浮世夢の如し

  七.賤妾への情け・前編

※モブと絡む描写有り

 二月。十五になる女子は加笄の儀式を以て成人と見做される。この歳になれば心身ともに勝手に成熟するものだと思っていたが、気分は十の頃とさして変わらない。
 貴人の娘はおおよそ、受笄後まもなくして許婚を定められ、婦徳の手習いから針仕事まで様々な教育を受けるのが一般的だ。わたしもその例に漏れず、儀式を終えて息つく暇もなく嫁入りの準備が始まった。朝は女賓による礼儀作法の薫陶を受け、昼は機織りや裁縫に励む日々。そうして疲弊しきった日々の果てに待ち受けているのは秦から斉までの中華横断の長旅である。
 邸を去る準備も着々と進む。呂不韋が用意した嫁入り道具はすべて金銀の箔がふんだんにあしらわれた燦爛たるものばかり。古来、花嫁が婚家での暮らしに困らぬようにと持たされていたはずのものであるが、これらは実用的ではなく、呂不韋の並外れた財力を誇示する以外の用途が思い浮かばない。
 日を追うごとに片付いてゆく自室に寂寥感が増す。この部屋を与えられたのは亡父と死別してすぐのこと。あれから早三年の月日が流れている。もう亡父の声も、思い出そうとしても思い出せない。忘れたくない記憶も徐々に擦り減るほど長い時間だった。

 全身を燃えるような赤が包む。腰まで伸びた垂髪は結い上げられ、うなじをむず痒い放恣感が走った。ついに迎えた婚儀の日、支えが無ければ自立するのも難しいほどの典雅な衣装に身を包み、わたしは人生で最も大仰な着付けを施されて呂不韋邸を後にした。
 対して夫婦を乗せる車は、えらく質素なものであった。慶事を祝う色はどこにも施されておらず、大人しそうな馬が二頭繋がれているのみ。嫁入り道具を乗せた派手な花車で他国を渡り歩くのは言わずもがな危険であるからと、車から降りて来た茅焦は手短にその無礼を詫びた。
「変わりないようで何よりだ」
 差し出された手を握る。これからこの人は婚約者ではなく夫になると思うと、変な気分だ。
「もう秦国に心残りは無いかな?」
「ええ、ございません。貴方様と夫婦の契を交わすこの日を待ち焦がれておりました」
「それは幸甚だ」
 己の心を偽り続ければ、いつかきっとそれが本心に成り代わると信じて嘘を吐く。妙に鋭いこの男にはきっと露見しているだろうが、彼はわたしに興味が無いようだからなんと思われてもどうでも良い。
「もうここはお前の帰るべき邸ではない。くれぐれも粗相のないよう、奴に感謝し、妻としての務めを果たすことを第一に」
「肝に銘じます」
 呂不韋がわたしの肩を強く抱く。傍から見れば父と娘の、今生の別れの絵である。果たして逃げることも隠れることもできなかったわたしであるが、せめてこれで呂不韋に恩を返せただろうか。
「達者でな」
「呂不韋様もどうかいつまでもお元気で」
 一歩、二歩。秦国の地を踏みしめるのもこれが最後。愚かしいほど未練ばかりだ。いったいわたしはどのような選択をすれば納得できたのだろう。夫の手を借りて車に乗り込むと、馭者が扉と窓を閉めた。車内は目映い赤で彩られている。どうしてか、ふと、蒙恬の顔が思い浮かんだ。鮮やかな赤が似合う人だった。牡丹色の戦衣も、慶事の着物もよく似合っていた。彼がどう思っているかは分からないが、少なくともわたしは、良い友人ができたと思っていた。

 斉の臨淄にある茅焦の邸までは何度も馬を交換し、日が暮れるまで走り続けても半月はかかるとのこと。それほど長い期間を車の中で過ごすということに対しては不安しかない。特にこの気難しい男と片時も離れず同じ空間で過ごすのは苦行に近いであろう。見合いの時からそう覚悟していたのだが。
「緊張しているか? それとも私のことが苦手かな」
「い、いえ! 苦手ではございません。き……緊張しています」
「そうかそうか。緊張しているのは私も同じだ。しかし黙っているのも得意ではなくてね。夫婦の契を結んだ仲なのだからひとつ、つまらない昔話でも聞いてくれないか? 夫たるこの私がどのような人物か知っておいた方が貴女も安心できるだろう」
 苦手だと言い当てられて狼狽するわたしをよそに、案外茅焦は気さくに話しかけてきた。黙っていても気まずい静寂は生まれず、時折まるでこちらに興味を抱いているかのように質問を投げかけてくるその姿勢は好感が持てる。話下手なわたしの言葉に対し恬淡な笑顔で頷いてみせる夫に、地を出すまでたいして時間はかからなかった。

 秦から魏、魏から趙を抜けて斉に辿り着いたのは、当初の半月という予定よりも数日が過ぎた頃だった。臨淄の城門を通過するとようやく花車の窓を開ける許可を得られた。都府には数多の家屋が無秩序に密集しており、交通量の割に車幅の狭い道路には車が輻輳している。製塩や漁業を中心に発展した独特の土地柄は、咸陽の雰囲気とはまた異なるものであった。
 かくして茅焦の邸に到着するなり、長旅の疲れを癒やす間もなくそれはそれは盛大な華燭の典が催された。気が緩むと半目になってしまいそうなほどの眠気に耐えるわたしの横で、夫は爽やかな表情で来賓たちからことほぎを受けている。朝廷の高官らの姿も見受けられた。秦から嫁に来たわたしを見る視線は心なしか露悪的な感情を纏っているようで居心地が悪い。
 秦からここに至る今まで散々振り回され疲労困憊していたが、しかし夫となったこの男を恨む気持ちは微塵も起きなかった。決して絆されたわけではない。ただ無益な憎悪を抱き精神を擦り減らすよりは、空を流れる綿雲のようになすがまま生きる方が良いと悟ったまでだ。呂不韋の為、そして蒙恬の為と、誰かに認められることを糧に生きてきた頃の燃え滾る熱は霧散しようとしている。夫を深く愛することができれば、或いは子を産めば、あの頃の心はさっぱりと消えてしまうのだろうか。

 清潔な夜具一式をしつらえた一室の中央には身の置き場に困りそうなほど大きな寝台があり、薄絹の帳が四方を囲っている。晴れることのない深い霞の中に居るような感慨だ。この夫婦の寝室に案内されたのはもう随分と前のこと。花嫁修業の一環で閨房術に関しては耳にたこができるほど聞かされたが、生娘であるからして想像に難くどこか他人事のように思っていた。しかしいざ本番となると恥ずかしさに圧し潰されて頭がいっぱいになる。ただでさえ色恋沙汰とは無縁の人間であった。亡父以外の男性の手などまともに握ったことが無いのに、どうして夫を満たせようか。と悩んでいるうちに綺羅の長襦袢を纏った夫が寝室へとやってきて、幽かに含羞の色を滲ませた表情でこちらを見つめてきた。
 白い月明かりの下、自分よりも十以上年配の男はやけに蠱惑的に見えた。筋肉質な胸元や青い血管が浮き出た上肢からは芬々と色気が滲み出ている。蝋のような白皙の肌、腰まで垂れる癖の無い長い髪、そつがない挙措。彼のひとつひとつが畏怖を覚えるほどに美しい。触れることすら躊躇われる。だがやるしかない。緊張を振り払うようにこほんと一つ咳払いをし、眦を決して竪衿に手をかけようとする。しかしそれは茅焦の手によって制された。
「……あの、わたし、何か失礼なことを」
「まあ、待ちなさい。そのように性急に事を進めようとしても、貴女が私を受け入れる準備ができていなければ遠回りになってしまう」
 夫をどうにかして満足させなければと夕餉の時からそればかり考えては、これといった手段も見つからず遮二無二乗り切ろうとしていたわたしは、その言葉で我に返った。神聖なる婚儀の一環のはずが、最前線で突撃を命ぜられた兵士よろしく四肢の末端まで震えていたのだ。茅焦に不手際を詫びて一度彼と距離を取った。さてこれからどうするべきか、まごまごしている間もいたずらに時間だけが過ぎてゆく。緊張は拭われるどころか膨れ上がる一方である。
 その時ふと、わたしの手の甲に茅焦の手のひらが重ねられ、やんわりと包み込まれた。ゆっくりと体を引き寄せられて、やがて彼の腕の中へとすっぽり嵌まる。夫の躯体は細身で知的な美質を具えたものであったが、未だ幼さが残る晩熟なわたしには大きく思えた。たった二月前に顔を合わせた男。夫婦という関係ではあるが、未だその心は図りかねる。しかしこうして密着されても不快感は湧かなかった。肉親を喪失した悲嘆を慰めるように、わたしは己よりも歳の離れた男性の慈愛に対し執着を示すきらいがある。彼も例外ではない。まるで嬰児をあやすように、なよやかに背を撫でられ、その心地良い持続的な刺激にうっとりと目を細めた。
「……
 名を呼ばれ、顔を上げる。目と鼻の先に茅焦の顔があった。生々しい吐息が頬に触れ、そういえば初夜の最中であったと、現実に引き戻されると同時に、あろうことか夫は出し抜けにわたしの唇を奪った。反射的に仰け反った体は背に回された腕に留められ、逃れられない。
「ふう、っ……」
 許しを乞うように息を吸う。我を保たねばこの男に意識をすべて乗っ取られそうな気さえした。生温かい舌で静かに咥内をまさぐられる感覚も、蟲が這っているような下腹部の奇妙な感覚も、無垢な体にはすべてが刺激的であり、すべてが不快である。涙に潤んだ視界の奥、目を眇める夫に苦しさを訴え続け、ようやく解放されると同時に強い虚脱感に襲われたわたしはその場にへなへなと倒れ込んだ。冷たい空気が、唾液で濡れた口周りを刺すように撫でる。
 息を整える間もなく茅焦の手が迫る。やっとのことで振り絞った蚊の鳴くような制止の声は意味を成さない。なだらかな二つの丘陵をやんわりと揉まれながら、ゆっくりと襦袢を脱がされると、ぞわりと肌が粟立った。裸を晒すことに未だ抵抗はあったが、ここまできたからにはと腹を据える。しかし、夫は唐突に手を止めた。
「……ん?」
 円滑に進むと思われていた初夜の儀は茅焦の口から漏れた疑問符で中断された。不穏な空気を感じ取り、瞑っていた目を恐る恐る開けると、彼はじっとこちらを見ている。
「如何されました?」
 不安に思ってそう問うが、返事は無い。
 代わりに臍のあたりを指の腹でつっとなぞられた。くすぐったくて体を捩らせるわたしをよそに、幾度も、何かを確かめるように。それから夫は窓側にある帳を捲った。寝台に皓々とした月光が差し込み、二人の素肌を照らす。
「随分と深い傷だ」
 疑心に満ちた茅焦の視線の先には、わたしの腹に走る大きな傷があった。これは蒙家に移り住んで間もない頃に、賊との諍いで負ったもの。深く抉れた切創は、腕の良い医者に処置を施して貰ったお蔭でなんとか塞がったが、しかし痕は残ってしまっている。痛みこそ感じないが見た目はいたましい。
「皮膚が薄い。最近のものだな」
「これは……一時、蒙驁将軍の邸でお世話になっていた時に、使用人たちの手伝いを申し出て市へ買い出しに行ったのです。その時に偶然、見ず知らずの童女が賊に連れ去られそうになっていまして、その子を助けようとして……」
 茅焦は暫し頭を抱え、苦い表情を浮かべる。そして無言の裡に脱ぎ散らかった襦袢を拾い上げて裸のままでいたわたしの体にそっと掛けた。初夜の儀が中途半端に終わるというのはさしずめ夫婦関係の破綻である。それがどれほど深刻なことか、理解するや否や血の気がさっと引いた。
「お待ちくださいませ。どうかなさいましたか?」
「すまないが今日は何もせずに寝てしまおうか。私も今一度考え直すべきことがある」
 状況がまるで飲み込めなかった。或いは信じたくないと飲み込まないでいただけかもしれないが、その真贋はともかく、彼はどうしたってわたしを抱くつもりは無いらしい。本音を言えば続きをしてくれとせがみたい気持ちで溢れていたが、依怙地になったところで事態が好転するはずもない。夫の決定は絶対である。覆る見込みは薄い。ならば大人しく従うしかない。
 背中合わせで横臥している茅焦の呼吸はやがて夜が明けるまで浅いままであった。

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