※名有りモブが登場します
巷間ではここ数年で最も厳しい冬だと言われているが、呂不韋の邸は一足先に春が到来したような温かさに満ちている。唯一、この書庫だけが骨身まで沁みるほど寒い。燃え易い物が多く、人の出入りも少ないことから、火を焚くことが禁じられているのだ。庫の内装はまるで迷路のようになっており、天井まで届くほどの高い棚にはどれも押し並べて隙間なく書物が詰め込まれている。光耀栄華を極めし呂不韋が文学にも深く精通しているというのは意外に思われるかもしれないが、この膨大かつ多様な書物を丁寧に管理しているところを見ると大いに頷ける。
縁談が決まってからというもの外出は如何なる理由があろうと一切禁止とされた。そもそも都では身分の高い女人の外出は好ましくないとされており、またこれといった用事も無いから今更困りはしないのだが、いざ認められないと明言されると窮屈である。奴婢らの仕事を手伝うわけにもいかず、かといって酒興遊楽に耽るような性格でもないため、おおよそは部屋に篭もっていることが多かった。そのような中で唯一の娯楽が、書を読むこと。幸いにも書庫に入る許可を得られたため、こうして通い詰めている。日々、それの繰り返しであった。気が付けば夏は過ぎ、秋は深まり、瞬く間に冬になって、短い一年はじきに終わりを迎えようとしていた。
蒙家を去る際に蒙恬へ宛てた書簡を林孟に託したが、あれから一年近くが経っているにもかかわらず返事は未だ届かない。六将・王騎の長い殯葬が続く最中も、お構いなしとばかりに他国からの侵略は激化しており、未だに国境付近は膠着状態が続いているらしいから、単に咸陽に戻れていないのだろうか。或いは彼の身に何かがあったのでは。外の情報を仕入れられず、もどかしさだけが募る。せめて斉へ行く前に返事を貰えればと思っていたのだが、望みは薄そうだ。
この日、起床したわたしを出迎えたのは大年増の侍女三人。欠伸ひとつする暇も無く、手際よく胸元まで着物をはだけさせられ、地肌との境目がくっきりと判るほど油や胡粉を重ね塗りされる。ああついに来てしまったか、と胸中で独り言ちた。今日は斉の豪商との、見合いの日である。うかうかすると苦薬を飲まされたような忌まわしい表情をしてしまう。それほど気が進まない。しかしこの見合いをつつがなく終了させることが己の喫緊の課題であることは承知している。金紗が絢爛に施された白と桃の衣、結われた髪を覆う装飾品は、赤銅や銀の基盤に碧の宝玉が所狭しと並んでいた。すべて呂不韋が今日のために用意したものである。高価な玉石は純潔の証。見合いのためにここまで金をかけるその意味を否が応でも思い知らされる。
「とてもお似合いですよ。さあ丞相がお待ちです」
拭いきれない不快感を抱えたまま立ち上がる。こうして思い悩んだところで、結局のところわたしには何もできることはない。斉の豪商とやらの機嫌を損なわぬように静かに微笑んでいるのが関の山である。
応接間には既に呂不韋の姿があった。普段はこの男を目の前にするのも緊張するが、今日だけは地獄で仏に会ったような気分だ。
「うむ。良い仕上がりだ。そなたの父に見せてやれなかったのが悔やまれるな」
呂不韋は長い顎鬚を撫でながら満足そうに莞爾とした。
「そう緊張せずとも全て儂に任せておけば良い」
どっしりと腰を落ち着かせ、まるでこの世に何も怖いものなど無いような素振りをしているこの男が心底羨ましい。
この部屋に逞しい衛兵を従えた若い男が入ってくる頃には、冬を忘れさせるほど暖かな室温と緊張のせいでわたしの肌膚はすっかり汗ばんでいた。
「遠路はるばる御苦労であった」
「久方振りでございます、呂丞相殿」
瀟洒な着物を召した縁談相手の男は低腰に、それでいて悠然と手を合わせて揖をする。その容貌は想像していたよりもずっと若い。確かに呂不韋は「若い頃の儂に似た――」と言っていたが、まさか己と十も離れていないようなこの男が豪商と呼ばれ、一国の丞相と伯仲する立場まで上り詰めているとは誰も思うまい。面差しはさておき、淀みない舌尖と溶溶たる挙措などは心なしか呂不韋と重なるものがあった、権力者というものはこうも似寄るものなのだろうか。
男は呂不韋に対し長い挨拶を済ませると、ようやくこちらを見た。穴が開きそうなほど、まじまじと見た。どのような女かじっくり精察されているのかと思いきや、その瞳は表情をまったく感じさせない完全なる無である。
「こちらが?」
「……お、お初にお目にかかります」
「ああ。丞相殿の紹介通り綺麗な御方だ」
嘘っぱちだ。この人はわたし自身にまるで興味が無く、呂不韋の手前、長らく目線をくれただけ。現に応接間に入ってから今の今まで目を合わせることすら無かった。彼の目には最初からただ一人しか映っていない。呂不韋との関係を円滑に保つための存在、わたしにはそれ以上の価値は無いのである。
「失礼。御名前を伺っても?」
「はい。と申します」
「ありがとう。私の名は茅焦という」
世には同じ姓の者と結婚してはならないという不文律があるが、呂不韋が取り決めたものであるからして、当然そのような事態にはならなかった。互いに名を明かすと、男はこちらに向き直って手を合わせる。これで彼との婚姻は確たるものとなった。
見合いはこれにて終了……とはならずに、再び政や商いの難しい話を始める二人。縁談というのは半分名目であり、茅焦はこうして呂不韋と常人の理解の範疇を越える話をするためにここにやって来たというのは、その活き活きとした表情から察しが付く。見合い相手のわたしとのやり取りは程々に、呂不韋との対話に熱を入れている様子を隠す素振りも見せない。嫌われるよりは幾分かマシであろうが、関心を向けてくれないというのは堪えるものがある。
「ああすまない。貴女を置き去りにしてしまったね」
「いえ」
八回目の欠伸を噛み殺した時、ようやく茅焦はこちらに声を掛けた。
「さて丞相殿、私は日が暮れる前に客殿へ戻るとしましょう。それから。私のもとへ嫁いだからには貴女の望みは可能な限り叶えることを約束する。まさに貴女が雨を望めば雨を降らせ、風を望めば風を吹かせようという言葉通り、何事も遠慮せず私に言って欲しい」
瞠目した。まさか茅焦の口からそのような言葉が出るとは夢にも思わなかったからである。大袈裟な求婚の決まり文句は、先程の無関心さを見せつけられてしまえばやや気味悪く感じるものではあるはずだったが、彼の曇りの無い瞳にその胡散臭さは瞬時に消え去り、卓犖なる詩の一節のように聞こえてしまった。否、その感受は間違ってはいないだろう。茅焦にとってわたしは野望を叶えるための一手段に過ぎない。高邁で、達観している御方。わたしという人間にまったく興味を示さない御方。しかし妻となる女性の望みを叶える、そのような容易いことを達成できぬはずがないという矜持を持っている。それが彼にとっての誠意であり、愛情なのかもしれない。
「貴女が笄礼を終えたらまた迎えに来よう。それまで待っていてくれ。感冒など召さぬように」
「はい。お待ちしております」
邸の前には馬を六頭も従えた大きな車があった。茅焦は呂不韋に挨拶を済ませると私の方を見て打ち笑う。この男に嫁ぐのもまた己の人生だ、漠然とそう思った。そして、そう思えるほどには彼との結婚を受け入れられているらしいと無言の裡に諒解したのであった。
まもなくして新たな年を迎えた呂不韋邸。この邸の人間は日々酒池肉林の暮らしをしているが、今日という日までも元来の臘祭としての催しをせずに、めでたさに託けて飽きもせず同じような酒宴を催せるのか、理解に苦しむ。吹き抜けの二階から暫く一階を見下ろした。舞妓が砂金を散りばめたような袖を振るい、酒精が回った赤い顔の男たちがだらしない表情でそれを眺めている。他所に目を向ければ西方から連れてこられたであろう珍獣が、悪趣味な装飾を施されて檻に閉じ込められていた。どれも憂鬱な気持ちを晴らしてくれるものではない。
屋内に居てはどうも気分が落ち着かず、手提げ行燈を持って外に出たが、猥雑さは大して変わらない。条坊制により整備された咸陽の正月に静閑な場所というものはまあ存在しないだろう。いまは郊外にある蒙家の邸で過ごした一年前の同じ日がただただ恋しい。
厚い雲に覆われた空は僅かに赤らんでいる。
そういえば三日前に書信が届いた。婚約者の茅焦が斉国からわざわざ寄越したものである。中身は見合いの場を設けてくれた礼とこちらの体調を気遣うような短いものであったが、言葉選びの癖を見るにあの男が直々に筆を執ったらしいことが伺えた。わたしには勿体ないほどできた夫だ。対して蒙恬に宛てたものの返事は未だに届かない。まさか一年以上も咸陽に戻っていないということがあるのだろうか。有り得ない話ではないが。それとも返事をするに値しないと判断したという可能性も……無いと信じたいけれど。
もしかしたら蒙恬の心の中に、わたしはもう居ないのかもしれない。他の女性にそうするように、わたしとの約束もただの戯れだったとしたのなら。真意は判らない。しかし判断するにしても音沙汰が無いものだから、確かめる術もないのである。一年の空白は、憂患を膨らませるには十分な時間だった。戯れでも構わないと、信じると決めたのは自分自身であるはずなのに。
この邸には望楼が設けられており警備の手配りは厚いはずだが、今日はいつにも増して薄かった。正門には衛兵が四人いるがいずれも酒が入ってまともに動けないようである。
築地塀を越えれば逃げられる。そして蒙家に赴き、真実をこの目で確かめられるだろう。
――随分と水臭いのう、。行く宛も頼る人も無いのならば、暫しこの邸に身を置いてもよかろうに。
亡父の死後。少ない荷物をまとめ、邸を出ようとしたわたしに呂不韋が投げかけた言葉だ。父はもういない。あれだけ親身になってくれていた従者たちは、気づけば忽然と姿を消した。天も人もわたしを見放したのだと思った。しかし呂不韋だけは救いの手を差し伸べてくれている。思いもよらぬ幸運に、歓喜の涙に暮れたあの日、わたしは呂不韋の為に生きることを心に誓ったはずだ。それがまさか二年も経たず逃げ出してしまいたいと考えるとは、とんだ不忠不孝である。若さ故の浮薄かもしれないが、それにしたって嫌なものは嫌だ。
塀の傍にある松の木のこぶに足をかけ、湾曲した大枝にしがみつく。ここから思い切って飛べば、塀まで手が届きそうではあった。しかしすぐ隣には藻に覆われた池がある。水深が深く岸辺は苔生しており、誤って落ちてしまえば命の保証はない。実際に、年に一、二回、この池のそういった話をよく聞く。呂不韋邸には諸国の要人や数千もの食客がひっきりなしに出入りしていて、特に権力闘争に関わっている人間の不審死が頻発しているから、事故か事件かは分からないが。あれはたしか一昨年の雪解けの頃、若い女の水死体が発見された。彼女は邸でも一際目を引く美女であり舞妓として呂不韋に召し抱えられていたが、その正体は他国の間諜であったそうだ。事故死として処理されたが、呂不韋を裏切ればああも無残に殺されるのだということを知った。
果たして塀を越える決心はつかなかった。
艶麗な舞妓の面影の欠片もない醜く膨張していた亡骸が脳裏を過る。やはり己の命を賭してまで呂不韋を裏切る決心など、とてもではないが持ち合わせていなかった。結局のところわたしは、どうやったって亜父から逃れることなどできないのかもしれない。