浮世夢の如し

  七.賤妾への情け・後編

 婚姻がご破算になってしまったらどうしようかと、考えれば考えるほど不安は膨らむばかりで、ついに一睡もできなかった。翌朝、わたしの目元には大きな隈がくっきりと刻まれていたらしい。事情を知らない邸の者が微笑ましそうにそのことを教えてくれたが、まさか朝方まで仲睦まじくしていたどころか初夜の儀を済ませてすらいないとは考えつくまい。心苦しいが真実を伝えられるはずもなく、わたしは言葉を濁した。
 ――どうして、茅焦様はわたしを抱いてくれなかったのだろう。
 猜疑に満ちた夫の目を思い出し、何か彼の興を殺いでしまった要因があるのではないかと思い当たる節を懸命に考える。傷を見て幻滅したのかもしれない。しかし英明な彼がそれだけの理由で義父との関係に影響を及ぼしかねないような振る舞いをするかと思うと疑問が残る。しかし脳髄を絞っても果たして答えには辿り着かず、思い悩んだ末に夫の書斎まで来てしまった。このままではいけない。話をしなければ。

 角形の木製行燈と薄絹の簾に囲まれた仄暗い部屋。緻密な文様が施された格子窓に嵌められた、玻璃の装飾から漏れる白い光が、欅の桌子に向き合う夫の背中を淡く照らしている。山積みになっている書簡を検めていた彼は、やがておもむろに振り返った。
か」
「不躾ではございますが、昨晩のことに関してお話をさせていただきたく存じます」
「ちょうど私も、話し合うべきだと思っていた。こちらに来なさい」
 促されるまま鞠躬如として茣蓙に腰を下ろすと、茅焦は書棚から行李を取り出した。中には一通の書信。束ねられた紐の、封泥に刻まれている印章は確か呂不韋のものである。解いたそれを桌子の端から端まで広げてみた夫は、理性が滲んだ穏やかな声で語り始めた。
「私と呂不韋殿は、元は商売敵でね。加えて我が国の要人はあの方にツテがある人間が殆どだったから、それはそれは厄介な相手だった。だからこそ縁談を持ち掛けられた時は耳を疑った。まさか私を殺そうとしていても不思議ではない相手から自慢の養女を嫁に貰って欲しいと言われたのだから、何か裏があると感じて然るべきだ。大いに思い悩んだが、権勢並ぶ者が無い呂不韋殿と縁を結ぶ好機など二度と巡ってこないと思うと、断ることなどできなかった」
 近年、呂不韋は努めて嬴政への反乱を煽り、国政を乱すことで実質的に秦の国権を握り続けていた。だからこそ外交面は少々疎かにならざるを得なかったことだろう。自ら商売敵に養女であるわたしを差し出したあたり、夫が呂不韋を恐れていたように、呂不韋もまた若くして才あるこの男を恐れていたに違いない。
「商人として名を馳せてからこの方、近寄ってくる人間を誰一人として信じていない私にとっては縁談の承諾は諸刃の剣だ。有り体に言えば、貴女を隣に置くことも恐ろしかった。純朴で素直なように振る舞って、いつ私の寝首を掻くつもりかと、長旅のはじめのほうは無防備な寝顔を朝まで眺める毎日だったよ」
 初めて出逢った時の柔和な表情も、不安で圧し潰されそうな斉までの旅路で気さくに話しかけてくれたことも、すべて「」という憂懼の種を警戒するがゆえの演技だった。わたしがまんまと心を許したこの男は、やはりわたしを妻としてではなく、閨閥の枝葉を広げるための一手段としか見ていない。それだけならばまだ良かった。この身を捧げると誓った茅焦に、これほどまで疑われていたという事実に、酷く混乱していた。
「少し話が逸れてしまったが、呂不韋殿は私の義理の父となり、私は呂不韋殿の娘婿となるにあたり、幾度となく書信のやり取りをした。まさか素性の知れぬ女性を迎えるわけにはいかないから、貴女についてのことも深く聞き合わせていた。しかし傷に関してはまったく伺っていない。このように酷い傷を、己の娘が賊に襲われたことすらも、呂不韋殿はまことに知り得なかったのだろうか」
「すべてわたしの責任にございます。呂不韋様に心配をかけまいと、蒙家の者には口止めを致しました。その時はまさか縁談が進んでいたとは知らず。ですがどうか信じてくださいませんか。蒙家に確認を取ることもできましょう」
 昨年の冬に一度だけ呂不韋から書信が届いたことを思い出した。わたしの身を気遣う短い一文。あれはきっと縁談の前準備であったのだ。どうしてあの時に正直に打ち明けなかったのだろう。怪我も病気も無く至って健康であると偽った、それがこうして斉国の夫のもとまで届き大きな事態を引き起こすことになろうとは。いつも後悔ばかりだ。湧き上がる遣る瀬無さを抑え、叩頭して許しを乞う。なんともあさましい。
 遠い国への輿入れは本音を言ってしまえば嫌々であった。しかし呂不韋の為と思えばこの婚姻は誇らしいものでもあるのは事実。わたしはどうしてもこの男の妻であり続けなければならない。
「たとえば貴女が斯様の傷を負うような間諜の任を与えられているような立場であるならば? この婚姻がすべて呂不韋殿の奸計だとしたら? 蒙家も引っ括めてそれに加担していたら? 不信感が拭えないのが正直なところだ」
「どうしても信じてはくださらないのですか?」
 夫は静かに首肯する。ほころびは、もう元には戻らない。彼が如何に身の回りに対して慎重にならなければいけないかは理解している。全て己の非であることは明白で、しかし彼に対して何の償いもできないわたしは、離縁を受け入れるほかない。
「では貴方様のお気持ちが変わらないのであれば、呂不韋様にそのようにお伝えくださいませ」
「どちらにせよ私と呂不韋殿の関係悪化は免れない。せめて私に非があるように伝えてはおこう」
「なりません。もとはといえばわたしが招いた事態でございますから」
「いや。私が呂不韋殿を……そして貴女をも信じきれなかったことが全てだ。健気な幼妻の姿でさえも、まるで虎のように見えてしまうのだ、どうか許してくれ。貴女が呂不韋殿からどのような仕打ちを受けるかと思うと気の毒だが、私も己を犠牲にできるほど善人ではない」
 なんてことをしてしまったのだろう。己が吐いた、たったひとつの嘘が、多くの人間を狂わせた実感がむくむくと湧いてきて、この世のどこからも消えてしまいたくなった。こんなはずでは――。ただ亜父に喜んで欲しかっただけだ。わたしを育て上げて良かったと、喜んでくださるならば、どんな辛苦でさえも乗り越えてみせると思っていたのに。
 すぐに邸を追い出されるかと思いきや、茅焦曰く「輿入れをしてすぐに国に帰るとなれば夫婦の契りを交わしていないも同然。となると貴女の沽券に拘わる。暫くはここに身を置いた方が良い」とのことで斉を離れるのはもう少し先の話になった。離縁を言い渡された時点でこちらの面目は丸潰れだと胸裡で文句を垂れながらも、従うしかないわたしは静かに頷いた。かくして夫婦関係の破綻は二人の秘事となった。昼はたわいもない会話を交わし、夜は同じ寝床で眠りに就く生活は変わらない。勿論、互いに指一本触れることは無かった。

、少し良いだろうか?」
 幽かに潮の匂いを含んだ風が爽やかに舞い込む立夏のある日のこと。普段は書斎に篭もって忙しそうにしている茅焦が珍しく部屋を訪ねてきた。彼がひとたび目配せをすると使用人たちは無言の裡にいそいそと出て行き、二人きりになった空間には抑揚の無い声が響く。
「呂不韋殿には全て了承頂いた。盛暑を過ぎる頃には秦へ帰れるように手筈を整えなければならない」
 あやすようにわたしの背を撫でる手は、今はただただ腹立たしかった。すべてこの男の所為にできたのならばどれほど良かったかと、そう思ってしまう自分に心の底から辟易する。帰りたくない。呂不韋と顔を合わせるのが怖い。あの方に、とんだ期待外れだったと言わんばかりの目を向けられたらと考えるだけで、名状し難い絶望に苛まれる。それはわたしにとって、己の命の有りようまでも煩悶するほどの深刻な問題であった。
「それともうひとつ。夫の最後の務めとして、何か望みがあれば叶えてやりたい。私ができ得る範囲で、という条件付きではあるが」
 夫はそう言って善人のような振る舞いをする。どうかそれで手を打ってくれとでも言いたげな表情を浮かべて。叶えたい望みなど思い浮かばない。しかし己の所業が招いた一連の事態に対する罪悪感は大いにある。望みを叶えることで少しでも彼の溜飲が下がるのであれば、無理にでも捻り出すのがせめてもの罪滅ぼしとなるだろうか。わたしはついぞ彼を憎みきれなかった。
「知己に書信を届けていただきたいです」
「ほう」
 夫は半身を捻り顎に手をあてる。呂不韋、呂不韋とそればかり口にしていたわたしに、よもや知己と呼べる存在が居たとはと、興味深そうな視線をくれて寄越した。

 婚姻関係が破綻し、呂不韋、茅焦双方の思惑もまた水泡に帰した。欽慕する亜父が特別にあつらえた玉石は、たった一節の虚辞により路傍の石と変わらぬ価値まで落ちぶれた。あの方はもうわたしに何の期待も寄せてくださることは無いだろう。丞相の養女という大層な肩書きをもってしても、何一つ為し得られなかった惨めな自分。しかし知己――蒙恬がこのことを知ったら、それも笑い飛ばしてくれるのではないかと、ふと思った。
 重大な失敗を犯したわたしに慈悲が施されることは無い。だからこそ彼に問いたい。
 わたしはどうすれば幸せになれるだろう?

 蒙恬様へ。
 突然の書信に驚かれたと思います。お元気でいらっしゃいますか。
 客年は挨拶もできないまま邸を去ることになってしまい、申し訳ありません。書き置きを林孟に託したのですが、ご覧いただけましたか? あれから貴方様からの返書を心待ちにしておりましたが、公務でご多忙だったかと存じます。
 訳あって今は故郷である斉国に居るのですが、夏の暮れには咸陽へと戻ります。笄礼を迎え、婚儀を控える呂不韋の養女として一切の外出は許されない立場ではありますが、どうしてもお会いしたい。蒙家の御子息である貴方様に対し、誠に身勝手で不躾な申し出であることは重々承知しております。しかしわたしは一徹者ですから、簡単には諦めきれません。もし貴方様がこの申し出を受け入れてくださるのであれば、中秋節の晩に、大池を臨む立派な松の木が目印の、庭の西側でお待ちしております。太陽と月、共に空に浮かぶことのない二つが広い空で対となり輝くこの日、わたしたちもこの月日の巡りのように相見えることを願って筆を擱きます――。

 筆先から滲む墨が綴る線は迷いを帯びていた。蒙恬に伝えるべきことは多々あったが、夫の手前、離縁に至るまでの紆余曲折を詳細に述べることは憚られ、結果的に会いたい気持ちを前面に押し出した文章になってしまったのだが。……これではどこからどう見ても艶書ではないか。そうと自覚するなり顔がかっと熱くなる。
「蒙家の子息……か。成る程。まさか貴女から呂不韋殿以外の名前が出てくるとは。存外、年相応の娘御らしい感情は持ち合わせていたのだな」
「念のため弁明させていただきますが彼は友人です。二心は一切ございません」
「ははは。まあ詮索はよしておこう。ではこの書信を私から蒙家に届けるよう命じておく」
「宜しくお頼み申し上げます」
 呂不韋邸に戻れば外に送る書信にはすべて隅々まで閲されて処分されてしまう。蒙恬との連絡手段は無いも同然である。よりによって離縁した男に縋るとは、いじましいと思われても致し方ないが、それでもわたしは恥を忍んで頭を深く下げた。

 茅焦との別離は煩わしい婚儀に比べるといとも呆気なく、秦までの気が遠くなりそうなほど退屈な遠路は、己の失態に独り思い悩んでいたら瞬く間に終わりを迎えた。
 出戻りの親不孝者にとって、呂不韋邸は針の筵である。
 たった半年前までわたしに宛てられていたはずの部屋は、新たに囲われた女性のものとなっており、輿入れ先から持ち帰った荷物と共に半ば追いやられるように二回りほど狭い部屋に住まわされることとなった。長年世話をしてくれていた侍女たちからは腫物のように扱われ、呂不韋の臣下には恩知らずで厚顔しい女だと罵詈される。己がしでかしたことを思えば、これらの仕打ちは已むない。柔らかい絹の寝台で目を覚ますことができて、飯は一日二食用意される、それだけでも十分恵まれていると言えよう。だがなによりも精神的に応えたのは呂不韋の態度である。
 夫に別れを切り出され、おめおめと国に戻ってきたわたしに対し、亜父は「まさか腹の傷ひとつで婚姻を破談にするとは、儂も随分と畏怖されたものよ」と、不敵な笑みを浮かべてみせた。その面差しからは怒りや呆れといった表情は一片たりとも窺えず、虚偽の報告をしたことを咎められることもない。彼はわたしに何の罰も科さず、変わらず邸に住まうことを認めた。わたしが誠に厚顔無恥な人物であれば、心弛びに終わっていただろう。
 赦される、赦されない、そのような次元ではない。いっそ口汚く罵られ、灸を据えてくれた方が良かった。呂不韋の態度が指し示す事実に、まるで涯しない荒野の中心に置き去りにされたような孤独と絶望感を覚える。そもそもの大前提からわたしは見誤っていた。

 亜父は最初からわたしに何一つ期待などしていなかったのだ。


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