夜の軍師学校は不気味な静謐さに満ちている。唯一の頼りである手持ち行燈はせいぜい二、三歩先しか照らせはしない。
底無しと見紛う暗晦に足を踏み入れる恐怖と無事に接地する安心感に絶えず揉まれていた。どこからか聞こえる鴟梟の鳴き声は主に石と土壁で造られた大廈には良く響き、名状しがたい恐怖感が背をなぞる。
皆がとうに寝静まった夜更け。御史の執務室の整理を終えて向かったのは昌平君の書斎。軍師学校で過ごす間の諸費を賄うため仰せつかった、機密書信の整理や、奴婢の身分では立ち入れない部屋の清掃等の仕事。それらが終わればこのように彼のもとを訪ね、報告をして終了という流れになっている。
普段は政務で中央に出向いていることが多い昌平君だが、最近はほぼ毎夜、ここに戻ってきては人知れず雑事をこなしているようだ。
「ご苦労だった」
昌平君は僅かに首を傾けてこちらを一瞥し、低い声でそう言った。二人の間に生まれる会話はこれだけ。なんとも機械的だ。初対面の際に亡父のことに触れて以来、学業や仕事と関係の無い話は一切交わしたことはない。わたしもまた「はい。では失礼致します」と定型的な返事をして、自室に戻り床に就くのが常である。
彼はいつも張り詰めた空気を放っている。私室に独りきりで居る時さえ凛とした表情を崩すことはない。まるでこの世のどこにも安息の地などないような面持ちで。
昌平君は、もとは楚の公子でありかつて人質であった、とは兄弟子から訊いた過去である。人質というと聞こえは悪いが、王族のそれは然程過酷なものではない。身の安全は確約されており、賓客と同様の接待を受け、ある程度の自由は認められている。しかし敵中に身を置く孤独と屈辱は耐え難いもの。わたしとて初めて父と共に秦にやってきた時の衆人の目を忘れたわけではない。この男からは密かに、そういった過去を彷彿とさせるような厭悪感が感じられる。
だからこそ、ある意味でわたしは彼が苦手だった。斉人としての誇りを忘れ、ここでぬるま湯に浸かりながら安逸を貪っていることを咎められているようで。無論、それ以上に師としての尊敬の念は抱いているが。
居た堪れなさを感じながらも、なけなしの勇気を振り絞り、再び机に向き合おうとしていた昌平君にわたしは尋ねかけようとする。
「あの……先生」
しかし言い淀んだ。
彼は今度こそ、半身を捻ってしかとこちらを見る。
わずらわしさを感ぜられているだろうか。よしやどう思われていようとも感情の一片も窺えない瞳を見ては再び怖気づく。とはいえ話しかけたからには後には退けまい、吐露するほかないと己を叱咤激励し捻り出した「先生」という言葉はさながら言葉を覚えたばかりの舌足らずな稚児のような不安定な口ぶりであった。
「……わたしは、どうすれば父のようになれるでしょうか」
つまるところ、悩んでいた。
どうやら昌平君はわたしの才を買って軍師学校に迎え入れてくれたようなのだが、残念ながら市井の中では優れていたあの軍略の才は、ここでは無残にうずもれてしまっている。持ち前の勤勉の質は健在で知識を貯め込むのは得意であるが、それを応用する形で捻り出す能力には恵まれておらず、あれほど蒙恬に褒められた軍略も介億に言わせてみれば「限りなく不可に近い可」であるそう。一駒に圧し掛かる命の重みを説かれる軍略囲碁において、その重さを理解してなお捨てる必要があることも受け止めねばならないと再三言われるほど、わたしには自らの手で人の命を奪う覚悟ができていなかった。その事実を有り体に突きつけられると、多少なりともこたえる。
蒙恬を知った時、この世にはなんと天質に恵まれた人間がいるのかと思った。羨むのも馬鹿らしくなるような、特別な人だった。
やがて蒙毅や河了貂をはじめとした門下生たちと出逢うと、己の拙劣さがますます際立った。わたしはただ恵まれた環境に置かれていただけで、元来はただの凡骨に過ぎない。もしこの世のすべての人に等しく勉学に励む機会が与えられていたのならば、こうして拾われることすらなかったであろう。決して自分を特別な人間だと信じていたわけではない。呂不韋邸で彼の臣下から受けた仕打ちは幼いわたしの自尊心をみるみるうちに腐らせ、父を喪ったあとの一年で怯懦な人格が出来上がってしまっていた。それでも僅かながらに祖国で名を馳せた男の娘に産まれたことに対する矜持は持ち合わせていたのだが。
その矜持をも打ち砕かれたわたしは、昌平君に縋るほかなかった。
「父はどのように人を殺したのですか」
涼しげな美貌に罅が走る。
盤上の遊戯の中でさえ自軍の駒を犠牲にすることを恐れていた人間が、人の殺し方を模索しているなど、奇妙な心変わりだと訝しがられることだろう。
しかし昌平君は深く追求することはなかった。元よりわたしの稀有な才を利用する腹案であったろう彼にとって、この変心は期せずして得た幸いであったようだ。
「陰書という技術がある。かつてお前の父が得意としていた戦法だ。学ぶ意志があるのならば技法は授けよう」
しばしの沈黙の後、読みさしの書信を机の端に寄せ、昌平君はまっさらな牘を用意して筆をすべらせる。唐突に始まった特別講義に、わたしは慌てて彼の向かいに膝をついて、筆先から綴られる図をまじまじと見た。
陰書とは軍師と将の間でやり取りを行う上での一種の暗号のようなもの。戦略などを記した書を数部に分かち、一分ごとに部下に託すことで、将のもとで合一するまで内容が敵方に漏洩することは限りなく低くなる。昌平君曰く、父はこの陰書の技術に加え、将ごとに少数言語を定め用いるという工夫を施していた。ともなると聖知を具えた人物であれ解読は不可能だ。
昌平君と初めて言葉を交わした日に亡父が数多の人間を殺したと聞いた時は、どうも信じられない心地でいた。わたしの中の父といえば批評通り万人に好意的な性格で、とても人を殺せるようには見えなかった。呂不韋の食客となりまともな食事にありつけるようになってからも体質ゆえかあばらの浮いた痩せぎすで、戟を構える腕もおぼつかなく、臣下たちによく心配されていたことを覚えている。
そんな父は文字で兵を、軍を操り、自ら手を下さずして戦を制していたという。
「ただ文字を綴るのみ……と聞けば幾許か気が楽だと思うだろう。しかし人を己の手で殺した感覚を知らずにいるといつか箍が外れる」
僅かにつづられた文字によって煙のようにさっぱりと消える命の灯。その本来の重みを忘れる。
虞を感ぜず国を救ってばかりいると、善人にでもなったつもりになる。その裏で惧れ憎まれ、多くの恨みを買っていることにも気付けずに。
賢哲は知っていた。いつしかその両手では抱えきれぬほどの怨恨に圧し潰される。躯体をじんわりと蝕む病魔のような咎に、いつか殺される。
「それでもかの男は手を汚し続けた。可愛い娘には悟られぬよう、密やかに。……しかしその娘もまた同じ道を歩み、人を殺す術を持とうとしているとは」
――因果なものだな。
昌平君が吐息のような声で呟く。
ちりっと、内腑を火で炙られているような熱が走った。
明朝。
夜半に長居してしまったことを詫びようと起き抜けに昌平君の姿を捜したが、とうに登朝したあとだった。というのも本日は朝廟で論功行賞が執り行われるとのこと。他にも要職に就く先生方は揃って出払っていた。
この期に及んで進むべき道を迷っている、鬱念を抱いたまま訪れたのは蒙毅の部屋。執務室からの帰り道に偶然にも彼と出会い、水菓子を貰ったから一緒に食べようという甘言につられてやってきた次第だ。
「蒙恬様が千人将に?」
皿にたんまりと盛り付けられた瑞々しい柿を咀嚼すると、味蕾を引き締めるような渋さの中に仄かに感ぜられる蜜の甘味。淡く、それでいてねっとりと舌に絡みつく口当は疲弊した体によく効く。滅多に味わうことのできない御馳走にうっとりしていると、蒙毅からその美味しさをいやまし高めてくれる朗報が伝えられた。
「うん。今回の韓戦で。いま中央で論功行賞の最中だよ」
「まあなんと! おめでとう存じます。蒙家の皆様もきっと喜んでおられますね」
ついこのあいだ、いつか千人将になれるかもしれないと二人で話していたばかり。その大願を――きっと彼にとっては通過点に過ぎないのだろうが――たったの一年で成し遂げてしまう彼の才幹を賞嘆せずにはいられない。とはいえ祖父である蒙驁の教育方針(という名目の猫可愛がり)により、今後も実質的には三百人将のままで経験を積ませるらしいと蒙毅は残念そうに申し添えた。不満気に頬を膨らませる彼の姿が思い浮かぶ。
「それで兄上は年明けまで咸陽に居るらしいからさえよければ正月はうちに来ない? 久しぶりに会えると思うよ。僕もなかなか帰っていないから良い機会だと思って」
「いえ。お誘いは嬉しいのですが、部外者のわたしが水を差すわけにはいきませんので遠慮させていただきます」
「河了貂も家に帰るって言っていたよ。一人でお留守番は寂しいと思うけれど」
世俗の華やかなさんざめきの裏で、人もまばらな軍師学校の一室でうら寂しく新年を迎える己の姿を想像すると、蒙毅の誘いは魅力的だ。そのうえ、かつて蒙家で過ごした正月の団欒は、慶事の異様な賑わいに嫌厭的であったわたしの常識を覆すほど快いものだった。あの痺れるような多幸感をもう一度味わうことができるのならば、つまらない意地で断るのも憚られて。
「う……ご迷惑ではありませんか」
「まったく」
「ではお言葉に甘えさせていただきます」
気づけばあっさり快諾していた。
「ただし、皆様に余計な気苦労をおかけするわけにはいきませんので、当日まで内密に」
などと、ただでさえ年の暮れは慶事の準備に奔走しているだろうに、客人を迎える準備までさせてしまっては申し訳が立たないと思い、せめてもの配慮のつもりで願い出たのだが、これがのちにとある波乱に繋がることになる。
上等な蜜柿も甘さに慣れるとやがて苦みが勝る。咥内に残り続ける不和は、正月の予定に浮かれた裏で己の胸裡に蟠るしこりにも似ていた。
「浮かない顔だね。もしかして嫌だった?」
二人で囲む火鉢の炭をせせる手を止め、蒙毅はすまなそうな顔をしながらこちらに目を向ける。
「いえ。お誘いはとても嬉しいです。悩んでいるのはまた別件で」
というのは無論、陰書の件である。昌平君は「学ぶ意志があるのならば技法を授ける」と言った。己の決心が揺るがないうちにけりをつけるべき喫緊の課題だ。劣等感に耐え兼ね助けを求めたわたしにとってそれは渡りに船の申し出であるが、父の身を滅ぼしたその術がまた憎くもあり、葛藤していた。
「陰書か。なるほど」
「養女としての縁は薄れようと官吏という立場になれば呂不韋様に近づくことができます。不肖な私ですが、何かしらあの方の役に立てることがあればと思うのです。文官登第のため、稀有な才はきっと大きな手立てとなり得るでしょう。ただひとつ懸念すべきは、わたしがそれを望ましく扱うことができるかどうか」
ついぞ肉親の命を奪うまで膨れ上がったその恐れを呼び起こす術は、判断ひとつ誤れば諸刃の剣と成り果てる。
「僕は反対しない。無辜の民を手に掛けるわけではないからね。それにしてもはよほど丞相に固執しているようだ」
「過去に呂不韋様が定めた婚姻をご破算にしてしまった経緯がありますので、相応の償いをすべきであるとは思っておりまして」
「かの御方は良くも悪くも仁徳というものを気にしない質であるのは傍にいた君も十分理解しているだろう」
「良いのです。それがわたしを許してくださった呂不韋様への、欽慕の証ですから」
鉄瓶から漏れ出る蒸気が漂うしんめりとした冷ややかさの中で、蒙毅は憐憫の情をのせた双眸でこちらを見つめる。猥雑な音は遠のき、しめやかな空気に包まれる部屋の中で、蒙毅は乾いた唇を舌でひとたびなぞったのち口を開いた。その声色は普段となんら変わらないものであったが、どうしてかいつなんどきも感情に左右されることなく淡々と事を述べる彼の言葉が、今は石のような冷たさを帯びた厳しいものに聞こえてならない。
「僕からしてみればすべてを清算して、しがらみから解放されたいように思えてならない」
歪な螺旋を描きながら舞い昇る火の粉が鼻の先を掠めても、わたしは微動だにしなかった。兄弟子は自分と亜父の関係性を可哀想に思いながら見ていたのだと知るなり、欽慕と信じ疑わなかったこの感情がなんとも独善的で薄っぺらいものに思えて憮然とするほかなかった。
「仮に丞相との関係が完全に切れてしまったとしたら、拠り所を失った君は何を支えに生きてゆくのだろう? 誰かのために……ではなくて、もう少し自分の本心と向き合ってみるのも良いかもしれないよ」