浮世夢の如し

  八.月夜の長相思

 この邸に住まう者は空っぽの胃腑がきゅっと締め上がるような飢えを知らない。凛冽たる冬の風に晒された肌が、焼けるような痛みを帯びることを知らない。斯様な貴人の無聊を慰めたるは、奴隷の凌辱、或いは婀娜な芸妓の舞や唄、はたまた贅をこらした悪食。白痴の夢のようなその光景は、常人の感覚では理解しかねるものである。
 薄暮の邸は夜空に散らばる星々を掻き消すほどの人工的な光に満ちている。中秋節とは月の美しさを讃える祭事であるが、ここに月をめでる者は一人もいない。めでたい日に託け、昼夜を舎かず狂躁な饗宴に耽る奇怪な人間ばかりだ。
 陶器のように透き通った白い月が浮かぶ空。相対する西方の山の端には焼け爛れたような真赤な太陽が滲んでおり、足元は昏く朧気である。目映いばかりの灯に溢れた邸。昼間から続く酒興は既に半酣の頃。衆人たちは酔い潰れ、項垂れていたり倒れ伏していたりと、酷い有様だった。嫌悪感を孕む視線で遠目にそれらを眺めながらも、しかし今日ばかりは彼らに感謝している。わたしが邸から抜け出したことを呂不韋に告げ口されてしまっては、今度こそ居場所を失っていたかもしれないのだから。

 自分で言うのも何だが、この世に生を受けて十五年、絵に描いたような真面目さと堅実さを以て生きてきたつもりである。己の損得よりも善悪を鑑み、徒事には走らず、父や呂不韋の言いつけには忠順であった。――今、この時までは。
 着物の裾を捲り、庭の西にある松に足をかける。岩のように硬いこぶに手をかけ大枝の上に乗ると、周りの景色が格段と開けた。ここはかつて正月の晩に、逃げようと思い立ってよじ登った木だった。真下は藻が生い茂る深い池。誤って落ちてしまえば命の保証はない。
 蒙恬へ取り付けた一方的な待ち合わせの約束まであと僅か。彼と会うためにはあと十尺ほど登り詰め、更に築地塀の向こう側へと飛び降りねばならない。そもそも蒙恬が書信を読んでくれているのか、わたしの申し出を受け入れているか、それ以前に咸陽に居るのかどうかも不明である。一つでも条件が欠けていれば頓挫をきたすことになる。運良く彼に出逢えたとして、向こうから塀を越えてこちら側に無事着地する案は一切考えていない。まさかこのような博打的な行動を取ることになろうとは、昔の自分が見ればさぞかし驚くに違いない。しかし真面目さと堅実さを貫き得た結果が「これ」では自棄になるのも無理はないだろう。
 金で雇われた人間の忠誠心は斯くも弱いらしい、高く造られた望楼に配備されているはずの見張りの姿は見当たらない。長らく閉じ込められていた牢櫃は、塀の上から俯瞰すると物も人もすべてが矮小に見えた。わたしをこの邸に縛り付けていたのは、岑楼のように聳えた牆壁でも、矛を携えた大兵肥満な見張りでもなかったのかもしれない。

 日が完全に沈んでしまってからいくらか時間が経ったが、蒙恬の姿は未だ見えない。書信のひとつで簡単に会えるような男ではないことは了知している。期待に膨らんでいた胸は半ば諦念に満ちていたが、それでも邸に戻ろうとは思わなかった。どんなに高名な占師の託宣よりも、彼の言葉が欲しかった。
「そこの女士」
 ふと耳に入った己を呼ぶ若い男の声。蒙恬のものと聞き誤って心臓が高鳴ったが、声の主は中庭の方に居るらしいから彼のはずがない。いくら蒙武の息子とはいえわたしと関わりを疑われている以上、門前払いを食らうはず。そうとなると追っ手か、はたまた賊徒だと疑われたか。おもむろに茂みの中から甲冑を着た一人の男が半身を乗り出した。その風貌は呂不韋の私兵と同じものである。
 やはりわたしを捜して? それとも偶然居合わせただけだろうか。
 どちらにせよこのまま見逃してくれるとは思えない。――背後を見遣った。塀を越えた先には環濠があり、煌々たる望月の光をもってしてもその底は晦冥の色に塗り潰されている。飛び降りればただでは済むまい。
 一か八かで逃げるか、それともこのまま大人しく捕まるか。逡巡したその短い隙に、なんと声を掛けてきた男は猫のように身軽に松の木を登り、わたしが悪戦苦闘した塀の上まで瞬く間に登ってみせた。重たい鎧と兜を身につけているのにも関わらず息ひとつ乱していない、男の人並み外れた俊敏さにえも言われぬ恐怖を感じる。
「ひっ……」
 おののき小さな悲鳴を上げる。夜闇に紛れたその姿は化生と見紛う不気味さで、すっかり顔面蒼白となってがくがくと打ち震えていたが、男はそんなわたし捕まえよとうとするわけでもなく、何故か呵々大笑して面を覆っていた兜を外したのだった。
「まさか塀の上で待ち合わせだなんて。きちんと書いてくれなきゃ分からないでしょ」


 まるで長い悪夢を見ていたようだ。目の前の男が蒙恬と判るやいなや、冷めきっていた体に温かい血潮が再び巡り始めたような多幸感に溢れる。呂不韋への義理を欠いた罪悪感に苛まれながらも、秦国に戻ってきて良かったと、心の底からそう思ってしまった。
 蒙恬曰く「呂不韋の私兵からちょっと拝借した」という鎧兜に身を包めば、正門の衛兵には微塵も疑われることなく外に出られた。宮廷区に差し掛かっているこの邸の辺りで忍び逢いをしては目立つだろうとのことで、馬を走らせて蒙家まで移動し、彼の私室にやってきて今に至る。家屋に染みついた匂いがただただ懐かしい。
 青白い月の光に模られた蒙恬の容貌は、たった一年半で随分と変化していた。結われた髪は肩口まで伸び、鋭さを帯びた目鼻立ちは巧緻な人形のような取り澄ました雰囲気である。背もいくらか大きくなったようで、もはや稚気を脱したようにも見えたが、よく観察すれば愛嬌のある無邪気な少年のあどけなさも残っている面立ちであり、その鮮烈さが弥増し魅力を引き出しているようだった。
 体面ばかり着飾った、子供のままの自分とは大違いだ。
「はい。まずは君の帰還を祝って乾杯」
「……まったく喜ばしくない理由で戻ってきてしまったのですが」
「聞いたよ。それにしても十五になった途端に斉国に嫁がせるなんて、丞相も酷だよね」
「ああご存じなのですね。お恥ずかしい限りです」
 蒙恬は酒杯を大きく呷る。嚥下と共に突き出た喉仏が上下に動く。
「戦から戻ったら君は居ない。何度か書信を送ったけど返事は無し。呂不韋邸を尋ねても婚儀を控えているから会わせられないの一点張り。挙げ句、斉の男のもとへ嫁に行ったと伝えられて。だからまさか再会できるなんて夢にも思わなかった」
 その語調はまるで秋の庭のような、寂寥感の滲む美しさを思わせるような穏やかさである。しかし仕草の節々――たとえば酒杯を持つ手に太い血管がうすらと浮き出ていたり、時折虚空を見つめては険しい表情を浮かべていたり、といった要素――からは隠し切れていない刺々しさが見受けられる。つまるところ、彼はわたしに降りかかった理不尽に対し憤りを感じているらしい。それにしても蒙恬がそこまで動いてくれていることなど知らなかった。あまつさえ彼の心に自分はいないといじけてしまっていたことを思い返し、己がいかに薄情な人間であったかと猛省する。
「他の人がこの結果をどう捉えているかは知らないけど、少なくとも俺は嬉しいよ。都合良く政略結婚の道具にされて、遠い土地に追いやられるなんて可哀想だ」
「わたしは、それでも良かった。呂不韋様のご厚情に報いるためならば」
「まあ君が嫌だと思ったら、嫌だってちゃんと伝えなよ」
 伝えたところで、むしろ暗転するのは目に見えている。なんせ呂不韋はわたしの嫌がる様を見て悦びを感じるような人だ。……とは、とても今の彼に伝えられることではない。
「蒙恬はその、もうご婚約などはされているのですか?」
「いいや。見合いの申し込みは掃いて捨てるほどあるし、じィも早く俺の子供が見たいって要所要所に掛け合っているらしいけれど、全部断ってる。だってまだまだ遊びたいし」
「なんだか他人事のような言いぐさですね。でも楽天的に捉えられるのは羨ましいです」
「腐っても蒙家の跡取り息子だから、許されている部分はあるよね」
 互いに志学を過ぎ婚期を意識する年頃になった。特に女子は、若く健康的であることがすなわち逞しい赤子を産むことに直結するため、男子に比べて猶予が僅かであるのが現実だ。十五というと牛や馬でいえば老躯であるが、わたしにしてみれば己の意思で選んだ道の善し悪しも、酒の旨さも判らないほどには未熟であるというのに。
 一方の蒙恬は変わらず放蕩的な享楽に浸っているようである。彼とは立場も身分も異なることは知っているが、今はその生き様が羨ましくも、恨めしくもあった。
「わたしはきっとそう遠くないうちに、別な方のもとへ輿入れすることとなりましょう。後ろ盾の無い身ですから、どのような相手であろうと拒否権はありません。ええ……呂不韋様の道具なのですもの。ただ、離縁を言い渡された訳ありなこの身を受け入れてくれるような人間と夫婦の契りを結ぶよりは、斉で生きたほうが良かったのかもしれません。あの方に妻と認めていただかなくとも」
「それは、今も?」
「…………」
 場の空気が凍り付く。勢いに任せて吐き出した己の失言に気付いた時には、蒙恬の表情からは笑顔が消えて、琥珀の瞳が懐疑の色を帯びて僅かに見開かれていた。
 ――ああ、やってしまった。違う、違う。重々しい雰囲気を払拭するようにかぶりを振る。悲運を嘆くためにここに来たわけではないのに。
「すみません、わたし、こんなこと……」
 己が辿ったこの運命は、思えばいくらでも変えられた。容姿にはあまり自信が無いが、愛嬌も世辞も駆使すれば呂不韋の鍾愛を得られたかもしれない。或いは芸を極め舞妓として華々しく生きていく道や、呂不韋の口添えで後宮に召し抱えられるといった選択も、可能性としては低いが決して有り得ないことではない。それをしなかったのは、呂不韋の望むがままに生きるといった都合の良い口実を盾にし、零落を恐れて生きた、ひとえに自身の弱さが招いた結果である。
「元夫は素晴らしい方でした。斉であの人を裏切った罪咎を背負い生きたほうが、いくらか気が楽だと思っていました。けれども、今ようやく気付くことができました。本当は、己の意味を見出せぬ塗炭の中で、かつてわたしを変えてくれた蒙恬の言葉が欲しくて堪らなかったのだと。……ですので今日はありがとうございました」
 蒙恬に会えて良かった。この幸せだけで、わたしはきっとこの先に待ち受けるどんな未来も甘んじて受け入れられるだろう。
「そろそろ帰らなくては。部屋を空けていると露見してしまっては大変」
 自身に言い聞かせるように呟いて立ち上がる。有り体に言えば後ろ髪を引かれる思いだ。しかしこれ以上彼の顔を眺めていては、呂不韋の為に水火も辞さない覚悟が掻き消されてしまいそうだった。
 逃げるように背を向けると蒙恬もまた起立する。そして昏い表情のまま、こちらの行く手を遮るように眼前に立ちはだかった。笑顔が消えた彼の顔貌は、普段の様子との懸隔も相俟ってより恐ろしいものに感じられて、わたしは反射的に足を止め、親に叱られた幼子のように身を竦める。
。どうしてそこまで吐露しておきながら俺を頼らない」
「どうしてって、ご迷惑をお掛けしたくないから」
「俺の知らないところで不幸になるほうがよっぽど迷惑だ」
「そのようなことを言われましても……もう取り返しがつかないところまできておりますのに。それに貴方は呂氏四柱である蒙武将軍の御長男なのですから、呂不韋様の決定に背く手助けをすれば、ご尊父様の顔に泥を塗ることとなりましょう」
 ただでさえ蒙恬はわたしに深く関わったばかりに、嫁入り前の娘を誑かしたとあらぬ疑いをかけられている――当の本人はさほど気に留めていないようではあるが――これだけでもわたしを邸に住まわせてくれた蒙武には多大な迷惑をかけているのに、更に事態が蒙家を巻き込んで深刻化してしまったら、いったいどう責任を取れば良いのだろうか。
 気圧されながらも拒むわたしの手を蒙恬は強く握る。朱く燃える火箸に触れたかのように、全身を痺れるような熱が走った。
「逃げたいのならば一つだけ策がある」
 自制心を蕩けさせるほどの甘い言葉。
「……
 膚に食い込む五指の先に無意識的に力がこもっている。蒙恬は極めて理性的な人間だ。わたしを力ずくで従えることも、尤もらしい理由をこじつけて口先で丸め込むこともできたろう。しかし彼はまるでこの世界で一番か弱い者であるかのように恐懼し希う態度を取ってみせた。徒や疎かにできるはずもない。斯様に縋られてもなお、にべもなく撥ね付ける者がいるとすれば、それは衆生が神と信ずる概念くらいであろう。つまるところわたしは蒙恬の言葉に首肯するほか無かったということだ。

 呂不韋とはわたしにとっての存在意義であり、取り巻く世界を形作る存在そのもの。大王派の高官らは彼のことを国家転覆を企てる悪臣と誹議するが、そのような声をものともせずに己が道を勇往邁進する姿は畏敬の念を抱くに値する崇高なものである。そのような男の養女として生きることを許された欣幸。それを自ら手放すことになるなんて思ってもみなかった。
「その……策とは何たるかを教えていいただけませんか。それと虫が良い考えであるのは承知しておりますが、わたしは呂不韋様との関係悪化を望んでいるわけではないのです」
「知ってる。君が呂不韋を嫌ってくれていたのならば、とっくにあの邸から連れ出していたとも」
 逃げると決めてしまった。
 止めようと思えばまだ間に合うだろうが、一度呂不韋を裏切る決断をした事実は消えない。この背徳を胸に秘めたまま、蒙恬を拒み、再び養父に盲従することなどできようか。胸を支配するのは厳しい束縛や寄る辺無さからの解放感ではない。自ら呂不韋から離れて、不透明な未来に身を委ねようとしている愚かさである。
 蒙恬は併設された書斎から筆記具とまっさらな牘、それから私印を取り出した。秋らしい小菊が活けられた陶器の花立てから、数滴の水を硯に垂らし墨を溶いている。将旗に描かれた金繍のような端正で堂々とした筆遣いに感心しながらも、綴られる文字を見て小首をかしげる。
 推薦状。そう大書された横には「」と自分の名が並んだ。はてさて彼は何をしたためているのだろう。
「……そちらは?」
「見ての通り。言っておくけど、俺が推薦状を書くなんて滅多に無いことだからね」
「そうなのですね。して、何の推薦状です?」
「軍師学校」
「え」
 軍師学校とはその名の通り秦国軍の軍師養成機関で、蒙恬の古巣でもある。軍略に限らず国政や法制までさまざまな分野の知識で国内最高峰と謳われる高水準の教育を受けられる場だと人口に膾炙しており、官吏を志す人間にとってはまさに憧れである。国内外から格物致知を究めんと毎年沢山の者が集うらしい。世情に明るくないわたしでも、何度か耳にしたことがあるほどだ。
 そのようなところに女人を推薦するのも大問題だが、わたしにとっては殊に深刻な事態である。というのも軍師学校を運営しているのは本国の軍総司令である昌平君。彼は呂氏四柱の一人だ。
「な、なりません! 貴方とこうして未だ繋がりを持っていることは内密です。昌平君を介して呂不韋様に知られてしまっては……!」
「心配しなくて良い」
「蒙恬!」
「昌平君――先生は、信じるに足る方だ。に危害が及ぶことは決して無いと断言する。ま、どちらにせよ君は呂不韋から逃げる選択をしたんだから、従ってもらう他ないんだけどね」
 亡父と昌平君には細々と交流があった。若くしてとある国で文官として頭角を現し、斉へ渡ってからは兵法家として名を馳せ、食客としてわたしの祖父にあたる人物に拾われてからは一邑の軍師を務め上げた――という経歴に恥じぬ高い知性に恵まれた亡父は、その才を呂不韋のみならず昌平君にも認められ、彼の斡旋で仕事を得ていたようだ。直々に言葉を交わしたことは無いが、昌平君の容貌は克明に記憶している。
 その姿は荘厳にして凛々しい。閑静な庭園の四阿で、籐椅子に腰を下ろしながら書を嗜む姿が似合う人だ。しかし漠然と、蒙武のような武官とはまた違う、どこか本能的な恐怖を覚える。昌平君からは居丈高な印象は微塵も感じられない。しかし寡黙さの中に底の知れぬ烈しさを持っている。そのような印象を抱かせる男だった。
 現時点では呂不韋の下についている昌平君を完全に信じきることはできない。だが賭けるしかないのだ。
「わかりました。全て委ねます」
 蒙恬はわたしの言葉にゆっくりと頷き、推薦状を封緘した。

 軍師学校。その響きを何度も確かめるように、頭の中で反芻する。細事に囚われず勉学に励める場所など己とは無縁だと思っていた。わたしには学び舎というものが想像できない。同じ志を持つ弟子たちが、ときには家族のように仲睦まじく、ときには荒波のように鬩ぎ合い、刻苦勉励するのだそうだ。きっとひとりで文机に向かい合うよりも、何倍もの失敗や挫折があるのだろう。
「わたしは女人です。それに生粋の秦人でもありません。果たして受け入れていただけるのでしょうか」
「軍部の養成機関とは言い条、大元は昌平君が開いた私塾で、全ての権限は秦軍総司令たる先生にある。出自や身分で差別をして才ある者を他所に逃すなんてことは、あの人は絶対にしないだろう。性別は……先例があまり無いから判らないけど、このあいだと同い年か少し下くらいの女の子が入学したって弟が言っていたし、問題無いと思う」
「ならば安心です。それともうひとつ、わたしのような才の無い者の何を推したのですか? 強いて言うのならば籌算の心得は多少ありましょうが、とても格式高い学びの場には似合わない庶民生活の知識でございますので」
「文字だよ。君は多感な幼少の時期に御父上と旅をして多様な言語に触れた。書香の家に生まれても決して培うことのできない稀有な知識を持っている」
 広大な中華には、かつて多種多様な言語文化が入り乱れていた。しかし何百年と武力抗争が続き、国の滅亡や併合など枚挙にいとまが無い今となっては、かつての王朝・周の言語を基盤とした公用語を話すのが主流となっている。一方で都から隔絶された辺鄙な土地では独自の言語文化が発達しており意志疎通は困難である。そのような珍しい言語を体系的に編纂している書物などあるわけもなく、またいずれ消滅してゆく語学の研究は無益であると判じる者も多く、ゆえに盛んではない。裏を返せば限られた者のみが知り得るもの、かつ会得するのも非常に困難とまできた。だからこそ軍部に高く評価されるだろう、というのが蒙恬の見解である。
(そんな大袈裟な)
 と思った。もし蒙恬の話が本当だとするならば、どうして父はわたしにその知識を授けようと思ったのだろうか。よもや兵法に深く精通している男が自身の娘に与えた情報の価値を知らなかったということは無いだろう。なんらかの魂胆があったのか。というのは少々勘繰りすぎだろうか。
 現にわたしは助けられた。そして何の弊害も受けていない。その事実を、今は素直に飲み込むべきだろう。
「ちなみに一般の試験だと教養の他に詩歌と軍事思想の口頭試問の出来が大きく及落に関わったはず。声望高い官吏になるためには相応の人格者である必要があるからね。に関しては、軍事思想はともかく詩歌の資質はあるんじゃない?」
「いえ。わたしにはそのようなものは」
「ほら斉から俺に送ってくれた付文なんてこっちまで恥ずかしくなるくらい抒情的で立派なものだったよ」
「~~~~~っあ、あれは本当に必死で! そして断じて恋心を綴ったものではないです、友人以上の感情は決してありませんからご安心ください!」
「そこまで頑なに否定されるとわりと傷つくんだけど」
 確かにあれは己でも、想い人に向けたものだと思われても何ら可笑しくはないものだったと思う。恥ずかしすぎてもう二度と思い出したくも無いものだ。姿勢を正し、やや嗄れた声でこほんと咳払いをして、話を戻す。
「ともかく宜しくお願い致します。軍師学校で、輿入れ以外の方法で呂不韋様の為になることが見つかればわたしも嬉しいです。どうしたって元夫のようなめぐり逢いは二度と無いでしょうし、出戻り娘をあてがわれた相手側も不幸になる婚姻など初めから無いほうが良いのです」
「その斉の豪商って、良い人だったの?」
「素敵な殿方でした。わたしには勿体無いほどの……」
 そこまで言いかけて、慌てて口を噤む。元夫は素晴らしい人だった。若くして築き上げたその地位や身分もさることながら、強き者には臆さず弱き者には手を差し伸べる。そのような高潔さを纏っていた。しかしその要素のすべてを加味しても、危険を冒してまで自分を連れ出し、救おうとしてくれている蒙恬の方がずっと魅力的だと密かに思っている。そんな彼の前で他の男の賛辞を述べるのは無粋であった。
「嫉妬するなぁ」
「えと」
「人肌恋しくなったら、俺を呼んでくれても良いよ。いつでも」
 蒙恬は泰然と妖しい笑みを浮かべながらそう言う。気まずさに目を伏せ「御冗談を」とそっけなく返すだけで精一杯のわたしに、まるでささやかな仕返しとばかりに、彼はじりじりと詰め寄った。
「なんなら今から慰めてあげようか?」
 骨ばった指の先が、己の輪郭を緩慢と滑るようになぞる。幾度も。ぞわりと、うなじのあたりが粟立ち、むず痒い。尋常ならざる雰囲気に思わず目線を上げると、端正な顔が目と鼻の先にあり、不意に元夫との初夜の口づけを思い返す。腹の底からくすぶる熱と、不快な刺激に爪先まで支配されるあの感覚――わたしは反射的に言葉にならない悲鳴を上げてしまい、ちょっとした戯れのつもりだったであろう蒙恬はしまったという顔をした。
 その後まもなく詰め所から駆けつけた兵にしっかりと現場を見られてしまい「胡漸副長にはご報告致しますので何卒」という一言で、密会はお開きになってしまったのだった。


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