浮世夢の如し

  十一.不屈の歩み・後編

 山陽一帯の平定は着々と進められている。軍師学校では遠方から戻ってきた官吏たちの戦捷祝賀の酒宴が数日続いたが、その賑やかな時間も束の間、帰還したばかりの彼らは一帯の平定のために蜻蛉返りすることとなった。更には軍師認可を取得している生徒までも次々に山陽地方へと送られてゆき、日を追うごとに学舎は再び静まり返ってゆく。
 そのような中、蒙毅も微子という小城へ向かうことになる。先の大戦では総大将に据えられた白亀西が討死、廉頗が和睦を申し入れたことで秦の勝利となったが、魏兵の中には趙から亡命してきた廉頗の、好敵手への情けとも捉えられかねない敗北宣言に反感を抱いている者もおり、未だに小競り合いが続いているらしい。奪取した城を守るためにも兵士たちを取り纏める軍師は必要不可欠であるが、如何せん山陽一帯は広大無辺であるため、蒙毅ら軍師見習いにも御鉢が回ってきたというわけだ。
 兄弟子らが総じて出払った学舎は閑散としている。大広間に集う人影もまばらで、軍事評論に気炎を上げていた熱意溢れる門下生たちの姿はそこには無い。
 わたしは河了貂と碁盤を挟み対峙していた。彼女は数か月前に特別軍師認可を取得し、いまや軍略囲碁で対等に戦える人物はほんの一握り。一方で実戦経験が皆無なわたしは、数ある科目の中でも殊に軍略の腕は伸び悩んでおり、成績は中の下といったところ。
「右軍二百を南東の森に埋伏。中央軍五百を残し一旦撤退させ本営を固めます」
「この条件下の砦戦の場合は日を追うごとに寄手が不利となる。相手に回復の隙を与えるのは悪手だ。ならば中央軍が陽動を行い、右軍を伏兵として迂回させ攻めるか、或いは中央を薄く左右二軍を厚く編成して総攻撃を仕掛けたほうが勝機はある」
 パチ、パチと駒を置く音が広い天井にこだまする。河了貂の成長は留まることを知らない。与えられた規則と知識を状況に合わせて上手く織り交ぜ、奇を衒うようなことはせず、手本のような美しい戦法を用いる。圧されようと自棄にならず、毅然と最善を模索する精神力。そして何より幼少の頃より培われた粘り強さと忍耐力が、勝利への筋書きを描き出していた。
「やはり介億先生のおっしゃる通り、わたしには軍略は向いていないのでしょうね。どうしても上手にいきません」
「うーん。他の科目は優秀だし応用する力は充分に備わっていると思う。まずは五手以上の先読みと、発想力。あと行き詰ったからといって戦略を無理に変えるのは止した方が良い。まずは自分が得意な戦法ではじめて、相手側の対策傾向を探り、こちらもそれに合わせた動きをいくつか用意しておくのが良いかも」
「参考にします。ありがとう」
 そうしていると唐突に、瓦の歩廊を悍馬のように走る音がこちらに近づいてきた。随分と慌ただしい様子である。やがて足音の主は大広間の扉を勢い良く開け放った。額や首に汗を滲ませ、息を切らしながらそこに立っていたのは、朝に微子城へ向けて旅立ったはずの蒙毅。数刻前たしかに別れの挨拶を済ませたはずだが――。
「蒙毅?」
 時を同じくして気付いた河了貂が名をぽつりと呟く。すると彼はハッとしてこちらを……正確には河了貂の姿を見るなり、僅かに笑顔を浮かべ、乱れた息を整えながら歩み寄ってきた。
「河了貂、それに。良かった」
「どうしたんだ、忘れ物か?」
「いや少し困ったことになってね。微子へ向かう道中、兄上から書簡が届いたんだけど――」
 と言いながら蒙毅はやおら荷を下ろし、一通の書簡を取り出す。そこにはやや走り書きながら端正で堂々とした文字が並んでいた。紛れも無く蒙恬の筆致であるとその一瞬で判るほど変わらず品格高く美しい。内容は非常に短く端的にまとまっており、蒙毅に飛信隊という独立遊軍の軍師を務めて欲しいという旨が書かれていた。飛信隊といえば河了貂の知人である信という男が率いる部隊であるが、身内でもない彼らのために自らの弟を推薦するとは、おおよそ特別な事情があったに違いない。ましてやこうして直々に急使を遣わすところをみるに余程の事態であると窺える。
 書簡を覗き込むわたしたちの背後で、蒙毅は自らが置かれた状況をやや口早に説明する。要約すれば先程の仮説は概ね事実通りであり、飛信隊の現状はかなり緊迫しているらしい。魏戦後わけあって副長兼参謀が離脱してしまい、統率を失った彼らは瞬く間に烏合の衆となってしまった。向こう見ずで自滅的な戦を繰り返してばかりの隊は相当酷い有様で、喫緊に軍師を配備しなければすぐに壊滅してしまうだろうとの蒙恬の見立てでわざわざ蒙毅に要請があったというわけだが。
「知っての通り僕には微子での任務がある。彼らには申し訳ないが、軍総司令官である先生からの指令は、何よりも優先しなければならない」
 蒙毅は心苦しそうに眉を顰めて、河了貂に視線を向ける。
「しかし飛信隊をこのまま見殺しにするわけにもいかない。そこで、だ。僕としては河了貂に代理を任せたいと考えている」
「……お、オレが?」
「うん。飛信隊の軍師として彼らの窮地を救ってほしい」
「ま、待って! 信たちのところに戻れるのは嬉しいけれど、許可無く学校を離れるわけにはいかないし、そもそもオレは軍師としての実戦経験を積んでもいないんだ。そんな唐突に言われても」
「先生からは特別軍師認可を貰っているだろう。それに……憔悴した彼らが命運を預けるに値する軍師には、部外者の僕ではなく君が適任だと踏んでいる」
 古巣に戻ることができる嬉しさと、軍師として初めて戦場に立つ不安との挟間で、河了貂はしばし口元に手を当てて逡巡しているようだった。しかしすぐに答えは出ない。葛藤する彼女の背を押すように、蒙毅はパンと手を叩いてその静寂を打ち破った。
「躊躇している暇は無い。飛信隊のいる里井は山陽の東。駿驥でも半月はかかるだろう。手遅れになる前にすぐに旅支度をするんだ」
「う…………わ、分かった! やってやる。、半端で悪い。オレ、行ってくるから!」
 覚悟を決めたのか、或いは吹っ切れたのか。堂々とそう宣言した河了貂は背を向けて、弾かれたかのように門下生の宿舎へと駆け足で向かっていった。二人の会話を、どこか別の世界の出来事のようにぼんやりと聞いていたわたしの視界に、気が付けば蒙毅の顔が大きく映し出されていた。その表情には憂いが晴れた後の安堵が滲んでいる。

「は、はい」
「君には本来であれば河了貂に与えられるはずだった任務を振るように、先生に連絡しておく。初歩的だが重要なものばかりだ。もしかしたら身の危険も伴うかもしれない。くれぐれも気を抜かずに。僕たちが不在の間、宜しく頼んだよ」
「かしこまりました。蒙毅様もどうかお気をつけて」
「ありがとう」
 かくして二人は山陽へと旅立ち、わたしは軍師学校でひとり研鑽を積みながら昌平君からの指示を待つ日々が続く。たまに与えられる傭書の仕事以外に、何も命じられることはない。

 そうして寂しく、怖いほど穏やかに過ぎたひと月。
 そのうちに河了貂が無事に飛信隊を立て直し、楽華隊らと共に山陽一帯平定に貢献したとの報が届く。直ちに中央から昌平君と李斯が山陽城へと赴き、呼称を東郡と改めることを宣言。秦領の郡のひとつとして正式に中央が直接的な支配を行うことを明白にした。これによりますます強固となった秦の領土拡大に、対して周辺国は攻撃の手を休めることはなく、むしろ対立は激化してゆくこととなる。
 一方で王都・咸陽。大勝を収めた先の戦で宮城は落ち着きを取り戻したかと思いきや、一難去ってまた一難。次なる問題が浮上した。この国の内情は嬴政の即位から五年が経った現在でもじつに不安定である。まずは着々と力をつけている嬴政を支持する者。それから数年前の反乱で勢力は弱まったが未だに命脈を保ち、機を待っている王弟の一派。後宮に身を潜めている太后の存在。そしてもうひとつ。高官を何千と囲い、名家の強大な権力を次々と取り込んでいる一大勢力。自身の養父である呂不韋とその臣下。彼らがいかに狡猾であるか努々忘れてはならない。自らの手を汚さず、しかし堂々と弑逆を企ててみせるこの男が、魏戦の混乱に乗じて何かしらの手を打たないはずがないのである。
 亜父が奸偽やひがごとで王侯の地位をおびやかし、その名を馳せるたび、わたしは身の毛がよだつ思いであった。いつか彼に恨みを抱いた多くの人間たちが一矢報いようと兵を挙げ、想像するだに恐ろしい最期を迎える未来がじりじりとにじり寄ってくるような気がしたのだ。心の底では、密かに、もう十分なほどの富も地位もあるのだから、これ以上敵を作らずに洛邑で静かに余生を過ごすのが最善であろうと、そう思っていたりもしたが。
 しかし呂不韋という男はいつ何時も、わたしのような凡人が考え得る想像の域をはるかに超えてくる。
 東郡が設置されて暫く経ったのち、咸陽では呂不韋が相国という位に就いた。相国というのは丞相よりも更に特別な、つまり廷臣における例外的な最高位。次いで空白となった丞相の席には昌文君と昌平君が任ぜられている。あろうことか呂不韋は権力に権力を重ね、敵を排する道を選んだのだ。
 こうした比類なき栄耀栄華を突き進む中で、ほんの僅かな間、呂不韋に太后との不義の噂が囁かれた。一介の商人の地位から相国に登り詰めた裏には、そのような縁故が働いている可能性が大いにあるだろうと。しかし、いまやその噂は嘘のようにぱったりと止んでしまった。唯一無二の権威を手に入れた呂不韋に、己にとって不都合な事実をもみ消すことなど造作無いことである。もはやそれらの真贋を確かめることができる者は誰一人としていないだろう。それがたとえ、この国の王であったとしても――。

 河了貂の代理として初めて賜った任は伝令。溜まりに溜まった御史府の監察事務と王宮で開かれる軍議に忙しく、暫し咸陽を離れられない昌平君の言伝を預かり、東郡の本営や各邑に据えられている軍師らに届けるというものだ。内容はごく単純なものであるが、秦領とはいえ未だ他国との戦は絶えず完全なる統御には未だ程遠い東郡は、身の危険が及ぶ可能性はおおいにある。
 わたしは胡服に重厚な甲冑をまとい、腰に剣を携えた。以前、護身用にと蒙毅から受け取ったものだ。刀身が薄く、力の無い女性でも扱えるほど軽いが切れ味は鋭い。もっとも、武器の扱いを学んでいない自分にとっては、これは飾り物である。万が一、敵兵から襲われるようなことがあれば、隣に控える護衛の撃刺が飛ぶであろう。

 駄馬にもならないといわれていたほど細身で小柄な愛馬・白駘は見かけによらない辛抱強さで、東郡までの道程をすんなりと走り抜けた。山陽城に構えた本営に数日滞在して業務をこなし、各邑を巡ったあと、最後に訪れたのが魏との国境が近い東金城である。当初この城を訪問する予定は無かったが、どうやら河了貂らがここに滞在しているらしく、彼女への挨拶がてら飛信隊の信という噂に名高い男を一目見ようという魂胆で寄り道をすることに決めた。
様。わたくしは宿を手配致しますゆえ、ここで一旦失礼致します。くれぐれも魏人には近づきませぬよう」
「ええ」
「内城に楽華隊が逗留しているらしいですから、何かあれば彼らを頼ってください」
 広い城郭で手がかりも無いまま飛信隊を捜そうとしていたところ、思いもよらぬ耳寄り情報を手に入れたわたしは、さっそく内城へと馬を走らせる。秦の領土とはいえ往来はその殆どが魏人であるようだった。話す言葉、恰好、振る舞い、その風俗は秦人とは違う色を放っている。陥落した城の人間は皆殺し、或いは奴隷として使役されることも珍しくないが、ここ東金城ではそうではないようだ。魏の華々しく開明的な文化は、そこらを闊歩する武骨な秦兵と対比するとますます際立ち、城を鮮やかに彩っていた。
 たった数か月前までは敵国の城であったということもあってか内城は物々しい警備である。堅牢な石造りの正門には屈強な兵が二人。物見楼にも見張りが控えている。彼らの身形は楽華隊のものであるが、見ない顔だ。岩のように盛り上がった隆々な四肢、睨み殺せそうなほど苛辣な視線。異様なほど剣呑な雰囲気は、蒙恬が作り出すそれとはまるで似つかない。おおかた蒙武軍から派遣されてきたものと見受けられる。躊躇したが、しかし誰かを頼らずして飛信隊を見つけだそうとするのは非常に効率が悪い。意を決し身を縮めながら正門へと近づいた、その刹那、兵士たちが横たえていた長戈を構え、刃の先を眼前に振り下ろした。
 
 いつのまにやら、わたしは見上げるような背丈の大男に囲まれていた。
 既に退路は断たれており、不審な受け答えをすればすぐに首が飛んでもおかしくない焦眉の気急に陥ってしまったようだと気づく。
「何者だ」
「咸陽の軍師学校から参りました。と申します」
「ならば身分を証明するものを出せ」
 そう言われてハッとする。荷物は全て宿を手配しに行った護衛に預けてしまっており、身軽な格好のままここまでのこのこと歩いてきてしまったのであった。当然差し出せるものなど何もなく。
「すみません。旅券でしたら先程別れた護衛が持っています。一度失礼してもよろしいですか」
「疑われたからと逃げるつもりか。やはり怪しいな」
「わたしは決して怪しい者などでは」
 熱がこもった甲冑の下でじっとりと汗ばんだ背を漣のような震えが走る。眩惑的な恐怖に脅かされながら、絞り出した声は掠れていた。門戸の助柱に繋がれた白駘を見遣ると、彼もまたこころなしか心配そうにこちらを見つめている。
(かなり疑われている……どうするべきか)
 ひとまず自分が何者であるかを証明しなければと、普段であれば自ら口にすることはない養父・呂不韋や実父の名を出してはみたものの、この僻地に秦国で最も財を成した権威ある廷臣の養女を名乗る人物が現れた事実を素直に聞き入れてくれるわけがなく、むしろ胡散臭いと思われるのが当然である。またしても己の失態に頭を抱えたくなったが、時すでに遅くますます彼らの疑念を深める結果となってしまった。
「相国の養女とやらがそのような物騒な恰好でここにおるわけがなかろうが。加えて今日は本営から客人が来る予定は無いと聞いている。よくもまあそんな大層な嘘がつけたものだ。何が目的だ」
「いえその、飛信隊の居場所を教えていただきたく。または蒙恬様に会わせていただければ、面識がございますので身の潔白は証明できるかと」
「ほほう。さては女の間諜を送り込んで蒙恬様を油断させようという魏人のずさんな策略だろう。残念ながらそうはいくまい、貴様のような胡乱者は今月で十人は殺している」
 迂闊であった。未だ緊張の解けない彼らに、己の身分を証明するものを何一つ持ち合わせないまま主の所在を訊くというのはあまりに軽率だ。じりじりと迫る矛先。しかし疚しいことは何も無いという意思表示のためにも眦だけはしっかりと見開き、決して逸らさず、何かこの状況を打開する術はないかと必死に思案する。そして、ひとつ閃いた。
「……疑われるのであれば致し方ありません。わたしの腹には大きな傷があります。蒙恬様と副長のお二方、それから蒙家の限られた人物しか知らないものです。わたしの名前と、傷のことをお伝えすれば必ず分かってくださる」
「おい。貴様なにを」
「どうしても信じていただけないのならば、あなた方の目でこの傷を確認してくださいませ」
 説得だけでは手詰まりであった。最終手段として考え着いたのが、腹に走った切創を――わたしがであるという確たる証拠を提示する手段だ。人前で肌をさらすというのは、みっともないことだが、しかしこのまま魏の間諜として疑われ無実の罪を着せられるのだと思うと背に腹は代えられない。甲冑を脱ぎ、胡服の盤釦を上からひとつずつ外してゆく。まさか衆目の中で服を脱ぎだすとは思いもしなかったであろう、兵士たちの石のように固かった表情はみるみるうちに崩れ、それはそれは面白いほどの慌てぶりであったが、かく言うわたしもこの場を切り抜けることに必死だったから気にする余裕もなかった。そのうち騒ぎを聞きつけたらしい他の兵士らに呼ばれてか、人ひとりがやっと通れるほどの僅かな門扉の隙間から蒙恬がひょっこりと顔を出した。
「なんだか騒がしいな」
 やれやれと言うように露骨に面倒臭そうな表情でこちらを見つめる彼を見て、わたしは暫し呆然としてから少しの冷静さを取り戻し、はだけていた襟元を両手で掴むように強く抑えた。しでかした事態に羞恥がむくむくと湧いてきて、頬が燃えるように熱を持つ。
「この怪しげな女が若君へ面会を申し込んできたもので詮議立てを」
「ふうん。俺に?」
 背を丸めて俯くわたしの顔を、蒙恬は首を傾げて怪訝そうに覗き込む。
「あれ……
「ご無沙汰しております」
「なにこの恰好。どうしてここに?」
 蒙恬は琥珀色の瞳を何度かしばたいて驚きを露わにしながらも、やがて相好を崩し、甘く蕩けそうな笑みを浮かべた。それから何やら興味深そうに、吏務に順ずるわたしの胡服と甲冑を眺めたり、うなじの上でひとつに結び腰のあたりまで長く垂らした髪を摘まんで弄んだりしている。そんな蒙恬と背後から刺さる屈強な兵士たちの視線に板挟みにされて居た堪れなさを感じていると、兵の一人が困った様子でこちらに歩み寄った。
「お知り合いで?」
「この方は相国の養女殿だ。いまはわけあって軍師学校に身を寄せているけれど」
「! まことでしたか。それは大変失礼致しました」
 どうやら誤解は解けたらしい。とはいえ戦禍の残痕が目立つこの時期に丞相の養女と名乗る怪しい風采の女が単身で押しかけてきて疑うなというのも無理な話だ。わたしは彼らに申し訳なさを感じ、静かにこうべを下げた。
「とりあえず中に入ろう。うちの隊の者が手荒な真似をして悪かった」
「いえこちらこそご迷惑をお掛け致しました」
 この頃その肢体や表情の逞しさにますます青年らしい色香を纏うようになった蒙恬だが、暮らしぶりはまるで変っていないようで、内城に構えた軍議室に戻るやいなや適当な酒瓶と杯を取り出した。
「こんな昼間からお酒ですか?」
「警備や偵察だけだからあまりやることがなくてね」
 その警備は元蒙武兵に、偵察は陸仙の部隊に丸ごと任せている、と蒙恬は悪びれる様子もなく付け加えた。
「まあ俺のことはどうでも良いとして、問題は君がどうしてここにそんな恰好で来ているのかということだ」
 元は城主一族の寝室であっただろうこの部屋。透かし彫りの天蓋がついた立派な牀榻に、玉座さながらに堂々と身を預けた彼は、片手にした杯を口に運びながら険しい顔をする。
「河了貂が受け持つはずであった任務を代わりにこなしておりました。東郡本営と各邑への伝達です。この城には用事はありませんが、せっかく近くを通りがかったので河了貂のいる飛信隊に挨拶でもしようかと」
「君が伝達をしなければならないほど人員はひっ迫しているのか。それは仕方が無いとしてもう少し警戒すべきだ。護衛はどうした」
「宿を手配しに……」
「次からはなるべく行動を共にするように。秦領とはいえ見ての通り、ここにいる人間の半数以上は魏人だ。無抵抗な一般市民の殺戮や略奪は禁じ、その生活を脅かさないよう努めよとじーちゃんからの命令だからね。だが和平が保たれているわけでもない、いつ敵方がこの城を奪い返そうとしてくるか判らない以上、みな気が立っている」
 特にさっきの人たちは。と苦い笑みを浮かべる彼を見て、他の兵士たちと区別をつけているような口振りをするあたり、やはりわたしの読みは当たっていたらしい。
「先程の方々は蒙武様の麾下ですよね」
「元はね。今は楽華隊に所属しているよ」
「隊員の入れ替えでもなさったのですか? 正月にお会いした方々とは顔ぶれが随分と変わっている気がします」
「三百人隊から千人隊になったから見ない顔も多いだろう」
 楽華隊の雰囲気といえば柔和で、若君の愉快な我儘に振り回される大勢の保護者という絵面であったが、いまはまるで違う。蒙恬の周囲に控える兵は以前との温度差が寂しいほど鋭い刃のような理知的な表情で、そのうえ武人としての威圧も醸し出している、高貴な家柄の嫡男とその群臣たちという厳かな品格が漂っていた。
「まあ。蒙驁様よりついにお許しが出たのですね」
「ようやくね。もとより千人隊を組むために計画的に練兵を進めていたんだけど、それでも人頭が足りなくて父上のところから何人か派遣されてきた」
「離隊されたのですか?」
「いや。魏戦でかなり犠牲になった」
「すみません」
「大丈夫だよ。別に隠すようなことでもないし」
「はい……」
「なんでの方が湿っぽくなってるのさ」
 蒙恬はわたしを慰めるように片笑む。それからつと酒杯を置いて、改めてこちらに体ごと向き直ると本題と言わんばかりに切り出した。
「ところで俺を訪ねた理由は?」
「そうでした。飛信隊の居場所をお聞きしたかったのです。挨拶に伺いたいのですが土地勘のない場所で、自力で探すのは困難かと思いまして」
「飛信隊なら東壁の守護を任されている。一緒に行こう、俺もそろそろ信と情報を共有したいところだ」
「情報?」
「ああ。どうも敵方が不穏な動きをしているようだから」
 蒙恬は手に持っていた酒を一気に喉に流し込んで、腰を上げた。
 東金城の規模は一帯の中でも目立つほどではないが、防禦設備は重厚である。城壁は高く厚く、辺りを一望できる望楼が四辺に設置され、さらに城に肉迫する敵兵を一網打尽にする射撃台や投石を格納する諸設備なども万全だ。
 馬を走らせて東壁の下まで乗りつけ、壁に沿って走る石階段を時折蒙恬の手を借りながら昇り切ると、視界一面に広がるは深い森と地平線の彼方まで続く空。澄明な空気が肺腑に染み入るように満ちる。その景色の中央に、こちらに背を向けて立つひとりの青年の姿があった。
「よー、信。なにか面白い動きはあった?」
 蒙恬が爽やかに声をかけると、信と呼ばれた男はゆっくりと振り向く。
「蒙恬か。あれからはなんもねえよ」
 その風采はお世辞にも良いとはいえない。袖が破り取られた襤褸の服に、使い古されて汚れの目立つ藁の履。無造作にまとめられた髪は跳ねている。しかし不思議と嫌悪感は抱かない。武人でありながら防具のひとつも身につけていない奇抜な男は、しばし蒙恬と言葉を交わしたのち、わたしに視線を移した。怪訝そうな表情で。
「そいつは?」
「こらこら。初対面の人にそいつなんて言っちゃ駄目だよ。この子はすんごくえらーい人の娘さんで俺よりもずっと高貴な身分なんだから」
 河了貂がそうであったように、信もきっと呂不韋に対し厭忌の情を抱いているのだろう。蒙恬がわざとらしくわたしの身分を濁してそう説明する。
「はじめまして信千人将。と申します。河了貂には軍師学校でお世話になりました」
「そういやテンがそんなこと言ってたな」
 それまでこちらをあからさまに警戒しているように唇を尖らせ、微笑みのひとつも見せない信であったが、千人将という単語に僅かに反応して口元を緩めたのを見逃さなかった。戦争孤児の元下僕と聞いていたから、自分のような人間は毛嫌いされているのだろうかと不安を感じていたが、実際彼はそこまで気難しい人間ではないようだ。
「ところでお前らはどういう関係なんだ?」
「気になる? 俺たちの深い関係は、まあ話せば長くなるんだけど――」
「ただの友人です」
 余計な誤解を与えかねない蒙恬の言葉を遮るように冷たく言い放つと、信は蒙恬を小馬鹿にするようにぷっと笑った。まるで無垢な少年を想起させる。感情を隠さず、分相応の振る舞いも格好も望まない、悪い言い方をすれば精神的に未熟だと捉えられるだろうその姿。しかし微賤の身分から千人を統べる将にまで上り詰めるその道中で、幾度となく汚い人間の身勝手で残忍な狡知に触れてきたはずなのに。それでも一点曇り無きその眼は、その狡知とやらに打ち負けてなすすべなく翻弄された自分にとっては、あまりにも眩しくて仕方ない。

 足元から吹き上げる風が束ねた長い髪を舞わせ、うなじを撫でる。蒙恬曰くなよやかで頼りないこの体は、城壁の高く積み上げられた石の階段を昇るたびに鈍く軋んだ。
「信千人将」
 寸分の狂いもない巨大なさしがたの、石壁の一辺。今日も彼はここに居た。見つめる先は遠く果てまで続く森。風が吹けば木々は波立ってざわめき、川面を跳ねる鯔さながら鳥たちの黒い影が飛び立つ。何ら代わり映えの無い景色だ。彼は何を見ようとしているのか、或いは何かが見えているのか。
「よう。今日はひとりか?」
「はい。蒙恬様はもう夕餉を済ませて魏軍の動向を探りに行かれましたので。……あの、明朝に咸陽へ発ちますのでご挨拶に伺いました」
「わざわざごくろーさん」
 東金城に到着してから早や三日目。本来の目的であった河了貂への挨拶も済ませ、あとは咸陽へと発つ準備を整えるのみとなった。
 信の背後に僅かに距離を取って立ち、東金城東壁からの景色を眺める。思えばこのような高い場所に登ったことなど無かったかもしれない。少なくとも記憶にあるうちでは。
 呂不韋の邸も、別邸とはいえ咸陽の宮殿が一望できるくらいの高さはあったが、それよりもずっと空に近い場所にいる。彼の傍に居ては決して届くことの無かった景色がいま眼前に広がっていた。それを存分に見つめ続けても咎められることも無いまでに、自由になったのだと実感した時、わたしは呪縛をまたひとつ断ち切った気持ちになった。しかし亜父との距離を置くということは、それだけ孤独に近づくということ。得てしてわたしは正しい道を選んだのだろうかと、自問自答する。
「──なあ。あんた偉い身分なんだろ」
 藪から棒に信がそう言った。
「どちらかといえばそうなります」
「非力そうな女が、一体何の為に戦ってるんだ」
 一瞬、返答に窮した。しかしすぐに、この場で呂不韋の養女としての品格を損なわないように取り繕う行為は、信の前ではまったくの無意味であることを思い出す。信頼関係が十分に築かれていない段階で、呂不韋の関係者、ましてや身内であると明かしてしまえば、彼はわたしを酷く嫌うであろう。勿論、呂不韋とは価値観も考え方も違う一人の人間であることは理解してくれようが、しかし養父たる彼が信たちを脅かしたその事実は、理性だけでは制御できない負の感情の根底に深く根付いているだろうから。
「気になりますか?」
「少しな」
「左様でございますか」
 細い息をつく。
「わたしは大切な方への恩義に自分なりのやり方で報いる為に軍師学校に入学しました。……とは表向きに言っていますが、結局なんだかんだ理由をつけて家の環境や閨閥の道具という役目から逃げたも同然です。もっと大層な夢を持っていれば話も弾みましょうが、つまらない動機ですよ」
「ケーバツ?」
「その家の女子に他家との婚姻関係を結ばせることによって勢力を拡大することです」
「政略結婚ってことか?」
「そうですね」
 もっとも逃げ切ることができたわけではないが、いまこの時間は、自分に与えられた束の間の猶予である。
 世の貴人であれば顔も知らぬ相手と家の為に結婚するというのはごく一般的。それごときで逃げ出したとは聞こえが悪いが事実は事実。一度目の結婚で善良な元夫の人生を狂わせてしまった罪悪感、一転して冷や飯食いの待遇となった呂不韋邸での生活、そしてその呂不韋がまったくもって期待していないわたしへいずれ押し付けてくるであろう二度目の縁談。それらを考えると、すべてを甘んじて受け入れる強さなどわたしには無かった。
「お嬢様も大変だな」
「貴方に比べればそれほどでもないでしょう。ただそれ以上の、本物の地獄を知らないわたしにとっては、何処の誰かも分からぬ異国の者と結婚させられ、それまでの全ての人と永別することは辛く苦しいことなのです」
「あまり無茶すると蒙恬が心配するぞ」
「軍師学校に推薦してくれたのは彼ですよ」
「へえ。アイツが女に危なっかし真似させるなんてな」
「まったくの逆です。蒙恬様はわたしを守ろうとしてくださった」
 ただ蒙恬にとって、わたしを呂不韋に囚われたあの環境から引き離すことだけが目的であったとしたら、それにしては深い場所にまで足を踏み入れようとしている今の姿を見て何と思うか。
「まあいい。ただ引き返すなら今のうちだ。これからオマエの言う本物の地獄ってやつが絶対にやってくる。どこかに嫁に行ってまったり生きていけるなら、そうしたほうが良かったと後悔するくらいのな」
 その冷徹な言葉は決して脅しなどではない。いずれ戦に身を投ずる意志を持つにしてはあまりにも頼りないこの身を彼なりに案じてくれているのだろう。湖面に浮かぶ月のように、おぼろげに浮世を漂い、実の無いその生を終えるのは簡単だ。しかしたったの一度でも己の欲のために他人の生涯を犠牲にすると、その恨みは巡り、積み重なり、やがて因果は膨れ上がって牙をむく。果たして真っ当な死を迎えることなどできようか。ましてや覚悟もままならない人間が。
 信はわたしの本質を見抜いている。
「軍師見習いっていったら、もう少しでテンみたいに戦に携わることになるんだろう。だったらちょうど、戦力として駆り出される可能性は大いにある。……後悔だけはするなよ」
「はい」
 再び遠くに聳える青い山々に視線を移す信。変わらず長閑な景色が映し出されるその澄んだ双眸には、やはり見えていたのかもしれない。既に秦国へ向けて放たれていた一筋の嚆矢。それはまるで底無しの暗澹のように、やがて秦国を深い絶望に包み込む。厳粛で無慈悲な死が交錯する、中華全土を巻き込む大戦の幕開けとなる。


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