浮世夢の如し

  十.さざなみに溺れる

 ひと晩かけて静かに雪が降り積もったらしい。漂渺たる地平線の彼方は白んだ空に溶け入るように重なり、視界一面に薄絹の布帛をかぶせられたような景色が広がっていた。立ち枯れた木々は端然と佇む芸術品のような美しさをたたえており、思わず洩らした感嘆の息が煙のように立ち昇る。
 二、三日このかた祝祭日が近いこともあってか構内に残る門下生の数はめっきりと減り、大廈は空虚そのもの。正門へと続く石階段の下には車が幾らか停められていて、主を待つ馬が鼻を鳴らしている。雪で轍が消えぬうちに、ひとり、またひとりと乗り込んで各々の住処へと帰ってゆくその様を見ていると、本来であればこの静寂の中に一人取り残されるはずであった己の姿を想像してしまい、なんともわびしい気持ちになるとともに気風の良い兄弟子に心の底から感謝した。
 軍師学校で過ごすうちに良い意味で世俗にまみれたおかげで、呂不韋に囲われていた女性たちのように華美な格好をするのはどうも不得手であると自覚してきたのだが、今日ばかりは仕方なしと行李の奥から祭日用の着物を引っ張り出す。数年前に呂不韋から贈られたそれは銀世界に降り注ぐ燦然たる陽のように眩しげな金紗が織り込まれた上物で、彼の養女たる立場をしかと示威するに相応しいものであったから、出戻りでもはや縁を切られたも同然である自分が平気な顔をして着るなど烏滸がましいかもしれない。しかし入学時に「金銭の援助は一切無し」という条件を課されたわたしに、この日のためだけに着物を新調する資金的余裕は無かった。
 奴婢の助けを借りて髪を結い上げ、普段よりも念入りに化粧を施し、着物に袖を通し終わって一息ついた頃に、丁度良く蒙毅が部屋を訪ねてきた。爽やかな青色を基調とした恰好を好む彼も、今日この日は爪の先まで赤色。普段とは正反対の色系統であるからか、新鮮味がさらに増している。名家の次男坊に相応しい立派な装いに、玻璃の玉のような無機質な瞳や形の良い薄い唇も相俟って、どこか人ではない美しさが滲み出ていた。兄君のような泥中の蓮のごとき華やかさは薄けれども、情調に訴える魅力はありありと感じられる。
「その、本日は宜しくお願いします」
「うん。準備は万端だね。さて日が暮れないうちに邸へ向かおうか」
 
 小窓から覗く視界の奥にぽつり。雪の中、蜃気楼のようにぼんやりと浮かぶ蒙家の邸。まさか本当に戻ってこられるとは夢にも思わなかった、そう静かに呟くと不意に、眦に涙が滲む。決して悪いばかりの運命ではなかった。とは気休めに過ぎないが、隣に座る蒙毅が静かに頷いてくれたのを見ると、この些細な幸せを今日明日くらいは目一杯享受してやろうと思ったのだ。
 薄墨色の空の下。柔らかな雪が音も無く振る中、蒙毅が到着した報せを受けた邸の者はみなすぐに出迎えてくれた。この頃は滅多に邸に戻っていなかったらしい彼の姿を一目見るなり人々は刺すような寒さを弾き飛ばすほど多いに沸いたが、そんな蒙毅に手を引かれて車からおずおずと顔を出したわたしの存在を認知するなり一転、水を打ったように鎮まった。
「なんと……ま、まさか蒙毅様がなあ。これまた蒙恬様が今までご同伴されてきた女性たちのような、それ以上に楚々とした方であられる」
「立派な御召し物に乱れの無い挙措。きっとえらいところの御息女でございましょう」
 などと事実無根の推測がじわじわと広がりつつある中で、蒙毅も予想外の事態に虚を突かれた様子できっぱりと否定をしないものだから、どことなく気まずい思いをしてすっかり俯いてしまっていると、使用人の一人が「ありゃあ様じゃないか?」と口走った。それからは矢継ぎ早に飛んでくる質問にひとつひとつ丁寧に答えて返し、気づけば夕暮れ時になっていた。好奇心剥き出しの問い掛けに精神的な疲弊を感じたのは言うまでもない。しかし過去のわたしを支え、育て、送り出してくれた彼らには、遠い国へ嫁いだ私が何故蒙毅に同伴しこの邸へ戻るに至ったか、その紆余曲折をつまびらかに説明する義理があった。

 最後の六将・王騎の死から一年余り。ほどなくして七雄の均衡は崩れ始め、その勢いはとどまるところを知らず、今冬も蒙驁と蒙武は邸に戻らない。主らが不在の間、長らく邸を守り続けた蒙家の使用人たちにとって数年ぶりとなる次男坊の帰郷はこの上なく嬉しいことだろう。絶えず人に囲まれている蒙毅を横目に、やっと解放されたわたしは端席に移動した。
「すみません、お隣よろしいですか?」
 人の輪から離れ、ひとり静かに晩酌を嗜む男の背中に尋ねかける。
「どうぞ」
「ありがとうございます。あ……もしかして陸仙さん?」
 振り向いた彼は相も変わらず気怠そうな印象を受ける三白眼でこちらを見つめる。三本の角が特徴的な兜を被っていなかったものだから、後ろ姿だけでは気づかなかった。相手に阿らない辛口派であるが不思議と心安さを覚えるこの男。込み上がる懐かしさに強張っていた頬を緩ませ、わたしは彼の横に腰掛ける。
「何もお訊きにならないのですか」
「お辛い思いをして秦へ戻ってきた貴女を辱める趣味はございませんから」
 不幸な結婚だったと慰めるわけでも、元夫の振舞いを責めつけるわけでもなく、まるで興味が無いと言わんばかりに素っ気なく返事をする。未だ傷の癒えないわたしは、陸仙の温かさが滲むその態度にどれほど救われることか。
「楽華隊の皆様は戻られているのですね」
「ええ。来年の戦に備え英気を養うようにと、蒙驁将軍からの言伝で。胡漸副長は大殿を差し置いて暇を貰うなど失礼極まりないと猛反対していましたが、やっと羽を伸ばせると喜んだ蒙恬様に根負けして渋々承諾してくれました。お二人の頑固さと奔放さには毎度迷惑をこうむっていますが、今回ばかりは蒙恬様に感謝していますよ」
「その蒙恬様ご本人はいったいどちらへ?」
「昼過ぎまではいらっしゃったのですが、姿が見えませんね。街にでも遊びに出掛けられたのでは」
「……そうですか」
 変に気を遣わないようにと、事前の連絡など何も無いまま突然押し掛けてしまったから、勿論蒙恬と会う約束など一言も交わしていない。しかし何を隠そう、わたしは彼と会うことを密かに楽しみにしていたのだ。その分、落胆も大きい。陸仙は気を利かせてそれ以上は言わなかったであろうが、綺麗なお姉さんが云々と口癖のように言う彼のことだ、街に行く理由など一つに決まっている。
 (蒙毅様もお帰りになられているのだから、今日くらい邸に戻られれば良いのに。軍務ならばまだしも)
 勝手に寄せていた期待をかくも裏切られるとは、なんとも自分が情けなく腹立たしい。とはいえこの鬱憤を蒙恬や陸仙にぶつけるわけにもいかず。
 衝動的に眼前にあった酒器を握り、中身を一気に飲み干した。途端にかっと熱く燃える喉。その刺激をもってしても掻き消すことのできない負の感情。隣に座る陸仙が驚いたように僅かに目を見開く。
「酒……強いんですか」
「いえ。あまり得意ではないですね」
 そう答えると陸仙は何かを察した相好で、それはもう明白に嫌な顔をしたが、とうに酔いが回り半ば自棄になりかけていたわたしは気に留める余裕など残っていない。
「蒙恬様は普段から祝祭日であることもお構い無しに街へ繰り出すような放蕩無頼ぶりでいらっしゃるのですか?」
「酔っ払いは勘弁してくださいよ」
 先程まで小さく畏まって丁寧に愛想良くしていた自分はいったいどこへいったのやら。しかし止まらない。酒精に慣れない体には、それはあっというまに自我を飲み込んでしまうほどの大層な毒だ。かまびすしい酒席の熱に圧され、ひとたび口を開けば堰を切ったようにとめどなく言葉が溢れ出てくる。そのうち冷えた酒に手を伸ばす陸仙の表情が歪み、周りの音は遠ざかり、平衡感覚をも失い始めても、ついぞ歯止めがきかず自制を保つことすら難しくなっていった。

 ひやりと冷たい土壁にぴたりと背をつけて凭れていた。火照った体を休めながら、ぼんやりと辺りの景色を眺めてみれば、格式高い宴の雰囲気はとうに崩れて酔い潰れた兵士たちが死屍累々の体でそこらにごろごろと転がっている。
「起きてます?」
 頭上から声がしたが、見上げることすら億劫である。返事をするとなると尚更。まったく別な人間の体に、己の意識だけが入り込んでいるような感覚だった。それでもどうにか余力を振り絞って頷いてはみたものの、こちらの意志は伝わっていなかったらしい。
「困りましたね」
 このまま放っておいてください。漏れ出る吐息にのせて呟き、重い瞼を閉じる。
 ──束の間、浮遊感に襲われた。
 眠りに落ちる時の、躓いたような、吸い込まれるような不気味な感覚とはまた違うそれに、失いかけていた意識が僅かに覚醒した。足音とともに規則的に揺れる景色。密着した逞しい胸板と心地の良い体温。何が起こっているのかと思い身を捩ろうとすると、低い声に制止された。
「気が付かれましたか。動くと落ちますよ」
 何度か瞬きをして眠気を振り払う。どうやら嬰児のように横抱きにされて運ばれているらしい。
「お……下ろしてください」
「こんなところに放置して感冒にでもかかったら蒙恬様や蒙毅様が大変なおかんむりになるでしょう。それに仮にも女性なのですから、少しは危機感を持つべきかと」
「ちゃんとした、女性、ですから」
「それは失礼致しました」
 大広間を出ると寒風が肌を掠める。思わず身震いをすると、彼はわたしの腰に回していた手で器用に深衣を掛け直した。律義な人だ。酔い潰れたのは自分の責任。介抱されずとも、悪く思うことなどないというのに。
 やがて柔らかな寝具の上に下ろされる。膝を折って丸くなり、寒さをしのぐべく暗闇の中で手繰り寄せた衾を全身に巻きつけると、ふんわりとした温かさが心地良い。
「ここは何処ですか」
「俺にあてられた部屋ですよ」
「陸仙さんはどちらへ行かれるのです?」
「詰所に」
「申し訳ありません。わたし、貴方が真面目なお方だからと、少し羽目を外してしまいました」
「少しどころじゃないですけどね。まあ構いません。人の世話には慣れているので」
 一歩を踏み出す足が覚束なく、呂律がはっきりしなくなるまで酒にのまれ、挙句には人様に迷惑を掛けてしまうなんて。本来はこのような醜態を晒すつもりではなかった。苦い思い出を忘れ、懐かしの邸で穏やかに新年を迎えるのだと思っていた。たったひとり、蒙恬がこの場に居ないだけで、それを成すことすら難いなんて。
「……蒙恬と今日の日を過ごすことができたらと、密かに願っていました。四の五の言って彼を引き留められるような関係でもございませんのにね」
 去りゆく陸仙の背中に向けて自嘲的に呟く。
 蒙恬とは長い付き合いだ。時に衝突し、時に助けられ、それなりに人となりを知った。
 貴人であるが峻険でなく、朗らかで、けれども誰より利発で立派な人。浮草のように気侭に揺蕩い、何者にも縛られない人。
 掴みどころがなく、本心を知ろうとものらりくらりと躱され、いつも悩ませられる。けれども彼といると心地良い。誰と接するよりも自然に近い心持でいられる。しかし決して友人以上の関係にはない。強く望めば一歩や二歩は先に進めるであろうが、深みに嵌ると地獄を見ると知っている。それなのにどうして馬鹿みたいに期待をしてしまうのか。彼にとってはわたしの存在など、数多い友人のうちの一人に過ぎないのに――。


 音も無く雪が降り積もる、風ひとつない静かな朝だ。天も人も眠っているのか、死んでいるのか、耳を欹てても物音ひとつ聞こえやしない。
 記憶の糸を手繰り寄せる。見覚えのない部屋の内装、その経緯は未だ痛みの残る頭の中に、幽かに残っていた。
 酔い潰れたわたしを介抱し、ここに運び、寝かせてくれたのは陸仙だ。
 しかし昨晩の記憶は朧々である。酔って覚えていないとはよく耳にする最低な言い訳だが、まさかこの身を以て体感するとは思わなかった。さて皆が起き始める前に身支度を済ませねば。わたしがここで一夜を過ごしたことが露見してしまえば、蒙家の人にまたもやあらぬ誤解を招きかねない。
「り……陸仙さん!」
 急いで身支度を整えて足早に詰所に乗り込めば、その姿はすぐに見つかった。額づく勢いで頭を下げて昨晩のことを詫び、再び顔を上げたところで、彼の隣に火鉢にあたり暖をとる蒙恬の姿があることに気付く。白皙の顔には薄らと隈が浮かんでおり、手の甲や耳は赤らんでいる。未明に街を発ち、戻ってきたのだろう。昨日までは一番に会いたかった人。今は最も会いたくない人。朝帰りというのがまたいっそう嫌気を膨らませた。蒙恬は、睫毛の長いくっきりとした目を見開き、虚を突かれた様子であった。一方のわたしはといえば、普段ならば喜び勇むところであるが、昨晩のことを思い起すとどうも彼との再会を素直に喜ぶことが憚られ、どこかぎこちない他人行儀な態度を取ってしまう。
。朝餉を済ませていないなら一緒に粥でも貰いに行かない?」
 明らかに様子がおかしいであろうわたしにも、優しい蒙恬は変わらぬ笑顔で話しかけてくれる。
「いえ。結構です。起き抜けで食欲が湧かないもので」
 だが対する返事は、自分でも驚くほど冷淡な声であった。ぽかんとしている蒙恬の表情を脇目で見るとなんとも居た堪れない気持ちになったが、しかし今の自分には面と向かって彼と向き合う余裕など残されていない。陸仙に小さく頭を下げて、わたしは詰所を飛び出した。とはいえ行く宛は無い。
と何かあったの?」
「いいえ、特には……」
 尻切れになった会話が耳を掠める。陸仙は昨日のわたしを見て大凡の事情は察していることだろう。厄介事を押し付けてしまい、ますます申し訳無い。

 逃げるようにやってきたのは冬の庭。
 意匠の凝らされた奇岩怪石はなだらかな雪の丘陵に様変わりしており、九曲橋から見下ろす池には白んだ空が一層淀んで映し出されている。銀景色に映える南天燭の苦い実を、痩せこけた山雀が渋々食べている他、生物の痕跡は無い。
 咸陽をはじめとした秦国領の主邑の多くは広大な渭水の盆地にあり、降雪量は少ないが、稀に西の山岳に大きな雨雲が生まれると春まで融けない根雪が一気に降り積もる。空気が乾燥しているため、秋口から凍れるような寒さが吹き付け、この時期は殊に凛冽だ。
 興奮で火照っていた頬の熱もあっという間に冷めて、履物の隙間から入り込んだ雪が融けて足を濡らす。凍瘡で四肢の末端が痛痒かった。
「ずっと外に居たの? 鼻も耳も真っ赤だよ」
 庭を臨む回廊の框に腰を掛け、雪を避けながら足を休めていると、通りかかった蒙毅に声を掛けられる。
「皆様にはわたしが来ることを伝えておりませんでしたから、今更部屋を空けていただくわけにもいきませんし」
 つまるところ行き場が無かったもので。
「なら僕の部屋に来るかい? 書物もたくさんあるし、暇潰しにはなると思うよ」
「ええと」
「あ、別に他意はないからね」
「いえ。ご迷惑でなければ、伺いたいです」
 火の気の薄い鉢に、蒙毅がどこからか貰ってきた火を点けると、物に溢れた狭い部屋の中はみるみるうちに心地良い温かさに満ちた。寒くない? と己の外套を脱いでわたしの肩へとかけてくれる、僅かに触れた指先やさらさらと鳴るその微かな音に、気恥ずかしさと嬉しさが交じり合った感情を覚えながら「ありがとうございます」と小さく礼を言う。
 二人の間に溶け漂う薄ら甘い情調は快く、このような優しい男性を好いたらどれほど心持が楽だっただろうと、ふとそのようなことを考える。だがわたしは彼に対し尊敬の念は絶えずとも、決して恋慕を抱くことはなかった。これといった理由は無い。不束なわたしには勿体無いほど素敵な人だ。ただ、彼にいつか海を見たいと言っても決して兄君のような無謀な口約束などせず、まだ見ぬ世界に恋焦がれるわたしを優しく宥めながら、この国の中に大事に閉じ込めておくのだろうと思うと、やはり兄弟子は兄弟子のままなのである。
「実は以前こちらでお世話になっていた際に、この書斎を自由に使って良いと蒙驁将軍から許可をいただきまして、勝手ながら殆ど目を通しておりました。そうそう、その頃からわたしは是非とも蒙毅様にお会いして語らいたいと思っていたのです」
 この部屋の主は書物を愛している。
 邸には蔵書楼のようなものはない。当主が秦へ移り済んでから四十年足らず。当時はまともな飯にもありつけぬ日々であった彼らには書物の保存収集にかける金銭も時間的余裕もまず無かったはずだ。という裏事情を心得ていると、己と然程歳も違わぬ蒙毅が部屋を埋め尽くすほどの蔵書を保管していること対し敬意の念を抱かざるを得まい。更には一室しかない私室を書物のためだけに窓を塞ぎ、火の事故を憂慮して池の水をすぐそこまで引かせたという話を聞いた時には、物に心が芽生えるならばここの書物たちはきっと幸甚であるのだろうと思った。
 ゆっくりと文字を追うひとときは、昨日の今日で精神を著しく掻き乱されたわたしにとって願ってもない穏やかな休息となった。空想の世界を介し、この書物を綴っている著者と対話をする。とはいえこちらは相手の顔はおろか名前や身分も知らない。一方的に与えられる情報に対し、得手勝手が許されるが、しかしあまりに独善的でいても学び取れるものはないといったところで対話にも似た均衡が成り立っている。何度か読み返していると違う観点が現れる。繰り返し噛み砕き、書物を知り、著者を知る。父を亡くしたばかりの頃はこれらが友であった。少しは社交的になった今もそれは変わっていない。
 冬は日の入が早く、晡時を過ぎるとすぐに邸には明かりが灯る。皆は既に酒宴をしたためている頃であろう。作り上げた書物の小山を片付けて、火鉢に蓋を被せ、広間へ向かおうと立ち上がると、長らく動かしていなかった下肢が痺れた。
 道中。詰所からぞろぞろと出てきた人だかりを掻き分けるようにして、険しい顔でこちらに近づいてくるひとりの男がいた。
「ちょっとさん」
「り、陸仙さん? どうされました?」
 驚きふためくわたしの手を彼はむずと掴み上げ、焦ったような疲弊したような、普段の怜悧さを欠いた表情でため息交じりに話し始めた。
「どうしたもこうしたもないですよ。蒙恬様の機嫌がすこぶる悪いんで、どうにかしてください」
「わ、わたしにそのようなことを言われましても――」
 そこまで言いかけたところで、途端に顔を強張らせた陸仙の異様な空気を察し、つられて背後を振り向く。そこには蒙恬が怖いくらいに普段通りのにこやかな表情をして立っていた。幾許か時が流れ、気づいた時には蒙毅も陸仙の姿もそこには無い。
「ねえ。俺、何か悪いことをしたかな?」

 遠巻きにこちらを窺う人々の視線も、それまでのたわいもない会話の内容も、全て頭に入ってこなかった。大の恩人に対し今朝の無礼な態度は失礼極まりないものであったと思う。嫌われただろう、呆れられただろう、そう考えるたびに胸が針で刺されたように痛い。どうして彼に対しては、わたしは駄々をこねる幼子のようになってしまうのだろうか。それでも蒙恬は何かを察したような優しさで歩み寄ってくるものだから、己のみっともなさがより際立って、ますますきまりが悪くなってしまい自己嫌悪に陥っての繰り返しだ。
「まさか弟が戻ってきているなんて思わなかったよ。あいつも中々帰ってこないからさ、父上に似たのかも」
「……あの」
 彼は何の気なしにわたしの手を取り、寒さに赤らんだ肌膚をなぞる。劣情は無い。街の艶美な女性たちのように色欲を満たせるわけでも、家族や部下たちのように快い労いをかけてくれることもない、つまらないわたしに執着する理由が分からない。呂不韋の養女であるという立場を考慮し、父・蒙武のためにもひとまず仲を深めておいたほうが無難であるという算段か。はたまたほんの遊びなのか。
 そこまで考えて蒙恬の様子を窺うと、琥珀色の瞳が少年のような純朴さを湛えながら煌めいていて、良心が痛む。
「わたしなどに構わず、街に行かれてはいかがです」
 突き放す言い方をした。決して好い言葉が欲しかったわけではない。ただ、いくじのない自分のためにも互いの立場に対して明瞭に線引きをするべきだと考えただけだ。中途半端でいると、不安になる。それはわたしの心が悪い方向へ揺れ動いている確たる証拠で。断ち切らなければと、そう思っていたのに。
「どこにも行かないよ。行く理由が無い。だって君はいま俺の目の前に居るもの」
「どういう意味ですか?」
「俺は昨晩、君を迎えに軍師学校まで行っていたってこと。残念ながら行き違いになったけれど。せめて俺には一報寄越すようにからも弟に言っておいてよ」
 それは思いもよらない言葉だった。
 同時に、自分がとんでもない思い違いをして彼を避けていたことを知る。夫との離縁で滅入った気持ちも晴れぬまま身一つで軍師学校に入学し、うら寂しさを感じているであろうわたしを案じ、蒙恬はひとり邸を抜け出して軍師学校へ馬を走らせたのだそう。
 ――ああ。穴があったら入りたい。そんな彼の心などつゆ知らず、夜遊びに耽っていたと勘違いし、行き場の無い怒りに身を任せて酒に酔い潰れ、あまつさえ陸仙の寝具で無防備な姿を晒すなどという醜態を演じてしまった。詫びの言葉も無いとはこのこと。足元の悪い冬の夜道を遠い軍師学校まで往復するのはさぞ難儀であっただろう。それも徒労に終わり、裘の毛先も凍るような寒さの中、ようやく邸に戻ってきた彼を出迎えたのは今朝のつっけんどんなわたしである。
 脱力した。自身の情けなさにその場にへたりこんでしまいたくなった。
「それよりさーなんでも昨晩は酔い潰れて陸仙に介抱されたそうじゃん。君はそんな無責任なことをするような人ではないと思ってるんだけど、何かあった?」
 ばつが悪そうに表情を歪め、唇を震わせていたわたしは、彼からしてみればもはや怒る気力も湧かないほど酷い様相をしていたのだろう。しばし呆然と床の規則的な文様を眺め、いまにも爆ぜてしまいそうな心臓を落ち着かせながら、伏せていた目をぎゅっと瞑ってより深く頭を下げる。
「大変申し訳ございませんでした」

 それはただの友として干渉すべき範疇を大幅に超えている醜い嫉妬だった。
 こんな自分は見せたくなかった。せめて彼の前では品行方正で良い人でいたかった。関係性を末永く継続したいがために、人畜無害な端役に徹そうとしていた。しかし彼に対して特別な感情を――それは決して少女の純朴な恋慕などではなく、寂しさと独占欲がどろどろに融け合ったものだ――を抱いていることを認めざるを得ない状況である。
 わたしは素直にすべてを吐いた。もう耐えられなかった。忸怩たる思いだ。
 何年かぶりに自ら人に髪を結って欲しいと頼んだ。手鏡で仕上がりを確認しながら念入りに胡粉を塗り、黛で描く眉もこっそり侍女に流行りの形を聞き出してその通りにした。世辞でも良いから綺麗だねと……というのは少々高望みな気がするが、少し雰囲気が違うねとだけでも、言ってもらえたならと期待半分でいた。それなのに。
 他の女性を抱いているかもしれないと考えただけで、それまでのすべてが瓦解した。わたしは貴方の何でもないのに。哀しみ、怒り、呆れ、それらの感情が何度も繰り返され、自分でもどうしたら良いのか分からず、手っ取り早くすべてを忘れてしまいたいと酒に縋った。
 思い返してみると、笑いものになるようなみっともなさだ。

 幾分か落ち着いた頃、蒙恬は緊張の糸がふつりと切れたように破顔一笑した。
「良いよ、普段から褒められるような振舞いをしているわけではないから。それよりも俺の方こそ謝らなければならない」
「何故です?」
 疑問に思いつつそう問うと、彼はその表情を自嘲が滲んだ半笑いに変える。
「部下が君と情を交わしたと疑ったから――かな」
 目を逸らし、躊躇しながらも蒙恬はぼそっと呟いた。それは婉曲的な言葉であったが、指し示す事柄を察することができないほど無知ではない。意味を理解した途端、わたしの頬にカッと熱が集まった。陸仙との肉体関係を疑われていたなど寝耳に水である。
「だ、断じてそのような事実はありません! 善意でわたしを介抱してくださっただけで」
「知ってる。君は操固く婦徳に秀でた女性だよ。――さて年初めから陰気臭いのもなんだし、そろそろ宴に混ざりに行こうか」
 何かを誤魔化すようにやんわりと手を引かれ、共に足を進める。触れる指先からぴりっと走る切なさに胸が波立った。違う。ただ初心で、臆病で、馬鹿正直なだけ。上辺だけ取り繕って、中身はもっと泥濘のような感情が渦巻いている。汚らしい人間だ。蒙恬が語るわたしの人物像、その理想と現実の差異に気付かれたとき、果たして彼はわたしに価値を置いてくれるのだろうか。


 夜が明けようとしていた。
 宛がわれた部屋は北棟の、主房に繋がる一室である。本来であれば貴賓を招くような場なのだろう。壁面には金襴緞子の表装が施された書画の数々、意匠惨憺が随所に窺える紫檀の組木細工。南側には一丈四方の小さな庭があり、百日紅の、花と見紛うかわいらしさの実が枝もたわわに実っている。
 重纊の寝具は繭のような温かさで厳冬でも快適であるが、独りで寝泊まりをするには手広いこの空間は肌寒い。厨房から火を貰うついでに露が降り澄んだ朝の空気を吸おうと、沓を履き、厚い衣を一枚羽織って回廊へと出た。戸外は刺すような冷たさである。
 厨房はちょうど邸の反対側、南方にあった。震える吐息が白んでは融けてゆく。足早に内院をつき切っていると、ちょうど詰所に差し掛かろうとしたところで、人影が見えた。
「あ……」
 思わず声を上げると、彼はおもむろに顔だけをこちらに向けた。彼――陸仙の眼前には、たっぷりの羽毛を膨らませ、首をすくめながら丸くしている鶏が三羽。給餌をしていたようだ。……。反射的に目を逸らすと、彼はわざとらしくため息を吐く。
「すげない態度はよしてくださいよ。本当に何か間違いがあったと勘繰られるとさすがに困りますので」
「そんなつもりは、っ」
 ――情を交わしたと。
 不意に、蒙恬の言葉が蘇る。
「その節はご迷惑をお掛け致しました」
「いえ」
 陸仙はわたしを部屋に送り届けた後、すぐに詰所に足を運び、そこで一睡もせずに主の帰りを待っていたそうだ。彼は何も言わないが、間違いなど決して無かったのだと、あくまでもその証明をするためだったのだろう。軽薄そうに見えるが、その裏、忠誠心に厚い男だと蒙恬は言っていた。
「今日はよく眠れましたか?」
「ええ。お蔭様で蒙恬様の誤解を解くことができたようですし」
「それは何よりです」
「ところで厨房へ行かれるならば、ついでと言ってはなんですが、卵を届けていただけますか?」
 陸仙は手慣れたように放卵されたばかりの、ほんのりと生温いそれを手籠につめた。雌鶏はそれを当然のように奪われようとも全く気にする素振りを見せず、時折小さく喉を鳴らしている。きっとその硬い殻の中から我が子が生まれることすら認識していないのだろう。
「はい。承りました」
「それともうひとつ。三年近く前、貴女にお会いして間もない頃、蒙恬様にはあまり本気にならないほうが良いと忠告致しましたが、あれは撤回させていただきます」
 手籠を両手で抱えながら背を向けようとすると、彼は思い出したように言葉を付け足した。
「? わ、わかりました」
「お二人の時は蒙恬様と呼ばれないようなご関係ならば、もはやお節介は不要でしょうから」
「は……」
 それでは失礼します、と一声かけてから陸仙は詰所へと姿を消した。ぱたんと閉じられた戸口をぼんやりと見つめながら、寒さも忘れてわたしはしばらく驚き呆けていた。
 気づけば空にはおぼろげな白が満ちている。四方を囲まれた内院に徐々に差し込む光はやがてそこここに降り注ぎ、暗がりを掻き消してゆく。
 閑散とした冬の庭に、暁を報ずる鶏鳴が響いた。

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