凶夢に魘されている気分だ。
「おお。聞いたぞ。とうとう嫁に行くとな。それも相手は良いところの嫡嗣だと専らの噂だ」
「相国もさぞかし喜んでおられることだろう。とはいえ河了貂に続きお前まで居なくなると、なんとも華やかさに欠けるな」
「俺は諸手を挙げて祝福したい気分よ。なんせ貢挙の合格枠が一つ空いたのだからな。……なんて冗談だ、冗談」
軍師学校に戻るなり次々と告げられる言祝ぎに耳を塞いでしまいたくなった。どうやら留守にしていた僅か半日と少しの間に、外堀は埋められていたようである。呂不韋派に与する者が悉く事情を知るところとなった今、輿入れまで監視の目は絶えない。そうと理解すると辟易した。顔が引き攣っているのが嫌でも分かる。とはいえ少しでも妙な態度を見せれば遺漏無く呂不韋へと報告される可能性が拭えない以上、わたしは努めて本心を掩蔽するほかなかった。
「おめでとう。とは、とても言えない表情をしているね」
「蒙毅様」
私室に戻る道中、偶然にも蒙毅と行き合わせた。
兄弟子の顔を見た途端、安堵が溢れて気が抜けたのか、貼り付けていた笑顔が砂楼のように音も無く消える。胸に誓った亜父への献身を裏切る自身への呵責と、有無を言わせず返忠に加担させられる無力さの板挟み。受け入れなくてはいけない諦念に、苦しくも抗う自分を隠し切れない。
「外に出ようか。学舎は人がいる。君も落ち着かないだろう」
おそらくこの後の会話が誰かの耳に入ることを案じての誘いだ。普段と変わらず優しい声色であるが、表情は曇っている。きっと彼はわたしの本心を見抜いているのだろう。
軍師学校という機能的な名の施設にも官式建築に倣った庭園が存在する。
開けた池岬から繋がる柔和な曲線美と華麗な色彩が織り成す四阿は、射干や鳳仙花、香などの花々が混植されている様が一望でき、その風致は文人墨客に愛でられている。しかし冬が近いこの時期は殺風景に様変わりし、吹きすさぶ寒風の鋭さも相俟ってか人の気配は無い。
蒙毅から顔を背け、欄干にもたれて波立つ湖面や風に揺れる垂柳をぼんやりと見つめる。凋落した花木たちの粛然さが、今は殊に侘しく思えた。
「どうか蒙恬様には、結婚のことは何も言わないでください」
「分かった。しかしいずれ兄上の耳にも入るだろうから、その時は」
「会いません」
蒙毅の言葉を遮る。彼は磚を鳴らして立ち上がり、わたしの隣までやってくると、焦燥滲む表情で訴えかけるようにこちらを見つめた。
「」
「これ以上あの方を巻き込みたくはございませんゆえ、どうかお願い申し上げます」
「嫁いだらもう二度と会えなくなるかもしれない」
「承知の上です。会ったところで良いことなど一つもありません」
蒙家の子息が結婚を控えた女人の元に足繁く通っている、などという芳しくない噂が流れるだけだ。身勝手な理由で蒙恬を巻き込むわけにはいかない。たとえ優しい彼が会いたいと言ってくれたとしても、応じてしまえば彼のみならず周囲の人間も煽りを受ける。かつて蔡沢に師事していた蒙毅も呂不韋の恐ろしさを十二分に理解しているようで、渋々といったように頷いた。
「分かった。ならば僕はその意志を尊重する。ただ妹のように大事に思っていた君が不幸に歪む様を、見ていることしかできないというのは心苦しいよ」
「この婚が幸せか、或いは不幸せか。それは己が判ずることです。幸せなのだと信じ抜くことができたのならば、いずれそれが真になりましょう。そしてわたしは呂不韋様の娘として役割を全うすることができる。ただ今は冷静でないだけ。……体が冷えますので、そろそろ舎内に戻りますか」
懸旌の如く揺れる心を隠すように、のべつに言葉を捻り出すと、蒙毅を置いて足を進める。
弱音を吐露したところで何かが変わるわけでもない、寧ろ自分一人がすべてを粛々と背負い込めば良いだけの話。これは幸せな結婚だ――そう泰然として受け止めるには何もかもが枷になる。去りし日々に思い焦がれるほどに、より重く付き纏う未練は、潔く断ち切らなければならない。
「それとお手数ですが蒙恬様にひとつ言伝を。体調を崩しているので、次に会う約束を反故にしてしまうことをご容赦くださいと」
――次は十日後。
そう言って微笑む、暮れ方の茜に染まった美しい面差しが蘇る。
残りの九日。待ち遠しさに指折り数えながら変わらぬ日々を過ごすものだと疑いもしなかった。
あまりにも多くの恩を受けておきながら、礼の一つも伝えずに去るなんて、薄情な女だと謗ってくれれば良い。どのみち二度と会わないのならば、何と思われようと関係無い。わたしの中でだけ、とても尊く綺麗な思い出のままでいてくれるのなら。
「……酷な頼みだな」
兄弟子の呟きはさもしい冬鳥の鳴き声に紛れながらも、しかとわたしの耳に届いていたが、聞こえないふりをした。
怒涛の如く過ぎ去った一日に困憊しながらも足を運んだ先は軍師学校の深奥。足場を照らす篝火は無く、視界は昏い。夕時雨に濡れた屋根から垂れる水滴の音が不気味に響く橋廊を抜けると、闇の中に溶け入るように漆黒の甲冑を身に纏った兵士の陰影が、幽かな冬茜を受けて朧に浮かび上がっていた。
「お疲れ様です」
懐から青銅製の印章を取り出して差し出す。昌平君からこの楼の出入りを許された者の証である。兵士はその一顆をじっくりと見つめ、本物と相違無いことを確認すると扉を開けた。
天井まで堆く積み上げられた書棚の数々。広い部屋には眩暈がしてしまいそうなほど濃密に、麝香の甘い香りが芬々と立ち込めている。書から生ずる蟲を祓う匂いだ。
棚から書を一つずつ取り出しては埃を払い、霉を刷き、擦れた文字をなぞる。昌平君に任せられた仕事の中でも、とりわけこれが好きだった。
仮想世界への往還。それは智に貪欲な人間にとってはまるで、世の理を知らない子供の如く感性の雨に打たれているようなもの。
幸福だと独り言ちる。いっそ出家して濁世から離れ、経典や文学の湖に身を投げてしまいたいとさえ思う。しかし呂不韋への忠義がそれを阻む。とはいえ微軀で為し得る報徳など高が知れているのは勿論、これまで悉く期待を損なってきたのだから、忠義とやらが目に見えるのならばさぞかし薄汚い襤褸のようなものなのだろう。しかしその襤褸を捨てる気にはなれなかった。即ち呂不韋の為にと生きてきた青春を、己の存在意義を、全てかなぐり捨てることと同義であるからだ。
そのような逃避の最中、ふと書楼の扉が開いて刺すような寒風が舞い込んできた。我に返ると同時に持っていた書が手から滑り落ち、空気を裂くような音を立てて床に跳ね返る。
「誰だ」
静謐の中に低く凛とした声が響く。凍てついた空気を震わせた深みのある低い音吐、その主の正体に気付くや否や、わたしは反射的に駆け寄った。
「……先生」
「か。ご苦労」
著雍では変わらず秦魏両軍の睨み合いが続いているが、いつ戦が始まってもおかしくはない状況。昌平君は総軍司令として宮禁にて軍議に列していたはずだ。予想外の帰還に戸惑ったのも束の間、彼の裘衣が雨で濡れていることに気付き急いで火を熾した。
「戦の方はよろしいのですか」
「ひと先ずは膠着状態にある。一晩だけ暇を貰った」
「ならば寝殿へお戻りくださいませ。裀褥でしっかりと休んでいただかねば」
「要らぬ世話だ」
「不摂生がたたって倒れてしまっては皆が困りますゆえ。それに、そのご様子ですと喫飯もされていないのでしょう。厨房に行って軽食を貰って参りますのでお待ちください」
昌平君は乱れた髪やまばらに伸びた髭もそのままに執務机に向き合い、溜まっている書簡に目を通し始める。窶れて隈が浮かんだ相貌からは食事や睡眠すら疎かにしていることが伺えた。秦国の軍慮はその一切が昌平君の頭脳に頼らざるを得ない状況。一人だけ見えているものの次元が違う、ゆえに多くを背負い込んでいる。無理をしないで欲しいだなんて無責任なことは言えないが、深更に及ぶ軍議を日々繰り返し、そのうえ帰邸しても煩雑な執務を片付けようとする、度が過ぎるほどに克己的な姿勢には尊敬を通り越して心配を覚えてしまう。
小付飯を貰って書楼へと戻り、昌平君の元へと運ぶ。それから再び掃除に戻ろうと踵を返すと、背中越しに声を掛けられた。
「明日からは来なくて良い」
「え……」
「来る理由はもう無いだろう」
突拍子も無い発言に戸惑うわたしに、昌平君は語を継ぐ。
「人の心配よりも己の心配をしたらどうだ」
しばし沈吟し、漸く昌平君は此度の縁談について知っているのだと合点がいった。この書楼の掃除をはじめとした末梢事の対価として、わたしは軍師学校で不自由無く生活を送る権利を得ていた。輿入れが決まったとなれば軍師学校に居続けることはできないから、来る理由は無いというのはその通りだ。
また昌平君の言わんとするところはそれだけではない。いずれこの国を去り趙の人間として生きてゆくことになるわたしは、機密の金蔵とも表せるこの書楼に足を踏み入れるべきではない。彼は暗に今後の立ち入りを禁ずる旨を告げたのである。
「お前の価値を知る人間として、此度の婚姻は秦にとって大きな痛手であると言えよう。況してや嫁ぎ先が趙の権力者とは、軍部の総司令という立場からすれば到底看過することはできない問題だ。だが、今はどうすることもできぬ」
秦と趙。嫌厭し合う二国の巨大な権威が結び付くとなれば、それは二家間に留まる問題ではない。呂不韋が何らかの企みを潜めていることは誰の目から見ても瞭然。それを隠そうともしないのは、面と向かって異を唱えられる人物が一人として居ないことを知っているから。亜父の脅威は、秦国軍部の最高権力者である眼前の男でさえ手を引かざるを得ないほどに膨れ上がっていた。
「相国と丞相。百官を総攬する立場の人間が軋轢を生めばそれは国の乱れに直結する。呂不韋の姦策など知る由も無い民草からすれば、我々は謀反の首謀者として映ずるだろう。抗する大義名分があれば別の話だが。いずれにせよ著雍での戦いで国が疲弊している最中に揉めるのは得策ではない。必ずや敵は騒擾に乗じる」
「先生。まさか此度のことで呂不韋様と袂を分かつおつもりで」
「お前の所為ばかりではない。いずれこうなるであろうことは予想していた」
苦衷を抱えながら切れ長の目を伏せる昌平君の姿を見て、事態を軽忽していた己を深く恥じた。とはいえ今更この決定を覆せるはずもなく。
「すべてはわたしの不徳と致すところでございます」
跪き、床に額をつけて詫びた。許されないことは承知している。幾度詫びても詫び足りない。
有り体に言ってしまえばわたしは呂不韋への高潔な献身を建前に、身を粉にして恩に報いなければいけないという姿勢を見せながらも、蒙家や軍師学校の心地良さに甘えていた。深窓から巣立ち、出逢った人々の優しさと厳しさに触れて、次第に生まれた「自分自身を貫きたい」という欲望に抗うことができなかった。
軍師学校で研鑽を積み、いずれ立身出世し呂不韋を傍で支えられるまでに成長できたら……なんて。いつまでも甘美な夢に縋らずに、昔日に抱いた純粋な決意を――呂不韋が望むままに生きるという一途な思いを貫くことができていたならば大事に至ることは無かったはず。されど全てが後の祭り。
気づけば雨脚は弱っていた。書楼には五彩の鉢から熾火が爆ぜる、微かな音だけが響いている。やがて長らく下りた沈黙を破ったのは深い声だった。
「私は呂不韋がお前の才を知りながらこの縁談を取り付けたのではないかと懸念している」
「才……でございますか」
伏していた顔を僅かに動かし、上目で昌平君を見遣る。彼が言う才というのが、己が幼少の頃から培ってきた語学の才であることは言を俟たない。自分自身、それは有り触れたものだと思っていた。強いて独自性がある点を挙げるならば亡国甲の言葉を僅かに記憶していることくらいだろうか。しかしこの咸陽には中華全土から人が集まる。書物の類も多く献納されている。格物致知を体現することは不可能ではない。それなのに何故と、困惑の表情を浮かべるわたしに、昌平君は心中を汲んだように答える。
「我々が数多の史料をもとに研究を重ね刻苦勉励しようとも越えられぬ壁だ。多様な言葉に、直に触れ、磨かれた天性の質というものは」
「わたしなんぞにそれほどの価値があるのでしょうか?」
「だからこそ守ろうとした」
そこでふと思い浮かぶことがあった。
いつからか外に出る際は昌平君の私兵が付くようになったこと。他の門弟らと比べて易い任務しか与えられなかったこと。それまで昌平君に対して抱いていた不満の種が解消され、まるで結び目がほどけるように腑に落ちた。
「お前が敵の手に渡ってしまえば我々は替えが利かぬ智嚢を失うばかりでなく、秦の前途にまで累が及ぶだろう。証拠は無いが、あの呂不韋がその事実を知らぬというのは考え難い」
利用されるのは構わない。それで呂不韋が喜ぶのならばならば謹んで引き受けたい。だがその所為で己の命が危険に晒されるばかりか、周囲の人間に多大な迷惑を掛けてしまうのならば別な話だ。呂不韋がわたしの才を知り、価値を認め、勢威を示す道具として使い潰すつもりだとしたら。わたしを救ってくれた、あの温かさは偽物だったのだろうか。
「亜父の御心にはきっと良心の欠片が残っているはず。そのようなことは考えたくもありません」
「この不自然な結婚を取り付けた事実に理屈を立てるには充分だと思われる。父としての愛があるのならば、敵愾心に溢れた趙人の群れに大事な娘を放り捨てるわけがあるまい」
昌平君はあくまでも憶測だと主張するが、異論を許さない口振りである。わたしは閉口した。身体が恐怖で震えていた。心のどこかで恐れていた事実をまざまざと突き付けられ、弁駁しようにも根拠なんてものは無く、全ては亜父を信じて生きてきた自分自身の正当化したいがための言い訳に過ぎないことを知る。
「……なんとお詫び申し上げれば良いか。わたしはただ、絶望の淵から救い上げてくれた優しさに、報いたい一心で。すべて……そうすべて……あの御方の為にと」
自分がひたすらに惨めで、情けなさを緊と感じるたび目の端にじんわりと涙が滲む。
とんだ不孝者だ。この期に及んでこの婚から逃れられぬことを心の底から悔やむなど。
どう足掻いても定めに逆らうことは許されない状況で、呂不韋に対する不信感だけが万波の如く高まっては荒れ狂う。抑えきれないこの感情をどうすれば良い。亡父は、友は、わたし自身は。不徳なこの心を許すのだろうか。
印章を返還し、重い足取りで書楼を後にした。もう二度とこの道を歩くことは無い。一歩一歩、感傷の情を噛み殺すように歩みを進める。雨上がりの雲間からは冬星の大火が、女牆の篝火に劣らぬほどの鮮烈な輝きを見せていた。闇が覆う空を見上げ、己の矮小さをひしと感じながら、僅かに冷静になった頃に、ぼんやりと昌平君とのやり取りを思い出した。
そもそも、どうしたって今回の結婚を覆すことができないのならば、ここまでわたしに不信感を植え付ける必要性はあるのか。普段の謹厳さを慮れば、今日の昌平君は些か不自然にも感じられた。趙の人間となるわたしを切り捨てたがゆえの多弁ぶりであったのかもしれないが、彼ほど理性的な人間が憂さ晴らしのような真似をするとは思えない。大恩ある人間を悉く裏切る自分に心底嫌気が差しながらも、しかし何か裏があるのかもしれないと邪推するのは、少々穿ち過ぎか――。