暗晦を赤々と照らすは旺に燃ゆる篝火。
火の粉を吹きながら天まで届きそうなほどに高く燃え盛るそれに、わたしは端木をくべる。ほどもなく黒変してゆく木々、その隙間に密かに忍ばせた一片の帛は、瞬く間に収縮して灰と化した。
蒙恬から書信が届くようになったのは「約束の十日目」を過ぎてから幾日か経った頃だ。初めはわたしに宛てた木簡が届いていたが、暫くして粗方事情を察したのか、蒙毅を介するようになり、やがて軽くてかさばらず処分しやすい帛書となった。奴婢が直接届けてくれていた時は受け取りを拒否していたが、蒙毅から届くようになると読まずともせめて受け取って欲しいと懇願された。兄の思いも無碍にはできない、受け取ってくれさえすれば好きにして良いから――と。なんとも痛ましそうな表情で訴えられては断ることもできず、とはいえその中身を見る気にはなれなかった。彼への恋しさを募らせたところで、余計に苦しい思いをするだけ。
それから、こうして蒙恬からの便りを燃やしている。中身はまったく確かめていなければ、当たり前だが返事も、一度たりともしていない。けれども幾度となく送られてくる。
「……しつこいひと」
態と声に出して呟いた。
本当はもう一度会いたい。声を聞きたい。届けられた文に触れるだけで情炎が駆り立てられるほどに焦がれている。はしたない女だ。
だが自分に深く関わってしまったばかりに、人倫に悖ることも厭わない亜父の手により彼の前途多望な将来が簡単に捻り潰されることがあったならば、きっとこれまで以上に慚愧の念に苛まれる。だからこそ早く関係を断ってしまいたかった。
(――さっさと諦めて、見放してくれたらいいのに)
わたしはあと何度、本心を殺しながら貴方からの便りを燃やさなければならないのだろう。
ついに著雍にて戦いの火蓋が切られたとの報が咸陽中を駆け巡った。
戦が始まると国の警備は殊に厳重になる。まず国内外を繋ぐ関所では、車の類を牽いてこようものならば荷台の裏まで徹底的に調べられ、胡乱な点があれば即座に捕虜となり、抵抗すればその場で処される。馬や食料は没収され軍馬・兵糧として戦地に送られるという。
咸陽ではこれがますます峻厳になり、まず宮殿は要人以外の出入りを禁じられる。邑の小門は閉ざされる為、大門には入城を待つ人々の列が蜿蜒と続く。そこでは幼子ですら身に纏う衣服まで仔細に検められ、疑わしい点があれば否応なしに捕らえられて獄へと連れられる。哀訴嘆願は聞き入れられない。
獄に連れられた者はそこで厳しい取り調べを受け、国に叛く者と見做されると、鐵檻車という禽獣を入れる為の乗り物で引き回され、ついには棄市に処される。秦に仇をなす者は人ではないとされて、酷い死に方をするという見せしめだ。
然り而して。たとえ相国の親族であろうとも、この時期に花車を趙国まで走らせることはおろか、軍師学校から咸陽の戚里に戻ることもできない状況。結婚が決まった娘を、他の男の手が及びかねない場所に留めるというのは極めて異例であるが、こうした世情もあり容認されている。
とはいえ輿入れの準備は着々と進んでいた。起床から湯浴み、食事、就寝まで四半刻の乱れも許されぬ規則正しい生活を強いられており、自由時間は安静に過ごすように言いつけられている。その食事というのも一日三食に増えたのは良いが、黒胡麻の粥や魚目を濾した湯など、軍師学校で最も食学に精通する者が考案した「子を生す為の身体に十分に配慮した」健康食ばかり。味は二の次である。窮屈な毎日を彩る食事がこれでは、なんとも物足りない。
書楼の出入りを禁じられた翌日に御史台の執務室を整理する命も解かれ、傭書の依頼などの雑事も一切回ってこなくなった。講師の高官らは総じて宮禁で軍議に付いているので講義も無く、思い出を拾い集めるように学内を散策して無聊を慰めていたが、冬の盛りが近づいたこの頃は益々刺すような寒さで、専ら私室に篭っている。文官になりたいと夢を見て寄せ集めた多くの書物。幾度となく読み込み、手垢が擦れ汚れたそれらをぼんやりと眺める。嫁いでしまえば軍師学校で学んだことは全て忘れ、無知な女を演じなければならない。他国から妻としてやってきた人間が知恵の働く者となれば危険因子と見做されよう。二度と学問には触れられない、そう思うと名残惜しい。向学の念に燃えていた頃の痕跡は寂寞を深めるばかり。
砂を噛むような生活の中で唯一の安らぎといえば、愛馬・白駘の様子を見に厩舎へ行くこと。騅の馬は歳を重ねるにつれ、体毛が白んでゆく。かつて体表にくっきりと浮かび上がっていた真白の斑点模様は、今や地表に溶け入る雪のようにぼんやりとしていた。賢い彼はわたしの哀しみを知ってか知らでか、馬房に近づくと寄り添うように顔を近づけてくる。このまま何もかもを置き去りにして一人と一匹であてもなく遠懸けしたい。それもこの身の上では叶わぬ願いだ。
陽はいよいよ短くなり、年の瀬も押し迫ったこの頃は人々から気ぜわしさが伝わってくる。対照的にわたしは日々を無為に過ごしていた。夕餉を終えて書物の文字をぼんやりと目で追っていれば、侍女が私室を尋ねてくる。
「様。お休みの時間でございます。お召替えを」
食べ終えた夕餉の膳を下げるのも、夜具を用意するのも、日常の些事は殆ど彼女たちの手によって行われるようになった。立ち上がって手を浮かせると、侍女は慣れた手つきで衣と髪を解き、床に就く恰好を仕上げていく。全ての作業が片付くと、侍女は薬師から預かった薬用茶をわたしの前に置いた。これは唐花草という植物を煎じたもので、鎮静、安眠、女性機能を整える効能があるそうだ。毎晩飲むように言いつけられている。
「では失礼致します」
「ご苦労様です」
侍女が去ると部屋からは一切の灯りが消える。柔らかな絹の衾と香炉から漂う沈香の煙に包まれながら寝台の上に四肢を放った。それから軽く目を閉じて、眠りに落ちるまでの間、物思いに耽る。
絶望的な状況をどこか俯瞰している自分がいる。不思議と落ち着いているのはきっと茶の効能のおかげだろう。
かつては夫となる男性を一目見ただけでも緊張を覚えたものだ。無礼を働かないように。呂不韋の面目を潰さないように。十五のうら若き時分はたぎるような情緒の奔流に振り回されていた。今や次の夫がどのような人物かということも然程気にならなければ、良き妻であることを心がけようという気概さえも湧いてこない。薹が立つと心緒もここまで変わるらしい。
斉の豪商は息災だろうか。彼は自分よりも十と少し年配だったから、歳はそろそろ三十も半ばに差し掛かろうといった頃。きっと今は新しい妻妾を迎えているはずだ。子供も儲けているかもしれない。もしもわたしがあの男の隣に妻として立ち続けることができていのならば、呂不韋への疑心を抱え煩悶することも無かったと思うと、筋違いであることは諒解しつつも離縁を言い渡した彼のことが少しだけ恨めしくもなる。
――目が覚めた。
部屋には一片の光も差し込んでいない。夜半である。
暗闇の中、衾を手繰り寄せて体に巻き付かせ、再び眠りに落ちようと目を閉じた時、露台の方からなにやら不審な物音が聞こえた。吹き込む隙間風の笛鳴りに紛れて、僅かに、壁を叩かれているような気がして、その胡乱さに眠気が醒める。
「……? 誰かいらっしゃるのですか?」
とはいえここは二階。外は身を切るような寒さで風が絶えず吹き付けている。更には月も細く、足元も頼りない暗夜。居るとしても化生の類だ。返事があるわけもない。自分でもなぜ外に向かって話しかけたのか分からなかった。名状し難い不安を払拭したかったのかもしれない。
ところが、ややあって予想外にも返事があった。
「ごめん。開けて欲しい」
それは良く知った声にそっくりだった。否、そのものである。間違いない。反射的に手先が震えて、とくんと大きく鼓動が鳴った。恐怖よりも先に浮かび上がってきた感情が、真実であることを裏付けている。壁を隔てた向こう側に生身の人間がいるわけもないと思っていたわたしにとって、それは二つの意味で驚くべきことだった。
どうして彼がここに居るのかと問いたかったが、どんな理由があれ事実は事実。予期せぬ再会に沸き立った心を押し留めながら、努めて冷徹な声で返事をした。
「どうかお引き取り下さいませ。輿入れを控えておりますゆえ」
露骨なまでに他人行儀な口ぶりには、己の未練を払拭したい意図もある。
「。寒い」
「お引き取り下さい」
「お願い。凍えそう」
彼の声は分かり易いほど震えていた。寒空の下、街々から離れたこの軍師学校にやってくるのはさぞかし難儀であっただろう。それを知りながら追い返さねばならないのは酷だが、どうしても彼を巻き込むまいと今まで必死に自分の甘さを断ち切ってきたのだ、ここでその全てが水泡に帰すことなどあってはならない。
「いい加減になさってください。迷惑です」
そう言うと、それきり向こう側から声が返ってくることは無かった。彼の言葉が風の音に掻き消されたのかと思い、耳を澄ませてみたが、やはり暫く経っても何も聞こえない。自分自身が望んだことであるのに、まるで鋭い刃に貫かれたかのように甚く胸が痛む。
「……失礼が過ぎました。どうかお元気で」
最後の別れが一方的な拒絶であるのはどうも割り切れずに、わたしは居るのかもわからない相手に向けてそう付け足した。当然のように返事は無い。安堵の情は少しも湧かず、落胆と共に彼との思い出がまざまざと思い浮かびあがる。弾けるような花笑み、漂渺を見据える大人びた顔付き、わたしを揶揄うような色めいた仕草。そして最後に見た彼の姿を脳裏に映し出した時、はたして約束を反故にしたことを直接詫びることができなかったと悔やんだ。
半刻が過ぎただろうか。わたしはまったく寝付くことができないでいた。
息を潜めて耳に入ってくるすべての音を拾い、そこに彼の存在を見出そうとしている。口先では散々突き放しておきながら、とんだ偏屈ものだ。そのうち耐え兼ねて立ち上がると、露台に続く窓に手を掛けた。
(ただ無事に帰ったかをこの目で確かめるだけだから)
己の心にそう言い聞かせながら、錠を解き、外の様子をそっと盗み見る。すると僅かに開けた窓の隙間から人影のようなものが佇んでいるのが見えた。あれほど強い拒絶をしたのだ。普通ならば呆れて立ち去るはず。況してや底冷えする夜だ。開くかもわからない扉の前でずっと待っているはずがない。幻覚か、それとも見間違いかと思いながらも確かめるために帳を大きく払うと、なんとその影は弾かれたようにこちらに近づいてきて。
「な、ん……ん! んッ!」
驚きのあまり声を上げようとすると、ぬっと伸びてきた手に鼻口を塞がれる。「静かに」と自身の薄い唇に指を添える彼にこくこくと頷けば、わたしの体は氷のように冷え切った手に引き寄せられ、きつく抱き竦められた。
既に顔も知らぬとつくにの婚約者のものとなったこの体。他の男と触れ合うことは許されないはずだ。忍び会いだなんて尚の事、誰かに見つかってしまえばどんな酷い罰を受けるかも分からない。突き放すべきだ。理解している。けれども抵抗しようと伸ばした指先は甘い切なさに灼かれて震えるばかり。心の内奥ではずっと渇望していたのだ。いくら彼を忘れたくて書信を燃やそうとも、己の運命を素直に受け入れるフリをしても、衷情に嘘をつくことはできなかった。
「口では何と言おうと、君は、結局は優しい人なんだよ」
未練を胸の奥底へと嚥んで、ひた隠しながら生きてゆこうと決心した矢先であるのに。彼はどうしてわたしを手放してくれないのだ。
二本の逞しい腕に幾度となく力が籠められる、踵が浮くほどのきつい抱擁に、様々な感情が迸る。わたしの肩に顔を埋めている彼の髪が耳朶を擽るたび、その幽かな感覚にすら体は燃えているかのように熱を帯びた。それらを誤魔化すように低い声で告げる。
「蒙恬……危ない真似をなさらないでください」
「会いたがらないならば、会いに来るしかないと思って」
「繊月で足場なんて碌に見えないでしょう」
「少しでも明かりがあったら見張りに見つかるから」
「それにここ、二階です」
「二階の高さならばなんとか登れる」
「……」
暫しの沈黙の後、どちらからともなく体を離すと、わたしは蒙恬を部屋の中に招いた。この期に及んで話もせずに追い返そうという気にはならなかった。危険を冒してまでやって来た彼には、腹を据えて己の覚悟を伝えるべきである。
「お待ちください。すぐに暖を」
「どこに行くの?」
「厨房です。熾炭をいただきに」
侍女が灰を被せた火鉢はとうに熱を失っていた。
「怪しまれるから止した方がいい。俺のことは気にしないで良いから」
蒙恬はわたしを寝台に座らせると、薄生地の寝衣の上から羽織らせるように衾を巻き付け、自身は床に敷いた茣蓙に腰を下ろした。火種も油も無い部屋に灯りは無く、僅かに差し込む月光が、彼の美しいかんばせを青く照らしている。
「わたしが趙国に嫁ぐことはご存じですか?」
「嫌でも噂が回ってくるからね」
「ならば話が早いです。もうどうにも覆らない決定ですので」
すると蒙恬は苛立ちとも怒りともつかない感情を露わにしながら、片手を額にあて、深く息を吐いた。乱れた髪が音もなく彼の眼前へと落ちる。
「。俺は我慢ならないよ。趙人がどれほど秦に深い憎悪を抱いているか、長平の戦いを知る人物であれば猶更、理解しているはずだ。か弱い君が奴らの鬱憤の捌け口にされることは目に見えている。想像できないほど酷い扱いをされるかもしれない」
「はい」
「本気で分かってるの?」
「ええ」
彼は愕然としていたが、すぐに深く俯いて考え込む。常人よりもずっと回転が速い頭の中で、わたしをどう説得すべきか、あれこれと思案しているようであった。
「にとって呂不韋はそこまで大切な人?」
「無論です」
「赤の他人が犯した罪への償いを押し付けられ、惨い仕打ちを受けても、それは呂不韋への報恩だって言うのか。こんな理不尽な結婚なんて、呂不韋の為に死ねと言われているようなものだ。それでもは首を縦に振るつもりでいるんだ」
「それは――」
わたしは答えを言い淀み、蒙恬の顔を見返した。激情に駆られた彼の瞳に、僅かに縋るような弱さを感じた気がする。その痛ましさが惻々として胸を打ち、わたしの決意を揺るがし始めると、耐え切れずに眼差しをふと逸らした。
「そうするほかないのでしょう」
「ふざけるな」
今までに彼から浴びせられたことのない鋭い言葉。声を押し殺しながら憤る姿に怖気づく。しかし、自分にはどうすることもできない。嫌だとごねて破談になるような簡単な話であったのならば、とうに解決している。この結婚にわたしの意志は全く尊重されない。どのみち逃れられないのなら、受け入れようとしなければならないのだ。そうでなければ、心が壊れてしまいそうな気がして。
「わたしは呂不韋様に従います」
「俺は許せない」
どうして蒙恬はここまでわたしに固執するのだろう。かつて友という存在を知らなかった孤独なわたしにとって、ときに衝突し、認め合い、やがて心を預ける唯一の相手となった彼であるが、向こうからしてみれば数ある友人の一人に過ぎないはず。特別深い関係になったわけでもない。蒙家に累が及ぶくらいならば切られても不思議ではない縁だ。
しかし彼は現に目の前に居る。わたしを説得しようと試みている。その理由を知り、根本から彼を納得させるほかないと考えを巡らせ、やがて閃いた。
「蒙恬はわたしを軍師学校に推薦したことを、悪いと思っておられるのでしょう」
斉から戻ったわたしが呂不韋邸に留まったままでいたのならば、違った未来を歩んでいたはず。少なくともこのような事態を招くことは無かったのだと。優しい彼のことだから責任を感じてこんな無茶までした。そうに違いない。それ以外の動機が思い浮かばない。
「勘違いなさらないでください。軍師学校への推薦を打診したのは蒙恬ですが、呂不韋様から逃れるためにそれを受けたのは紛れもなくわたし自身の意志です。中秋節の晩のことはいまでもはっきりと憶えております。あの日、わたしは初めて亜父の御心に背くと決めました」
夫に離縁を言い渡され秦へ戻るその道中、妻としての務めを果たすことすら叶わなかった不甲斐なさを心底悔やんでいた。思えば己の運命を変える手立てなどいくらでもあったのだと。自ら道を切り開こうとしなければ、おのずと選択肢は狭まってゆくばかりであるのなら、二度と同じ思いをしないように後悔の無い決断をしようと眦を決した。亜父の意に従順であったわたしが、いずれ己の力で身を立ててゆくことを夢見て、不透明な未来に足を踏み入れる決断を下した。
その結果が望むようにならなかった。ただ、それだけのこと。
「此度の結婚に疑義が無いと言えば嘘になりますが、全てはわたしの決定が招いた結果として異存無く受け止めます」
後悔はある。しかし清々しい気持ちもあった。己に精一杯向き合うことができた日々は苦しくも幸せで有意義な時間だった。
蒙恬は何か言いたげな表情を浮かべたまま、しかし言葉を噛み殺しながら立ち上がる。外套を翻しながらこちらに背を向け、露台へと続く窓に手をかける彼の姿を見て、一抹の寂しさを覚えるとともに、これで良かったのだと納得しようとした。
「分かった。君の意志がそこまで固いのならば」
彼は大仰に嘆息を洩らしたかと思えば、ふと動きを止め、決意の色がやどった瞳でまっすぐに天を見上げる。
「三日後に角炎城へ発ち、父蒙武に懇請する」
「? 何をなさるおつもりで――」
その口ぶりは友であったわたしに向けるようなものではなく、あまりにも重厚で荘厳な誓い立てであった。その変貌に対する衝撃に、言葉を失い当惑していると。
やや間を置いてから、彼は整った唇を薄く開いた。
「。君を俺の妻として蒙家にめあわせるようにと」
思考も動作もすべてをそのままに、わたしは呆然と彼を眺めていることしかできなかった。妻として。めあわせる。その言葉の意味を理解すると同時に、臓腑をじわりじわりと食い破られているような恐怖にも似た感覚が押し寄せた。
「まさか。こんな時に御冗談はよしてください」
「冗談ではないよ。俺の気持ちは固まった」
「か、仮にお気持ちがそうであったとしても! 吏務で咸陽に留まっていると仰っていたではありませんか。この状況で都を離れることは現実的に無理でしょう」
「実は父上への伝令役を頼まれていてね、外に出る許可は下りる予定だ」
「本気……なのですか」
「この状況で嘘なんてつかない」
絞り出した言葉に対し、蒙恬はきっぱりとそう言い切った。
「なりません! そうなってしまえば蒙武様のお立場、延いては蒙家の存続が危ぶまれます!」
呂不韋は蒙武を食客として囲っている。蒙驁亡き今では蒙家を既に手中に収めているのと径庭は無い状況で、改めて縁戚関係を結ぶ必要性など皆無だ。しかし蒙武という男は良くも悪くも中華で最も優れた武勇を誇ること以外からきし興味が無い人間であり、実質的な決定権は年長の家宰である胡漸が請け負っていると考えると、この呂不韋にとって何ら利のない結婚話が持ち上がる可能性は大いにある。ともなると例え呂不韋でも蒙武ほどの権力を持つ者の上申を無視することはできないだろう。そればかりか臣下を蔑ろにし、己の養女を趙に嫁がせることが広く知れ渡ることになれば軋轢を生みかねない。蒙恬はそれを知った上で、わたしを妻にすると言ったのだ。
平静を保つことなどできなかった。わたしは引き攣った喉で、必死になって吠える。なんてことだ。わたしは知らずのうちに彼の中に自責の念を植え付けて苦しめていただなんて。
「どうか、どうかお止めください……!」
ふらつく足取りで蒙恬の元まで歩くと、袖を掴んで必死に縋った。頽れながらも、祈るように何度も声を掛ける。しかし彼はこちらを一顧だにせず、変わらず虚空に目を据えたまま無機的に呟く。
「父上はこういったことに頓着しないし、じィは俺の遊び癖が落ち着くと知ったら喜んで頷いてくれるだろう。足場は堅固だ。あとは呂不韋が隠蔽しようとするにしても、次は相手の趙人が折れる策を練れば良いさ。方法ならいくらでもある。君には酷く嫌われることになるかもしれないけれど」
「蒙恬! わたしは、そんなことを望んではいない! わたしは……っ」
――貴方の犠牲の上に成り立つ幸せなんてまっぴらだ。
肺腑がはち切れてしまいそうなほど声を張り上げて力の限り叫ぶ。その時、廊から激しい足音と共に男の声がこだました。
「その声はか! 何があった!」
異変に気付いた衛兵が急いで駆けつけてきたようだった。この現場を見られてはまずいと気を取られた一瞬のうちに、蒙恬はわたしの手から飃のようにするりと抜け出したかと思うと、露台へと駆け出して闇夜の中へと姿を消した。入れ替わるように部屋に入ってきた衛兵の目には、寒風を全身に受けて立ち尽くすわたしの姿だけが映っていたことだろう。
「ご心配をお掛けしました。悪い夢を……見てしまったようで」
「ああ……構わんよ。無事なら良いのだ」
異様とも取れるこの光景を見た衛兵は、わたしが不本意な結婚を取り付けられて魘されているのだと思ってくれたらしい。幸いというべきか、第三者がそこに居た痕跡が僅かに残っている部屋をよく検めもせず、憐みの視線をくれながら去って行った。
それから暫く経ってもその場から動くことができないでいた。
蒙恬がどうでも良い人間であれば利用していたかもしれない。自分の為に彼が犠牲になることを厭ったのは、差し伸べられた手を素直に握り返すことができなかったのは。きっと彼の存在が特別なものになってしまっていたからだと気づいてしまった。今更だ。よりによって別離の道を辿ろうとしていた時に。
友愛ともつかない、心に燻った中途半端な感情。それは亡父や、亜父にはきっと抱くことが無いであろうものだということは理解している。恋や愛と片付けるには重くのったりした、汚い願望を生んだ自分に嫌悪する。気持ちの整理がつかない。この動揺を落ち着かせる術を持ち合わせていないわたしは、どうすることもできずに蹲る。深い隧道に迷い込み、血の滲む指先で出口を探り当てているような気分だ。こんなもの、気づかなければよかった。死ぬまで知りたくなかった。
わたしたちは綺麗なままでありたかったと、滲む視界の中にいつかの無垢を追慕する。