車から降りると雪交じりの風が吹いていた。軍師学校の高い壁を吹き降りる、刺すような鋭い寒風は容赦無く、簦笠も被らずに歩くわたしの体を瞬く間に白く染め上げる。どんよりと沈んだ心の痛みに追い打ちをかけるように、寒さに晒された腿や耳が凍瘡で灼熱感を生じはじめた。今はその感覚が酷く鬱陶しかった。
ようやく屋根のある場所に辿り着くと裘に纏わりつく雪を手で払う。悴んだ掌の脈打つような痛みを耐えるように、拳を握りしめて学舎へと歩いた。足取りは重い。
「。おかえり」
自室に入ろうとした時、ちょうど蒙毅が二つ隣にある彼の部屋から顔を出した。
「早かったね。試験はどうだった?」
「不合格でした。手ごたえなんてまるで感じられませんでしたよ。居た堪れなく合否だけ聞いて戻ってきてしまうくらいには」
情けない声でそう答えると、にこやかに出迎えてくれた兄弟子は落ち込むわたしに寄り添うように、悲しそうな表情を浮かべながらそっと肩に手を置いた。
試験というのは、年に一度執り行われる中央官吏の登用試験のこと。難しいのは重々承知して挑んだが、その難易度はもはや合格は絶望的と思えるほどだった。軍師学校で専門的に学んでいた軍略の知識ですら力及ばず、加えて馬の扱いや、法、外交など知見の無い分野まで問われた時には頭が真っ白になった。唯一、得意とする言語の知識と、不本意ながら蒙恬から太鼓判を捺された詩賦に関してはまずまずの出来だったと思うが、それだけでは他の科目の不出来ぶりを埋め合わせることはできない。
試験の結果は最終日である今日のうちに発表されたが、評価を聞く気にもなれず合否だけを確かめてさっさと帰ってきてしまった。
「そう簡単に合格するものではないし、中には何十年も受けている人もいるから、あまり気負わずにね」
「……はい」
ふんわりと包み込んでくれるような蒙毅の声は、彼の祖父を彷彿とさせる温かさだ。そんな蒙驁の訃報が秦国を哀しみの底に突き落としたあの日、心の裡に、己の道を歩むためにも今冬の試験で成果を出さなければと意を決したのだが、結果は振るわなかった。それどころか一知半解な理解度で挑んだ未熟ぶりを痛感させられる羽目になったのだ。蒙毅の優しさは、自己嫌悪や遣る瀬無さといった感情にむしろ拍車をかけ、己の無力さを模るばかり。
中央官吏になるための試験は、軍師学校に入学するよりも遥かに狭い門だ。合格を勝ち取るまでには、多岐にわたる分野の深い知識を身につける必要があり、その膨大な知識を詰め込まなければいけないとなると必然的に長い年月を要する。それこそ蒙恬のような天資に恵まれた人間でもなければ、たったの数年で合格を掴むなど夢のまた夢。
けれどもわたしには時間が無い。
自分はいつ邸に連れ戻され、顔も知らぬ男と結婚させられるのか。その恐怖に怯える日々。しかし中央官吏の身分を得ることができれば、勅命に服し、国務に従事することが第一とされ、たとえ呂不韋であろうとその決定を表立って覆すことは難くなる。その為にも試験に合格しなければならないが、このままでは来年の試験も散々な結果になることは目に見えている。
「軍師学校の中だけでは学べることにも限度がある。もう馬に乗るのも慣れたろうから、視察を願い出て、有識者との交流を図り、知見を深めると良いかもしれないね」
「ありがとうございます。蒙毅様」
心が落ち着いたら昌平君のもとを尋ねよう。そう決めたが、ただひとつ懸念があった。
こころなしか、わたしは蒙毅やかつての河了貂をはじめとした他の門弟たちと比較して視察に赴く機会が非常に少ないのである。まず頼まれることは無いから、自分から申し出なければいけないし、申し出たところで許可が下りるのは半分も無い。
いつからか昌平君はわたしに対してやたら過保護になったように思える。外出の際は、たとえ近場であっても護衛を付けられていたが、それが中央から遣わされた者ではなく昌平君の私兵に変わったのは記憶に新しい。目立った干渉は無いが、常にあの黒い甲冑を纏った屈強な兵士たちに守られているといのは窮屈さを感じる。いったい何をお考えなのだろう。ただ非力な女性だからという理由か、或いはわたしの語学の才を重宝してくれているのだろうか。それだけならば良いのだが。
頻繁に遠地へ行きたいと言うわたしに対して昌平君は決して良い顔をしなかったが、にべもなく却下するようなことはせず、視察へ赴くにあたって何を学び、どのような知識を深めたいかという理由を明確に提示すれば検討してくれる。自主的に学外での視察調査を希望する場合はそれらを記した計画書の提出を求められるが、その基準は決して易しいものではなく、何度も再提出を求められた。だがそこは自他ともに認める頑固者である己の性格が功を奏し、決して途中で挫折することは無かった。
やがて目標に対して十分な成果を挙げるにつれ、当初感じていた束縛は寛容になったように思える。半年も経つと、軍師認可を得る為に必要な遠征への参加も認められるようになった。その頃には自国のみならず他国の文化も積極的に吸収したいと意欲に燃えていたのだが、しかし昌平君は一貫して窺見など危険を伴う役回りをさせることは決して無かった。他の門弟には任せているのにも関わらず、だ。
…… ……。自分だけ泥濘に嵌ってもたついているような、そんな気分だ。
「――やはり強くならなくては」
「はい?」
ふらりと遊びに行ったきり戻らない主に代わり、軍部からの書簡に目を通していた陸仙が、こちらを見て眉を顰めた。ここは東郡の前線である東金城からほど近い小邑であり、敵国の侵略に備えて守城の為の様々な設備が充実している場所。今回は楽華が関わっているという射兵を用いた練兵の様子を観察するためにやってきていた。
「先生はわたしに危険を伴う任務をお与えになりません。それはきっと非力な女であるからでしょう? なのでまずは己の身を守る手立てを講じなければと練兵風景を見て感じまして。加えて軍師の目線から兵としての目線へと価値観を広げることもできますから、それが新たな学びに繋がるかと。陸仙さんはどう思われますか」
「どうと聞かれましても。愚直で無謀だなとしか」
「……」
非常に的を射た理由を述懐したつもりが、陸仙に手厳しくばっさりと斬り捨てられ、予想外の反応に言葉を失う。呆然としていれば彼は文机に向き合っていた体をよじると、つとわたしの手を取って、引き締まっている武人のものとは程遠い赤子のように柔らかい上腕をぐにぐにと揉み始めた。異性に無遠慮に触れられた戸惑いと未知の感覚に、首筋から背中までぞわりと粟立つ。
「な、ななな何をされるのです!」
取り乱す自分と相反して、陸仙は至って冷静である。
「こんな細い腕ではまともに力もつかないでしょう」
「う……しかし女人であっても戦っている方はおられます。河了貂の吹き矢の腕は結構なものですし、飛信隊の副長も女性だと聞いておりますし、それと」
「ああいう方々は例外ですよ。そもそも十九とか二十そこらになるまで武器をまともに使ったことのない人間が、いきなり穎脱した才能に目覚めるなんて都合の良いことはありません」
きっぱりと言い切った陸仙に、不服さを滲ませた視線を向ける。さすがに彼女たちのような領域までは求めていない。ただ自分の身を守る力を養うことに、なにも反対することはないだろうと思うのだが、彼はそんなわたしの思考も読んでいるかのように諭すような、言い含めるような口調で言葉を続けた。
「中途半端に力をつけられたら絶対に無茶をされるでしょう。ならば猶更大人しくしてもらわなければ」
「無茶は致しません。大丈夫です」
「自分の記憶が正しければ、昨日も手負いの敵兵を助けたとかで、右丞相の私兵に叱られていたはずですがね。危ないことに一々首を突っ込むべきではないと」
「それは」
一晩経って薄れていた苦い記憶が沸々と蘇る。
陸仙がその情報をどこで知るところとなったかは分からないが、彼の言う通り昨日、このあたりで怪我を負って動けなくなっていた敵兵を助けたのは事実である。藪の中で苦しそうに呻くその男の、甲冑を貫通して突き刺さる矢傷は深く、薄らと雪が積もった冷たい土の上に生温かい血だまりができていた。護衛には危険だから近づいてはならないと制されたが、辺りに伏兵が潜んでいる様子も無く、このままでは夜の寒さで凍え死んでしまうと思うと見て見ぬふりをすることなどできなかったのだ。
軍事訓練に怪我は付き物ということで、この城で練兵を強化するにあたり衛生兵も一時的に増員されており、彼らが傷病兵の手当てをしている様を何度も見て知識を深めることができていたから、自分もその真似事をしてみたいという好奇心もあったのかもしれない。この時期は殆どの草木が枯れ落ちているが、止血剤となり得る葛の葉は残っている。それを水と混ぜて擂り潰して傷口にたっぷりと塗ってやり、布を巻いて患部を止血し、鏃に痞える肉の感触の生々しさに怯えながら処置を施した。その甲斐あってか男は暫くして立ち上がって去って行った。敵であるわたしに助けられたことに対して、不快感を露わにしていたが、こちらも彼を実験台にしたのだから御相子というやつだ。
それで一件落着と思っていたのだが、城に戻ってから、護衛をしてくれていた昌平君の私兵らに「危機感が足りない」「弱った味方を餌に敵兵をおびき寄せる手口も十分に考えられる」「相国の娘であるという身分的価値もゆめゆめ忘れるな」と顔見知りの楽華兵曰く見ている方も辛いほどこっぴどく叱られた。昌平君にわたしの身を守るよう命ぜられた彼らの立場も慮るべきであったと深く反省したが、ならばわたしが不測の事態に対処できる力を身につければ彼らの不安を取り除くこともできるし、加えて難しい任務も許されるようになるだろうから良いこと尽くめだと考え着いたのだが。しかし陸仙は一貫して首を横に振るばかり。
「しかし過去にお辛い思いをされても尚、己の非力さを憂い強くなりたいと願うさんの度胸だけは認めますよ。度胸だけは」
「嫌味に聞こえます」
「まあ自分が同じ立場であれば二度と危ない目に合うのは御免ですから」
陸仙はわたしの腹の、大きな傷が残っているあたりを一瞥する。武器を持った男に為す術が無かったあの時に感じたものが純粋な恐怖だけであれば、わたしはこれからも相国の養女であるという立場に甘んじていただろう。しかし、わたしの根柢には未だに父が殺された時の忸怩たる思いが渦巻いている。それはあらゆる痛みを凌駕する心の苦衷だ。
「守られることに何の不満があるんですか」
「身勝手な理由で自ら茨道を進むと決めたにも拘わらず、その代償を他人に押し付けるなどあまりにも放逸では。ですからただ守られるのは嫌なのです。逆に、わたしが守られて当然とふんぞり返っていたとして、護衛の方々は使命を果たしたいと思えるものなのでしょうか?」
「なんというかお人好しですね」
その口調はとても素直に褒められているようには感じられない。
陸仙はきっとわたしの無謀さを気に入らないのだろう。しかし彼は若い感情を露わにすることは決して無く、根からの面倒くさがりであるがゆえに、波風を立てない言い回しをするのだ。そんな彼のお蔭か、わたしは非常に冷静に居られるように思える。もしも強く反発されたり、きつく苦言を呈されたりすれば、頑是ない子供のようになっていたかもしれない。
「気持ちは分からなくもないですが、人には得手不得手があります。さんのように希少な知識を持ち合わせた人材は秦国に何人とおらず、代わりがきかないというのは周知の事実。ですから変な真似はせずに戦いは本職に任せるべきです」
「しかしそれでは皆様が傷つくばかりで」
「さんは良い意味でも悪い意味でも他人と対等でいようとする。だからこそ忠告しておきますが、もし味方を見捨てなければならない時が来たならば、その時は己の命を守り抜く覚悟が必要であることを忘れないようにしてくださいよ」
「そんなこと、できるわけがないです」
「まずは命を賭して貴女を守り抜かねばならない人間がいるということを自覚しましょう。そんな人たちの思いを無碍にすべきではないと冷徹な判断を下すことができることも、また強さなんじゃないスか」
軽い口調の中に、主君を守り抜く責任や覚悟といった今まで鳴りを潜めていた所懐の一端が垣間見えた気がした。ここまで言われてしまえば、もはや自分の考えが軽率であったことを認めるほかないだろう。
守られる側としての心構えを身につけなければいけないのはその通りであるが、とはいえ強くなりたいという気持ちが完全に失せたわけではない。そもそもこれまで以上に高度な知識を習得するため、わたしはより複雑な任務をこなさなければならない。例えば秘密戦の際などに護衛を大勢引き連れていくわけにもいかないだろうと考えると、やはり自分の身を自分で守れる程度の強さは必要だと思う。
納得のいかない顔をしてしまっていたのだろうか、陸仙は「しつこいようですが」と前置きをして再び口を開く。
「個人的にもさんが力をつけることに対しては反対ですね。蒙恬様の御友人という立場を抜きにしても」
「何故です? 陸仙さんからすればわたしは他人でしょうに」
他人。その言葉を発した途端、眼前の男は何かを固く抑え込んだような表情になった。あまり自身の感情を表に出す方ではない彼だからこそ強く浮彫りになる、普段の様子との差異に肌がひりつく。何か気に障るようなことを言ってしまっただろうかと、戸惑うわたしに、躙り寄る影はその峻険さを増して。
「あの」
「予期せぬ強さを得たせいで、無垢な貴女がますます傷つく羽目になると思うと、寝覚めが悪いんで」
「い……いきなりどうされたのですか?」
距離を詰める陸仙を制止しようと身構えるも、それもまるで無意味で、彼は冷たい手でわたしの腕を掴まえると、背後の夜具に縫い付けるように押し倒した。銅の甲冑の重さも相俟ってか、力を込めてもびくりともしない。この書斎は楽華隊幹部の寝所も兼ねていると聞いたが、蒙恬も胡漸も不在である。声を張り上げて誰かを呼ぼうにも、この状況は人に見られて良いものなのか、己の立場的に彼の沽券に関わる可能性が大いにあると思うと、助けを呼ぶ言葉を果たして口にすることはできなかった。
「あの……もしかして、怒っておられますか?」
「……」
「……り、陸仙さん」
「ここまでされて抵抗しない理由は?」
どうやら抵抗する気配を見せないわたしに対して怒りを覚えているらしい。普段は礼儀正しい口調が僅かに乱れている。この状況で、己の身を守ろうとするよりも陸仙を怒らせてしまった理由を考えるのが先立ってしまっていたのは、彼のことを信頼しているからだ。彼に限って危害を加えてくることはないだろうという確信があった。あったが――。
口唇から漏れるぬるい吐息が鼻先を撫ぜる。顎を上げれば触れてしまいそうなほどの距離で、射貫かれるような鋭い瞳に捉えられ、いよいよ本能が警鐘を鳴らし始めた。体をよじり、かぶりを振りながら、どうにかして抜け出そうとするも、縫い付けられた両腕は一寸たりとも動かない。
籠める力は漸次と弱まってゆき、やがてわたしはすべての抵抗を諦めるしかなくなった。きっと自分に武の心得があったとて、圧倒的な力の差の前になすすべもなく身を委ねることしかできないのだろうと、そう悟るとほぼ同時に、陸仙は憑き物が落ちたかのように冷静な表情に戻って、力無く夜具に沈んだわたしの体から手を離した。途端に解放された四肢が脈を打って痛みだす。
慌てて上体を起こし、乱れた衣服を直しながら未だ覚めぬ恐怖に打ち震えていると、陸仙は落ち着いた声色で一言「強引が過ぎました。ご寛恕ください」と謝罪を述べた。
「演技……でしたか?」
「はい」
「はああ……。良かった。わたし、どうなってしまっていたかと」
安堵と同時に目元のあたりがじんわりと熱を持つ。潤む瞳越しに見た陸仙の顔は、ほんの少しだけばつが悪そうに見えた。
「やはり非力な上に危機感も欠如しているとなれば右丞相の御心も理解できます」
「それは信頼を置いている方だったから」
「相手が悪意を持って接している可能性を、一度や二度の親切で捨て切ってはいけませんよ」
「それは仰る通りですが」
貴方様はまた別です、とは言えず。
「人を見極めることもそうですが、まずは追い詰められた時に知恵を使ってどう切り抜けられるかを考えるのが先決です。強引に全てを武力で解決しようとするのはやめましょう。ということでその腰に携えてある剣は抜かせません。大人しくしていなければ、あの怖い人たちに報告を入れますよ」
「折檻は嫌です。勘弁してください……。それにしても陸仙さんが、その、こんな手荒なやり方をされるとは少々意外でした。しかも随分と慣れていらっしゃるようで」
怜悧さや無欲さといった彼の人間性とは違った一面を見たことに、得も言われぬ不思議な気持ちに浸っていると、ふと遠くから陸仙の部下であろう者が彼の名を呼ぶ声が聞こえた。彼は些か気怠げな返事をすると、兜の紐をきつく縛り直し、壁に立てかけてあった槍を手にする。そのまま部屋を出て行こうとするが、何かを思い出したようにふと立ち止まって。
「自分もそれなりに緊張はしていましたよ」
「そうなのですか?」
「ええ。万が一にも貴女が無抵抗のまま受け入れようとしたらと考えると」
取り返しのつかない事態になっていたかもしれないと、あっけらかんと言い放つその言葉の意味を理解したのは、二人分の足音が廊下の遠くに消えてから暫く経ち、静寂に満ちた部屋の中で彼の言葉を反芻していた時だった。