浮世夢の如し

  十一.不屈の歩み・前編

 始皇五年の幕開けは穏やかなものではなかった。
 昨年より着々と布石を打っていた魏国攻略、秦軍は一瀉千里に小邑を落とし、その勢いが衰えぬまま最終局面ともいえる山陽地方一帯の侵攻へ乗り出してゆく。二十万を超える兵を統べる総大将として据えたのは蒙驁。無論、蒙恬らも早々に同じ地へと出馬した。
 国の根幹を揺るがすような大戦がはじまると、昌平君をはじめとした講師陣は軍議に付くか、或いは戦地へ赴いているため留守にしており、残された生徒らは各々研鑽に励んでいた。
 山陽といえば咸陽から遥か東。斉との国境に近い土地。秦の領土は東方へ広く伸びてはいるが、都から遠いこともあり盤石な統治体制はなされていない。翻って魏国からしてみれば王都・大梁の眼下であるから、こちらには少々不利な条件だ。更にそこで攻城戦を行うとなれば、戦は更に長引くことだろう。短く見積もっても三か月、もしかしたら半年はかかるやもしれない。そう考えると幾分か自由の利くこの貴重な時間を無駄にはできないと考え、思い切って始めようと考えたのが乗馬の練習である。

 かつて趙の武霊王が北方の夷狄から取り入れたとされる胡服射騎の文化は一足飛びに中華全土に広まった。殊に乗馬の技術は前衛的な移動手段として、士族のみならず、多くの人々の生活に深く浸透している。
 亡父、或いは呂不韋という大きな笠の下で、脅威の雨風に当たらぬように育てられてきたわたしには、これまで乗馬を学ぶ機会などまるで無かった。それはそれで特別困ることなどは無かったのだが、いずれ官吏見習いとして戦場を駆け、諜報や伝達等の任務を受けることがあるならば身につけておいて損は無いだろう。
 軍師学校の広大な敷地の中には数棟、厩舎が備えられている。今は戦の最中、殆どは遠方へと連れ出されているようで、がらんどうの舎内に残された馬たちの鼻を鳴らす声や足音が時折物寂しく響いていた。
「すみません。馬を一頭、貸していただけますか」
 外で寝藁を干している使用人に声を掛ける。彼は蓬々と乱れた白髪交じりの鬢を耳にかけながら徐に振り向いた。
「どこかへお出掛けで?」
「いえ、乗馬の練習をしたく。なので、なるべく大人しい馬が良いのですが」
 人生の玄冬に差し掛かっているであろうその男は日に焼けた黒い顔の皺をうんと寄せて、それから芦毛の牡馬を連れてきた。躯体に浮かぶ白のまだらは、彼と並び立つとますます際立つ清らかな美しさである。恰幅は、軍馬としては小さめだ。
 馬の名を「白駘」という。駘とはのろまという意味である。使用人曰く、体が小さい上に走るのも遅く軍馬にも駄馬にも使えずにいたのだそう。しかし気性は穏やかで賢いそうで、女人が初めて馬に乗るには調度良いだろうとのこと。借りられることも滅多に無いから自由にして良いと言われ、わたしは時を移さず、白駘に乗ることを決めた。
「仲良くなってくれるかな」
 背を撫でると珠のような黒い瞳が僅かにこちらを向く。駘という字にはのろまの他に凡才という意味もある。どこか、軍師学校で取り残されているわたしと彼の境遇が似ている気がして、変に愛着が湧いてしまいそうだった。
 蒙恬や楽華隊の面々が容易く身を翻して馬に跨っていた光景を思い返せば乗馬そのものはそう難しい技術ではないだろうと考えていたのだが、それは甚だしい思い違いであった。使用人の手を借り馬に跨ることにはなんとか成功したものの、背筋を張っていることすら難しい。手も足も、何も支えが無い状態である。それから小一時間、じっとしている白駘に跨り独力で体勢を保つことができるようになったところで、晡時を告げる鼓が鳴った。


 それから二月が経った。長けた春の面影も薄れ、生い茂る深緑の朝露に反射する日の光が眩しい。
 構内は相も変わらず静まり返っており、咸陽の街も大戦の行方をじっと見守っているように張り詰めた空気である。
 戦況は軍師学校の生徒ですらつゆいささかも知らされていない。宮城の高官も揃いに揃って箝口結舌。今回の大戦では秦将の度重なる暗殺や、魏へ亡命を果たした廉頗が関わっているとの噂も蔓延っている中、間諜がどこに潜んでいるかも知らぬ外部に情報を洩らすことなどできないという上層部の判断であろう。
 山陽は驥尾を何頭も乗り継いだとしても二十日以上はかかるほど遠い地である。苛烈な戦禍の概況などは一片も感じられない。
 穏やかで、けれども不気味な王都の静寂。胸中に大きな憂慮を抱えたままの毎日に、雲間から降り注ぐ光明のような勝利の報が届いたのは、初夏の四月も半ばに差し掛かった頃だった。
、起きろ! 山陽を陥とした、秦の勝利だ!」
 起き抜けに河了貂の無邪気な声が甲走る。寝惚け眼をこすりながら、手を引かれて向かった先は、積年の屈辱を経て豪傑廉頗を降した総大将蒙驁、その令孫である蒙毅のもと。
「祖父上も兄上も生きているよ。河了貂、君の知人だという三百人将も」
 心労の所為か、こころなしか痩せていた頬を嬉しそうに緩ませながら、兄弟子は安堵の笑みを浮かべる。生きていた。ならば十分だ。未熟なわたしには山陽攻略が中華統一の壮図を成すための要となることなどさほど重要なことではなく、たとえ敗北を喫したとしても大切な人が無事であれば、それだけで良かったと思えただろう。ただ物言わぬ帰還者の列を想像して怖気を震うばかりだった夜が現実にならなかったことに、強張った体がほぐれるような安寧を覚えると同時にわけもなく涙が滲んだ。
 大々的な戦捷祝賀行事の準備が進められる中、昌平君らは先んじて山陽平定に取り掛かっており、武官や軍師認可を受けている生徒らを次々と遠方に派遣する計画を立てていた。蒙恬らも同様、論功行賞の式典で一時的に中央へ戻ってはくるが、その後は広濶な一帯の平定を進めるため再び山陽へ向かうとのこと。戦の爪痕が残った城を堅牢な拠点へと塗り替えるには膨大な時間と数万の人頭が必要となるから、また暫くは戻らないと思われる。せめて労いの挨拶にでも伺いたかったが今回は見送るべきであろう。あの一帯は重要な前進拠点となり得る一方で他国と塁を摩する危殆も併せ持つ地である。奪い返される前に整備を行わなければならず、猶予している場合ではない。

 湯殿には菖蒲の葉が浮いている。
 薄らと立ち昇る白煙に芳しい香りが融けて全身に染み入るようだ。乗馬の練習をしてから体の節々が痛みだすようになって、よく亡父が背や腰を痛めていたのを摩ってやった幼い時分を思い出す。たいして気持ち良くもないであろう子供の按摩に顔をくしゃくしゃにして上手だと笑っていた父の姿を思い浮かべては、長く息を吐きながら薬湯に体を沈める今の自分を比べ、時の流れは斯様に早いものなのだと感傷に浸るなどした。
 対して隣の河了貂はご機嫌な子供さながら頬を緩め、鼻唄までうたっており、石造りの壁に彼女の声がこだましている。というのも彼女の知己である青年が魏戦の功により千人将の位を賜ったのだそう。
 信は――。アイツは――。
 その男の名は信。元下僕。歳はわたしたちより少し上。魏戦では三百人の独立遊軍を率い、敵の主戦力であった中央軍の輪虎という将を討った。それ以外は知らない。
 河了貂はその男の話をしていると、どんな美膳を食すときよりも幸福そうな顔をする。
 羨ましかった。
 明日をも知れぬ身である。彼を暗澹へと引きずり込む穴はそこらじゅうに空いている。運命は風に吹かれ舞う砂のように翻弄され、容易に散ってしまう。わたしもかつて父の死でそれを痛いほど味わった。天涯孤独である河了貂も知らないことはないはずだ。
 それでも決まって彼女は笑う。今は道を別ちながらも互いの為に戦い抜くその間柄は、ありきたりな言葉ではあるが、紛れもない情愛なのだろう。
 翻って同じ感情を掲げ、亜父のためにと軍師学校に入学したわたしは、風の噂で彼の名を耳にするたびにどうも心が鉛のように重たく沈むのである。亜父がその高邁な野望のために王に叛き、国に叛くその様を、変えられぬ無念をひしと感じながら、しかしいずれ彼が弑逆の罪で処されると思うと、やはり止めなければという自分と報いを受けるべきかもしれないという自分が交錯する。
 自分と呂不韋の道は決して交わることはない――、とは気づいていた。
 気づいていながら、見ないふりをした。
 煩雑な感情を思慕や敬愛という言葉で片づけようとした。
 亜父の大望か、或いは道義にもとづく己の信念か。二律背反に圧されながら、しかし双方を追い続けるというのは誠に甘美な夢である。何かに立ち向かうこともせず相反する正義に都合よく身を任せ、障壁にぶつかりそうになれば判じかねて抱え込む。だがそうして待ち受けているのは奈落、無間の闇。そこには何も存在しない。どちらともつかずいずれすべてを失い、得られるものなど無い。ならばその結末から逃れる術は、この惨めで残酷な運命の中で己の矜持をもって抗い、戦い続けることだ。さすればかろうじて選択は与えられる。しかしそれまでの苛烈な苦慮に満ちた年月が、贖われることはないだろうと思うとわたしはどちらも選べず、やはりどちらも捨てきれない。
 …… ……。蒙恬に出逢わなければと思う。
 さすれば、わたしのすべては亜父であった。あの方の仰せのままに嫁ぎ、子を産み、閨閥を広げる道具として生を捧げるのだと疑いもしなかった。
 彼を簡単に切り捨てられぬほど、大切になりすぎたのはいつからか。
。のぼせたか?」
「……ううん。大丈夫」
 河了貂の無垢な瞳が差し向けられる。気が付けば湯殿には濛々と白煙が立ち込めていた。


 この時期には珍しく俄雨が降った。
 しとどに濡れた木々と、先程までの雲翳が嘘のようにからっと晴れた空。雨上がりの匂いに溶ける芳しい花の香。
 論功行賞が執り行われてから半月後。わたしはとある人物を尋ねるべく愛馬の背に跨り、鄙びた田舎道を歩いていた。護衛として遣わされた従者が先を行く。ぬかるんだ地面にくっきりとしたひづめの跡が点々と刻まれていった。白駘は何も指示を出さずとも、それらに足を取られぬよう器用に避けながらまっすぐにその背を追いかける。歩みは変わらず少しばかり遅い。
 木の門戸を叩くと、中から顔馴染みの使用人が顔を出す。「遠方から足をお運びいただきありがとうございます」と淀みなく言葉を紡ぎ、こともなげに案内をするその仕草を見るに、今日まで多くの客人を迎え入れたのだろうと推察する。未だ疲れも癒えぬままであろう。しかしその申し訳なさを差し引いても、やはり直接見舞いに伺うべきだと思った。先の戦で隻腕となった恩人の元を。
 十日ほど前に書信を送りようやく面会の約束を取り付けたものの、訪問まで数日待たされることになった。山陽一帯を席捲した勝利の喜びが薄らいでもなお邸を訪れる客は後を絶たないようである。雨垂れに打たれた百日紅の若い花が地面に散っている石畳の上を、かんかん照りの日の下、僅かに煩わしい眩しさを感じながら一歩ずつ主卧へ歩みを進める。
様。お待ちしておりました。どうぞお入りください」
 額に滲む汗を拭いながら廂の下で涼をとっていると、背後から清冽な低い声が響いた。蒙驁が控える大扉から姿を現したその男は、此の間、主人の身辺の一切を任せられている近衛兵長だ。慇懃で清々しい態度、武人とは思えぬほど洗練された細やかな挙措、その際立つ存在感は思わず見惚れるものがある。
 主卧の奥間、つまり蒙驁が起居する私的な部屋は、普段であれば親族でもない限り通されることはない。しかし隻腕となりひと月あまり、体調も未だ優れないため寝台のあるこの場を客間として解放している。蒙驁はこちらを認めるとその目を優しく細める。慈しみに満ちた表情は以前と何ら変わりない。ただ丸太のような筋骨隆々の、左上肢の先がすっぱりと無くなっていた。なんと痛ましい。
「ご無沙汰しております」
 片膝をつき、手を合わせて挨拶を述べると、蒙驁も右手を折りたたんで胸のあたりに掲げる。
「フォッフォッ。元気でやっているようじゃな」
「本日は貴重なお時間を割いていただいたこと、感謝申し上げます。その、お怪我の具合は」
「心配無用。廉頗と戦って腕の一本や二本、痛くも痒くもないわい」
 と朗らかに笑ってみせるが、幻肢の疼痛に悩まされているらしいと、使用人たちが心配そうに囁いているのを偶然にも耳に入れたばかりである。かつてわたしが見た、白銀の甲冑に身を包んだ勇ましい老将の姿はいまや二回りほど小さく見えた。腕の一本を犠牲にした一方、五体満足の廉頗が引くという形で辛くも雪辱を果たした、その事実を憐れむ眼差しに抗うために強がっているような気がしたのだ。
「軍師学校の方は順調かの?」
「ご存じでしたか。牛歩遅々ではありますが、実力はついております」
「ふむ。良いことじゃ。しかし何かを迷っているように見える。恬か? ……いや、違うな。とすれば呂不韋か」
 不意に耳に飛び込んできた亜父の名に、まるで背に杭が打たれたかのようにぴんと姿勢が張る。この御方はじつに敏い。
「……ご明察恐れ入ります。ただ呂不韋様と何かあったわけではありません。ええ、その軍師学校に入学する際に半分は勘当されたようなものですので。それを後悔しているわけではないのです。わたしはたとえあの方に邪険にされようと、ずっと、心の底でひそかに愛慕を寄せておりました。なんといっても命を救っていただいたのですから。ただ、その」
 言い淀んだ。自らの言葉で、呂不韋へ抱いていたはずの愛慕の翳りを形にすることを恐れた。胸中に押し留めておけば、それは傍から見れば恩人である亜父を心より尊敬する美しい感情であったはずだ。その殻をおのずから打ち砕くというのは、すなわち「恩義に報いる」という己の支柱を根本からへし折ること、それまでの自身を否定することに等しい。しかし。蒙驁の穏やかな口調、全てを包み込むような慈愛に満ちた表情に促され、結局は吐露してしまった。
「貴方様が、蒙恬様や蒙毅様にそう感じるように、きっと愛する人を想うと自然と笑顔が溢れるものなのでしょう。しかしわたしは呂不韋様を想っても、どこか漠然とした恐れしか湧いてこないことに気付いて、ふたたび道を見失ってしまったようで。このままでは根無し草になってしまうかもしれないと思うと不安で」
 わたしには呂不韋の他、頼れる人はいない。父の従者たちは、唯一の身内を失った悲しみに打ちひしがれているあいだ、忽然と姿を消してしまった。友人と呼んではばからぬ人物はそう多くなく、皆が皆その才腕に相応しい立派な道を歩んでいる。わたしのために立ち止まらせるわけにもいかない。となると、やはりわたしは亜父への名状し難い複雑な感情に縋るほか手段が無く、それを美しい献身的な孝心と信ずることで正当化しようとしていたのである。しかし蒙驁はそんな考えをも見抜いたように、言葉を返す。
「おぬしはまだ若い。無理に人生の指針を定めずとも、十年、二十年は根を張らず、なすがままに生きていればおのずと大切なものは見つかるだろう。恩義に報いることばかり考えていると、いずれその支えを失ったときに、何も残らなくなってしまう」
「それは呂不韋様のことを切り捨てるべきとのご助言でしょうか?」
「ちとばかり離れてみるだけじゃよ。そう思い詰めるでない」
 それは亜父を絶対的なものであると考えていたわたしにとって予想外の答えであった。離れてみたとして、自分は何を支えに生きれば良いのか。十年、二十年で、わたしは心の底から大切にしたいと思えるものを見つけられるのだろうか。
 しかしその問いを蒙驁に投げかけることは叶わなかった。
「大殿様。そろそろ」
「うむ」
 低い声が部屋に響く。あまり長居をしすぎるわけにはいかない。蒙驁の体調を案ずるのもさることながら、背後に控えていた近衛兵長の視線がいやに刺さるのである。蒙驁の部下は、揃いも揃って主人の前では慇懃な態度を崩すことはないが、眼底には獰猛な虎を飼っている。この男も例外ではない。
「長らくお邪魔致しました。どうぞお大事になさってください」
「――。時には何もかもを忘れ、逃げることも必要じゃ。それは決して弱さではない。ゆっくりで良い、一歩ずつ、強い意志を持ってしかと歩みを進めれば、いずれおぬしの想いは実を結ぶ」
「は、はい。ありがとう存じます」
 先を歩き始める近衛兵長の退室を急かすような圧に押されていたわたしには、投げかけられた言葉は綿雲のように曖昧な記憶となって脳裏の奥底に流れ込んでしまった。ただ振り向きざまに捉えた蒙驁の白い顔に浮かぶ表情が、まるで己の役目は終わったのだと言わんばかりに儚げなもので。それがやけに瞼に焼き付いて離れない。
 雨上がりの大地に、遠慮もなく燦燦と降り注ぐ太陽。外はまるで蒸し風呂のようにじっとりと皮膚にまとわりつくような暑さである。石畳に、まだら模様となっていたはずの水溜まりはいつのまにか干上がっていた。
 栗毛や鹿毛の屈強な軍馬たちが、みな日陰に集まって涼んでいる厩舎に、輪に混じらずに邸から出てくる人間を目で追いかけている騅が一頭。その華奢な体格に加え、季節外れの牡丹雪のような涼しさをそなえた容貌はよく目立つ。
「寂しい思いをさせてごめん。さあ学校に戻ろうか」
 二、三度撫でてやってから、その背に跨り、従者を連れて邸を出た。歩みは相変わらず遅い。少し先を行く従者が時折こちらの様子を窺いながら、しばし歩みを止めたり、歩幅を合わせたりしている。愛馬は彼らを気にするそぶりもなく、泥濘を避けながら一歩ずつ丁寧に歩みを進めている。昼行灯というか、能天気というか。そのような言葉が浮かび上がる傍ら、そういえばこの馬は、わたしを振り落としたことはおろか気を荒げたことも指示を無視することも一度も無かったと、ふと気づいた。

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