芙蓉のたおやかな花がそよ風に揺れる。ここは咸陽から遥か西方、かつて恵文王の時代に併合された巴蜀と呼ばれる地域の、十数年ほど前に建設された都江堰という水利施設が有名な都市だ。邑の傍を流れる汶水は峻険な西部の山脈からの雪解けの水によって春には洪水を引き起こす河であったが、水路の整備が進み、冬春季は乾燥気味で作物も十分に育たなかった土地を肥沃化することに成功し、更に運河の開削により敵国である楚に対する地の利を得ることもできた。こうした灌漑・水運といった知識を深め、いずれ奪った敵領や中央の統治が行き届いていない荒蕪した地の気候や地理的要因を分析して活かしてゆくのも、中華統一の壮図を成すためには不可欠な官吏の務めである。
他国との国境は遠く、西方に棲む山民族も現在の秦王政に対して協力的であるがゆえに危険度は低いと判断され、昌平君に長期滞在を許されたのを良いことに、ゆったりと勉学に励みつつ、たまの休日は付近を観光したりと、充実した日々を送っていた。
見知った顔がいないのは少し寂しいが、慣れない土地での新鮮な毎日や新しい出会いを存分に楽しんでいる。閉鎖的であったかつての自分がこんなにも活動的でいることが不思議で、時折、長い夢を見ているかのような感覚に陥る。己の弱さに悩み葛藤していたかつての日々がまるで嘘のようだ。なんて思考を巡らせているうちに、それまでさっぱりと記憶から欠落していた、あの禍々しい彗星が夜空を照らす光景が、一瞬のうちに脳裏を過る。虫の報せか。ただの偶然か。
「まさか」
ただの思い過ごしだろう。第一にわたしは霊的な体験すらした記憶が無い。掻き立てられた不安を抑え込むように、そう強く自分自身に言い聞かせる。
しかし数日後、その懸念はついに現実のものとなるのだった。
任務を終え、運河のほとりで舫う小舟の揺れる様をぼんやりと眺めながら、宿舎までの道を歩いていると、ふと門の方が騒がしいことに気付く。護衛である黒騎兵らと共に暫く様子を窺っていると、のどやかな景色には似合わない泥まみれの兵が、焦った様子で街の中を駆けていた。男はこちらを、正確には黒い甲冑が特徴的な昌平君の私兵を目にするなり一直線に近づいてくる。
「伝令! 伝令―!」
ただならぬ雰囲気である。そのあまりの剣幕に、傍を泳いでいた雁の群れが羽音荒く遠くへと飛び立っていく。集まる衆目を気にも留めず、馬から下りた男は膝をついた。
「い、いかがされましたか?」
尋常ではない空気を感じ取り、一歩引いて問い掛ける。
「ッ、お……落ち着いて聞いてください!」
まず落ち着くのは貴方だとはとても言えない様子。嫌な予感がした。早馬を寄越すような緊急事態である。背後に控えた護衛が、自身を落ち着かせるように大きく息を吐いた。大きな戦か、或いは内訌か? 続く言葉を請うように頷くと、男は血走った眼に涙を浮かべながら、唇を噛みしめて静かに呟いた。
「蒙驁将軍が危篤との報です」
――夜空に零れた青白い光の粒子が古きを祓う。
わたしは一目散に厩舎へと向かい、愛馬の背に縋るようによじ登った。自分と蒙驁の縁など、傍から見ればとても薄っぺらいものかもしれないが、進むべき道を示してくれた恩人が死に瀕しているこの状況で、咸陽から遠く離れたこの場所にとどまり続けることなどできようか。
それからどのように蒙家の邸に辿り着いたか、記憶は定かではない。とにかく必死で、早く行かなければという思いが逸り、悠長な思考をしている暇さえも無かった。飲まず食わずで、陽が落ちても構わず駆け抜けたその道中の記憶は殆ど抜け落ちており、まるで現実味が湧かない。悪い夢であってくれたならばどれほど良かっただろう。
もし嘘のような奇跡が起きて。好々爺然とした穏やかな眼差しを湛えた蒙驁が「心配には及ばん」と朗らかに笑ってくれたのならと、そんな妄想を何度繰り返したか分からない。
しかし虚しくも淡い期待は食いつぶされる。
蒙驁の命がまさに尽きようとしている、伝令の言葉が急に現実味を帯びてきたのは、やっとの思いで辿り着いた蒙家に、既に溢れんばかりの人が押し寄せている様を遠くから見た時だった。門外に無秩序に停められた車や馬。地鳴りのような慟哭。部外者は前院までしか足を踏み入れることは許されておらず、ひしめき合う人々は憂鬱な面持ちで主卧のある北の方角を見つめている。
「様! まさか来てくださっていたとは」
「……林孟」
「中へお入りください。一刻の猶予もありません」
人垣から頭一つ抜けた長身の男は、蒙家の警護にあたる兵の一人。彼は遠くからこちらの姿を捉えると、些か普段の冷静さを失った様子でこちらに歩み寄り、呆然としているわたしの腕をぐっと引いた。しかし彼の意志と反して、わたしは踏み留まる。
「いえ。わたしが足を踏み入れて良いのはここまでです」
邸は人で溢れかえっていた。老躯をおして駆けつけた昔馴染みや共に死線を潜り抜けた兵士らは、蒙驁に一目会いたいと願っても叶わない事実に、悲痛な面持ちで、きつく唇を噛んで耐えている。そんな彼らを差し置いて自分だけ特別扱いなど許されるはずがない。
焦燥に揉まれながらも辛うじて残っていた理性が感情の荒波を堰き止めていた。
弱々しく首を振って拒む。だが彼は手を離そうとはしない。
「蜀から遥々駆けつけていただいたのでしょう。邸の者は、かつて貴い身分であるにも関わらず心寛く手を差し伸べてくださった様に恩のある者ばかりです。誰も咎めるようなことは致しません」
「しかし……」
「それに白老様も常々仰っていました、誰よりも物が見えているがゆえに少し世を拗ねたような蒙恬様には、貴女様のような人が必要だと。大切にしたいと」
慈愛に満ちた笑顔を絶やさず、空のように広く澄んだ心で、わたしの愁腸の吐露を受け止め寄り添ってくれた。そんな温かさに幾度となく救われた。脳裏に姿を思い描くと同時に、じんわりと滲んだ涙が音も無く頬を伝って落ちる。亜父への忠義に疑問を抱いてしまった己に対する嫌悪感に、戸惑い悩んだわたしの道を拓いてくれた蒙驁。いずれ立派になった姿を見せて、積もり積もった感謝を伝えたかった。しかし、その夢はきっと叶うことはないのだろう。それどころか言葉を交わすことも、姿を見ることさえもできないかもしれない。そう思うと、こんな時にも依怙地になって自分で自分を追い詰めている愚かさがひしひしと身に染みて。
「林孟」
「はっ」
「……ありがとうございます。蒙驁様のもとへ参ります」
力強く言い切ると、彼は険しく力んだ表情を少しばかり緩めた。
深い絶望に満ちた邸内の空気を肌で感じ取る。もはや誰に聞かずとも蒙驁の容体を察するには十分だ。詰所を抜け、内院にある大池に架かる九曲橋を渡った先にある主卧。その扉は開け放たれており、部屋の中から外へ続く階段や石畳まで雲霞の如く人が集まっている。蔓延る静謐の中、横たわり目を閉じている蒙驁の静かで浅い不規則な呼吸を、臣下らが固唾を呑んで見守っていた。時折、傍臣が名前を呼ぶも、反応は一切無い。
「つい昨年までご健勝であられたのに、まさかこのようなことになるなんて」
「急いで早馬を飛ばしましたが、蒙毅様は時機悪く遠方に居られるようで咸陽へ戻るには少なくとも十日はかかるとのこと。蒙武様は角炎で魏と交戦中。彼の方のお人柄を推察するにたとえ父君の今際の際であっても戻られることは考え難い。あとは蒙恬様ですが、間に合うかどうか……若様が来られたら白老様もきっと」
その言葉の続きを林孟が述べることは無かったが、蒙驁の命がもう長くないことを知っている彼の心中を推し量るのは容易だった。秦の存続と発展に大きく寄与した大将軍の最期に枕頭に立つのが家族以外の者ばかりというのは、なんとも虚しい。せめて彼が目に入れても痛くないほどに可愛がっていた孫に看取られながら旅立つことができるよう、姿の見えない蒙恬を案じ、ひたすらに祈った。
蒙恬が到着したのはそれから半刻ほど経った時のことだった。
人の波を縫うように駆けてきた彼の隣には信の姿もある。二人がそばに寄り、蒙恬が名前を呼ぶと、眠りに就いていたはずの蒙驁が唐突に目を覚まし、なんとおもむろに上体を起こしたのだ。衆人はその奇跡的な光景を目の当たりにして、驚きのあまり言葉を発することができなかった。
蒙驁は普段のまるみのある柔らかな声で、蒙恬と信に語り掛ける。己の半生やかつての仲間への憧れと葛藤、そして二人の道標となる至言。語調はかつての蒙驁のものと相違無く、しっかりと呂律も回っているが、しかしその内容から嫌な予感がむくむくと湧き上がってくる。
――蒙驁様は復したわけではなく、蒙恬の到着を待って死の淵で必死に耐えておられたのだ。この時のために。
皆その様子を察したのだろう。医者や易者を呼びつける者も、喜び勇む者も無い。蒙驁の言葉を一字一句逃さぬように耳を傾けている。
やがてその弁口の勢いは衰えて、地に落ちてじんわりと融けゆく雪のように音は消えた。
粛然たる空気の中、異変に気付いた臣下らが戸惑いの声を上げると、蒙驁の顔をじっと見つめていた蒙恬はこちらに背を向けたまま、重々しく、沈鬱な様子で首を横に振った。その意味を理解できぬほど野暮ではない。
…… ……。
秋が近い。蒙驁に初めて会った日も、このような季節であったと思い返す。
紅く色づき始めた葉が舞い上がり、小禽の鋭い鳴き声が響く庭先。空に視線を移すと、仄かに赤く色づいた蜻蛉が気ままに空を飛んでいる。無情だ。主を失い、悲痛の底に沈みゆく邸など気にも留めず、時は過ぎ季節は廻ってゆく。蒙驁と過ごした記憶は何年後、何十年後には更に曖昧模糊としたものになってゆくのだろうと思うと、寂寥の念に胸が抉られる。
後ろ髪を引かれる思いではあるが、任地に戻らなければ。自分は本来ここに居るべき人ではないのだから。傷心癒えぬまま葬儀の準備に慌ただしくなる蒙家に、こんな時にまで客人に気を遣わせるわけにもいくまい。
気付けば人波は四方に散り、邸は哀惜漂う静寂にとっぷりと沈んでいる。まるで悪い夢を見ているような、重い足取りで花々のすがれた庭を抜け、橋を渡って正門の方へと歩みを進めると、ふと前院を臨む邸の南にある厨房から美味しそうな匂いが漂っていることに気付く。すると同時に腹が情けなく鳴った。思い返せば丸一日、それ以上、何も口にしていなかった。この調子では帰路に就く間に倒れてしまうかもしれない。せめて水だけでも貰おうと中を覗くと、そこには老媼の使用人がひとり。肉が削げて痩身となった体には似合わない大鍋を、懸命に掻き混ぜていた。
「あの」
「まあ……様? お久しうございます。随分と御立派になられて」
彼女は料理方の頭を務めている。かつて笄礼前に蒙家で過ごした一年は、この人の味で育ったと言っても過言ではない。
「こんな時にひとりだけ料理を拵えているなんて、なんだかヘンでしょう?」
そう呟いて可笑しそうに微笑む彼女。弛んで埋もれた目元の年輪を刻む皺の隙間には涙が滲んでおり、厨房を照らす燭の灯りにちらちらと反射している。このような時でさえ気丈に振舞おうとする姿勢には頭が下がる思いだ。
何も伝えずとも彼女は甕から冷水を一杯汲んで、それから「味見をお願いできますか」と鍋に入っていたものを杓子でよそい、わたしの眼前にそれを並べる。粟米の粥がきっちり一人前。どう見ても味見の量ではない。有難くも気遣いに甘えて、それらを口にしていると、彼女が口を開いた。こちらに語り掛けるよりかは、どこか独り言のような語調で。
「大殿様は夜にふらりと散歩に行かれることがございましてね、もうすっかり陽も落ちた頃ですよ。その帰り道に決まってここに寄られるのです。酒食をお出しすると旨い旨いと仰って」
わたしはその光景を知らない。それでも二人の間に流れていた慈しみに満ちた時間がもう二度と蘇ることは無いのだと思うと、失われつつある思い出のかそけさに、虚しさが込み上げる。
「私のような下賤な者にも、あの方は恭しく頭を下げられるのです。畏れ多くも涙が出るほど幸せでした。この身が続く限り役目を果たそうと決意して早や十何年。もう大殿様のお声を聞くことは叶いませんが、それでも私のすべきことはこれからも変わりません」
なんと美しい手向けであろうかと感銘を受けると共に、このまま邸を去る気でいたわたしの意志はすっかり彼女を支えたいという一心に変わっていた。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです。……その、お礼と言ってはなんですが、わたしに手伝えることはありませんか?」
「貴女様も変わらずお優しい方なのですね。ではお言葉に甘えてひとつ。これを蒙恬様に」
彼女はそう言って、できたての粥を器に盛り薬味をのせる。
「蒙武様が不在となると若様が葬儀を取り仕切ることになりましょう。方々に使者を遣わせたり準備を整えたりと大変かと存じますので、今のうちに少しでも召し上がっていただきたいのですが」
「わかりました。届けます」
こうして膳を抱えてもと来た道を戻る頃には、陽が落ちて辺りは薄暗く、人の姿はまばらになっていた。粛々と葬儀の準備を進める者、泣き疲れて茫然自失となっている者、憑き物がしたように虚脱している者。一足早く邸は昏い夜を迎えているようだった。
蒙恬の私室は邸の東側にある。内院側には西日を遮る高い塀が建てられており、ここらは殊に暗かった。部屋の前までやって来たは良いものの、ふと蒙驁の亡骸に縋りながら双眸から珠のような涙をはらはらと零していた蒙恬を思い出して踏み留まる。あのような姿を見るのは初めてだった。わたしの前では、涙を見せるどころか、負の感情を曝け出すことも無かった彼だ。いったいどういう顔をして、どのような言葉をかければ良いのか見当もつかない。
「……蒙恬」
それでも黙って去るわけにもいかず名前を呼んだ。しかし、暫く待ってみても返事は無い。部屋の中に居ることは確認済みである。周囲を固く閉ざしているような気配に、やはり自分なんぞが深く干渉すべきではないのかもしれないと思い悩んだ。だがせめて、この粥だけは届けなければならないもの。
「勝手に入ります」
一言断りを入れると、返ってくることはないであろう返事を待たずに帳を払う。灯はひとつも点いていなかった。小さな窓から差し込む薄暮の幽かな光が、室内をおぼろげに模っている。部屋の中央のあたりにぽつんと佇み、闇に溶け入っていた人影は、幾許か時間が流れたのちにそろりと振り返った。その相貌は気の毒なほど憔悴しきっている。涙は涸れていたが、ぞっとするほど全くの無感情で、普段は表情豊かな彼から機微の一辺も感じられないというのはそれだけで酷く心配だ。
「粥を持ってきました。料理方が少しでも食べて欲しいと」
「ありがとう」
「では、わたしはこれで」
食膳を彼の傍に据えて立ち去ろうとすると背中に蒙恬の視線が刺さる。
「もう行くの?」
「余所人ですから。ここに居ても迷惑になるだけでしょう」
「最後にじーちゃんの顔を見てあげて」
「……それは」
「俺も一緒に行くから」
申し出を断る謂れは無いが、去る機を逸せば今夜は蒙家に泊まるしかない。使用人や家僕すらも機能していない邸に負担をかけるのは憚られるが、反面、目を離せば消えてしまうのではないかと非現実的な憂慮さえ抱いてしまうほどの儚さを纏う蒙恬を、一人きりにする不安もある。返事に迷っているうちに、彼は未だ湯気の立ち上る粥を掻きこんで、あっというまに平らげてしまった。
「あ……熱くないのですか」
「ん、すっごく熱い」
己を奮い立たせるように天を仰ぎ、ふうっと白い息を吐き出した蒙恬はすくっと立ち上がる。しっかりとした、美しい挙措だ。
「ご馳走様。美味しかったよ。それじゃ向かおうか」
主卧には見張りの他に人は居ない。
座したまま息を引き取った蒙驁の遺体は、今は大きな牀に寝かされている。まるで本当に眠っているかのよう。呼びかければ目を覚ましそうなほど、穏やかな表情をしていた。
蒙恬は祖父の雪のように白い髪をひと房すくい、それを寂しそうに見つめる。
「父上は戻られないから色々と取り仕切らなきゃいけないんだけど、少し待って貰ってるんだ。みんな俺に気を遣ってじーちゃんの容体が日に日に悪くなっていることを一切洩らさなかったみたいだから、心構えができていなかったっていうか、今でも信じられない気持ちがある」
予想だにしていなかった永訣に悔しさを滲ませながらも、蒙恬は祖父の人柄や昔日の思い出を追想しながら、とりとめのない胸の裡を語り出す。わたしはその吐露に、黙って耳を傾けていた。蒙驁は部下や邸の者にも貴賤を問わず家族のように接していたが、いずれ家督を継ぐことになる蒙恬のことは殊のほか溺愛していた。それを裏付けるような追憶の断片にどことなく、蒙驁自身、蒙恬に心労をかけるわけにはいかないと考え、自らの死期が近いことをひた隠しにしていたのではないかと推考してしまう。優しくて、強くて、格好良い祖父。蒙恬がそう評する姿を最期まで貫いた、蒙驁の心境を考えるとますます胸が迫る思いだ。
「わたしにできることはありますか」
たまらず問うと蒙恬は優しく、うら悲しさが滲んだ笑みを浮かべた。
「朝まで一緒に居て欲しい、かな」
「お邪魔でなければ」
他でもない彼の頼みだ。わたしは深く頷く。とはいえ申し出をそのまま受け入れてただ黙りこくって隣に居るばかりでは立つ瀬が無い。蒙恬の哀傷に寄り添う、気の利いた言葉のひとつやふたつ、かけるべきであろう。しかし恥ずかしながらそういった心配りは苦手だ。すると蒙恬は困惑するわたしの心情を察したように語を継ぐ。
「慰めは要らないよ。ただ居てくれるだけで良いから」
「何でもお見通しなのですね」
「君は考えていることが顔に出やすい」
こんな時でさえ彼に気を遣わせてしまうことに不甲斐なさを感じながらも、彼の語調が僅かに普段の調子に戻りつつあることに安堵を覚える。わたしはその時、ようやく引き結んでいた唇を綻ばせることができた。
「六将に憧れていたと、蒙驁将軍は仰いましたよね」
秋の色を帯びた涼しげな風に、しなやかな白髪がふわりと舞う。わたしは蒙驁が遺した言葉を思い返しながら、つと口を開いた。六将というのはかつて昭王によって自由に戦争を仕掛ける権利を与えられた、今は亡き六人の大将軍を指す呼称。すなわち戦に関しては王命を犯すことさえ許された人物たち。良くも悪くも凡将と称される蒙驁はその席に着くことはなかった。あの方自身、そういった制度や彼らの存在について触れることは無かったから、縁遠いものであるのだと思っていたが。
蒙驁が語った心の裡には、六将に対する若い嫉妬心と、それを上回る憧憬が深く根付いていた。凪いだ海のようなおおらかさを持った人の口から、毒が飛び出したことには少し驚いたけれど。
「己の信念を貫き、若くして華々しく散った俊英たちの生き様は、武人にとって憧れの的であるのでしょう。しかしわたしからしてみれば、たくさんの人に見守られながら穏やかに天寿を全うされた蒙驁様は、武運拙く運命に敗れた方よりもずっと……ずっと、理想的な最期を……迎えられたと、思います」
数々の苦難を乗り越えた長い人生を、英雄になれなかったと締め括った蒙驁。その苦悩と葛藤を和らげることができただろうか。言葉の最後は自分でもよく分かるほど震えていた。
「上滑りのない君の言葉には救われる。ありがとう」
それまで心の奥にしまわれていた感情が、ぽつぽつと染み出てくる。
やがて篠づく雨のように押し寄せてきた激情に、わたしは小さく嗚咽した。回廊の廂の下で、自然の美しさが溢れる内院を並んで眺めた、ささやかな記憶。包み隠さず吐露した過去も、迷いも、知っているのはこの世で自分だけになった。あらゆるものに宿っていた蒙驁の面影はこれから色を失って消えてゆく。いなくなってしまわれたのだ。この世界のどこにも蒙驁はいない。喉が戦慄く。目の奥が熱くなる。
このまま泣き叫びたくなった。しかしわたしは口元を抑え、ありったけの力を籠めて必死に押し留める。
「……」
伸ばされた蒙恬の手を握って、わたしはかぶりを振った。深い悲しみの底にいる彼を差し置き、他人である自分が滂沱の涙に暮れてどうする。これといった取柄も無く、凡骨と称するのも烏滸がましいこの身にできることは、彼を支えることに他ならないのに。
「どうかわたしの心配などなさらずに。……差し出がましいかもしれませんが、過去の自分と今の蒙恬の姿が重なり、身につまされる思いなのです」
「無理をしなくても良いんだ」
「無理なんてしていません」
下手な強がりに見えたかもしれない。しかし紛れも無い本音だった。無理をして取り繕っていると思われることすら心外である。
かつて父が悪徒の手にかかった日、突如にして主を失った従者らは周章狼狽し、わたし自身に寄り添ってくれる者など一人もいなかった。孤独と絶望に苛まれ、暗闇の中でひたすらに吠えた。吠え続けた。溢れるほどの愛情を与えるだけ与えて、尽きることの無い名残を押し付けて逝った父。その理不尽と、そんな父を一瞬でも恨みそうになった己の卑小さに、ただ涙を流した。
人の孤独を癒すのは人。わたしの欠けた半身を埋めてくれたのが、手を差し伸べてくれた呂不韋の温かさだったように。
「貴方が辛いときは助けになりたい」
悲しみに寄り添ってくれる人が居ることがどれほど大切か、天涯孤独となった自分は蒙恬よりも深く知っている。握っていた蒙恬の指先を両手で包み、その温もりをいっぱいに感じて深く目を閉じた。少しでも彼の力になることができていますようにと、祈りを込めながら。
すっかり夜の帳が下りていた。燭台に灯された炎がわたしたちふたりの影を伸ばす。邸は相変わらず静寂に包まれたまま、聢と時を刻んでいる。