かくして秦軍総司令の直下で任に就くことになったわたしは、黄竜の教えのもと陰書の技術を身につけ、それから自軍で取扱う暗字を学ぶこととなった。一朝一夕で身に着くはずがないほど膨大な知識だが、人間、切迫した状況に置かれるとおのずと潜在能力が引き出されるもので、夜通し行われた仮借の無い特訓のお蔭でなんとか使い物になるまでには至った。ここまでじつに不眠不休であるが、不思議と疲労は感じていない。気が付けば清々しい朝の陽光が王廟に差し込みはじめて、仆れていた高官らが次々と身を起こしながら憎らしそうに目を眇めていた。
合従軍が国門・函谷関に集結したとの飛報があってからほどなくして、宮城に開戦を告げる早馬が届く。
「麃公軍四万が先陣を切り、趙の李白軍と戦闘!」
「蒙武軍第一陣も、楚軍と接触しております!」
開戦と共に脳裏に浮かんだのは、第一に右翼・騰軍所属である蒙恬の安否。しかし彼のことを案じたのも束の間、それを払拭するようにかぶりを振った。戦に私情を持ち込んではいけないとは、彼が教えてくれたことだ。
黄竜が取り纏める官吏たちの、主な仕事は三つある。一つ目は、本営の指令・決定を書簡にしたため秦軍各所に早馬を手配する、単なる伝令。二つ目は、敵方に偽情報を流し攪乱を図るという欺瞞戦術を用いた自軍の補助。そして三つ目が、敵兵から仕入れた暗字や陰書の解読を試み、その真偽を判ずる役目であり、わたしが任じられたのはこれにあたる。
「黄竜様。お伺いしたいことがございます」
「なんだ」
「わたしのような未熟者が、どうしてここに呼ばれるまでに至ったのですか。同じ暗字の心得があるのならば、もっと適任の方がいらっしゃるでしょうに」
「殿の命令に不服を唱えるか?」
「いえ。そのようなつもりは……。ただ気になりましたので」
現に黄竜が取り纏める官吏たちは右も左も老練家ばかりである。その中でただひとり官吏でもない自分がよりによって昌平君直々の指名で選ばれたとなると、相応の理由があるのだろうが、いくら考えても心当たりは無い。昌平君の決定に疑問を呈したわたしに、黄竜はその忠誠心の厚さから僅かに怒りを露わにしたが、すぐに冷静さを取り戻すと行李から一通の書簡を取り出した。
「これが読み解けるか」
そこに書かれていたのは、秦では勿論、おそらく他の大国でも使われていないであろう文字だ。しかしわたしには見覚えがある。とはいえ記憶はおぼろげ。いったいどこで学んだか思い出そうとしていると、その答えを黄竜が述べる。
「お前の亡き父親から最初に授けられたであろう言葉だ。よもや忘れておるまいな」
彼の言う通り、よくよくみればそれは紛れも無く父から教わったものだ。うろ覚えではあるが、なんとか読むことも書くこともできる。そこで胸がすいた思いになったのも束の間、どうして当事者であるわたしですら曖昧な記憶を黄竜は知っているのか、そもそも何の言葉なのか、疑問が絶えず浮かんできた。
「確かに父に教わった覚えがあります。しかし、いったいどの国のものでしょう。秦ではございませんし、おそらく斉の方でもあまり使われていないものかと存じますが」
「それはもうこの中華に存在しておらぬ甲という小国のもの。いまやその言葉を使いこなせる人間は殆ど存在しない」
――甲。
その国の名は、初めて耳にするものであった。
黄竜曰く、わたしの父は元々その甲という国の文官であったという。斉に来る前はとある国の宮城に仕えていたという過去は知っていたが、まさかここで繋がるとは。
わたしは父からじつに多くの言葉を学んだ。それは周代から続き現在の中華で広く使われているものから、はたまた一部の民族間でしか通じないような埋もれ木になっているものまで。どれもいずれ役に立つと教えられてきたが、その中でただ一つだけついぞ父以外とは交わすことが無かったものがある。それが紛れも無く、黄竜の言う甲の国の、既に滅んだ民族の言葉だ。果たしてどうしてその言葉を授かったのか、真意は今となっては確かめようが無いが、もしかしたら中華の各地に散り散りになった同胞やその子孫の助けを得られるようにと願いを込めてといったところか。まさかそれがあだになるとは夢にも思わなかったことだろう。
わたしが生まれた頃に、養父・呂不韋の手によって滅ぼされた周という国は、もとは王朝を開き、中華を統べていた大国であった。そんな周王朝時代、中華各地には諸侯らが点在していたが、時を経て王朝の権威が薄れるにつれ各国は独立し、やがて国の存続のために争うようになった。これが五百年にも及ぶ、現在までの戦乱の世に続く。この時代には国の数が数百にも及んだというが、やがて収斂され今に至っている。
さて、そのような最中、小国が生き延びる為の術というものは大きく二つ。中立的立場を取ることで他国から直接的に攻め滅ぼされる懸念を低くしながらも、やがて衰退の一途を辿る道。もうひとつは、大国のいずれかの味方をして後ろ盾を得ながら国力を徐々に増幅させてゆく道。しかし後者は、判断を誤れば一瞬で国は亡びる。
甲という国は中立的立場を取る道を選んだ。言わばそれは緩やかな死の選択だが、甲王は当座の危険を免れようという及び腰の君主であり、ついぞ今際までその御心を変えることはなかった。さてこの小国にあるのは、頼りない王と微々たる軍力のみ。そのような中で生き延びることができたのは、叡智に富んだ臣下らの存在が大きいだろう。甲王は自身の根幹こそ変えようとはしなかったが、諫言は素直に受け入れる人物であったのが幸いした。国力の主幹は地域性のある言語と独自の情報網を用いた諜報である。雑説の真贋を見抜き、それを自国の外に漏らすことなく、取り得るべき対策をいち早く講じることができた仕組みが十分に確立していた。しかし小国が次々と併呑されてゆく趨勢に抗い続けることはできず、ついに元三大天と宰相平原君の力により勢力を増した趙に圧され滅亡したという。
臣下の一人であった父は身分を隠すために黥をした。やがて斉を放浪するうちに母と出逢い、軍師としての力を評価されて母の家系が代々城主を務める小邑で軍の指揮権を一任されるが、ほどなくして魏に攻め入られ戦禍に見舞われる。一城の軍力が魏本軍の猛攻に叶うはずもなく数日と経たずに陥落したが、父は最後まで降伏をせずに犠牲を払い続けるという名官の名折れとも言うべき失態を犯し、結果的に方々から非難を浴びることとなった。しかしその裏には、生まれ故郷を奪われた悔恨と、愛する人々に同じ思いをさせたくないという強い決意があったのだろう。
閑話休題。甲という国の言葉は、国が滅んで二十年以上が経った今となっては表向きには消滅したことになっているが、その稀有性と独自性を逆手に取り未だに実戦で暗字として用いられたことがあるという。解読も困難な文字であるため、これを巧みに扱う国は情報戦において鉄桶の守りを誇るが、それをどうにかして抉じ開けようと昌平君が打った策というのが、甲人を父に持つわたしを連れてくるというものであったらしい。
いつのまにやら自身も知り得ぬ情報がさまざまな思惑に利用されていることに困惑を覚える。この戦が勃発するずっと前から、もしかしたら軍師学校に迎え入れた時から、昌平君にはそのような心算はあったのかもしれない。
開戦の報より函谷関から遣わされる鴿や早馬の数は途切れることは無い。遠くでは烈々たる白刃戦が繰り広げられていることだろう。かつてないほど大規模な戦場の、動きはめまぐるしく変化し、当初は暗字の解読のために呼ばれたわたしも人手不足から伝令に回ることとなる。
やがて双軍の一時撤退を告げる早馬が届いた夕暮れに、ようやくわたしは手を休めることを許された。その頃には、朝方までの漲る気力は露ほども残っておらず、客館に戻る許可が下りても暫くは体が動かなかった。
「御苦労であった」
不意に頭の上から声を掛けられる。わたしは慌てて姿勢を正し、その声の主を見遣った。
「黄竜様。痛み入ります」
「戦は日を増すごとに烈しいものとなるだろう。今のうちに少しでも身を休めておくが良い」
黄竜は酷く疲れ切った表情の中に安堵を滲ませていた。ひとまず函谷関は抜かれることは無かった。むしろ約五十万の敵軍が一日かけても、指一本触れることすら叶わなかったことで、絶望的な戦況に打ち勝つ可能性がより現実味を帯びてきたのは明らかだ。
「お心遣いありがとう存じます。しかし戦果報告などの雑務が未だ残っているご様子ですが」
「心配せずとも構わん。お前は昨日から働きづめであろう」
「ではお言葉に甘えさせていただきます。黄竜様もご無理なさりませんように」
「善処しよう。さて立てるか、客館へ戻るぞ」
深衣の長い裾を摘まみながら立ち上がり、王の御前で再び跪拝を済ませると、じつに丸一日ぶりに正殿を後にした。
重厚な扉が鈍い音を立てて閉じる。預けていた剣を受け取り、玉座の間に背を向けると、わたしは眼前の景色にしばし息を呑んだ。朱塗りの欄干の奥に広がる黄昏の景色。熟れた太陽の赤赤としたおぞましい光が、方格状に整斉と並んだ宮殿に降り注いでいる。そして、それらを見つめる男がひとり。薄暗く奢侈さもない場所にいてなおその存在感は薄れない。
「呂不韋様」
わざわざ声を掛けずとも、知らぬふりをして黙って立ち去ることもできただろう。わたしにとってこの男は決して再会を喜ぶような仲ではない。むしろ逆だ。しかし、こちらから声を掛けるに至った心境の変化というものが多少なりとも自分の中にあった。それは此度の戦で、軍総司令たる昌平君に必要とされた事実。あれほど遠くにいたはずの呂不韋に、一歩でも近づくことができたという矜持。なにも遠くに嫁に行かずとも、こうして国の役に立つことができるまでに成長したことを彼に認めて欲しかったのだ。
「よほどの大役を任されたようだな」
「はい。皆様の一助となれるよう尽力致します。国が滅んでしまっては呂不韋様がくださった御恩に報いることも叶いませんから」
四、五歩ほど背後から、黄竜が訝し気な表情でこちらを見つめている。変に思われるのも当然と言えば当然か。少なくとも家族という間柄の人間にしては異様とも言える雰囲気であるのだから。
呂不韋は艶やかな顎鬚を指先で撫でながら、おもむろに振り返った。その顔は逆光で煤をまぶしたように塗り潰されており、いつもの余裕を湛えた笑みさえも酷く不気味なものに思えてならない。果たして今のわたしを見て何を感じているか、その本心こそ知ることはできないが、しかし彼の厚い唇は慰労の言葉を紡ぐものだと信じて疑わなかった。呂不韋が不本意ながらわたしを軍師学校に送り出したのは承知の上だが、彼は人の価値を見定める目は持っている。何も性根まで悪に染まりきっているわけではないのだから、必ずや努力を重ねれば認めてくれるはず――。
「ほう。儂としてはおぬしの婿探しの方に期待をかけておったのだが」
しかしその願いは脆くも崩れ去った。呂不韋は返される恩など高が知れているといった風だ。わたしは強張る唇を震わせながら苦い笑みを浮かべて返事をする。
「ええ……そちらも、いくらか世情が落ち着きましたら」
婿探しとはわたしが軍師学校に入学するにあたり呂不韋の了承を得るために提示した条件のひとつである。無論その場を凌ぐための口実であり、本気で結婚相手を捜そうなどとは露ほども思っていなければ、仮に誰かに結婚を申し込まれたとしても何かと理由をつけて撥ね付けるつもりであった。
「うむ。よもや蒙武の倅との恋愛ごっこは続いてはおるまいな。遊びが過ぎるとますます貰い手がいなくなってしまうぞ」
「誤解をされておられるのかもしれませんが、彼とはただの友人です。そのような事実はございません」
「兄だけでは飽き足らず弟の蒙毅とも共に春正月を過ごしたと儂の耳にも入っているが、ともかく養父たる呂不韋の名に恥じぬ振舞いを期待しておる」
そこまで言われたところで堪らず俯くと、控えていた黄竜が助け舟を出した。
「相国殿。そろそろを送り届けますゆえ、これにて失礼致します」
抜け殻のようになったわたしは手を引かれるままその場を去った。己の価値を崇高なものであると思い誤っていたのかもしれない、そう思うと惨めさが増す。呂不韋は未だわたしを政略結婚の道具としてしか見ていないようだ。だからこそ身内である蒙武の血縁と仲を深めることに関して、己の利にならないものと判じて嫌悪を示すのである。
「あまり思い悩んでは明日に障りが出るぞ」
黄竜の言葉に小さく頷く。頭の中では分かっているのだが、憂鬱は暫く晴れそうにない。
湯を浴びたあとのしっとりと濡れた肌に夜気が沁みる。
日没後の宮城はまるで絵筆で描かれた怪異譚の世界のような妖しさに包まれていた。等間隔に設置された檐灯が回廊の朱や金をまがまがしく浮かび上がらせている。黄竜が言った通り明日に備えて休まなければいけないが、体は言うことを聞かず、浅い眠りを繰り返すばかり。散歩でもして心を落ち着かせようと考えたが、これでは余計に目が覚めてしまう。
暗がりは不安を助長する。今は何も考えたくは無いと、そう思うたびに脳裏を過るのはかつてわたしに手を差し伸べてくれた優しげな亜父の顔や、勝利は望み薄と知りながらも戦場に立つ友の姿。ふと沸き立つ恐怖は歳を重ねても薄れゆくことは無い。ただ来たる日に怯えて涙を呑んでいた幼き時分とは異なり、大人になったわたしはそれを緩和する術を知っている。
厨房へ赴くと軽い酒食が用意された。盃の底がくっきりと見える濁りの無い酒を口に入れると、喉を迸る、焼けつくような熱。いっぱしの大人を気取って苦手としながらも口に入れていた過去とは異なり、今はその効能に頼らざるを得なくなってしまった。
「――上等な酒は美味いと感じられる時に飲みたいものよな、。眠れぬか」
気品のある白磁の器に盛りつけられた黄金色の桃脯を肴に一献傾げていると、背後から声を掛けられた。酒精に浸って霞んでいた思考が、現実に引き戻される。
「介億先生。何故ここへ?」
「これから明け方まで軍議ゆえ、何か腹に溜めねばと食い物を貰いに厨房へ寄ったのだ」
普段は不敵な笑みを浮かべて綽々としている介億も、今ばかりは覇気が薄れ、自慢の鯰髭も心なしか元気無く垂れている。
「函谷関で戦う皆のことを思うと己の無力さが身に沁みます」
「殿はお前の知識を買っているが、何故そのように悲観的になる」
「……」
「黄竜から聞いた。相国との確執が原因か」
「それは」
「図星のようだな。相国が絡むとお前は痛ましげな表情をするのだ」
呂不韋との関係は、わたしにとっては毒のようなものだ。彼と目を合わせるたび、言葉を交わすたび、淡い期待を打ち砕かれるたびに身も心も苦痛に蝕まれる。しかし、たとえ血脈を受け継いでいなくとも、親子の縁というものはそう簡単に断ち切れるものではないのだ。
固く唇を噛みしめる。軍師学校への入学を決め、確かに彼のもとから逃げ出したはずなのに、心の底では惨めにも期待していた。もう一度、自分を我が子のように愛してくれるかもしれないと。わたしを娘と呼んでくれたあの声は、亡父の温かさを思い起こすには充分であった。肉親に果たせなかった孝行を、その姿を重ねた呂不韋への恩義に報いることで成し遂げたいと思っているのかもしれない。
せめぎ合う思いに圧し潰されそうになりながら、表情に影を忍ばせるわたしの耳に入ったのは、介億の呆れたような声音だった。
「だが我々から言わせてしまえば、どこまでも呑気なものよ」
「そのようなつもりは」
「国家の一大事という時に、お前は養父に対する身の振り方で悩んでいるのだろう! これを呑気と言わずして何と言う!」
杯に満たされた酒に波紋が生まれるほどの気迫に満ちた言葉に、驚いた使用人たちが一斉にこちらを振り返る。間髪を容れず、わたしが口に入れようとしていた桃脯を手から取り上げた介億は、勢い良く詰め寄った。もはや注目の的になっているこの状況に羞恥を感じる余裕すらない。そろそろと眼差しを上げると、威圧感溢れる三白眼が、蛾翅の擬態模様さながら仄暗い視界にくっきりと浮かび上がっている。
「ひっ」
「良いか。多くを語らない殿に代わり教えてしんぜよう。我々がお前に寄せる期待は想像以上に重いものだ。まずは己の役割を果たすことを肝に命じよ」
「は……はい……」
絞り出した返事に満足したのか、介億は「それで良い」と一言洩らし、手に持っていた桃を口に入れる。唇や指先をぺろりと舐め上げている彼を、わたしはただただ呆然としながら眺めていた。
「それ、わたしの桃脯……ですが」
「婿探しだの何だのは戦が終わったあとで思う存分励むが良い。もっとも殿はお前が手中から逃れようとすることを良しとしないだろうがな。わっはっは!」
「はあ」
「ともかく、くだらぬ煩悶に時間を割いている場合ではないのだ。もう勝利を祈って待つだけのお前ではないだろう」
介億が厨房を去ってからようやく使用人らの名状しがたい困惑の表情に気付き、恥ずかしさと申し訳なさを感じたわたしは、逃げるようにその場を去った。
部屋に戻ったのはとうに夜半を過ぎた頃だった。介億がやってくるまで二、三杯ほど酒を飲んではいたが、酔いはまったくと言って良いほど回っていない。眠気を促すために外に出たという本来の目的はついぞ果たせぬまま、留守にしている間に綺麗に整え直されていた寝台に体を転がした。
――もう祈って待つだけの自分ではない、か。
介億の言葉を思い返す。窓の外に植えられた木々の隙間から透いて見える王廟の灯りをしばし眺め、それから天井に視線を移し、ということを数度繰り返した後、様々な不安を払拭するようにきつく目を閉じた。