東金城を発ち十日ほどが経った。ここは函谷関に近い秦領中枢の邑で、軍師学校までの中継地点。
暫しの休憩を取ろうとやってきたこの場所で、わたしは奇妙なものを見た。内城の二階建ての望楼。そこから鴿らしきものが飛ばされている。一羽……また一羽。霞みがかる空に、次第に点となって消えゆく影。遣わされる先は王都咸陽か。どうやら何かしらの機密情報を伝達しているらしい。それも膨大な。
東郡もとい山陽攻略から早や半年が過ぎようとしていた。始皇六年。戦に明け暮れ、多くの血が流れた旧年を思うと、今年こそは穏やかな年であるようにと願わずにはいられない。しかし戦の世界に足を踏み入れ、世の趨勢に多少敏くなったわたしには、この安寧は長くは続かないだろうという予感があった。
昭王の時代から着々と国力を増強させている秦は、領地を広げ、幾万の人間を奴隷として使役させ、その勢いは留まることを知らない。七雄の均衡は自国に傾いているのは自明の理である。この現状を食い止めんと、他国が手を打たぬはずがないだろう。それほど山陽という土地は大きな戦果であった。
しかし、それにしては異様とも言える静けさだ。まるで示し合わせているかのように、どの国も大きな動きを見せない。そしてその静けさが続けば続くほど、胸中には言い表せぬ不安が渦巻くようになった。
悪い予感が現実のものとなる前兆は数日と経たぬうちに起こった。それはちょうど長きにわたる伝令の任務を終え、慣れ親しんだ軍師学校の宿舎へと戻った日のこと。ひとまず昌平君に任務の完了を報告しようと姿を捜したがどこにもない。席を外すこと自体はさして珍しいことではないのだが、代理の御史に任務の報告をした折、もう五日は戻っていないと聞いた。五日となれば、これは滅多に無いことである。彼は秦軍総司令にして百官の監督を務める御史大夫という忙しい身でありながらも、若い軍師の教育に注ぐ情熱は惜しまない人だ。丞相になってからは中央で政務をこなすことも増えたが、それでも普段は軍師学校や併設された官署の執務室で過ごしていることが多かったはず。
「火急の事態であるとか」
「さあ。私共は何も知らされておりませんゆえ、ただ御多忙なだけではないかと」
そのような会話をしている横で、つと開け放たれた窓から一羽の鴿が飛び込んできた。その足に結びつけられているのは細長い布の伝文。何事かと衆人の目が集まる中で、布をほどいた昌平君の麾下が内容を確認する。その様子を皆が固唾を呑んで見守る中、彼はしばしの沈黙の後、愕然として目を見開き、唇をわなわなと震わせながら絞り出すように叫んだ。
「これは――羽檄だ! すべての文吏及び軍師認可を持つ門下生は宮城に一刻も早く馳せ参じよとの、殿からの命令である!」
しんと静まり返った舎内。次第にぽつぽつと生まれる雨滴のようなどよめきは、やがて大きな波紋となり、一転、場は混乱に包まれる。
「む!? 今、すべてと申したか!」
「何が起こっている! よもや悪戯ではあるまいな!?」
「いや紛れも無い殿の筆致だ。とにかく急げ、皆に報せよ!」
場は混沌を極めていた。他の大国が攻めてきたか、或いは四夷か、はたまた内乱か。さまざまな憶測が怒号となって飛び交う。いかにせよ考え得る最悪の事態が眼前に差し迫っていることは違い無い。そのうち転がるように駆け出していった彼らの背を見つめながら、わたしは虚無感に苛まれていた。必死に培ったはずの知識も、未だ人頭として数えられることもないほど頼りないものである。
すっかり人気の無くなった執務室に、数人の門弟らと共に取り残されていたわたしは、やがて呑気な鴿の鳴き声で我に返った。
「わたし、この子を鴿舎に返してきます」
「……ああ」
首を傾げてきょとんとしている鴿を両手で掬うように抱えて、わたしはその場を立ち去る。今はひたすら手足を動かして、余計なことを考えないようにしなければ、気が触れてしまいそうだった。
…… ……。
……ドンドンドンドン。
あれから幾らか時が経った頃、割れんばかりの勢いで私室の壁が叩かれた。
牀に横臥し、布にくるまって目を閉じながら、迫る恐怖にじっと耐えていたわたしは、その音を耳にするなり反射的に飛び起きた。窓からは爛れたような夕日が差し込んで、室内をおぞましい赤色に染め上げている。入相になれば生徒たちは皆、学舎に戻ってくる頃であるが、今日ばかりは不気味な静けさが漂っており、それが「壁を叩く誰か」の胡乱めいた気配をますます恐ろしいものに仕立て上げていた。
ドンドンドンドン。
振動が空気を伝って腹の奥に響く。壁を隔てた向こう側にいる人間のただならない剣幕に怖気づき、居留守を使うべきか迷っていると。その相手はついに痺れを切らしたようだ。舎内に響き渡らんばかりの轟雷のような怒鳴り声が耳を劈く。
「! 居るならば直ぐに出てこい!」
それはまるで獣の咆哮だった。恐怖に圧されながら慌てて駆け寄り、帳を捲ると、そこには昌平君の臣下の姿があった。
「黄竜様? 何の騒ぎで――」
知った顔を見て安堵したのも束の間、いつになく冷静さを欠いた様子である彼は、言葉を遮るようにして、わたしの手をむずと掴む。質問には答える余裕も無さそうに、そのまま踵を返してずんずんと歩き出した。
「あの!」
「頼みがある。付いて来い」
「はっ、はい……!」
いったい何の用なのかとは、とても訊ね難い雰囲気である。改めて身支度を整える余裕も無く、わたしは着の身着のまま私室を後にした。腕を引っ張られながら回廊を走り抜け、外に出るなり待機していた車に押し込まれる。ようやく離された手首には赤い痕がくっきりと残っていた。だが不思議と痛みは感じない。それよりも尋常ではないこの気配に対する不安や畏れといった感情が勝っていたのだ。
軒車には沈黙が流れている。隣に座る黄竜は、目を見開いたまま肩で息をしていたが、暫くすると少し落ち着いたように手を組んで深く息を吐いた。たまりかねて、わたしは彼におそるおそる言葉をかける。
「すみません。状況が掴めていないのですが、これからどこへ向かうのでしょうか」
「大王様の御前だ」
聞き間違いようが無い短い返事。しかしわたしは己の耳を疑った。
「何故わたしが、何かの間違いでは」
「殿の決定である。指揮命令に背くことは許されん」
中央官の中でもごく限られた人物しか参入することができないような正殿に、どうして昌平君はわたしを呼んだのだろう。頭が真っ白になっていた。平穏なはずであった日々からの、あまりにも目まぐるしい変転。
――わかりました、全て委ねます。
蒙恬の言葉に行末を任せ、軍師学校に入ることを決意した、あの選択は正しかったのか。心は遠い昔日に置き去りのままであるかのように、戦の世界に身を投じていることに未だ実感が湧いていない。
宮城本来の厳粛な姿はそこには無く、辺りは異常なほどの喧騒に包まれていた。城門を守る兵士たちの表情は昏く、城の中では官吏たちの叫喚が飛び交う。荷物をまとめてさっさと逃げ出そうとする者もいるが、もはやそれを止める者など誰も居ない。そのような混沌の中を黄竜とわたしは縫うように走り、そうして客館の小さな一室に辿り着くと、ここで待機するようにと命じられた。
「」
狼狽するわたしに、黄竜は強く詰め寄る。両肩を掴まれて、互いの鼻先が触れてしまいそうなほど引き寄せられたかと思えば、彼は感情を懸命に抑えているような低い声で言葉を紡ぐ。
「此度の戦ではお前の“才”が必要となる」
「い、戦とは……我々は何と戦うのですか? 魏ですか。はたまた楚でしょうか」
宮城の様子からある程度目星をつけていた。まず呂不韋派と大王様派、王弟派の官吏が入り混じっているらしいことから、内乱ではないことは確実である。またわたしの才、つまりは言語的な知識を必要とすると考えると、平地とは言葉の通じない四夷が攻めてきたということでもなさそうだ。つまり他国が攻め入ってきた可能性が濃厚。山陽の借りを返そうと魏が攻めてきたか、或いは大戦で疲弊したところを見計らい、楚が漁夫の利を得ようとしたか。おおよそ、そのどちらかであろう。趙とは同盟を結んでいるし、遠国の韓や燕、斉が攻めてくることはまず無いと考えると、先の二国のどちらかが仕掛けてきたと予想するのが自然である。
しかし、黄竜は重々しく首を横に振った。
「半分正解で半分不正解だ」
意味深長な返答に困惑しながらも、続く言葉を促すように目配せをする。
「一刻を争う事態だ、急速に状況を説明する。二度と同じことは言わぬから良く聞け。今現在東方六国が合従し、対秦の軍を咸陽へと差し向けている」
「り……っこく……?」
もはや驚嘆の声を洩らすことすらできず、立ちつくしたまま言葉を失っていた。刻一刻と、秦領に迫っている幾万の敵兵の足音が、轟々と脳裏にこだましている。
「蔡沢殿が臨淄に赴き斉軍を合従軍から離反させるよう交渉を進めているが、他の五国との戦争は免れられん。午時に楚国との境にある南虎塁が抜かれたとの報があった。もはや残された時間は僅かだ」
「あの……黄竜様。我々は趙と同盟を結んでいたのでは」
「あのようなものは所詮、目先の問題を切り抜けるための一時的な手段に過ぎない。国の存亡が己の手に委ねられているその瀬戸際で、果たして敵方との口ばかりの約束事を守り抜くことを優先する愚将など誰が居るか」
「……それは」
「その同盟とやらに最も強い効力があるのならば、とうにこの中華から戦などというものは無くなっているとは思わんかね」
「申し訳ございません。仰る通りです」
畢竟わたしに見えていたものは机上に並べた駒で行う模擬戦のような綺麗な世界だ。同盟国は攻めてこない、南虎塁が抜かれることはない、等々。そのような前提を当然と信じて疑わなかった。ゆえに六国の合従軍が秦を攻め滅ぼそうとしていることを漸く受け入れることができたとき、沸々と湧いてきたのは行き場の無い諦念だけであった。しかし、黄竜の目はこの絶望的な状況でもなお強い光を湛えている。その光の源は、彼の主である昌平君に他ならない。ほんの僅かでも光明が見えるのならば、わたしも、いつまでも絶望に嘆くばかりではいられないだろう。
「ここで待て。時が来れば呼びつけるゆえ、いつでも出られる準備をしておけ」
「承知致しました」
かくしてわたしは一人、この小さな部屋に取り残された。奴婢が飯櫃を届けに来た以外に来客は無く、冷たい牀の上でひと晩を過ごすことになる。日が暮れても宮城内は騒がしい。普段であれば民の不安を鎮め、また策戦の漏洩を防ぐためにも、戦の情報に関しては箝口指示が出されることが多いが、今回ばかりはそのようなものは無いらしい。いまや六国が合従したという情報は随所に伝播し、中央がそれを否定する様子も見受けられない。当然といえば当然だ。圧倒的な兵数を前に、ただ持ち得る軍力を最大限繋ぎ合わせて対抗することしかできない秦には、いまさら敵に露見してはいけないような妙策などありはしないのだから。
乱世において国々が同盟を結び、ある一つの国を攻め立てるというのは何も珍しいことではない。連合軍というのはそれほど強い手段であるが、反面、諸刃の剣でもある。その最大の理由は、まず各国が自国に有利になるように戦をするため、軍としての連携が取り難い点。これは魏と韓が互いに先陣を切ることを躊躇し、その結束の脆さを今は亡き六将・白起に見破られたのが敗退の原因になった、伊闕の戦いが例に挙げられる。
だからこそ軍の規模が大きいほど、それらを取り纏めることができるほどの傑出した指導力を持つ人望の厚い大将が必要となる。四十年以上も前に斉を襲った五国、その兵を統べた楽毅は、東西の強国であった斉と秦の溝を深め、また当時の傲岸不遜な斉の湣王に対する各国の鬱積を逆手に取るという、巧みな外交術で国家間の結束を強固なものとした。果たして今の中華に、そのような絶対的な信頼を得る者がいるのか。
少なくとも思い当たる人物はいない。だからこそ秦は合従軍が興ることを予期できなかった。しかし一人だけ、かつての楽毅のような存在になり得る人物に心当たりがある。馬陽で王騎を討ち、更は旧年に燕の劇辛をも破った人物。趙の宰相・李牧。しかし彼の功績をもってしても、六国を統べるに値する将としての重みとしては不足する。更に強大な権威が彼を支えていると予想ができるが、あくまで予想だ。
六国を繋ぎ止めているのは秦への恐れに他ならない。裏を返せばこの国を滅ぼさんとする強い意志のほか、彼らには何も無いということ。机上の戦論とは異なり、現実の戦では兵の互助によってその力は何倍にも膨れ上がるが、もし彼らが一つの軍ではなくそれぞれの国として参戦しているのであれば必ず綻びは生まれる。そして昌平君はそれを狙い、勝機を見出そうとしているのではないだろうか。とはいえ勝てる可能性は限りなく低いはず。仮に、百に一つと言われても頷けてしまうほど。
盤上でいくら勝利への筋書きを描こうと、現実で勝たなければ意味は無い。これはやり直しなどきかない、たった一度きりの戦だ。敗ければ咸陽は烏有に帰す。官吏たちはみな、生き延びたとしても戦後処理で死罪を言い渡されるであろう。わたしは戦火に呑まれるか、良くて奴隷として使役される。戦に関与したことが突き止められれば、同じく死罪だ。生きた心地がしなかった。不安と焦燥に追い立てられて、震える体を抱きしめるように縮こめる。
――こんな時に、蒙恬たちはどんな表情をしているのだろう。
それからどれほどの時間が経っただろうか。闇に閉ざされた部屋に、ふと柔らかな光が差し込む。ひとりの男が松明を片手に中へと足を踏み入れて、横たわるわたしの名を呼んだ。齢は四、五十ほどだろうか、白鬢のまじったその翁は面識の無い人物だが、容貌を見るにかなりの高位高官である。
わたしは彼に連れられて客館を離れると、二階建ての複道廊に案内された。左右を高い壁で覆い、人目に触れぬようにしてあるこの道は、本来であれば王侯が何十何百とある宮殿を秘密裏に移動するために作られたもの。そのような場所で手を引かれるがまま、縦横に走る道を右へ左へと不規則に進んでいるうちに、いつしか方向感覚というものはすっかり失われていた。
「ここからは大王様の御前になる。武器を外せ」
やがて目的の場所に辿り着いたらしい。男は荘厳な扉を前にしてそう言った。
秦王・嬴政は玉座のひじ掛けにもたれ、こちらに目もくれぬまま俯いていた。その周囲に控える恰幅の良い臣下らと比較すると、その線の細さと中性的で丸みを帯びた輪郭は際立っている。拝跪し、挨拶を述べれば僅かに瞳が動いた。猛禽のように丸く、大きく、鋭さを具えている瞳だ。巷間では未だ、大王様は飾り物で、国の政権はすべて相国である呂不韋が握っていると囁かれているが、果たしてそれは誠かと疑念を抱くほどには精悍な御顔である。次に驚いたのは、その傍に呂不韋の姿があったこと。秦国が滅亡するか否かという最中、てっきりこの絶望的な状況に先んじて咸陽から逃げるのではないかと思っていたから驚いた。しかし、いつもは不敵な笑みを浮かべている彼の表情は、迫り来る合従軍に対する不安を隠しきれていない。
――呂不韋様でも、あのような顔をされるのか。
亜父に怖いものなど無いと思っていたわたしにとって、それは国家の存亡が危ぶまれるこの由々しき事態に、更に重みを持たせるものである。
部屋の中央には中華の地図が大きく広げられており、その上に無数の駒が置かれていた。それらは総じて、咸陽へと続く秦国最大の関門・函谷関に吸い寄せられているかのようにまっすぐに列を成して向かっている。次々と飛び込んでくる早馬や鴿の情報に沿わせて一つ一つ駒を動かし、各国軍の動きを即時に反映しているそれを、二三十人の官吏が厚く取り巻いて血眼になりながら喧々諤々と策を言上する中、人だかりの中心で昌平君は目を閉じ思案に暮れていた。
「先生、でございます」
深々と礼をして、顔を上げると同時に、彼の切れ長の鋭い瞳がゆっくりと開かれる。その目元にはくっきりと濃い隈が刻まれていた。
「来たか」
しわがれた声で、一言、小さく呟いてから彼はぬっと立ち上がる。あたりの高官たちの視線が、場違いなほどに若く、落ち着かないわたしの姿を捉えていた。重苦しい空気に圧し潰されそうになりながら、聞こえるか否かという小ささで「はい」と返事を返す。
「まずは無理矢理連れて来させたことを詫びよう。だが今はそれを慮ってもいられない状況だ」
眼前まで迫り寄った昌平君の挙措はこのような事態の最中でも冷静さが滲んでいる。辺りの高官らの慌てぶりと比較すると、まるでこの事態を薄々予感していたような気さえした。
「師尚父の教えに陰書という技術がある。以前に学ぶ意志があれば授けると伝えたが、もはやその意志を確認する時間的余裕も無い。黄竜に付いて指示に従え」
「かしこまりました。微力ながら精一杯努めます」
昌平君はわたしを激励するように頷く。ここに来るまでにおおよその覚悟は決めていたが、一国の丞相たる人物から直々に命を受けてその決意はますます強固なものとなった。このときわたしは、己の身を滅ぼしかねないほどの危殆を胚胎する術を学ぶことに対する恐怖という感情は薄れていた。それよりも、誰かに必要とされていることに、それも心から尊敬する人間に乞われているという状況を、むしろ誇りに思ったほどだ。呂不韋が自分にさして期待をしていなかったと知ってから地に足がつかない感覚であったのが、ようやく拠り所を見つけた気分になった。よしんば亡国の危機などからは程遠い未来を歩んでいたとしても、昌平君が強く望むのであれば、わたしはきっと断ることなど無かっただろう。