」
 長らく放心状態でいた。いつのまにか呂不韋がこの場から立ち去っていたことすらも気づかぬほどに。冷たい廊下に頽れて、それからもう一度、先程の言葉を思い出してみる。訊き間違いでなければ、確かに斉と言っていた。わたしの生国であり、遠い東の端にある地。まさかそこに住まう男と結婚させられるとは誰が予想できよう。
 それからいくらか時間が過ぎ、偶々通りかかった侍女に声を掛けられて、夢うつつのまま自室に戻った。牀に仰向けになって寝転んで、何も無い天井を眺める。秦人ならまだしも相手は斉の豪商。嫁いでしまえば、二度と秦には戻ってこられない。呂不韋は「祖国の者とならば安心」と言っていたが、故郷の城は既に魏国の手に渡っており、親族は皆殺されている。つまり斉には頼れるあてなど何も無い。そして呂不韋はその事実を知っている。
 呂不韋はわたしが蒙驁や蒙恬との接触を持ちよからぬことを焚き附けられたと考え、敢えてこの秦国から遠ざけようと斉人との縁談を取り付けて、早々と邸へ連れ戻したのだ。「どのような企てがあろうとこの儂にとっては詮無きこと」という彼の言葉から、この推察はおおむね間違ってはいないだろう。
 正式に婚姻関係を結ぶことに合意すれば、笄礼を終えたらすぐに嫁ぐことになる。ようやく見つけられた新たな居場所、好きなこと、大切な人。それらをすべて引き剥がされることが分かっていて喜べるはずがない。笄礼は二月。処刑を待つ咎人のような心持ちで長い日々を送ることになるだろう。
 できることならばもう一度だけ蒙家の皆に、最後の挨拶をしに伺いたい。しかし斉国に嫁ぐことが決まったら彼らはわたしをどう思うか。縁談相手は武器を売っている。いずれ秦人を殺すことになる武器だ。わたしはそんな人の妻となり、彼の為に尽くすことになる。少なくとも好ましく思われることはない。……せめて国を出る前に書簡をしたためるのが礼儀と思ったが、牘に伸ばした手は止まった。彼らにこの事実を伝えても何も良いことはない。黙ったままでいたほうが互いの為である。
 最も心残りなのは蒙恬のこと。昵懇の間柄にもかかわらず連絡も無いことに幻滅されてしまうかもしれない。それでも、そうだとしてもやはり伝えるべきではないのだ。
 だからせめて、わたしだけは覚えていよう。
 海を見ようと言ってくれた、口約束。あれは何物にも代え難いほど価値あるものだった。

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