あれから合従軍は函谷関の牽制を続けながらも、別動隊を差し向けて山間から秦国内部への侵入を果たし、咸陽の喉元である蕞という城まで迫った。兵力の大半を函谷関の守備に割いた秦軍の勝利はもはや絶望的かと思われたが、王である嬴政自ら剣を手に蕞へ赴き、人々を奮い立たせ、ついに合従軍は撤退。張唐そして麃公をはじめとした多くの将兵が犠牲となったものの、秦国は辛勝を得たのであった。
長期にわたる任務を終え、わたしは約半月ぶりに軍師学校の宿舎へと戻った。人手不足ゆえ戦の経験が無いまま司令官として蕞へと駆り出され、敵の矢に倒れた者も何人か居たようで、手放しでは喜べない空気であった。互いを労い、抱擁を交わすうち、わたしはようやく戦に勝ったのだということを実感できた。
実際的な被害が無かった軍師学校では、元の生活に戻るまでさして時間はかからなかった。しかし未だ心は晴れないまま。というのも、蒙恬の容体に関して未だ一切の情報が入ってきていないのである。弟である蒙毅は武関から咸陽への道中にある小城の立て直しの為に軍師学校を離れているから、人づてに聞くこともできなさそうだ。直接書簡を送ろうか迷ったが、迷惑になると思うとそれもできなかった。
蒙恬の安否を気にするあまり、そのうち学業に身が入らなくなった。わたしは来冬の官吏登用を目指して勉学に勤しみ、学内で行われる模擬試験を受けているが、これの結果が一向に振るわない。この調子では振るうはずもないのだ。
やがてわたしは昌平君から呼び出しを受けた。てっきり、こっ酷く叱られるとばかり思っていたが、彼は成績に関しては一切触れずに書簡の整理を命じた。それも一日二日ではとても終わらない膨大な量だ。どうやら開戦前に軍師学校を留守にしていた期間から溜まっていたものらしい。こういった機密事項が記された書簡は部外者の手に渡すわけにはいかないため、部屋には奴婢の立ち入りを禁じている。この作業は生徒であるわたしが学費を賄うために以前より仰せつかっているものであった。
それからはあっという間だった。静かな空間に一人きりという状況は余計な考えに耽るに容易い環境ではあったが、学費の為にも真面目に働かなければならないわたしは、軍師学校への入門を許してくれた昌平君に対しては殊に期待に応える成果を出さねばならないという意識が心身に染み込んでいたから、途方もない仕事の量を前に、蒙恬のことで悶々としている暇など当然の如く一時たりとも無かった。息つく暇もなく手を動かし続け、やっとひと段落ついたと思った頃には既に黄昏時である。
隣の執務室で戦の詳報を検めている昌平君から声を掛けられ戻ると、膳部の者が二人分の夕餉を運び入れている最中だった。部屋には、他に誰も居ない。つまり片方はわたしの食事であるらしい――そうと認知するなり、一国の丞相と食卓を共にしなければならないという事実に凍り付いた。
(いつもは学舎に戻って夕餉を済ませるようにと仰るのに……急にどうされたのだろう)
直接的に言葉を交わす機会も多く、こうして執務室への出入りを許されているが故に忘れてしまいそうになるが、昌平君は本来、わたしのような者は目を合わせることすら叶わないほど遠い存在である。ましてや二人きりで食事をするなど、許されるはずがない。しかしここまで用意をさせておいて断るのも、大変失礼な話だ。どうしたものかと悩んでいるうちに、ついに腰掛けるように促され、おそるおそる着席したのだった。
几に並んだ料理は、鯉の膾や葱の葉が添えられた鴨肉の粥の他、小鉢が数個といったもので、とりわけ豪華なものではない。とはいえ丞相の口に入るものであるから、一流の料理人が拵えており、余計なものを加えずに素材の味を存分に活かした佳味であった。
「酷な頼みだったか」
疲労と緊張でげっそりとしたわたしに、昌平君が語り掛ける。
「いえ。むしろ余計なことを考えずに済みましたので、幾分か気が楽でした」
それはなにも口当たりの良い建前的な返答ではない。終戦から時は経ち、十分な休養を取ることはできたが、それでも十五日目の困憊がよほどこたえたらしく未だに尾を引いている。顧みる暇もないほど何かに没頭するほか、気を休める手段は無かった。
「負の感情を制御する術を身につけなければ、いずれ苦労するだろう」
「申し訳ございません。なかなか思うようにいかず……。先生方のように、常に冷静沈着で居たいものですが」
「少しずつ慣れてゆくほか方法はあるまい。度が過ぎた荒療治と感じることもあるだろうが、しかし私はこの先お前にいかなる艱難が待ち受けようと、それを乗り越える強さを持つべきだと考えている」
敬愛する師からそのような言葉をかけられて心を打たれた反面、述べられた壮大な構思に少しばかり疑念が生じた。というのも、わたしは此度の戦で異国語の才を買われただけで、他の知識や技術に関しては未熟である。実戦には参加せず、軍部で裏工作に勤しむ人間に、そこまでして強さを身につける理由があるのだろうか。それだけではない。わたしは彼の麾下でも食客でもなくただの官吏を目指しており、更には呂不韋の鶴の一声でどうにでもさせられるような不安定な身であるという危うさが付随している、ということを考慮すると、やはり昌平君の発言には違和感があるのだ。
先生はわたしにまた別の価値を見出しているのだろうか。
今の言葉にはどのような心算があるのか。
そこまで考えながら、疑心に満ちた目を悟られないようにこっそりと先生の様子を窺う。羹の入った陶器に口をつけ、目を伏せるその表情に険は無く、誠実な教育者の顔をしていた。
「……」
途端に憑き物が落ちたように冷静になったわたしの胸中には段々と彼を疑った罪悪感が芽生えてきたのだった。
やはり裏などは無く、単に一生徒の伸長を図っているだけかもしれない。教育熱心な御方であるのは重々承知している。疑心暗鬼になりすぎたか。万一、何かを企んでおられるとして、それは必ずしもわたしに害を及ぼすものではない。現に函谷関防衛戦での経験は自身の成長に大きく繋がった。
「先生のご期待に添えられるよう、努力致します」
呂不韋邸で薄汚い人間の卑劣な本性に幾度となく触れ、富と権力を手に入れた人間はことごとく不浄な心をもっているものだという猜疑心に苛まれていたが、そのような考えは改めるべきかもしれない。脳裏には十五日目の晩、隣で夜を明かした記憶が鮮明に浮かび上がっていた。
夕餉を食べ終えようといったところで、属吏の一人が頃合いを見て書簡を届けにやってきた。こういった配達は夜通し行われており、このような時間に荷が届くことも珍しくない。昌平君はそれらのうち一つを手に取り、封緘を解いて紐をほどいた。それから中身に目を通すと、何故かそれをわたしに差し出したのだった。
「丁度良いところに居た」
「これは?」
昌平君宛でかつ自分に関わる書簡の内容など心当たりは無い。戸惑いながらも受け取ると、思いもよらぬ言葉がかけられた。
「ようやく面会の許可が下りた」
「え?」
「見舞いに行ってやれ」
その言葉を聞いて思い当たる人物はひとり。
(――まさか!)
わたしは弾かれたように書簡を見た。差出人は予想通り蒙家であった。文面によれば蒙恬は一時命の瀬戸際にあったが、現在は順調に回復しており、邸にて療養中であるとのこと。彼が無事に戻ってきたという事実を知り嬉しさが込み上げてきたと同時に、部屋の奥に未だ山積みになっている仕事がふと目に入る。
「し、しかし命ぜられた仕事も半端でございますし」
昌平君の手前、努めて冷静を装ってはいたが、声は自分でも分かるほど上擦っていた。すぐにでも蒙家へと駆け出したい思いで一杯だったが、ここまで便宜を図ってくれた師の気遣いを軽んずるわけにはいかない。
「書簡の整理は急ぎではない。明日は暇をやろう。私も丞相府に赴かねばならん」
しかし眼前の男は涼しい顔でそう言った。はじめから、このためにわたしを呼びつけたのだろうか。気慰みになるよう仕事を与え、激励を述べる為に二人で夕餉を摂り、蒙家からの返簡が届く頃合いまでこの場に留まらせ、そしてその内容を見透かしていたかのように暇を与えた……すべて仕組まれていたと疑ってしまいたくなるような、図ったかの如き僥倖に言葉を失う。
「先生、何と申し上げれば良いか」
「戦の礼だ」
「ありがとうございます」
わたしはただ篤く、感謝の意を述べるだけで精一杯であった。あからさまな見返りを求めず、父性にも似た温かさを与えてくれる。なんて慈悲深い方なのだろうと、畏れ多くも、嬉しくもある。今まで呂不韋一辺倒であった心に、ほんの僅かに隙間風が吹いた気がした。天涯孤独となってから失われた父の面影を求めて未だ暗澹を彷徨っている、わたしを救い上げてくれる人、満腔の敬愛を捧げるべき人は、亜父だけだとは限らないのかもしれない。
その夜はあまり寝付けず、まだ日も十分に昇らぬうちに目が覚めた。身支度を整えて、厨房へと寄って軽食を腹に入れる。外出の際は、門下生の宿舎に当直する講師に外出の申告をする決まりになっている。緊急時の招集に備えて私用での遠出は認められないことが殆どだが、今回は昌平君と蒙家の取り決めであり、丞相府へ赴かねばならない昌平君の代理をわたしが務めているというていであるらしく、あっさりと許可が下りた。
厩舎へ赴くと、そこはひどくがらんとしていた。先の戦では軍馬が大いに不足していた為、軍部で所有していた馬だけではなく、こうした場所からも何頭か連れて行かれたと聞く。自分の愛馬も犠牲となったかもしれないと不安を覚えながら姿を捜すと、日も当たらないような奥まった場所で呑気に枯れ草を頬張っている騅を見つけ、懸念が杞憂に終わったことに安堵した。ここの使用人がいつしか白駘のことを軍馬にも駄馬にも使えないと言っていたことを思い返す。体躯に恵まれず、大人しい性格であったことが幸いして命拾いをしたのだ。
「白駘、わたしは嬉しいよ。死んでしまっては花実も咲かない。君にはどうか末永く相棒で居て欲しいから」
愛馬と共に軍師学校を出発し、蒙家に到着したのは昼を過ぎた頃である。
門戸から顔を出した使用人に、昌平君から預かった書簡を差し出して刺を通ずると、蒙恬は午睡をとっているとの返答があった。怪我の具合は相当悪かったようで、未だに一日中横臥する日が続いているという。
「それではまた出直します」
「いえ。見舞いに来られたお客様はいつでも通して良いと、蒙恬様から言いつけられておりますので、どうぞ」
邸は静寂に満ちており、内院には百鳥の鳴き声が鈴のように響き渡っていた。青葉の香る風に乗って生薬を煎じた時の独特な匂いが漂っている。楽華隊をはじめとした蒙家の雇兵らには故郷へ戻らずここで療養を受ける者もいるようで、道中すれ違う兵士らは大なり小なり皆怪我を負っている。
「ではごゆっくり。何かあれば近くの者に声を掛けてください」
「はい」
やがて邸の東にある蒙恬の部屋の前まで案内されると、使用人が「失礼します」と声を掛ける。返事は無かったが、中に入るように促された。何回か訪れた場所にも拘わらず、わたしは緊張を刷いた面持ちで足を踏み入れる。
背後で帳が下ろされた。部屋には二人きり。
蒙恬の体はすぐそこに、衾に深くつつまれており、枕元には薬籠や製薬の道具などが置かれている。こちらに背を向けており、その表情は伺えない。しかし物音に反応しないところを見ると、きっと深く眠っているのだろう。わたしは音を立てぬように、摺り足で彼に近寄った。ごゆっくり、とは言われたものの、無理やり起こすのも悪い。言葉を交わすことができないのは残念だが少しだけ顔を見たら大人しく帰ろうと思った。
「蒙恬」
小さく名前を呼ぶ。また呼べることが嬉しかった。本当はその肌に触れて生きていることを確かめたかったが、友人とはいえ異性の寝込みを衝くのは気が引けて、厚い布越しに手をあてた。
「……」
生きている人間の体温が、手のひらにじんわりと滲み渡る。楚の巨人・汗明の一撃、何日も意識を失うほどの強烈な痛みはどれほどのものであったか。想像してもしきれないほど惨いものだ。太刀筋が僅かでもずれていたならばきっと命は無かった。
安堵すると目の端が熱を帯びた。十六日間にも及んだ戦の記憶、その断片が次々と思い起こされて意図せず暗涙が零れる。それを手の甲で拭っていると、蒙恬が小さく唸り、やがて目を覚ました。
「……?」
「あ……」
「泣いていたの?」
たゆい瞳がこちらに向けられる。目と目が合った。
蒙恬はわたしの姿を捉えると、両手をついてゆっくりと身をもたげた。着崩れた衣服の隙間、肩口から腹にかけて走る傷を覆うように繃帯が幾重にも巻かれている。その痛々しさに目を背けたくなった。
「見苦しい格好だよね」
「傷が治らないうちに面会を申し込んでしまったのはこちらですので」
「先生からの書簡には見舞いの者を寄越すとしか記されてなかったけれど、なんとなく君が来てくれると思ってた」
「まずはご無事で何よりです」
「心配かけてごめん。弟に訊いたよ、先生の命で中央に居たって。辛い責務だったろうけど、最後まで頑張ってくれたことが俺は嬉しい。君を推薦した身として誇りに思うよ」
起き抜けの枯れた声に、痛みに耐えるような深い吐息。初めて見る彼の弱々しい姿を見兼ねてその背を支える。
「横になりますか?」
「いや、このままで大丈夫。あ、水を取って欲しいな。まだ体が思うように動かなくて」
言われた通りに近くに置いてあった水瓶を手渡すと、蒙恬は気持ちよさそうに喉を鳴らしながらそれを飲み干した。水に濡れた血の気の無い唇から、時折忘れたように吐息が漏れる。
それから二人の間にしばしの沈黙が訪れた。あれほど見舞いに行きたいと願っていたのに、いざ対面するとわたしはどうすれば良いのか分からなくなった。いつもは気の利いた話題を振ってくれる蒙恬も、すっかり悄然としている様子である。なんせ生死を彷徨うほどの怪我を負い、武官としての任務はおろか日常生活もままならない状態になってしまったのだから。
「に詫びなければいけないことがある」
出し抜けに、蒙恬がそう呟く。
「わたしに?」
「もうずっと前のことだけど――君がこの邸に来たばかりの頃かな。客人という立場を忘れて、見ず知らずの幼子の為に危険を冒したことに対して、俺はきつく叱っただろう」
「そのような事もございましたね。しかし此度の戦と何の関係が?」
あの時の悔恨はとうに薄れた。むしろ互いに大人になった今となっては、二人の仲を深めるきっかけとなった懐かしい思い出だ。わたしは内心困惑しながらも、神妙な面持ちの彼に視線を向ける。
「俺は君を浅はかな人間だと内心呆れていた。たとえ御父上を亡くした悔恨があったとしても、火中に飛び込む前に歯止めをかける理性が残っていなかったものかなと」
「あれはわたしの軽率な行動が原因ですから」
全ての原因は自分にある。あの時の蒙恬が腹の底で何を思っていようと、命を助けてくれたことには変わりない。しかしそのような何年も前のことを掘り返して、臥せっている間に何か思うことが在ったのだろうか。もはや再会の喜びよりも、覇気を感じない彼の様子に別の不安が生まれてきた。
「俺が怪我をした理由、もう聞いた?」
「蒙武様と汗明の間に割り入ったと伺っております」
「そう。あの一騎打ちの最中で、父上の背に敵兵の刃が迫っていた。だから俺が止めに行かなきゃいけないと思って、そうして――」
蒙恬はそこで言葉を詰まらせた。その先はきっと彼自身も記憶に無いのだろう。
「でしたらやはり謝られる必要など無いではないですか。蒙恬はあの場で蒙武様の勝利のために、ひいては秦軍のために、騰軍より離脱したのでしょう」
「違う。あの時の俺は父上を救いたい一心だった。秦軍の勝利の為になんて考えてすらいなかった。騰軍に残した兵士たちのことも、自分の命を守るべきことなども、きっと頭の片隅にも無かった。手練れとはいえたったの十騎。五千人の将という立場の人間が自ら身を挺して止めなければいけないほどの攻撃だったのだろうか。答えは否だ」
「……」
「目が覚めて真先に思い浮かんだ。俺に理詰めされて、それまで石のように無表情だった幼げの残る君の顔に罅が走った時のこと。なんて酷い言葉を浴びせてしまったんだろうと――」
そのようなこと、微塵も恨んではいない。その意思表示に首を大きく横に振る。
「その……っ! 昔の失態はどうか忘れてくださいませ! 今は蒙恬が生きていてくださった、その事実だけで十分です。わたしは此度の勇気ある行動に心より敬意を抱いております。もしあの一騎打ちの結果が違っていたならば、戦の趨勢は大きく変わっていたことでしょうから」
わたしは僅かに声を荒げた。これ以上、蒙恬が自身を傷つけている様を黙って見ていることができなかった。彼は驚いたような表情をしたあと、ややあって物寂しそうな笑みを浮かべる。まるで瘧が落ちたかのような変わり様だ。やや覇気が欠けているものの、目の前に居るのは紛れも無く普段通りの蒙恬だった。その姿を見て安堵し、ようやく邸に赴くまでのあらゆる緊張から解き放たれた気分になった。
安堵のあまり脱力したわたしに、生々しい傷跡が刻まれた手が緩慢な動作で伸ばされる。柔らかな髪の束に蒙恬の長い指が絡みつく、くすぐったさに目を細めながら、照れ臭さを隠すように低い声で呟く。
「……あまり動かれては傷が開いてしまいますよ」
「大丈夫。しっかり固定されているから」
しかし蒙恬は至福に満ちた表情を崩さない。先程まで彼の変わり様に戸惑っていた心はいつの間にか、起き抜けのしどけない色気に満ちた姿に対する年甲斐もないときめきと緊張の一所に置き換わっていた。気恥ずかしいが満身創痍の彼に抵抗するのも憚られる。長らく病床にある身では都の美しい女性たちとのそういった戯れもご無沙汰なのだから、このささやかな触れ合いが代替となるならば構わないと、羞恥を押し殺しながら目を伏せると、ますます調子づいたらしい彼はわたしの肩を静かに抱き寄せた。
「あ、あの!」
「静かに。人が来る」
慌てふためくわたしを見て意地悪そうに耳元に唇を近づけるように囁いた蒙恬。薄絹の寝衣越しに伝わる彼の体温に、せり上がる鼓動はやがて頭の中に響くまでになる。彼の人となりを知って尚、いつまでも耐性がつかない自分につくづく嫌気が差した。
…… ……。
やがてどちらからともなくそろりと体を離すと、蒙恬は改まったような態度で小さくはにかんでから、硬直したままのわたしにしみじみと語り掛ける。
「昔の君は触れたら壊れてしまいそうなほど危うい人だった。精根尽きたといった感じですっかり心を塞いでしまっていた。腹を斬られた時だって泣かなかったくらいだ」
蒙恬は過ぎ去った昔日を懐かしむように視線を宙に置く。わたしは忘れかけていたその思い出を手繰り寄せながら、彼の方へ視線を移した。
「今は凛々しさが増した良い表情をしている。それによく笑うようになったし、泣くようになった。強くなったよ、初めて出逢った時よりもずっと」
琥珀の玉のような瞳に映る己の顔が、しばし呆気にとられた後、みるみるうちに赤らんでゆくのが分かる。
――おまえにはいずれ良家に嫁いで欲しいが、その頬が弛まぬうちは表に出す訳にもいかんのだ。
かつての呂不韋の言葉を思い返す。そもそも蒙家で過ごすことになった理由は、父を亡くしてすっかり滅入ってしまったわたし心の平癒のため。穏やかな田舎の邸での転地療養だ。結局は斉の豪商がわたしの顔を見るまでもなく政略結婚に肯いたことで十分とは言えない状態で蒙家を去ることになってしまったが、今となっては元来の自分を取り戻すという目的は達成できたと言って良いだろう。
よく笑うようになったのは、非情な世に抗う人の強さと温かさを気付かされたから。悲しみや苦しみを表に出すことができるようになったのは、誰かが手を差し伸べてくれると知ったから。それらはすべて蒙恬に起因している、あらゆる縁の中にある。
わたしが強くなれたのは紛れも無く貴方のお蔭なのだと。面と向かって言葉にできることが、生きていることがどれほど幸甚か。