牡丹の柄が刺繍された深衣の襟を正し、深い息を吐く。これは十三の誕生祝いに呂不韋から贈られたもの。彼の本邸がある洛邑は牡丹の栽培が有名らしく、そこの名高い織工に命じ作らせた別誂だ。わたしはこの綺羅が苦手だった。富貴で華美で、堂々とした優雅な牡丹の花姿は、しとやかで慎ましい女性でありたかった己の意思とは到底相容れないもので。
――おぬしが儂を「亜父」と思うのならば、戸籍上の家族となることを厭う理由など無かろうて。
そう言った呂不韋はきっとわたしを「むすめ」とは思っていなかった。わたし自身を顧みてくれたことなどたったの一度も無かった。物言わぬ人形を愛でるように、後ろ盾も無く孤独で臆病である都合の良い人柄を気に召していたのだろう。いつか使える見込みのあるものは拾っておこうと、そのように手元に措かれた道具。それが自分だ。
そんな折、牡丹のような人に出逢った。
男性を花に譬えるなんて、失礼かもしれないけれど。彼はわたしが今まで接した麗しい女性たち――華美な着物を身に纏い、金と保身のために春を鬻ぎ、強大な権力に恭しく媚び諂うような人なんかよりも、ずっと高潔な美しさを持っていた。百花の王に相応しい見目と堂々とした振舞い。しかしそれをひけらかすこともしない。琥珀の瞳は蕊。緋の装いは弁を連想させる。わたしのようなあだ花を、呂不韋の義理の娘という立場しか取り柄のない見掛け倒しの人間に、彼は嫌な顔ひとつせず手を差し伸べた。の本質を見ても、弱い人だとなじらなかった。
中秋節からひと月ほどが経ったこの日、呂不韋の元に、わたしを軍師学校へ迎えたいという旨の書信が昌平君より届いた。もはや言い逃れなどできないと意を決し、軍師学校への入学を歎願するため亜父のもとを訪れる。長らく行李の奥に畳んでしまっていた牡丹の深衣を身に纏ったのは、ささやかな決意の表れでもあった。世迷言と呆れられるだろうが、蒙恬が両肩に手を置いて支えてくれているような気がしたのだ。
奥書院には他に人の気配は無い。天井まで届くほどに高い書棚が四方を囲み、珍品棚には骨董品や玉石が並べられている。花や鳥の文様があしらわれた青灯の、ぼんやりとした光が五感を鈍らせる。呂不韋の趣味にしては珍しく、厳かな雰囲気を演出する意匠が凝らされた空間だ。
呂不韋は艶のある黒い髭を撫でながら、桌子に広げられた書をまじまじと見遣る。驚くべきことに、昌平君が寄越したこの書信には、蒙恬が裏で手を回したことを匂わせるような言葉はひとつも見当たらず、それどころかわたし自身を称揚するような高い識字の素養や、はたまた故郷の御祖のことまで調べ上げて書かれてあったものだから驚いた。彼は呂不韋派に与する者、主の養女を軍師学校に迎え入れることは遠慮したいはずなのに、これではむしろ歓迎されているようだ。一筋縄ではいかないと高を括っていたわたしは呆気に取られ、呂不韋は「はてさて困ったことになったのォ」と僅かな戸惑いを見せた。
「甲の後胤――か。あやつめ、いったいどこで嗅ぎ付けたのだ」
口許は薄笑いを浮かべているが目は冷え切っている。虹彩には光が無い。呂不韋は瑠璃の盃に入った水を一気に呷り、厚い舌で濡れた唇をなぞると、おもむろにこちらに目をくれた。
「我が重臣たる昌平君はどうやらおぬしを気に召したらしい。しかし女人が権門の集う尊い学舎に足を踏み入れることを世俗は赦すまい。恨み妬み仇をなす不埒者もいるだろう。この場で入学を辞退する旨の返書をしたためよ」
「……できません」
「ほう。如何なる理由で養父の命を撥ねつけるのだ」
「……」
「申してみよ」
暫し黙然する。ここで曖昧な態度を取り続けるのは得策ではない。しかし怖気づいて亜父に屈してしまっては全てが水の泡である。
「わたしは一度、夫婦の縁を切られた女です。他の男の手に渡ったこの身を喜んで迎え入れる方などおりましょうか。軍師学校で知見を得て、輿入れとは別の手段で呂不韋様に恩を返すことができるならば。また或いは佳い方などが見つかれば。入学する価値は十分にあるかと存じます」
後者は許しを得るための嘘だ。呂不韋は情では動かない。全ては彼の利になるか否かである。無論、格式高い学びの場で婿探しをしようなどという中途半端な気持ちは一切持ち合わせていない。
幼い頃から思い描いていた。尊敬できる男性とつがいとなって、妻として懸命に尽くし生きてゆく未来。己の父母と同じ轍をなぞるのだと信じて疑わなかった日々。わたしはとっくに、それらを手ずから切り捨てている。
眦を決し呂不韋を見つめる。
決して引き下がろうとしないわたしの姿勢に痺れを切らしたのだろう、やがて彼は渋々といったように条件付きで入学を許してくれた。
たとえ在学中であっても呂不韋が今後取り決める婚姻は全て受け入れること。そして援助は一切無し。軍師学校に関わる諸費用はわたし自身の力で工面をしなければならないということ。無論、反抗する謂れなど持ち合わせていない。心ならずも諾するよりほかはなかった。
わたしは呂不韋の支配から逃れることはできない。まるで籠の鳥だ。それでも羽根を毟り取られていないだけ幸甚と思うべきか。丞相の養女という立場は、今は身を引き裂くような重い枷でしかなかった。逃げたい。されども逆らうことすら叶わず、恭しく額づくことしかできない悔しさに小さく唇を噛む。
(ごめんなさい、蒙恬)
わたしはどこまでも臆病者だ。
軍師学校は、王廟と見紛うほどの大廈高楼が立ち並ぶ昌平君の封地にある。多くの食客や門下生を擁するようになったがゆえ、更なる拡充のため普請中の建築物もあちこちに見受けられた。
車から降りたわたしをまず出迎えたのは蛇腹状の長い石階段。見上げるほど遠いその頂きには重厚な瓦屋根の廂と実榻大門がある。どうやらこれを上り切らねば入口には辿り着けないらしい。遠くの勾欄には門下生と思わしき姿が、棟に並ぶ雀のように点々とあり、こぞってこちらを見ている。左右には昌平君が遣わせたらしい漆黒の甲冑に身を包んだ屈強な衛兵が二人いるが、初日から彼らに抱えられて登校するなどという見苦しい真似はできない。
ただでさえ邸に篭り切りで運動不足であったのに、呂不韋のことでますます羸弱しきっている時にこのような苦行はあんまりだ。しかし情けない姿は見せられない。初日から恥をかくのは御免である。
胸の裡で己を奮い立て、山のように聳える道を一歩ずつ進む。途中すれ違う者の殆どが私に対して慇懃に挨拶をする様を見るに、わたしが呂不韋の養女であることはとうに知れ渡っているらしい。石階段を昇り、正門を目の前にする頃には、彼らの期待に満ちた眼差しにすっかり気後れしてしまっていた。はたしてここで上手くやっていけるのだろうか。
数年ぶりに対面した昌平君に抱いた心証は精妙巧緻。己に宛てられた書簡を、目を凝らしてじっくりと検めているその様子からは、過去に抱いた恐ろしさは感じられない。表情が薄く堅い印象ではあるが、呂不韋邸に住まう他の臣ように陰険なわけでもなさそうで、ひとまず安堵した。
「この度はわたくしの入門をご承引頂き感謝申し上げます」
切れ長の目がまるでこちらの一言一行から価値を見定めているようにゆっくりと開く。
「そう畏まらずとも良い。かの男の一粒種たる娘。面影は……あまり無いな、母君に似たのだろう」
「は、はい。父も日頃そのように言っておりました」
昌平君から発せられた第一声に亡父の存在が挙げられたことに驚き、思わず伏せ目がちであった顔を大きく上げる。この男と自分の父が知己の間柄であったことは存じていたが、もう何年も前の、ほんの短い時分のことだ。秦に根を下ろして一年で父は死んだ。呂不韋の食客である以外、とりわけ名の知れる要素も無かったような人だった。
「不躾ではございますが、貴方様は父の死について何かご存じなのでしょうか?」
わたし自身、父の死の真相はついぞ明らかになることはなかったと聞いているが、昌平君は何か知っているのではないだろうか。望みをかけて訊ねたが、彼は僅かに首を横に振って否定の意を示した。
「生憎、預かり知らぬ。だが一つだけ言えることがある。お前の父君の臣下たちは口々に、万人に好意的で、疑うことを知らぬ弱さと甘さが招いた死だと言った。しかしそれは誤りだ。奴は文字で人を殺す。何千、何万という敵国の人間を自らの手を下さず消した。ゆえに恐れられ、殺されたのだ。あと数年も早く蛍雪の功が実を結んでいれば、違う未来もあったろう」
――――。
学舎へ向かうその足取りは、ぬかるんだ土を踏んでいるかのように重たい。若草のごとく柔らかく優しい父の顔と、昌平君が語った評価を、頭の中で交互に思い浮かべる。恐れられていたなんて嘘のようだ。しかしあの男がありもしない偽言を吐くとは思えない。
もし。あの笑顔の裏で数えきれないほどの人を殺していたのならば。わたしの前では決してそれをおくびにも出さずにいたのならば。そんな父の娘を軍学校に迎え入れた昌平君の本旨とは何なのだろう?
御史の執務室とは空気が一変した賑々しい学舎に到着すると、昌平君の私兵とは別の男に案内されることになった。彼はこちらに歩み寄り、莞爾と笑う。
「こんにちは。兄上から話は聞いています。どうぞこちらへ」
「兄上?」
どうやら知人の身内らしい。男をまじまじと見る。すっきりとした細い眉、長く垂れる細い黒髪。少年のような爽やかさをもった大きな目と相反して怜悧なつめたさを湛えた瞳が印象的だ。しかし面識がある人の中で、彼の兄と思わしき人物など――。
「これは失礼。僕の名前は蒙毅。貴女のことを頼むと口酸っぱく言われましたよ」
思い当たる人がおらず戸惑っている様子を察したように彼はそう言った。つまり蒙恬の弟君である。蒙家でお世話になっていた頃、毎日のように通い詰めていた書斎の主だ。軍師学校に通っていて邸には暫く戻っていない次男坊がいるとは訊いていたが、今の今まですっかり忘れていたものだから、突然の邂逅に開いた口が塞がらなかった。
そして蒙家三代の容貌を見て薄々気づいてはいたが、こうも見事に一家全員が似通っていないことが証明されたことで、弟と言われても微塵も疑わず納得してしまった。
「と申します。ここでは呂不韋様の養女でも、蒙恬様の友人でもなく、ただ貴方様の朋輩の一人として接して頂ければと思います。どうぞよろしくお願い致します」
みなはだの深衣と同じ色に揃えられた冠を揺らめかし、三歩先を歩く蒙毅が時折こちらを気に掛けるように振り返る。
「女性が、しかも丞相殿の御息女が入学すると聞いて驚いたよ。当たり前だけどここに居る殆どは男性だから。けれど少し前にと同じ女性が入学してね」
「蒙恬様から聞き及んでおります。どのような方なのですか?」
「ちょうどこの部屋にいる。同年代だし、彼女は明るくて親しみやすい性格だから、きっと仲良くなれると思うよ」
瓦床の歩廊を鳴らしながら進んだ最奥には開放的な大広間があり、そこには軍師学校の門下生たちが数十人、巨大な軍略囲碁の盤を囲んだり、高官らの御談義を聴講していたりと、各々思い思いに知識を涵養している光景が広がっていた。
「河了貂! こちらへ」
衆人に向かい蒙毅が大きく声を張ると、人混みから小柄な少女が鳥の雛のようにひょっこりと顔を出した。体をすっぽり覆う禽を模した蓑と童のようなかぶりは、都では珍しい風采である。
夷狄と呼ばれ蔑まれている存在。しかしこの場に彼女を疎む者はいない。
「彼女は。今日から君の妹弟子だ。隣の部屋に入るから色々と助けてあげて欲しい。も何かあれば遠慮無く河了貂や僕を頼ってくれ」
蒙毅が慣れたように他己紹介をする横で、河了貂は小鹿のように丸く大きな焦茶色の瞳を、うら恥ずかしさ混じりに眇めながらこちらを見る。
「よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
「は丞相殿の娘御だ。くれぐれも粗相のないようにね」
「えっ!?」
すると驚いた彼女は大きな声を上げて小柄な体をこわばらせる。はにかむような笑顔は瞬時に消えて、代わりに浮かんだのは惧れ――否、そのような生ぬるいものではない。憎悪や厭忌、そういった類の情が吃驚の裏で微かに感じ取られた。他人の心の機微に疎い自分がそれに気づいたのは、呂不韋の娘と聞けば皆が平伏するような環境で、否定的な感情を向けられることが無かったからであろう。亜父の生き様は決して万人に受け入れられるものではないと知っていたが、いざそのような目を生々しく突きつけられると、居た堪れない気持ちにもなる。しかしここで壁を作ってしまっては駄目だ。
「わたしは己の意思でこちらに参りました。呂不韋様の権威を木盾に取り我意を通そうとは微塵も考えておりません。どうか対等な関係でありたいと存じます」
ここまで来て厚遇を受けようなどという驕傲さは無い。そして何より同じ志を持つ女性として、河了貂とは良き友人になりたい。
「わかった。、改めて今日からよろしくな」
「はい。河了貂様」
「む、むず痒いから様はつけなくていいよ……」
途端に焦りたじろぐ河了貂の横で、一連の流れを見守っていた蒙毅は随分と微笑ましそうにしていた。
中華全土に激震が走った「秦の怪鳥」王騎の死から既に半年以上の月日が経っていた。
嵐のように流れる時の波に呑まれたその凄惨な記憶を、まざまざと呼び起こすきっかけとなったのは隣国による侵略の激化。学校からは軍師認可が下りた門下生を次々と戦場へ派遣しており、また蒙恬ら若将も休みなく駆り出され長らく都を離れていると蒙毅から聞いた。王都では趙の宰相である李牧という男が、なんと呂不韋の密やかな手引きにより私兵を率い乗り込んできたらしい。更には帯刀したまま宮城へと足を踏み入れ、あろうことか王の御前で啖呵を切るという前代未聞の事態が起きた。巷間ではまもなく前古未曾有の戦乱が起こるとの芳しくない噂も流れているが、否定はできない状況まで事態は深刻化している。
対して軍師学校での生活は充実していた。昌平君や蔡沢をはじめとした名師の訓えに耳を傾け、空いた時間は兄弟子らから直々に兵法や軍略の基礎を学ぶ日々は新鮮そのもの。夜は河了貂と共に湯殿に浸かり、その後は生活にかかる諸費用を賄うため清掃や傭書、書楼の整理などの雑務をこなし、就寝する。大変だがやり甲斐はあった。
河了貂は軍師として十分な素質を既に備えていた。彼女は軍師学校に入学して半年足らずでその才を開花させ、軍略囲碁は連戦連勝。向かうところ敵なしだ。知恵を振り絞り幾度となく死地を乗り越えてきた、あまりにも過酷な彼女の十五年は、乳母日傘で育てられた他の門下生に易々と越えられるものではない。
蒙毅は既に軍務を任せられているようで、月の半分ほどは軍師学校の外へ出掛けていた。それでも中央に戻った時は合間を縫って様子を見に来ては、世慣れないわたしにあれこれと世話を焼いてくれる。呂不韋の威厳を欠かぬように瀟洒な錦の衣で講義に出ていたことを知ると、変に目立ってしまうからと軽く動きやすい直裾の衣を用意する手筈を勧めてくれたり、またいざという時のためにと護身用に二尺ほどの剣を贈ってくれたりといった具合に。
与えられた部屋は簡素な寝台と文机が置かれただけの手狭な空間であるが、個室が用意されているだけでも有難いと考えるべきであろう。部屋を囲う土壁は良質なもので、いきれることも乾くこともない。夏は亜麻の絨毯、冬は氈があれば問題無く過ごすことができる。
新味あふれる日々にも徐々に慣れはやひと月。吏卒がこなすような小さな仕事も幾度か任されるようになり、微禄ではあるが報酬も手に入れた。呂不韋と交わした二つの約束は守られている、慎ましやかだが自足した生活を送っていると言って良いだろう。
音も無くぼんやりと灯る行燈の明かり。
外壁に吹き付ける寒風がまるでくぐもった声音のように耳に響く。文机の背後の書棚に寄りかかりながら四肢を寛がせ、ひたすらに書物に連なる文字を追っていると、やがて自我がぼんやりと溶け消えてあらゆる憂慮や苦悶から解脱したような心境に至る。それこそが至福だった。新たな知識を渉猟するのは好きだが、勉学に勤しむのはさほど得意ではない。しかし他人から勉強熱心と評される理由は紛れも無く、それが相変わらず書信のひとつも寄越さない亜父に対する複雑な感情から逃避する術であったからということだ。
「、居るかい?」
――兄弟子の声でふと我に返った。手櫛で乱れた髪を整えて帳を開くと、隙間からひんやりとした空気が小風となって流れ込んできて、身震いする。
「蒙毅様。いかがなされましたか?」
「頼み事があったんだけど、邪魔したかな。ひと段落ついたら僕の部屋に来て欲しい」
「はい。すぐにお伺い致しますね」
蒙毅の部屋は二つ隣。丞相の養女であるからして、万一に備え信頼できる者をそばに置いておいたほうが良いという計らいであるそうだが、彼は遠方に逗留することもしばしばで不在であることが多いので抑止力となっているかと問われれば微妙なところだ。しかし軍師学校でわたしに無礼をはたらく者は未だひとりも居ない。少なくとも昌平君や蔡沢が呂氏陣営でいてくれるうちは安心できよう。
「さあ入って」
招かれた蒙毅の部屋は物で埋め尽くされ、自分が普段過ごしている場所と同じ間取りとは思えないほど狭く感じられる。しかし猥雑な印象は一切無く、すべてが収まるべきところに収まっていた。飾り物の類は置かれておらず、家什は約まやかな統一感がある。
文机の前に腰掛けるよう促されその通りにすると、彼はまっさらな簡牘と、古びて墨が散った書物をいくつか目の前に広げた。
「劣化した書物の筆写をお願いしたくてね。の字は綺麗だから、頼まれてくれるかな」
「勿論です」
二つ返事で了承すると蒙毅は目を細めて笑う。容貌も性格も兄である蒙恬とはまるで似ていない彼だが、気を許した相手に見せる柔らかい笑みはどこか重なるものがある。
「明日から僕と河了貂は暫く戻らないから、心細いと思うけれど何かあったら皆や先生を頼ってね」
「どちらへ行かれるのですか?」
「太行山脈の南部、趙や魏との国境付近。戦場の視察に」
「それではとうとう蒙毅様も河了貂も本格的に軍師としての経験を積むと」
「いや、あくまで視察だから僕たちにそのような権限は一切無い。一言たりとも口出しすることを許されず、ただ見ているだけだ」
「もどかしいですね」
「僕も河了貂も軍師学校ではもはや負け知らずだが、それでも参謀たちの足元にも及ばない。だからこそ軍師として不足するものを見つめ直すためにもこのような機会は貴重なんだよ」
筆写を終えた簡牘を日当たりの良い場所に淡々と並べながらそう説く蒙毅。淀みない声はいつになく真剣な色を帯びている。
「、君にもいつか戦場を視察に行く機会が巡ってくるだろう」
「……いえ、わたしは」
そのような立派な軍師見習いになるまで、自分は果たしてここに居られるかどうか。わたしには大層な目標などは何も無い、ただ邸での肩身の狭い生活から逃げて、進むべき道も定めぬまま徒に日々を過ごしているだけ。知見を深め婚姻以外の形で呂不韋に恩を返すなどと宣っておきながら、諸先輩の多才ぶりにいかに己が無知蒙昧であったかを痛感し、気づけば泥濘に囚われて、誰かに認められることを諦めている節さえあった。
「考えたこともありませんでした。そんな未来なんて」
「時間はたっぷりとあるから、ここで色々なことを学び、触れて、得意なことや好きなことを見つければ良いと思う。いずれ丞相も君のことを認めてくださるかもしれない」
「そうだと良いのですが」
「そうそう。先生はの語学力を評価しているよ。そんな才能を腐らせるなんて勿体無いから、まずは文官登第を目指してみたら?」
どうも簡単そうに聞こえるが、文官になるなど軍師学校に入学するよりも狭き門であることは承知している、女性であるならば尚のこと。しかし官吏になれば端くれであっても独りで生きていくには十分な地位は確立される。
出世が叶えばいずれ呂不韋へ直々に干渉することもできよう。いずれ身を滅ぼしかねない彼の欺瞞は、亜父と欽慕する己からしても陰惨なものであることを知っている。それを糺すことができたのならば、わたしは彼をも守ることができるのかもしれない。そう思うと胸を淡い期待が満たした。
やがて雲は晴れて風も止んだ、陽気の良い長閑な昼下がり。しめやかさを破ったのは遠くから響く退庁の鼓だった。蒙毅は出来上がった書物を広げて眺めると、満足気に頷く。
「今日はこのくらいにしておこうか。うん、原本と遜色ないほど立派な出来だ。また頼みたいくらい」
「いつでも引き受けますので、遠慮なくお申し付けください」
「ありがとう。はい、これは今日のお礼」
そう言って蒙毅が取り出したのは一通の書信。差し出されたそれを、よくよく手にして眺めていると、封泥に見覚えのある印章が押されていることに気付いた。
「兄上から君に宛てた書信だよ。実弟である僕にも滅多に寄越さないのに、特別仲が良いようで羨ましい限りだ」
「そんな。推薦した手前、わたしが学校に迷惑をかけていないか心配されているだけかと」
面映ゆさを隠すようにすげなく返事をするが、聡い蒙毅のことだ、わたしが蒙恬からの贈物に内心甘酸っぱい喜びを覚えていることなどきっと見抜かれていることだろう。そうと思うと気恥ずかしく、油断すると緩みそうな口元をきゅっと結んで、そそくさと部屋を去った。背後で温かな眼差しを向けられていることなど気づくはずもなく。