浮世夢の如し

  十六.清怨絶えぬ微軀

 私室の隅にある小さな行李箱から色とりどりの着物が乱れ出ている。
 ひとつひとつを広げては身に纏い、眼前の小さな鏡に映る己の窮屈そうな姿を見て嘆息した。これらの着物はすべて、笄礼の前後に呂不韋や茅焦から賜ったものである。
 新たに迎えた年で二十を数える歳になったわたしは、ここ数年を男所帯の軍師学校で過ごし彼らと同じ食事を摂っていたこともあってか、幼少期のひもじさを取り返すかのようにいくらか背丈が伸び、体も女性特有の丸みを帯びるようになった。
 笄礼を迎えていない子供の頃に採寸され、今後の成長を見越して些か余裕のあるように作られた着物も今やこの通り。虫干しや洗い張りをきちんと行っていたお蔭で綺麗ではあるのだが、いざ着てみると袖口や裾が短すぎてみっともないものばかりだ。
 呂不韋のもとを離れてから経済的にも自立しなければならず、衣服一具を揃えるのはなかなか難しく、そのうえ学内では胡服などで過ごし、視察時は微服するか戎衣で過ごすことが殆どであったから新たに購入する必要も無かった。しかしこの頃、賓客の接待や、昌平君らと懇意にしている武家の幼い継嗣に軍略の手ほどきを授けるといった任務が増えたこともあり、急遽拵えなければならなくなったというわけだ。資金に関しては御史台の雑用等を請け負っているので余裕はある。しかし問題が二つ、まずはわたし自身、服飾に関しては全くの素人であるという点と。
「一緒に咸陽へ行ってほしい?」
 又隣の部屋に住む兄弟子の蒙毅を尋ねて事情を説明する。
「はい。着物を新調したく、都邑であれば腕の良い織工や仕立屋がいるかと思いますので。ただ恥ずかしながら服飾の知識が至らず、また咸陽の街にも馴染みが無いものですから不安で」
 二つ目は、街にまったく詳しくないという点。田舎の郷にある小さな市場で、僅かな手持ちで日々の食糧を賄う為に、敢えて騙されやすい子供を演じて商人の善し悪しを見極めていた時の、奸知に寄った心理戦は得意としていたが。広く複雑な咸陽の地理は勿論のこと、貴人が通うような店での常識などは一切知らない。
「相国の邸は戚里のあたりだったはずだけど」
「むやみな外出は禁じられていた上、移動は基本的に車でしたので」
「それもそうか」
 そもそも知り得る機会も無かったのだ。高い身分の女性は、外出を厳しく制限されている。ごく一部の好奇心旺盛な娘御は窮屈な生活に耐えられず邸を抜け出しては連れ戻されて、ということをしているそうだが、父の喪に服していたわたしにはそんな気力や体力は無かった。
「護衛を連れて場末の方に赴いたことはありますが、ああいう華やかな場所は気軽には行きづらいと言いますか。それと完全なる私用の上に慣れない買い物ですので先生の私兵にも同行を頼み難く」
「つまり僕に道案内と護衛、そして着物を見繕う役を担って欲しいと」
「便利に使うようで申し訳ございません」
「いや。可愛い妹弟子の頼みだから喜んで力になりたい」
 蒙毅の言葉に思わず花笑みを浮かべたのも束の間。彼は「けれども」と語を繋ぐ。
「残念ながら僕もそういった知識が乏しくてね。この着物も、幼い頃から家で用意しているものだ。だから君の付き添いは務まらない」
 きっぱりと断られた。しかしそれにしては快活な口吻である。そのちぐはぐさに困惑していると、彼は文机から筆牘を手に取った。
「少府の知人を紹介しようかと思ったけれど、それよりも適任がいることを思い出した」
「適任?」
「兄上が戻ってきているんだ」
 その名を思い浮かべて息を呑む。
 絶妙な好機だ。彼の兄である蒙恬と過ごす時間はわたしにとって欣幸だった。知己の間柄であることは勿論だが、妙齢の男女という関係もあってか、幽かな甘美さと切なさに満ちた儚い雰囲気に満ちていて思考を酔わせる。その気が無くても、危うく惑わされてしまいそうになる。まるで不思議な術にでもかけられているかのように。しかし片や武官、片や軍師学校の生徒という立場では、理由も無しに自由に会える相手ではない。更には、蒙家で世話になっていた頃と比べれば会う頻度は格段に減り、互いを隔てる障壁もより高く聳えるようになった。
 婿探しをしているという体でありながら見合いの打診を悉く断り続け、あまつさえ「決して結ばれることのない相手」との逢瀬を楽しんでいるとなれば顰蹙物。しかし正当な理由があれば別である。そしてその理由が、第三者から偶発的に生まれたことに対して意味がある。
「流行り物にも詳しいし、道案内も護衛も問題無く務まる。どうかな?」
「蒙恬様さえよろしければ是非」
「分かった。三日後に迎えに来るよう連絡を入れておく。も休暇と外出の届け出を忘れずに」
 質実な蒙毅とはまるで異なり、蒙恬は派手好きで服飾に関しても人一倍気を遣っている。たびたび稽古を放って咸陽の街に行ってしまうような彼のことだから地理も問題無いだろう。武の腕も言わずもがな卓越しているので護衛も不要。この上ない人選だ。
「ずっと頑張っていたんだから。せっかくだから二人で存分に楽しんでおいでよ」
 蒙毅はこちらの心の裡を読んだかのようにそう言う。わたしは少し気まずく、頬を掻きながら薄らと笑った。

 侍女たちの手で繰り返しくしけずられた髪は絹のように艶やかな光を放っている。軍師学校に入学したばかりの頃は呂不韋の体裁ばかりを気にして、毎日陽も昇らぬうちから身繕いをしていたが、その必要が無いと知ってからはあまり身形に気を遣わなくなっていた。念入りに白粉をはたき、黛を引いて紅を差した。久々に見る、女性としての自分の顔。
 最近はもっぱら騎乗しやすい服装で過ごしていたわたしにとっては久しい盛装だ。二人きりで買い物に出かけるのに、無造作に髪を括り、撥ねた泥や草染みが薄らと残る胡服で向かうというのは礼を欠く行為であると思い、着付けから化粧まで侍女に頼んだのだが。違和感が拭えない。
 変に思われないだろうか。
 お綺麗ですねという侍女らの定例句も耳を素通りするほどに、いったいどんな顔で彼に会えば良いのかという実にくだらないことに頭を悩ませながら部屋を出ようとすると。
「おはよう。準備は終わった?」
「は」
 眼前の壁に背を預けていた蒙恬が、琥珀の双眸をぱっと見開きながらそう言った。
「客間で待ち合わせのはずですが」
「久しぶりに会えたのに第一声がそれ?」
 唐突な再会に呆然と目を瞬かせているうちに、蒙恬はそっとわたしの手を取る。
「早く着きすぎて退屈だったから通してもらったんだ。顔見知りも多いからね」
「成程」
「待ちきれなくてさっさと連れ出そうと思ったけれど、こんなに綺麗な君を見ることができたんだから、待った甲斐があったよ」
「勘違いをされますので浮ついた言葉はお控えください。それとその……二人きりで出掛ける時はなるべく目立たぬようにしたいのです」
「どうして?」
 沸き立つ侍女の忍び声や、冷やかすような周囲の視線に頬が上気するのを感じながら、手を引く彼に行き先を委ねて歩む。翻って、同時にとある懸念が脳裏を過っていた。
 俯きながら横目で周囲の様子を窺うと、呂不韋派の人物がこちらを胡乱な目つきでじっと見つめている。わたしは思わず顔を背けた。疚しいことがあるわけではないのに。
 咸陽では常に衆人環視の下にある。二人の関係性を知らない者からすれば媾曳という形容が相応しいこの状況を、呂不韋の知るところとなる可能性は充分にあり得る。きっと亜父は良く思わないだろう。思われるだけならまだ良いが。
?」
「その、か……介億先生などに見つかってしまうと、講義で揶揄われてしまいますので」
 彼は言葉を詰まらせるわたしを不審に思ったようだが、深くは追究しなかった。

 軍師学校の門前には立派な車が停められていた。車蓋をぐるりと巡る花のような珠簾が二、三重に垂れており、揺曳とする度にしゃらんと音が鳴る。もう少し控えめな乗り物でも良かったという所感を内心に留めながら乗り込むと、蒙恬が馭者に発進の合図を出す。透いて見える景色の流れは穏やかだ。
「昨今の軍情は」
「相変わらず東郡の方は睨み合いが続いているよ。ここらへんは軍事機密だからたとえでも教えられないけど」
「魏の件でしたら先生から少し伺っております」
「へえ。もうそこまで知り得ているなんて、ちょっと驚いた」
「かつて合従軍との戦で魏軍の陰符に特殊な言葉が遣われていたとかで。斥候が入手した情報から戦勝の端緒を開くことができればと、必要な情報のみ教えられております。詳しくは存じ上げませんが」
 合従軍戦以降、長らく秦国は守りに徹していた。予期せぬ幸いと言うべきか東方六国もまた治乱の渦中にあり、国力を復する猶予は充分にあった。しかし、いつまでも羽を休めているわけにもいかない。李牧や春申君らは大きな戦こそ興さぬものの、東郡近辺の小城を陥とし、国境を塗り替え、秦の侵略を頑として許さない姿勢を見せている。攻めに転じなければ、ますます不利な状況に陥るだろう。
 秦が山陽よりさらに東を攻める為の足掛かりとなる場所が魏領の著雍という城だ。軍部はこれを奪取するべく騰を大将に据える。対する魏軍も要所である著雍を守る為に呉鳳明を派遣。それを知った秦側も更に兵力を増強し……といったように瞬く間に十万規模の兵卒が著雍という地に集うこととなった。現在、近郊は一触即発の状態である。
 軍部は情報戦の最中。既に秦の領土はじわじわと蝕まれており、捉えられて捕虜となった者も大勢いる。明らかに分が悪い。その上、相対するは智略に優れた呉鳳明。合従軍戦で苦杯を喫した経験から昌平君は殊に念入りに内偵からの報告を勘合し魏軍の動きに目を光らせていた。
 ところで呉鳳明と言えば、魏火龍七師の一人であり蛇甘平原の戦いで麃公に討たれた呉慶の息子である。用心深く、戦場の僅かな異変を察知し、冷静かつ大胆で智謀に溢れた戦いぶりは二人ともよく似ている。この呉慶は、元は他の小国の出であるらしく、そんな父の影響もあってか、呉鳳明は平地の軍略の型に当てはまらない戦略や奇を衒う兵器を駆使する。現に魏軍が函谷関まで迫った際は、櫓と雲梯が合わさった井蘭車と呼ばれる道具を用いられ、侵入を許してしまう事態も発生した。しかし昌平君曰く呉鳳明の脅威は未だ底が見えない。その根拠の一つが秘匿性の高い情報戦術であり、光栄なことにわたしの知識を頼る可能性があるとのことであらましは伝えられた。
「しかし大規模な戦になり得るとのことでしたから、蒙恬がこちらに戻ってきているとは思いませんでした。これから大変でしょうから、ゆっくり休んでください」
「ああ。その件は吏務の関係もあってね。休暇とはまた別」
「左様でございましたか」
「でも今日はお休みを貰っているから、夜まで……御望みなら明日の朝までたっぷり付き合うよ」
「なんですかその含みのあるような言い方。夕方には解散の予定です」
「それは残念」
 素っ気なく答えると、蒙恬はわざとらしくため息をついた。
 揶揄われていると分かっていても上手に受け流すことができない未熟さを振り払うように、小さく咳払いをして話題を切り替える。
「ときに、その……蒙驁様の方は」
「うん。それも大丈夫。じーちゃんの私兵は父上の軍と楽華うちに至当に分配された。引継ぎも恙無く、曲者の王翦将軍や桓騎将軍も穏当なところを見ると、あの人らしいよ」
「蒙恬自身の心の整理といいますか、そういったものも」
「気に掛けてくれてありがとう。もう大丈夫。もあまり気にしすぎないように。俺たちが仲良くやっていくことが、じーちゃんの望みだから、今日は目一杯楽しもう」
 あたりをぱっと照らしてくれるような表情は、須らく忌に服すべきという大衆倫理を振り払うまでに明るい。わたしでさえ蒙驁の死を受けてから完全に立ち直れているわけではない。だが身内である彼が悲しみを乗り越えようとしているのであれば、その意を斟酌すべきである。

 まもなく到着致しますと速度を緩めながら馭者が言う。周りは露店の並ぶ猥雑な市場ではなく、王宮と見紛うほど圧巻の建造物。しばらくして乗り付けた建物は商人の邸とは思えぬほどに立派で垢抜けたものであった。身分制度という括りでは決して恵まれていなくとも、才覚者は、時には官吏をも凌ぐ莫大な富を持つ素封家となり得るのだ。その「最たる例」を知っていても尚、驚きは止まない。
 店主が柳行李から一つ一つ反物を取り出して、わたしたちの眼前に並べてゆく。何層にも色を重ねられた美しい織物。室内の豪奢な雰囲気も相俟ってか、それらのどれもが玉石のように煌めいて見えた。
「わあ……」
「目を輝かせるあたりもちゃんと女の子だね」
 素直に首肯するわたしを見て。蒙恬が柔らかく微笑む。
「誰かに見立ててもらうのも良いけど、せっかくだから好きなものを選んでみたら?」
「選択肢が多すぎて難しいです。最近の流行りなどありますか?」
「うーん。最近はこういったものが多いかな」
 都では紅や黄といった高貴で華やかな色を基調とし、そこに花紋などの柄を薄色でくっきりと浮かび上がらせたようなものが流行している。秦の南西の方から伝わった特徴的な染色方法で、変化や個性を求める街の女性達には人気なのだと、蒙恬は滔々と語る。
「まあ無理に市井の流行に合わせることは無いよ。気にしているのはごく一部の人だから。そうだな。相国の養女という立場を重視するなら高貴な色や豪奢な刺繍は合うと思うけれど、君自身の淑やかさや素朴な美しさを引き立てるには、控え目な色調に印花が施されたようなものが良いと思う」
「では後者の方で仕立てていただければ」
「せっかくなら両方作ろうよ。場所や状況、相手に装いを合わせることも大切だから」
「ええと……」
 腰に提げた手持ちの円銭を見遣って言葉を詰まらせる。今日は従者を連れていないから、自分で持てる重さには限度があったのだ。すると蒙恬はわたしの言わんとすることを察したようで、馭者に何やら耳打ちをする。
「お金ならもとより出させるつもりは無かったから心配いらないよ。じゃあ採寸しておいで。その間に他のものを選んでおくから」
 馭者の男は小さく頷くと紐に繋いだ円銭数貫を躊躇なく店主に差し出す。その横で蒙恬は鷹揚として言い放った。
「いえ支払いは自分でしますので、どちらかひとつで」
「だーめ」
「ですが!」
「俺がそうしたいだけだから気にしないように。ほら待たせてるから早く」
 慌てて止めようとする手はあっさりと蒙恬に制される。この場ではしたなく騒ぎ立てるわけにもいかず、わたしは渋々了承したのだった。

 採寸を終えて戻ると、蒙恬はいつのまにやら買い上げた帯や沓、装飾品といったものを馭者に車まで運ばせており、傍らで手を揉みながら慇懃に頭を下げる商人と何やら暗々裏に話をしていた。心なしか店主の顔には喜色が濃く浮かんでいる。
「直ぐに欲しいんでしょ? 十日も経たずに仕立て上がるって。良かったね」
「きちんとした着物の誂えにはもっと時間がかかるものだと思っていましたが。いったいどのような交渉をされたのです?」
「特に何も。なるべく早い方が良いって伝えただけ」
 絶対に嘘だ。いったいどのような手段で便宜を図ったのだろうか。知るのが怖いのでそれ以上は何も突っ込まなかった。
 外に出ると、煌びやかな邸の外装に昼下がりの日が照り輝いていた。その眩しさに思わず目を細める。解散にはまだ早い時間だ。
「わたしの用事は終わりましたので、何か見たいものがありましたらお付き合いします。何も無ければ……」
 このまま軍師学校に戻っても良いと、口任せで呟いてしまって少しばかり後悔をしていると、こちらの本心を見抜いてか否か蒙恬は華やかに微笑みながらこちらを振り向く。
「そうそう。に食べてもらいたいものがあって」
 再び乗り込んだ車が次に向かったのは歓楽街だった。こういう場所に関する知識はめっぽう疎いが、呂不韋の邸でよくあったような芸妓を侍らせた酒宴が催されたりする店が立ち並んでいることは想像がつく。
 通りには美しい女性たちが歩いていた。彼女らの腰元と見られる少女たちは幼いながらも大人びた顔付きで、こちらが気後れしてしまうほどにませた笑みを浮かべている。一方で宮廷への出入りを許された者のみが持つ鑑札を腰に下げたまま、昼間から酒に酔っている官吏の姿もあった。これから国が大変になるというのに、早々に職務を切り上げて街に繰り出すとは暢気なものだ。否。下級官吏であるがゆえに何も知らされていないのかもしれない。
 車はやがて歓楽街の一角にある茶店の前で停まった。蒙恬は茶店と言っていたが、一際目を引く高閣で、上階は妓楼らしく女性たちの声が聞こえてくる。彼は店の奥で知人らしい遣手と何やら言葉を交わしている。わたしは軒先の椅子に腰掛け、洒落た道具を広げて茶葉を烹る使用人の蘊蓄を聞いていた。暫く経って戻ってきた蒙恬は、二人分の茶碗が並んだ盆の上に見慣れない小壺を置いた。その手のひらに収まるほど小さな蓋を開けると、中には褐色を帯びた粘性のある液体のようなものが入っており、次いで刺激的な甘い匂いが鼻をつく。
「怪しい薬ではないですよね」
「ちゃんとした食べ物。ほら」
 そう言って小指の先で壺の中身を掬い舐める蒙恬。薄い唇の隙間からぬらりとした赤い舌が覗いている。色気を放つ彼の仕草にどぎまぎしつつも、真似をして口に含んでみると。
「ん……何ですかこれ。すごく甘い」
 それも喉が渇きを覚えるほどに強烈な甘さだ。まるで熟した果実をぎゅっと凝縮したような。これは何かと蒙恬に問うと、餳という甘味らしい。見た目は蜂蜜と似ているが、あれは入手に危険を伴う希少品であり宮中に献じられるような高級な甘味であるのに対し、餳は手間暇が掛かるが穀物をじっくり煮詰めれば出来上がるもの。とはいえ製法は広く流通しておらず、貴人の間でちょっとした流行りになっている程度だという。
「何でも知っておられるのですね」
「ただの受け売り」
 少量でも十分に味があるから、茶請けとして丁度良い。そして何より甘味には疲労回復の効果がある。日頃の疲れがすっと抜けてゆくような感覚に幸福感を覚えた。よっぽど頬が緩んでいたのだろう、蒙恬から「嬉しそうな顔をしている」と指摘されて、気恥ずかしく咄嗟に頬を抑える。
「気に入ったのならあげる。日持ちもするからゆっくり食べなよ」
「……よろしいのですか? ありがとうございます」
 そのような会話をしていると、店の奥から一人の芸妓が顔を出した。彼女はえもいわれぬ香の匂いを漂わせ、なまめかしい雰囲気でありながらも、少女のような零れんばかりの笑顔を浮かべて小走りでこちらまで近づいてくる。
「あら、やっぱり蒙恬様。聞き覚えのあるお声だと思ったのよ。この時間に来られるなんて珍しいじゃない」
 どうやら蒙恬の知り合いのようだ。一通り再会を喜んだあと、美しい彼女は隣に座るわたしの存在に気付いたらしい。
「そちらは?」
と申します。蒙恬様の御友人の方でいらっしゃいますか?」
 そう問うと、彼女は呆気にとられたような顔をしてから、クスクスと笑い出した。何か変なことを言ってしまったのだろうか。
「ふふふ。友人とはまた違くてよ」
 まるで小さな子供に言い聞かせるような柔らかい口調で、意味深長な言い回しをされた。理解及ばず困惑しながら蒙恬の方を見ると、焦っている様子。楽し気な彼女とは対照的に、先程までの笑顔が嘘のように消えている。
「ここによく遊びに来られていることを彼女はご存じなの?」
「あまりを揶揄わないでやって」
「ねえねえさん。蒙恬様はここのお得意様なのよ」
「昔の話だから。今は忙しいから滅多に来ないし、顔を出すのだって太太への挨拶の為で」
「ふふ。そう怖い顔をしないでくださいな」
 妖しげな笑みを浮かべる女性と、目を合わせようとすらしない蒙恬。何やら不穏な空気である。取り残されたわたしは、この状況をまるで理解できていないが、どうにか二人の間を取り持たねばならないと思い――。
「蒙恬様は茶菓がとてもお好きだったのですね。初めて知りました」
「…… ……」
「…… ……」
 茶店の常連ということは、つまりそういうことだろうと、明るく微笑みながらそう言ってみたものの。今度は二人とも目を見開いて言葉を失ってしまった。また的外れなことを言ってしまったかもしれないと慌てていると、沈黙の後、芸妓の女性は破顔一笑して、肩を震わせながら笑い始める。蒙恬はといえば何故か不貞腐れているような、はたまた安堵したような名状し難い表情でわたしたちを見ていた。
「いたいけなのね。あてつけがましいことをしてしまったかしら。悪かったわ」
「? いえ。何も悪いことなど。むしろ色々と教えてくださってありがとうございます」
「蒙恬様が年下の子を連れ歩くところなんて初めて見たから、つい悪戯したくなったのよ」
「はあ」
 彼女はわたしに愛想の良い笑みを浮かべてから、蒙恬にこそこそと耳打ちをする。
「それでそれで、本気なの?」
「本気を出しても手が届かない人だから無理」
「あら。いったいどちらの娘御なんでしょう?」
「秘密。とりあえず太太によろしく」
「本当に良いの? あたしの顔を利かせれば場所くらいは貸してあげるわよ」
「よしてよ。そういうのじゃない。行こう、
 蒙恬は急に立ち上がると、餳の入った小壺をわたしの手に握らせて、さっさと車の方へ歩いて行ってしまった。その後ろ姿を追いながら、女性に向き直って小さく礼をすると、彼女は袖の長い着物をひらひらと靡かせて手を振った。
「なんだかわたしには縁遠い場所ですね。皆様お綺麗で、住む世界がまるで違うような」
「…… ……」
「蒙恬?」
 隣に腰掛ける彼の顔を見ると、なんとなく気まずそうな雰囲気で。
「ごめん。気を悪くしたよね。君をここに連れて来たのはこの甘味を食べさせたかったからで、本当に他意は無かったから」
「すみません。その他意というものがまったく理解できていないのですが」
「だったら良いんだけど」
「わたしに知られてはまずいことがあるのですか?」
「このお話はおしまい」
「蒙毅様に聞けば分かるでしょうか」
「それは勘弁して。金輪際、君との逢瀬の手引きを頼めなくなるかもしれない」
 気になって堪らなかったが、蒙恬がそこまで言うのならば詮索は止した方が良いのだろう。素直に頷くと、彼はほっと胸を撫で下ろしていた。
 軍師学校に到着する頃には、夕闇の気配が迫っていた。楽しい時間は瞬く間に過ぎ去るもの。一抹の寂しさを抱きながら蒙恬に別れを告げて、軍師学校の長い階段を上ろうと踵を返すと。
「次は十日後」
 背後から声を掛けられた。淡色の髪が陽の茜色を眩しく照り返している。
「一緒に着物を引き取りに行っていただけるのですか」
「迷惑なら控えるけど」
「いえ。とても嬉しいです。その時に是非お返しをさせてください」
「いいって。じゃあまたね。何かあったら弟に伝えて」
「はい」
 わたしは深々と頷いて、再び歩みを進める。
 次に振り返る頃には、彼が乗った車の陰影は朧気だった。

//

「おかえり。楽しめた?」
 宿舎に戻ると、蒙恬との間を取り持ってくれた礼方々今日の報告をするために蒙毅の部屋を訪ねた。勿論、茶店のことは一切口にしていない。
「というわけでございまして、蒙恬様ってば結局一銭も出させてくれませんでした。せめてお礼に何か贈物をしたいと考えているのですが」
「兄上が好きでそうしているのだから、気にする必要は無いよ。ああ見えても結構、が相国のもとを離れて一人で切り詰めた生活を送っていることを心配していたから」
「そうなのですか」
「うん。君が夜なべして働きながら勉強していることにも申し訳なさを感じているみたい」
「それは呂不韋様が提示した条件ですから。蒙恬様は費用の援助まで申し出てくださいましたが、固辞したのはわたしです」
 蒙恬とわたしの関係はただの友人。これ以上、換言する言葉は無い。しかし彼はわたしに十分すぎるほど世話を焼いてくれる。報いることのできない自分に不甲斐なさを感じながらも、しかしわたしの幸せを望む彼の気持ちが、という一人の人間を尊重してくれていることが何よりも嬉しい。例え呂不韋の養女という肩書きが無くとも居場所はあるのだと、そう言ってくれているようで。
「失礼致します」
 ふと。外から奴婢の緊迫した声が響く。
 漂っていた幸福な空気がさっと退いていったような気がした。
様はこちらにいらっしゃいますか。相国の邸から使いの方がおいでです」
「呂不韋様の?」
 蒙毅の大きな瞳が怪訝に歪む。
 というのも軍師学校に入学してこの方、呂不韋からは呼び出しどころか連絡のひとつも寄越されたことが無かった。こちらから新年の挨拶を述べた書信を送っても返事すら返ってこない。御多忙な方であるからさして気にしてはいなかったが。しかしこの時期に、唐突に呼び出されたとなると、用件は察しが付く。気は進まないが、だからとって拒否できる相手ではないのだ。
「僕も付き添おうか」
「いえ。心配には及びません。わたし一人で行って参ります」
 蒙毅を巻き込んで、万一にも彼の父・蒙武の位地までも揺るがす事態に発展してしまえば取り返しがつかない。「大丈夫です。慣れていますので」と己に言い聞かせるように呟くと、彼は無言の裡に不安とも言いたげな表情を浮き上らせながらわたしを見送った。
「今日は珍しく装いを整えておるな。良し。相国と謁見するのに普段の蛮族のような恰好では失礼にあたるからのう」
 奴婢に先導されて正門へと向かうと、呂不韋の使者はわたしの服装を見て白々しくそう言った。
 さんざん舞い上がらせた後に慈悲もなく地に落とすようなやり口は、まったくあの人らしいと思う。

 暮色蒼然の街路を抜けた先にある呂不韋の邸は真昼のように目映いばかりの篝火が灯されていた。遠くから閉門の鼓が響いている。もう後戻りはできない。
「相国。様です」
 数年を過ごしてとうに見慣れたはずの邸は、重い液体が満ちているような息苦しさが立ち込めていた。いつか訪れた奥書院の露台から眼前に広がる咸陽宮を見下ろしていた亜父は、夜風に打ち靡く美髯を撫でながら振り向き、こちらに歩みを進めた。
「長らく見ない間に随分と変わったな」
 重厚な手のひらが降りてくる。頭頂部に結わえた一髻に、まっさらな耳朶に、輪郭から頤に。まるで美陶や殊玉を見定めているかのようにじっくりと触れながら、呂不韋はわたしと視線を絡めた。表情は至って平穏だが、その炯眼には色が無い。
「多様な困難や挫折に直面し、それを乗り越え、やけに落ち着き払ったその容貌。若さゆえの反発と諦観を秘めた眼差し」
 ――じつに気に食わんなァ。
 呂不韋の言葉には何も返さなかった。
 皮肉な物言いにはとうに慣れた。彼はわたしが知恵をつけて心を磨くことを嫌い、無垢な傀儡であることを望む。父と娘という尊い関係はここには無い。わたしたちは本当の親子にはなれない。その虚しさに心が音も無く擦り切れてゆく。
「おぬしの父の願いを汲み、珠のように可愛がり不自由無く育ててやったにも拘わらず、とんだ跳ねっ返りになったものよ。そなたにとってこの呂不韋は悪であると判じておるか?」
「滅相もございません」
「相も変わらず蒙武の息子に随分と入れ込んでいるらしいが、おぬしをそのようにしたのは彼奴か。既に掌中にある我が四柱蒙武に改めて親善を図るまでもないことは十分に諒解しているであろう」
「彼とは良き友人でございますが、それ以上の関係は無いと、天地神明に誓って申し上げます」
「その良き友人とやらと白昼堂々色街に繰り出していたと臣下から訊いたがのォ」
 もはや反論するだけ無駄であると諦め、口を閉ざす。いくら証拠立てて確たる事実を述べようともこの場では呂不韋の言葉こそが真実である。有象無象に埋もれた人間の論辨は、彼の前では小鳥の囀りに等しい。
 悔しさに耐え兼ねて目を伏せると、それまでこちらを責苛むような口調であったのが嘘であったかのように、亜父は鷹揚にわたしの肩を抱く。
「なにも責めつけようというわけではないぞ。儂も若い時分は夜通し遊楽に興じたものよ。但し何事も引時というものがある」
 弄ばれているのが自分だけならば構わない。しかしその火の粉が蒙恬の尊厳に降りかかり、傷つけられているのを見過すことはできず、堪らず口を開いた。
「して御用件の程は」
「見当がつかぬとは言わせぬぞ」
「縁談でございますか」
「いかにも」
 やはり。
 間に合わなかった。逃れる唯一の手立ては、中央官吏の雇用試験に登第し、呂不韋の息のかかった者たちから離れること。果たして叶わぬ望みだったと、しばし喪心する。しかしこれ以上の不孝を重ねるわけにはいかない。委ねるしかないのだ。
「お相手の方は如何様な」
「儂が懇意にしている趙の大臣の縁戚であり、代々公家と婚姻を結ぶ萬戸侯の跡取り息子よ。この上ない良縁であろう」
「な……」
 頭を強く殴られたような衝撃を受けた。たとえ呂不韋の養女という肩書があろうと、という人間は結婚相手としては随分と条件が悪い。とうに世間では行き遅れと言われる年齢であるし、腹に醜い傷があることも、それが原因で離縁を言い渡されたことも儒学では不孝とみなされ蛇蝎の如く忌避されるもの。高貴な御大身がそのような女を娶る目的など明々白々。
「恐れながら申し上げますが! 趙とは既に同盟関係がよからぬ形で破綻し、互いに反目しております。相国の位にある呂不韋様が敵国の重鎮と姻戚関係を繋ぐとなれば、訌争の火種になりましょう」
「勘違いするでない。あくまで商人としての貿易基盤を整える為の手段に過ぎぬ。それでも亜父とまで慕うこの儂に異存を唱えようとするか?」
 あくまでも政は無関係であると主張するようだ。無理がある。呂不韋の暴走を止めなければならないと思った。このままではいずれ野放図に振舞った報いに圧し潰され、破滅の道に落ちるだろう。しかし拒絶の言葉は声にならない。
「案ずるな。先方にはおぬしの過去もすべて伝えた上で了承を得た。ならば不服はあるまい。大切な娘が婚期を逃していると知ったら、彼奴も酷く悲しんでいるであろうからな」
 臍を噛んだ。募る無力さを発散する術が見当たらない。
 わたしは途方に暮れた。

 沐浴を済ませて寝台に身を預けながら、虚ろな目を宙に向ける。ここは呂不韋邸から近い旅籠である。手燭が一つ置かれたのみの部屋は薄暗く、わたしはその闇に亡父の顔を思い浮かべた。このさだめを素直に受け入れるべきか否か。答えを求めても返ってはこない。
「……父様」
 初霜を迎えた咸陽の夜は一段と冷え切っている。傍にあった湯婆子を手繰り寄せ、失って久しい温もりを思い出しながら縋るように抱き込んだ。


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