夏の朝は好きだ。
明け始めた空の陽が牽牛花の朝露にきらきらと輝き、蓮池の鮮やかな緑色には白や薄紅の花が満開となって立ち上っている。甘やかな花の香りは蒙家で過ごした遠い記憶をありありと呼び覚ます。あの邸の内院にも大きな池があり、その優しい情景は孤独なわたしの心を幾度となく慰めてくれた。思えば蒙恬と出逢った場所も、蓮の花が浮かぶあの池のほとりであった。
かすかに湿ったひやりと心地良い冷涼な空気は、連日のうだるような暑さによる倦怠感を一瞬で吹き飛ばしてしまうほどの爽やかさだ。薄明のうちから人々は続々と起き始め、茶楼に長い列を成したり、市場に食物や織物、工芸品などを持ち込んでいたりと、街は活況を呈している。散策を終えて戻る頃にはますます人出も増えていた。沿道の手入れをしていた宿の使用人らが「お早いお目覚めですね」と慇懃に挨拶を述べる。ここら一帯は昨年の山陽攻略戦で秦領となっており、未だに戦の爪痕が生々しく残っている場所。田畑や山林は焼き払われ、二年の月日を経てやっと少しずつ緑が芽吹き始めた。東郡に移り住んだ人々の、生活の基盤も整い始め、こうした道の舗装までようやく手が回ってきたといったところだ。
思ったよりものんびりしすぎたらしい。気づけば待ち合わせの時間が迫っていた。召し替えをし、武器を佩き、一連の支度を終える頃には、外は体じゅうの水分があっという間に吸い取られてしまいそうなほどの気怠い暑さだった。重い体に鞭を打って急ぎ足で馬に跨り、脚で腹を締めて前進せよと命じようとしたところで、背後から声を掛けられる。
「おはよう。随分と早いね」
「もうすっかりお昼ですよ、蒙恬様。おおかた明け方まで遊興にふけっていたものとお見受けします」
「あー。うん、正解っちゃ正解」
やや眠気を滲ませた声で、蒙恬は目を細めながらこちらを見る。
彼と会ったのは決して偶然ではない。ここらは趙や魏、韓と国境を接しており、度々小さな戦が勃発している地域だ。現地でそれらを視察することで武略や政略の知識を蓄えたいと昌平君に申し入れをしたのである。しかし自国領とはいえ未だ戦火の爪痕が色濃く残る場所。多少の危険は免れないと判じた昌平君はある条件付きで承諾してくださった。それこそが、蒙恬の逗留先で彼の指示を仰ぎながら視察を行うというもの。ということで暫く同じ宿に寝泊まりをしている。
蒙恬はかつて軍師学校を優秀な成績で卒業しており、またわたしと親しい人物であることから、信用できると踏んでの人選であろう。しかし先生の心配をよそに、面倒な仕事はほぼ部下に丸投げをしているのが常である彼は今回もその例に漏れず、わたしの身を信頼厚い古株の麾下に預けた。普段であれば憎まれ口のひとつも叩きたい気持ちであるが、彼にわたしのような貧弱な人間の御守という任を増やしてしまう申し訳なさもあり、素直に受け入れた。蒙恬を長く支えてきた楽華兵は、なんといっても、孫である彼をたいそう可愛がっているあの蒙驁が組織した兵軍であるから選りすぐりの精鋭ばかり。護衛として申し分無いどころか、むしろこちらが恐縮してしまうほどだ。
「相手方を待たせてしまっていると思いますので、行って参ります」
「ん、分かった。仕事を片付けながらのんびり待ってるよ。じゃあ気を付けて」
ひらひらと手を振る蒙恬に礼をして今度こそ宿を発つ。
それから護衛の兵と合流すると小城を出て東方に疾駆した。十里、二十里と休むことなく進んでゆく。同じ秦領であってもここらは王都とは植生やら土質やらがまるで別物であり、馬上から見渡す景色を眺めながらその異質な空気に新鮮さを覚えた。
「そろそろ魏国領です。様、ここからはくれぐれも我々と逸れぬよう」
「ええ」
鬱蒼とした山林の、深奥へと進むにつれて口数は減ってゆく。どこに敵兵が潜んでいるかも分からぬ緊迫感は烈しい鼓動となって胸を乱した。木々の隙間から差し込む陽の輝きはやや失われ始めており、既に南天を過ぎた頃であると伺える。いくら日が長いとはいえ申の刻下がりには足元も十分に視認できなくなるほど薄暗くなってしまうから、そろそろ戻らねばならないだろう。このような危険な土地で露宿をするわけにもいくまい。
「あと一つ山を越えて、何も無ければ戻りましょう」
そう言ってまた暫く進んだところで、先導していた護衛の一人が急に足を止めて、馬から降りるように目交ぜをした。戸惑いながらもその通りにして、近くの木に馬を繋ぎ、気配を殺しながら慎重に進むと、その先は切り立った急崖であった。
眼下は岩山と河に挟まれた狭路である。土埃や、火箭の煙が濛々と立ち上るその中には三百ほどの武装した兵が居た。護衛に続き、体を地面に伏せて姿を隠しながら険の高陽よりその光景を見つめる。「趙」という大旗を掲げた甲冑の騎兵ら数十と、やや貧弱な装備ながら数で圧そうとする歩兵らを目に留めて、彼らから絶え間なく聞こえる怒号や悲鳴の訛りからわたしはその正体を推測した。
「あれは趙軍と……対するは魏軍でございましょう。魏の方は訛りが独特です、おそらく趙本軍の小隊と、魏西部辺境の雇兵部隊が衝突しているかと」
「ほう。中々に鋭いな」
年嵩の護衛が感心したように頷く。予想はおそらく当たっているようだ。
再び視線を下ろすと、双軍の陣形はとうに崩れて敵味方が複雑に入り乱れ、兵の統率がまるでなっていない。この戦は双方にとって予期せぬ遭遇戦だったようだ。このような場合、軍力の差がそのまま勝敗となるが、それらが同等であれば、いかに冷静に適切な判断を下し混乱する兵卒を纏め上げるかという各軍の将たる者の器量が命運を大きく左右する。しかしこの場においてはそれまでも同程度であったようで、戦は混迷を極め、優劣が何度も入れ替わりながら双方数を減らしてゆく。人が死ぬ光景を見るのは未だに慣れない。命の灯が消えるその時、苦悶に満ちたその表情のままぷつりと糸が切れたように頽れるその姿に、幾度となく父の最期を思い出す。
――だが慣れねば、先生もそう強く望んでおられるのだから。
目を背けたくなってしまうのを必死にこらえながら、心の裡に決意を新たにした。無数の矢や甲冑の破片、赤黒い血だまりに斬り落とされた手指や首がごろっと打ち捨てられているのを見ると、盤上の模擬戦がいかに残酷な現実が削ぎ落とされたものであったかを痛感する。やがて十数騎に数を減らした趙軍が散散に撤退し、戦は決着した。魏の破落戸は趙兵の亡骸から武器や金になりそうな装飾品を盗み、洞子に怪我を負った仲間を乗せて山寨へと去ってゆく。両軍の気配が完全に消えたことを確認してから、辺りの様子を窺いつつ護衛と共に山を下った。
「う……っ」
胃からせり上がってくるものを必死に押し込めるように、口元を手で覆う。眼前には酸鼻を極める光景が広がっていた。遺体の数は百では済まない。その殆どは苛烈な戦闘の中で幾度となく踏みつけられ、元の顔形も判別できないほどむごい有様だった。油を撒かれ、火箭が飛び交った戦場には、のったりと重い、焦げ爛れた人の匂いが濃厚に漂っている。
先生はどのような細やかな報告も必要とする人だ。視察という目的でこの地を訪れている以上、場所や戦の規模、両軍の所属、戦法、使用された武器や道具などの仔細を調べる必要があった。仄かに温かさが残る亡骸に手を滑らせ、懐まで念入りに、敵国の手がかりとなるようなものが無いかひとつずつ確かめる。光が失せた瞳、交わることの無い視線、不気味さに怖気づいて手元に視線を下ろすと、指先から爪の間まで余すところなく染み込んでいる真赤な血。すべてが恐ろしく、嫌になりそうだった。兵法を学ぶことを純粋に楽しんでいた蒙家での暮らし、或いは期待と不安に包まれながら軍師学校の門戸を叩いたかの日の、無知であった時分の代償が全て押し寄せてきた気分だ。
太陽はとうに水平線に隠れ、街並みは黒塊と化して熟れた果実のように燃える西空に影を落としている。あれから再び敵国の伏兵に怯えながら林野を駆けて戻る頃には、心身共に酷く疲れきってしまっていた。夕餉も喉を通りそうにない。刺すように冷たい川の水で、皮膚が擦り切れそうになるまで血を落としてきたが、不快感は拭えずにいる。湯殿でゆったりと体を休めて、柔らかな寝具に包まれてまどろみに身を任せたい。そう思いながら、馬を厩舎に預けて宿への道を歩いていると。
「蒙恬様ァ! 執務そっちのけで遊び歩かれてばかりでは大殿や蒙武様に顔向けできませぬ! 今日こそはどうか、どうかこの胡漸の顔を立てるおつもりで――」
「あ、。良いところに」
胡漸が子犬のようにつぶらな瞳を涙に潤ませながら、蒙恬の袖を掴んで引き留めていた。どこか既視感がある光景だ。蒙恬はわたしの顔を見るなり、援護してくれと言わんばかりに目で合図を寄越した。承諾しても断っても面倒な板挟みにあいそうで、人知れず嘆息を吐く。
「今夜はと出掛ける予定だったから、仕事の方はよろしく」
「そ、そんな予定なんて聞いていませ」
咄嗟に反論するわたしの言葉を制するように、蒙恬は胡漸にぐっと詰め寄る。
「相国殿の御息女とのお約束はしっかり守らなきゃ、それこそ父上に迷惑がかかっちゃうかも」
「ぐぬう……せ、せめてお早めにお戻りくださねば困りまするぞ」
「大丈夫。わかってるから」
そう言って蒙恬はにこやかな笑顔を浮かべると、わたしの腕を掴んで歩き出した。胡漸の切なげな声色に後ろ髪を引かれながらも、歩調を変えず進む彼に抗う気力も無く、大人しく着いてゆく。
「わたしの立場を良いように使っておられるようで」
「ごめんごめん。仕事が面倒なのもそうだけど、君に見せたいものがあったことを思い出して。ほら、近々咸陽に戻るんでしょ?」
「てっきり途中でわたしと別れておひとりで遊びに行かれるのかと」
「あはは、俺がそんな酷い人に見える?」
人通りが少なくなり閑散とした道。進むにつれて足元を照らす行燈の明かりは徐々に減ってゆく。この先は主に農民らの居住区となっていて、遅くまでやっている店も無い。暗がりの奥は行き止まりだ。夜になると邑の防衛と秩序維持のために門は閉鎖されてしまい、数人の門吏が終夜見張りをしている。胡乱な者は勿論、中央からの使者や要人であっても取り調べが行われ、平定したばかりの昨年は妥当な理由が無い場合は罰せられることもあったそうだ。
「まさか邑の外へ?」
「正解。そのまさか」
いくら名高い蒙家の子息とはいえ、喫緊事でもなければこの時間からの外出は許されないだろう。門の警備は厚く、また錠の閂は役人が厳重に保管しているから、監視の目を盗んで抜けられるものではない。ではどうやって?
戸惑うわたしの手を引いて、蒙恬は月の光を頼りに城壁の階段を上り始める。眼下の景色は次第に遠ざかり、家屋から漏れる柔らかな灯りの粒が、夜に沈みゆく街並みにまばらに散らばっていた。ぬるい風がひゅっと音を鳴らしながら、外套を舞い上がらせる。眩暈を覚えてしまいそうな浮遊感に、このまま風に攫われて闇に融け入ってしまいそうな感覚に陥った。
「よし、降りよう」
城壁の上に到着すると、蒙恬は人ひとりがやっと通れるほどの女牆の隙間を指さした。女牆とは城壁に設けられた凸型の垣根であり、敵兵が攻めてきた際にはここに身を隠しつつ、隙間から弓矢などを撃つために使われる。
「ここから護城牆に移ったら非常用の階段がある。下まで降りたら羊馬牆と堀を抜ければ外に出られる。もちろん実践済みだから安心して」
「だ、駄目です、戻りましょう! もし何かあれば、見張りを通じて楽華の皆様や軍師学校に露見してしまうでしょうし」
「俺が一緒に居ても不安?」
「そのようなことは……」
躊躇するわたしをよそに、蒙恬はいたずらをしようとする子供のように爛々と目を輝かせて不敵な笑みを浮かべる。努めて良い子であろうとしていたわたしは、今までに味わったことの無い背徳感を覚えていた。いけないと知りながら城の規律を犯そうとしている――そう思うとどことなく高揚感が湧き、鼓動がよりいっそう強く胸を打つ。
「わたし、蒙恬と関わってからどんどん悪い子になっているような気がします」
「は本当に可愛いことを言うよね」
思考を率直に伝えると、歯の浮くような言葉が返ってきたものだから、気恥ずかしさに視線を僅かに背ける。胸を満たす甘さに浸りながら、一歩、また一歩と先導する彼を追った。あれやこれやと心配するよりも、もうどうなっても知るものかと踏ん切りをつけてしまったほうが楽しいと気づいてからは足取りも軽い。白々と照らされた静謐の中、ひめやかな二人きりの冒険は、ありとあらゆる幸福の何よりも尊いように思えた。
大河のように広大な草原を吹き渡る風に乗って、強く、濃く、噎せ返るような草いきれの匂いが漂う。足元を踏みつけるたびに、辺りには鼻腔を刺激する熱気が立ち上り、自然の圧倒的な生命力が生々しく感じられた。
ふと背後に目を向ければ城の陰影は遥か遠くにあり、城壁や望楼に設置されている松明の灯りが小さな星のように瞬いている。気づけば随分と遠くまで来てしまっていたらしい。月が明るい夜とはいえ、視界はおぼろげである。いったい、こんな場所に何があるというのか。少しでも天気が崩れてしまえば、方角を見失って帰れなくなるかもしれない。やはり城に戻ったほうが良いのではないかと、そう思い始めたとき、淙々と流れる水の音が耳に飛び込んできた。
連れられた先は、東郡の広大な沃野を潤す河川の、小さな分流のほとり。原生の姿をとどめるその場所には、城邑を流れる人工的な水路とは異なる幻想的な眺めが広がっていた。
視界を横切る仄かな光がひとつ、ふたつ……よく目を凝らすと、暑湿の川辺に乱れ散るその数は瞬く間に膨れ上がる。
「……蛍だ」
「偶然見かけてね、珍しいでしょ?」
人の手が加えられた環境ではその姿を見ることは叶わない。青々と茂る草葉の中から次々と飛び出す光は、ゆっくりと明滅する。まるで宙に融け入る雪のような儚さで。
わたしは返事をわすれて、目の前の光景に釘付けになっていた。
蛍に関してはさまざまな伝承がある。泥や枯れ草といった汚猥から生まれてくるのだとか、はたまた亡くなった人の魂が現世に戻ってきているのだとか。わたしは普段、そのような根拠の無い言い伝えは信じない質だが、今日ばかりは後者を信じたい。蛍が飛ぶ時期は鬼月ともいう、亡霊が現世へ戻るとされている月。静かな水辺で思うが儘に飛び交うその姿は、まるで現世を懐かしんでいるようだ。昼下がりに見た戦地に残された亡骸の、無念の死を遂げたあの人たちの魂魄も、救われていて欲しいと願う。
「もう少し見ていたいです。ご迷惑かもしれませんが」
「迷惑なんかじゃないよ」
その場に腰を下ろした蒙恬の隣に、並ぶように座る。蛍を見るのはいつぶりか、と思い返してみると、少なくとも咸陽に来てからは一度も無かった。枯れ草が蛍になるという伝承は幼い頃に父に聞いたもので、二人で根を下ろす場所を探すために中華の国々を渡り歩いていた旅の道中で蛍を見た記憶がある。きっとあれが最後であった。もう父娘で蛍を見ることは叶わないが、亡父も小さな光となって浮世に戻ってきて、今も見守ってくれているのであれば、わたしは強く生きなくては。
「胡漸さんに怒られてしまったら、わたしも一緒に謝ります」
「気にしなくて良いのに」
時を経て天涯孤独となってしまった自分にも、こうして寄り添ってくれる人がいる。その幸甚を噛みしめながら辺りを漂う光の粒子を眺めてきると、ふと違和感を覚えた。
――今宵は星々が明るい。いや、この明るさは月だろうか。
蛍ばかりに気を取られていたせいか今まで気づかなかったが、視界の端に映った、涼し気な水温を響かせる水面。そこに映る潭月らしきものの輝きが、いつにも増して鮮烈な明るさで、まるで燃えているかのように見える。わたしはその正体をこの目で確かめるべく、視線を宙に向けた。
「……あれは?」
まるで夜空を断つように、燦然と現れたそれはあきらかに月ではなく、しかし星と呼ぶにはあまりにも異質であった。
「彗星でしょうか」
「そうみたい。箒のような尾が見える」
わたしの言葉につられて顔を上げた蒙恬が首肯する。
瞬く間に消えてしまう流星とは異なり、それはいつまでも空に佇んでいた。核は目映いばかりの白。そこから伸びる青色の尾は火の粉のような煌めきを振り撒いている。占星術に関する書物を読んだ際に、彗星という言葉を知ったが、何十年に一度とも言われる訪れを実際に目にしたことはなかった。生きている間に見られるかどうか分からない、それほど貴重な光景をいざ目の当たりにして、しばし驚きのあまり言葉を失っていた。
「初めて見ました」
「俺も。滅多に見られるものじゃないよ」
水平線にかすかに浮かぶ茜色と、深紫の美しい濃淡が描かれた空を駆ける一閃。まるでお伽話の一節のような景色。あまりの壮大さに、己の存在がとてもちっぽけなものに思えてしまうほどだ。きっと城では、大変な騒ぎになっているに違いない。それほど珍しい事象である。しかし、ただ珍しいというだけで終われば良いのだが。
「あまり不吉なことは口にするべきではないのかもしれませんが……このような時期に彗星が現れると、天が我々のさだめを示しているような気がしてなりません」
珍しい、綺麗だ、そのような言葉だけで片づけられるものではない。
彗星や日蝕・月蝕などの天にかかわる稀事は凶事の報せとされている。合従軍との戦から暫く経ち、束の間の安寧を得ているこの時こそ次に起こり得る災いが恐ろしい。特に彗星は箒のような尾で今迄を一掃してしまうという言い伝えがある。あの星が、何かを奪い去ってしまうのではないか。秦にとって有利に進んでいる世の趨勢を、ひっくり返してしまうのではないか。今この瞬間の、ささやかな幸せさえも、二度と掴むことができなくなってしまったら。悪い方向へと考えが及んでしまう。
不安に駆られ、気づけば袖口をぐっと握りしめていたらしい。蒙恬の温かい手のひらが己のそれに被さるように置かれて、はっとして隣に座る彼を見た。
「彗星が現れるのは不吉。月が隠れると不吉。それはつまり、何事も無い日常が一番幸せだっていう教えだよ。ただそれだけ」
「言い伝えは信じていないのですか?」
「口碑は人が長い歴史の中で積み上げてきた経験と知恵だから、完全に信じていないとは言い切れないけれど。でもまあ、そこまで心を痛めることは無いよ。だってこんなにも綺麗なんだから」
そう言って再び夜空を見上げる蒙恬。琥珀の瞳に映し出される禍々しい彗星は、変わらず激しい光彩を放っている。やがてわたしの視線に気づいた彼が、それまで一片の揺らぎも無かった、まるで草原を渡る風のように澄んだ表情に、僅かな困惑を浮かべてこちらを向く。
「そんな切なげな顔をしないでよ」
くしゃりと顔を歪めた彼に、わたしは気力を奮って笑みを浮かべる。しかし胸騒ぎは消えない。二人を照らす人知を超えた不気味な美しさ。その天変を恐れ、怯えることは果たして杞憂なのだろうか。それとも――。