浮世夢の如し

  十四.凶星燃ゆ・前編

 始皇六年に起きた東方五国との大規模な衝突は、五百年に及ぶ戦乱の世の最後に興った合従、そして秦が滅亡に瀕した戦いとして正史に固く刻まれることとなる。この年は攻撃を受けた秦のみならず、どの国も大きく疲弊していた。特に楚や趙の大国は、有能な将を失ったばかりでなく、遷都などといった国事や内政問題の悪化も重なるという大変な痛手となった。ゆえに後半期は、まるであの酸鼻な出来事が全て夢であったかのような、非常に穏やかな日々が続く。
 あれから、瞬く間に一年が経過した。
 野山を覆った真っ白な雪がまだらに融け、緑が芽吹いたかと思えば、陽の光が肌を刺す夏の気配がすぐそこまで迫っている。この時期は楚国の方では霖雨と呼ばれる、絶え間なく雨が続く時期に入る。地は歪み、山は崩れ、食物は腐るという好ましくない季節だ。南方への視察の任についた門人が愚痴をこぼしている姿を見た。
 蒙恬を見舞い、彼の無事を知ってから気懸りが解消されたことで、伸び悩んでいた成績も今は順調に上がりだしている。先の戦で中央に呼ばれたという話が広がってからは、陰書の解読といった仕事を頼まれることも増えた。
 そしてとうとう、今夏から戦地の視察へ赴く許可を得ることもできた。軍師学校に身を置いてからはや三年が経とうとしている。たった一年で早期認可を得た河了貂に比べれば遅い歩みであるが、確実に力はついていると言って良いだろう。

 その河了貂は軍師学校を離れ、正式に飛信隊所属の軍師となった。寂しい気持ちもあるが、彼女の才をこの狭い学舎の中で殺してはいけないという意見には同意せざるを得ない。そんな彼女と信が、逗留先から近々咸陽へ戻ってくるという噂を聞いて、わたしは急いで会う約束を取り付けた。昨年の論功行賞の時は蒙恬の件もあって、誰かとまともに顔を合わせることもできない状態であり、彼女たちはそれから再び東郡へと戻ってしまっていたから、実に一年ぶりの再会となる。
 約束の日。わたしは二人を学舎にある私室に招いた。
 元門下生である河了貂はともかく、部外者である信を入れて良いものか悩んだが、昌平君に許可を願うと意外なことにあっさりと承諾された。破竹の勢いで成長を遂げる彼は今や、趙将・万極を討ち取った若将としてその名が知れている。存外、昌平君はそんな信に良い印象を抱いているのかもしれない。
「よう」
! 久しぶり」
「ええ。二人ともお元気そうで何よりです」
 挨拶と簡単な近況報告を済ませると、部屋の隅に置いていた酒を盃に注ぐ。普段のわたしは好きこのんで酒を飲もうとする人ではないから、信も河了貂もこちらの様子を物珍しそうに眺めていた。勿論、これはわたしが個人的に嗜むものではなく、目の前に居る二人のためにと都で評判の酒屋に従者を遣わせて手に入れたものだ。
「信の三千人将昇格をお祝いして乾杯」
 今日のもう一つの目的は信の昇進祝いだ。彼は去年、戦の功で三千人将となった。きっともう三千の兵を統べる者としての戦い方も振舞いも板についてきた頃であろう。今更ではあるが、どうしても祝いの言葉を伝えたかったという思いがあった。
 彼は大きな武功を挙げて、確実に高みへと登っている。まるで鋭い飛矢のようなその勢いは未だ衰えない。強者が衝突すれば必ずどちらかは敗れる。この世界で勝利を重ねて生き残るというのは簡単なことではない。戦地での任務が増えたわたしは、将来有望な若将が戦禍に吞まれ、そのあたら若い命を儚く散らしていく姿を幾度となく見続けてきた。だからこそ信の強さというものが以前にも増して強さを湛えた光となって目に映るのだ。
「この顔触れでお酒を飲むのは初めてですね」
「東金城の時はオレが忙しかったから、集まるのは無理だったな」
 三人の小さな饗宴は想像よりも心地良いものだった。わたしにとって印象的な信の姿は、東金城の城壁からじっと遠くを見つめていたあの真剣な眼差し。それから――引き返すなら今のうちだ。これからオマエの言う本物の地獄ってやつが絶対にやってくる――と、冷徹に言い放った横顔。思えばこの時の信の言葉は脅しでも何でもなく、わたしは先の戦で現に世の地獄を見た。しかし酒の席ではそのような面影は失せて、彼はすっかりひょうきんものである。隣の河了貂は酔った信の暴走を制したりと大変そうではあるが、ここに居た時よりもずっと生き生きとした表情をしていた。彼女なりの歩むべき道を見つけたのだろう。それに比べて自分は、未だ呂不韋に統御され、連れ戻されるその時をただ怯える日々。今冬の官吏雇用試験で好成績を残し、亜父の手が及ぶ可能性を減らさねばならないという圧迫感に潰されそうになっている。わたしはその難儀を、手元の酒で少しずつ押し流す。
 やがて段々と酔いが回り、ふわりとした心地よさに浸っていると、部屋の外から声を掛けられた。
様。お楽しみのところ失礼致します」
 そこには奴婢が届け物を持って立っていた。礼を述べて部屋へ戻り、包みを開くと書簡が数通。差出人には世情に疎いわたしであっても耳にしたことがあるような連綿たる名家の姓が並んでいる。その中身はなんとなく察しがついた。念のため封を割って確認するも、文面は想像通りのとうに見飽きたもので。面倒だと感じると共に意図せず洩れた溜息を見て、信が不思議そうに問い掛ける。
「溜息なんか吐いてどうしたんだよ」
「昨年の戦が終わってからというもの縁談の申し込みが幾度となくございまして。それも高尚な身分の者からの玉翰ともなれば無視もできず困っているのですよ」
「え、縁談!」
 大きな声を出したのは河了貂だった。彼女が軍師学校にいる間は、そういった話題とは無縁だったから驚くのも無理はない。
 初めて直々に縁談を申し込まれたのは、慌ただしい戦後処理の最中。昌平君にその才を見出されたという事実はという人間に政治的な利用価値があるということを否応無しに知らしめる結果となってしまった。本来であれば縁談の申し込みはその家の主を通すのが筋だが、相国の養女が相手ともなれば、どれほどの名家であろうと主たる呂不韋の意に適うのは難しい。だからこそ、こうして僅かでもわたしの目に触れさせて、あわよくば接触を図ろうという魂胆で、直接書簡を寄越す家が後を絶たないのだろう。
 縁談の申し込みはかれこれ数十件にも及ぶ。昼は勉学に励み、夜は昌平君をはじめとした講師たちの手伝いをして学費を賄いながら、更にこれらの対応に追われるのは非常に気が滅入る。しかし呂不韋の権威を穢さぬよう、丁寧に返書をしたためなければならない。
「そいつらと見合いでもするのか?」
「その予定はございません。わたしに縁談を申し込むのならば、まずは呂不韋様の了解を得なければなりませんので。しかしその旨を書いて送るのが面倒で」
「呂不韋?」
 信は酒を呷っていた手を止めて、細い眉を不快そうに顰めながらその名を呟く。どうやら河了貂はわたしのことを口外していないようである。彼の反応はあからさまに呂不韋に反感を抱く者のそれだ。何度も同じものを見てきたわたしは瞬時にそう判じたが、しかしそれは己の身上をひた隠す理由にはならない。
「呂不韋様はわたしの養父で、身元を引き受けてくださっているお方です」
「ゲホッ!」
「おい、信! 汚いって!」
 忌避されるかもしれないというのは覚悟の上で、包み隠さず素性を明かすと、信は驚きのあまり酷く咳き込んだ。苦しそうに咽るその背を、河了貂が申し訳なさそうな顔をしながら荒っぽくさすっている。
「冗談だろ!? 聞いてねえぞ!」
が嘘なんか吐くはずないだろ。血縁は無いけど正真正銘、呂不韋の娘だよ」
 思えば河了貂と初めて会った時も、わたしが呂不韋の身内であることを告げると、言葉にこそ表さなかったがその雰囲気には強い拒絶をしかと滲ませていた。更には彼女らが、昌文君や楊端和といった秦王派に与する者と親しいという話も耳にしたことがある。経緯は不明だがもし嬴政と何かしら関りがあるとすれば、その政敵である呂不韋にはこれまで散々、辛酸を嘗めさせられてきたことだろう。そう考えると、このような反応をされるのも致し方が無い。
「ごめんな。信は特に相国のことが好きじゃないから」
「好きじゃねえどころか大ッ嫌いだ、あんなヤツ!」
「こら静かにしろ! 軍師学校は呂氏陣営が牛耳っていると言っても過言ではないから、相国の話題は極力避けろってあれだけ注意したのに」
「ん? そんなこと言ってたか?」
「~~っ、人の話はちゃんと聞け!」
 どうやら河了貂は気を利かせてくれていたようで、わたしの出自に触れぬように遠回しに信に注意喚起をしていたらしい。しかしその心遣いを無碍にしてしまったのは他でもない自分であることに、申し訳ない気持ちになった。
「呂不韋様の所業が万人に理解され得るものではないとは承知しておりますので、批判的な声はあって当然です」
 自らの栄進と享楽のために人を道具のように操り、弄び、使い潰して。余人の犠牲に心を砕くこともない。そのような呂不韋の生き方は、信のように真直ぐな人間には受け付け難いものであることだろう。それでもわたしはあの御方の元来の温かさを信じているからこそ恩義に報いたいと強く願っている。こればかりは価値観の違いだ。
「とはいえ軍師学校に入学する条件として表向きには婿探しをしていることになっておりますので、公然と拒むことはできません。ですからこういった順序を踏まない方々の書簡も受け取る羽目になっているのです」
「なるほどなあ。ということはもし呂不韋から相手を紹介されたら見合いなり結婚なりするのか?」
「そうしなければなりませんね。わたしは嫁ぐという道ではなく、己の得意とすることで呂不韋様のお力になりたいと考えておりますが、未熟であるがゆえに為し遂げることができるかどうか。それまでにあの方が望むお相手との縁談があれば断る謂れはありませんので」
 どんなに衆生に憎まれようとも、亡父とわたしの命を救ってくださった御方であるのは事実。命より重いものは無い。今この瞬間の幸せを享受できるのもすべて呂不韋のお蔭であると思うと、わたしは彼の期待を裏切ることはできそうにない。気乗りはしないが、致し方ないものだと納得するしかあるまい。
「薄汚れた権力者連中の嫁になって不幸になるくらいならば、きっぱり断れば良いだろ」
 信は嫌悪感を露わにした声でそう言った。家の為に顔も知らない男と結ばれることが当然とされている風習は、恋愛結婚が流行っている市井の人間にとっては馴染みの無い文化であるのかもしれない。
「結婚とはそういうものです。私情よりも家の事情。それにわたしは以前に婚姻関係を解消されている身ですので、今度こそ呂不韋様に迷惑をかけるわけにはいかないのです」
「え、結婚してたのか?」
「軍師学校に入学する前に」
も色々大変なんだなあ」
 河了貂は同情するようにうんうんと頷きながら話を聞いていたが、信は不服そうな表情を崩さぬままこちらを見ている。
「アイツは、蒙恬はいいのかよ」
 唐突に出てきたその名前に、僅かに戸惑った。
「何故です?」
「仲良いんだろ。その、呂不韋の決めた相手と結婚するなら悲しむんじゃねーのか」
「蒙恬様が? いやまさか。あの方はわたしが次の結婚こそは絶対に避けられないことを知っていますから」
 蒙家は秦国にその勇名を馳せる名家であり、嫡男である彼も結婚の政略的な重要性に関しては理解している。いずれわたしが呂不韋の決定で顔も知らぬ男のもとへ嫁ぐことも承知しているはず。
 そこまで思考を巡らせて、自分で信の言葉に反対しておきながら虚しさに襲われるも、同時に蒙恬の言動に対する違和感に気付く。
 あれはわたしが斉から戻ってきた年の中秋節の晩。蒙恬と内密に逢瀬を交わした日のこと。彼は政略結婚の道具として遠く離れた国へ嫁いだことを憐れみ、更には夫に離縁を言い渡されたという傷が癒えぬまま、居場所を失った邸でなおも屈辱に耐え続得るわたしを、さだめから逃がそうとしてくれた。その事実を顧みると、途端にわたしは彼の思考がまるでわからなくなってしまった。
 蒙恬はわたしのことをどう思っているのだろう。華やかで社交的な彼が、わたしを大切な友人だと認めてくれているのならば。埋められない欠落だらけのしがないこの身に、同情の念を寄せてくれるのならば。それは嬉しいことだ。
 それだけだったらいい。
 わたしは彼とどうなりたいわけではない。なれるとも思っていないし、それを夢見ることさえないほど有り得ないと考えている。彼も恐らく同じであろう。たまに戯れのようなやり取りを交わすことがあるが、決して本気ではない。だからわたしも本気にならないように割り切って付き合うようにしている。というのも、彼は友人の欲目を抜きにしても才貌両全な男性だから、ふとした瞬間に自分の立場を忘れてしまいそうになることがあるのだ。情けないことに。
?」
「ごめんなさい。少し考え事をしていました」
 名前を呼ばれて、束の間の甘い夢は火花のようにぱっと弾ける。眼前に広がる非情な現実が頭を擡げた。
 もしもわたしが次の結婚に対して拒絶を示せば蒙恬の真意を知ることになるだろう。彼が冷たい人であれば良い。二度も助け出すことはできないと簡単に諦めてくれるのならば、傷つくのは自分だけだ。
 しかし手を差し伸べようとするのならば。今度こそ呂不韋は見逃してはくれないだろう。わたしは蒙恬個人のみならず蒙家にまで、取り返しがつかなくなるほどの甚大な迷惑を掛けることになるかもしれない。ならばわたしは益々、呂不韋の決定には素直に従うほかないのである。蒙恬が与えてくれた軍師学校での日々が水泡と帰する事実を、何とも思っていないような澄ました顔で、偽りの微笑みで空世辞を並べて。幸せな結婚だと言わなければならない。
 そう思うと、まるで胸いっぱいに石が詰まっているかのように心が重い。だからといって蒙恬に何かをして欲しいわけでもないのだ。わたしはただ変化を恐れている。この理不尽な現実から逃げ続けて、甘い夢を見続けたいと思っているだけ。だが実際はそうはいかなくて、駄荷を引く牛馬のように決められた道をひたすらに進むことしかできない。
 わたしが衷心より恐れているのは呂不韋自身ではなく、彼の鶴の一声で己の人生が大きく変わってしまう、その事実であるのかもしれないと、そう思い知らされずにはいられなかった。


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