楚軍の臨武君、趙軍の万極を討つという戦果を挙げた開戦初日の激しさとは打って変わり、それから両軍共に大きな動きは無かった。忙しさに欠ける分、恐怖を感じる時間がぐっと増えて、わたしは凶報に怯えながら伝者らの到着を待った。
長引くほど合従軍にとっては不利となるこの戦。敵軍が大きな攻撃を仕掛けてこないということは、裏で何かしらの秘策を講じているはずだ。しかし秦軍本営に集められた情報をもってしても、その策というのが一向に見えない。
この数日間でわたしが任せられた仕事は、敵の情報網の攪乱を図ることである。魏兵から奪った割符に甲の言葉が記されていたことから、魏軍にはこの言葉を操ることができる人間が存在し、また水面下で蠢動していることが判明。彼らの動きを阻害するためにわたしは偽の割符づくりに勤しむこととなった。
「黄竜様。戦況は如何ですか」
「相変わらずだ。しかし殿の表情には翳りが見える。今日も敵軍に目立つ動きは無し、これほど不気味な戦は無いだろう」
黄竜が僅かに首を動かして顔を向けた先には、函谷関の地図とその上に並ぶ駒を見つめ、不動のまま思考を巡らす昌平君。まともに食事も摂っていないのか髪も髭も乱れ窶れているが、涼しげな切れ長の瞳には獣のような眼光を湛えており、それも日を増すごとに炯々として、思わず身震いしてしまいそうなほどに鋭い力を放っている。
はじめは昼夜を舎かず軍議の真似事に勤しんでいた高位高官らは、いまや伝令の報に一喜一憂するのみ。長年に渡り己の権力を守るための派閥争いに注力してきた人間ゆえに軍事に疎い。昌平君をはじめとした軍部の優れた賢才をまざまざと突きつけられ、軽々しく足を踏み入れる領域ではないと判じたらしい。
嬴政は初日から変わらず玉座に腰掛けたまま、時折長い睫毛を伏せて深く思案している様子である。ここまでじつに一言たりとも、その肉声を耳にしていない。皆を激励することもなく、しかし一切関知しないといった風でもないようで、ただ苦慮の表情を浮かべている。それが国や民草を案じながら、王としての役目を果たすその時までただじっと耐えているように見えてしまうのだから不思議だ。
「敵方の兵站線は生きてはいるが供給は追いつくまい。殿の見立てでは持ってあと十日程だという」
「つまり十日以内に合従軍は函谷関を突破する手立てを講じている可能性が高いと」
「そうだ」
刻一刻とその時は迫る。既に正殿に初めて呼ばれたあの時の高揚は薄れ、代わりにどうしようもない無力さと絶望感が波のように押し寄せていた。どんな慰めの言葉も、もはや気休めにもなりやしないほどに。
「合従軍が起こってしまった主因として第一に挙がるのは我々軍部の、情報戦の敗北だ。二度と苦杯を喫さぬようにと、その要として本営にお前を迎えた。これからますます多くの血が流れることになるだろうが、火急の事態に陥ろうとも決して屈さずに気を確かに持て」
「……改まってそのようなことを言われてしまうと悪い予感がします」
「とりあえず余力は残しておくようにと、殿からの言伝だ」
黄竜とのそのような会話よりさらに数日が過ぎた。
「解せんなァ」
夜空には白い下弦の月がくっきりと浮かび上がっている。とうに宵の頃を過ぎ、戦果報告を終えようといったところで、呂不韋の言葉が響いた。もう十日以上も戦を続けているというのに両軍の睨み合いはなおも続き、大きな戦果も損失も無い。初日の臨武君と万極の討死以来、敵軍の将は殆ど前線に姿を現さないでいる。兵卒ばかりがぶつかり合い、軍全体に疲労が蓄積されているという状態だ。
先の兵糧問題に加え、離反した東国の斉がいつ他国に攻め入ってもおかしくはないという状況を鑑みると、合従軍は一刻も早く函谷関を突破したいと考えているに違いない。しかし意図的にも思える長期戦に、呂不韋と同様に疑問を抱く者は多い。
「恐らく長期戦に出ているのではない」
その疑問に答えたのは左丞相・昌文君。呂不韋が相国となった際、昌平君と共に丞相に据えられた人物だ。嬴政の傅役にして呂不韋の政敵、つまりは秦王派であることから、わたしにとってみれば縁遠い人であった。
「ほう。どういうことかな丞相殿」
呂不韋が問う。
「全ての戦場で等しく秦軍の弱体化をはかり、機を見て一気に全軍総攻撃をかける。長期戦ではなく最短の短期戦を仕掛ける気だ」
どよめきが起こる。短期戦というのは突飛な論に思えるが、しかし元は武官であったこの男、長途の兵にとって十日以上もの滞陣は艱難であるが敢えてそれを作り出しているという気味の悪いこの戦況から合従軍の真意を導き出した。その信憑性を高めたのは、軍総司令である昌平君の頷きだ。
「間違いないだろう。全軍同時に攻めてこられれば横の支援はできず、秦軍は一気に正念場を迎える」
ここまで秦軍には大きな損害は無い。昌平君が導いた勝ち筋を辿ることができると信じていた者も多いだろう。しかし現状は真逆だ。一見優勢に思える秦軍はじつに長い時間をかけてじりじりと追い詰められ、いまやひとたび強い風に煽られてしまえば、足を踏み外してしまいそうなほどの崖っ縁にいる。
「それはいつだ。総司令」
暗雲垂れ込めたような重苦しい空気に嬴政の硬い声が響く。その凛と鋭い音吐に、わたしは反射的に背を正した。
「ここからでは、いつとは申せません。しかし現場の鋭い人間達は、既に感じ取っているはずです」
昌平君は嬴政の欲した答えを述べることは無かった。玉座に拝礼し、王廟を後にする人々の列に紛れながら、もどかしさを抱えたまま寝泊まりをしている客館へと戻る。まさかその日が、まもなく訪れることなど知らずに。
――翌朝。開戦から十五日目のことである。
正殿は朝から大混乱に見舞われていた。次々と飛び込んでくる夥しい鴿や伝者の数に現場の波瀾が生々しく伝わってくる。
「ほ、報告! 蒙武軍と汗明軍が接触!」
「同じく騰軍が媧燐軍の奇計により分断されたとのこと!」
はじめは騰軍所属である蒙恬の報に耳を傾けずにはいられなかったが、やがてそれもままならないほどの慌ただしさとなった。
蒙恬は現在、騰軍右翼五千人の指揮を任されているが、楚将・媧燐の軍に対し劣勢であるという状況。いくら戦の才に恵まれているとはいえ彼は千人将、その双肩に圧し掛かるには重すぎる責務であることは言を俟たない。少しばかり嫌な予感がした。というのは、昨晩久しぶりに死んだ父の夢を見ていたからだ。単なる偶然か、或いは不吉の前兆か――いずれにせよ不安を掻き立てるには充分だった。
ふと、脳裏に蒙恬との思い出が蘇る。手負いのわたしを背負って邸まで連れ帰ってきてくれた黄昏。何度もすれ違い、心を深く痛めていた長い日々。呂不韋から逃げようと、手を取ってくれた中秋節の夜。何度も反芻する。彼の声も匂いも、針で刺されるような切なさも、胸を一杯に満たす甘ったるい幸福も。すべて。すべてが大切で。
どうか失われませんようにと。胸の裡に彼の武運を深く祈り、筆に手を伸ばす。
午下になっても戦況は落ち着くことはなく、むしろ混沌を極めていた。昨晩、昌平君が語った「正念場」というのが、まさに今日のことであるのは瞭然だった。秦軍を殲滅せんと総力を挙げて押し寄せる敵軍には、もはや偽の割符を流すなどの小細工は通用しない。わたしは伝者から受けた情報を取り纏め、秦将の本陣に戦況と中央の指示を伝える書簡を認める役目に徹することとなった。
…… ……。
背後に函谷関が控えており逃げ場の無い秦軍は、合従軍との圧倒的な兵力差に徐々に圧し潰されてゆく。前線は徐々に西側に押され、そしてついに。
「函谷関に火の手が上がったじゃとォ!」
耳を劈くほどの叫びに、場は一気に静まり返る。高官らの顔は絶望の色に包まれた。
「……陥落を知らせる狼煙は?」
昌平君は冷静な声で伝者に問う。
「そ、それは確認されておりません!」
「確かか?」
「確かです!」
函谷関はまもなく落ちるのか、否か。皆が固唾を呑んで続く言葉を見守る中、昌文君が口を開いた。
「函谷関はそう簡単に落ちはせぬ」
曰く、函谷関の正門は大岩で塞がれている。敵兵は長壁を越えて内側に回ってから門を開けねばながらないが、大勢の敵兵が一気に下ることができるほどの広い道は無い。函谷関の内側にも予備兵が控えている為、対処し得るだろうとの見解だ。しかし決して、戦況は優勢なわけではない。函谷関は突破されずとも、左右に聳える険しい山々を開鑿され、敵兵の侵入を許す可能性もある。合従軍が函谷関突破に加えてこちらの策を取っていた場合、今の秦軍にはそれを止める余力など残っていない。
安堵したのも束の間。正殿はたちまち鬱々しさに満たされる。
次いで控えていた伝者から、函谷関を守っていた老将・張唐が韓将・成恢を討つも、差し違えて亡くなったとの報告があった。かつて六将が生きた時代から何十年と秦を支えた大将軍の死に衝撃が走る。その輝かしい戦績もさることながら、実直で武人としての誇りに満ち溢れた人柄は、部下のみならず多くの人間に慕われていた。しかし故人の死を悼む時間も与えられない。
一方で蒙武・騰連合軍が置かれた秦軍右翼では、白刃戦が熾烈を極めていた。
本日の開戦と共に斜陣がけという奇策とも言える戦法を取った蒙武。この斜陣がけとは自軍左翼に主力を置き、そこから右側に行くにつれ突撃を遅らせ、敵軍の攪乱を図るというものである。しかし敵軍右翼に対する自軍左翼の兵力が十分に必要であることと、出陣の頃合を正しく判断しなければ突破は難しいという条件に加え、此方の衝撃がうまく均衡的に伝播して敵軍全体が崩れねば策として失敗する。現実では理論通りに事が進むことはまずなく、あくまで机上の空論であるとされてきた。今まで戦法を力で捻じ伏せてきた蒙武が大胆にもこの無謀な策を取った事には、敵のみならず、発案者である昌平君を除いて皆衝撃を受けたが、どうやらこれが功を奏したようだ。
戦況は拮抗しているか、やや悪化しているといったところ。約六万の兵力差があることを鑑みると十分に奮闘していると言えるだろう。
そしてついに蒙武と汗明が対峙したとの報があった。汗明は此度の楚軍総大将であり、その人並外れた巨躯と武力で立ちはだかる敵を悉く叩き潰してきた、その戦績から「楚の巨人」という異名を持つ。言わずもがな楚軍のみならず合従軍の武の要である。対する蒙武はかつて相手の戦法を武力で捻じ伏せる、暴虎馮河の勇をふるう武将であった。それが仇となり馬陽の戦いで大敗を喫してから、力任せである流儀は変えずとも戦に練達するようになったと黄竜が述べていた。
はたして鬨の声が上がるのはどちらの戦場か。
大将同士の一騎打ちとなれば決着がつくまでそう時間はかかるまい。続報を待つため、わたしもまた手を止める。脳裏に、戦場に立つ二人の男を思い浮かべ、一合、二合と打ち合う姿を指折り数えた。
それが五十、六十を越えた頃だろうか。息を切らして転がり込んできた伝者が三人。深く拝礼し、轟くほどの大声で「蒙武が一騎打ちを制した」と確かに告げた。途端に正殿は沸き上がる歓呼の声に包まれる。高尚なこの場には似合わぬほど大きな喜びの声に、わたしの手も大きく震えた。合従軍が総力を挙げて決戦を挑んだこの日、最も規模が大きい楚軍に対し敢えて蒙武の攻めで対抗するという昌平君の策が見事に的中。秦軍勝利の光明がより一層、強く見えた。
その時だった。
「い……いま、何と仰いましたか」
「ハッ! 蒙恬千人将が蒙武将軍と汗明の一騎打ちに割り入り、戦闘不能となった模様です。戦線を離脱され衛生兵による手当てを受けておりますが、出血が酷く、命が危ぶまれる状況であると」
「騰軍所属の蒙恬千人将が、媧燐軍との戦いの最中に、隣の戦場の中枢まで侵入していた? 何かの間違いではございませんか」
全身から血の気が引いた。今朝の夢は虫の知らせだったのだろうか、わたしはまた大切な人を失う羽目になるのか。誤報と思いたかった。そもそも五千人の指揮を任されている蒙恬が単独で持ち場を離れて一騎打ちの場に割り入ることがあるだろうか。にわかには信じ難い情報だ。
「。何を揉めている」
「黄竜様」
伝者とのやり取りがあまりに長引いていることに気付き、やってきたのは黄竜。男は困り果てた表情で事情を説明し始める。その光景を黙って眺めている間、背中にはじんわりと汗が滲み、鼓動はますます逸った。考え得る最悪の事態が起きている。素直に現実を受け入れることもできず、呆然としているしかなかったわたしに、黄竜は言った。
「同様の報はこちらにも届いているから間違いあるまい。いち早く他の戦場にも報せるべきだと、殿からの言伝である。筆を取れ」
だが自分らしくもなく、動揺を滲ませた視線で彼を見上げることしかできない。手を伸ばして筆を握ることも、返事すらもまともにできない、そのような態度のわたしに黄竜は苛立ちを募らせながらも強く諭す。
「函谷関を守るため奮戦する兵士たちは何があろうと決して戦いの手を止めることは無い。我々もまた命を賭して戦う彼らに恥じぬよう、全精力を注ぐべきである。良いか、泣くなよ。我が殿が直々に御沙汰を下した、その期待を裏切ってはならぬ」
「…… ……はい」
糸のような細い声を吐き出す。
もう二度と大切な人を失いたくはないと、そう強く思って日々研鑽を積んだ。苦境に耐えながら少しずつ進歩を遂げてゆくうちに偶然にも亡父から授かった知識が重宝され、何百と在籍する軍師学校の門下生から抬頭して、未熟ながらも此度の戦で軍の司令部に加わることとなった。文字通り死力を尽くした。それでも、救えないというのか。
嘆くよりも己の役目を果たすべきであると、頭の中では分かっているのだが心は追いつかない。かつての、血に塗れて絶命している父の姿が呼び起こされる。大切な人が日常から忽然と消えてしまう恐怖を、縋るものが無くなってしまう哀しみを、わたしは知っている。
目元の熱は引かないが、彼を案じて涙を流すことさえも許されない。その事実が酷く悲しい。いつの間にか、蒙恬という人間は自分の中で大きな存在になり過ぎていた。孤独に生き、呂不韋への恩義に報いることだけを己の存在意義なのだと信じていたはずのわたしが、いつのまにか彼と共に過ごす日々を至福と感じるようになっていたのだと、ようやく気付かされた。
それからの記憶はじつにおぼろげである。
媧燐軍の精鋭部隊が峻険な山々を越えて予備隊を攻撃、それに乗じた敵軍は壁を越えて函谷関の正門裏まで迫ったものの、王翦軍がこれを食い止めた。薄暮が迫る頃には、合従軍は開戦時の位置まで兵を引き下げ、秦は函谷関を守り抜くことができたのであった。
だが戦は終わっていない。
「ご苦労であった。さあ戻るぞ」
力無くへたり込んだまま固まるわたしの手を黄竜が掴む。
「」
何度も声を掛けられるが体は動かない。
あれから蒙恬に関する情報は何も入っていない。凶報が無いということは、彼は無事であるということだと思いたいが、しかし戦線離脱した彼の安否は既に戦とは関係の無い情報であるから報告されていないという可能性が捨てきれないと考えると憂いは晴れない。
「困ったものだな」
わたしを見下ろす黄竜が、頭上で小さなため息を吐いた。
申し訳なさでいっぱいだが、しかし立ち上がって歩くという動作すらも困難なほど参っている。客館まで引き摺って運んでもらえたとて、眠れるとも思えない。自分でもどうすれば良いか分からなかった。
「ならば、ここで夜を明かすと良い」
そんなわたしを見かねてか、昌平君がそう声を掛けた。
「なッ! は本来であれば正殿に立ち入ることすらできない身分でございます。ましてや寝泊まりさせるわけには」
「私がいる。有事に備えて他の者も配備している。ならば問題あるまい」
黄竜は渋々といったように頷いた後、ゆっくり休むようにと言い残して王座の間を去った。残されたのは昌平君と護衛を務める彼の私兵、それから智慧に富んだ文官らが数人。交代制で仮眠を執りながら、敵軍に不穏な動きがあればすぐに対処できるよう、夜もすがら現場で哨戒にあたっている兵と情報伝達をしているという。
寝具の代わりに己の深衣を衾にして、わたしは壁に寄りかかり目を閉じる。隣には昌平君が、時折小さなため息を漏らしながら地図を按じていた。そばに置かれた燭の仄かな温かさが、冷え切った指先にじんわりと染み入る。
「未だ傷の癒えぬお前に無理を強いた」
昌平君は亡父の存在を知っている。未だ思い出すのも憚られる、息絶えた父のあまりにも苦しげな顔――それを見てわたしが心に深い傷を負ったことも、再び誰かを失うことを酷く恐れていることも知っている。しかし逃げることを許さなかった。そう考えると彼を恨まずにはいられなかったが、まさか謝意を述べられるとは思ってもみなかった。わたしは驚いて目を見開き、顔を上げる。
「……」
「だがその才を枯らしたくはなかったというのが本音だ」
本来であれば胸の奥底に秘めたままでいるはずだった甲の言葉。昌平君はそれを実戦で機能するまでに育て上げ、いずれ手中に収めようとしているのかもしれない。もしそうだといずれ確信を持ったとしても、薄汚れた権力者の俗心に寄りかかり、自分自身の純粋な価値とはかけ離れたものを手に入れ続けたわたしは、誰かの思惑の為に利用されることを甘んじて受け入れるよりほかない。
「周りに人が居れば幾らか気が紛れるだろう。一度冷静になって考えるといい。己は何をすべきか。蒙恬はお前が悲嘆に暮れることを望むまい」
ただ人を道具のように簡単に使い捨てる者は、総じて言動の端々に生々しい野望のために人の尊厳を簡単に踏みにじる毒念が滲んでいるものだが、昌平君にはそれが無い。長らく絶対的な支配権を持つ呂不韋のもとで怯えていたわたしにとって、その態度は困惑を覚えるものであると同時に、この人は信頼に足る人間であると判断する要素にもなった。そう思うと不思議と言葉のひとつひとつが腹に落ちるものだ。
「まずは……明日に備えて休むべきです」
「ああ。それで良い」
「ありがとうございます。先生」
小さく礼を述べて昌平君の方に視線を向けると、儚く揺らめく燭の奥に映るその顔に、ほんの一瞬、見果てぬ夢を抱く少年のような哀愁を見た気がした。かつて楚の公子であった彼の、激動の半生など与り知らないわたしにとって、その表情が示す意味もまた知る由も無かった。