浮世夢の如し

  十七.割れた夭桃・後編

 じきに夜が明けるのだろう。
 空一面に広がっていた漆黒は徐々に濃紺へと、薄絹を一枚ずつ剥ぐように色を変えてゆき、塞いだ窓の隙間からその鱗片を覗かせていた。
 あれから蒙恬が戻ってくることはなく、結局は彼の決意を止めることができないまま。
 ――三日後に角炎城へ発ち、父蒙武に懇請する。
 ――。君を俺の妻として蒙家にめあわせるようにと。
 決意に満ちたその声を思い出すたびに、彼に酷な選択をさせてしまった事実に苛まれ、胸がきりきりと痛む。

 かつて蒙恬に抱いていた仄かな思慕が確かな形となるのを自覚したとき、同時にわたしは淡い恋に破れた。
 巧知者達の謀略が跋扈するこの世界では、彼も自分も家の存続と発展の為の道具である。秦国では比類ない呂氏の権力。対してその傘の下で安寧を与る蒙家は武門となって僅か二代目。多大な功績を残した蒙驁が身罷った今となっては他家と比較すると威信は惰弱であり、相国の系譜には到底及ばない。ゆえにわたしたちは決して結ばれることはない。
 だからこそ秘めた思いにきつく蓋をして友と呼んだ。いずれ彼がどのような人を妻として選んでも、心の底から祝福しようと決めていた。何よりも、いつも良くしてくれる彼自身に迷惑をかけたくなかった。
 蒙恬ほど魅力的な男性から結婚を申し込まれた事実だけを鑑みれば、それはこの上ないほど幸甚なことだ。家柄、才能、容貌。どれを取り上げても善美で、そのうえ驕らず、憎めない人。しかし、嬉しさは微塵も感じなかった。呂不韋は絶対にわたしたちを許しはしない。破滅は目に見えている。
 二人の間に何の障壁も無かったらと考えたことがある。だが、もしそうだとしたら蒙恬はわたしのような陰鬱で難を抱えた人間などには見向きもしてくれなかっただろう。けれども今はいっそ、その方が良かったとさえ思う。わたしたちが出逢わなければ、彼はきっと恙無く生きてゆくことができた。

 蒙恬を守るにはどうしたら良い? 何か手立てを講じなければならないが、期日は三日、更には自由を制限されているという厳しい条件付きだ。
 心が張り裂けてしまいそうなほどの苦悩に、幾度となく髪を掻き、嘆息を洩らす。
 軍師学校を抜け出して彼を尋ね、思い留まるように再度説得を試みるか? しかし監視の目を潜り上手いこと接触できたとしても、場当たり的な言い分では、折れてはくれないだろう。彼は一見、軽佻浮薄な人間だと思われがちだが、それは日常の小事から起こり得る面倒な対立を好まないからであって、彼自身の信条に反することに対しては熱くなるきらいがあるというのは長年の付き合いで理解している。蒙恬はよくわたしのことを頑固だと言っていたが、彼自身も大概だ。とにかく自分の弁舌では納得させられる可能性は無いと言って良いほど低い。
 手詰まりかと思われた。
 無力さに打ちひしがれるわたしの前に、呂不韋の陰影が大きく立ちはだかる。目に映った亜父はまるで嗤っているかのようだった。

 今ならば分かる。かつて昏い水底に沈みゆくこの身を引き上げてくれたあの手のぬくもりの正体は、父性愛などという崇高なものではなかった。珍しい出自の娘を奇貨として手にしたいがために恩を施しただけ。しかしまだ稚く無垢な少女には、自分に向けられた優しさを疑うことなどできなかったのだ。役に立たない者は冷徹に切り捨て、信頼を裏切ることも厭わず、己の権力が肥大化することに喜びを感じる。呂不韋がそんな人間であると気づいた頃には、すっかり傾倒してしまっていた。
 わたしは不幸だったのだろう。
 故郷から遠く離れた土地で家族も臣もすべて失った。荒漠たる孤独の中に投げ出されて彷徨ううちに、その不幸は心身を蝕み、麻痺させてすらいた。そしていつしかわたしの意を汲み、願いに応えてくれる人が遍在する世界へと足を踏み入れても、盲目に呂不韋だけが救い主であると信じて疑わなかった。
 昼間から艶やかな女性たちと色遊に興じる姿も、我欲の為に人の命も心も平気で踏みにじるような姿も、亡父とはとても似つかなかったはずなのに。
 わたしは自身を俯瞰する。すると体の中で長らく燻っていた靄がすっと晴れ、頭の中がやけに冴え渡った気分になる。同時に惨めにもなった。呂不韋から認められる日を夢見ながら水底で藻掻き続けても、再び手が差し伸ばされることは永遠に無いだろう。そうと知っていても諦めをつけることはできなかったのは、彼の養女という立場だけが唯一、自分とこの世界を繋ぎ止めている縁であったから。
 ひたぶるに呂不韋だけを見ていたからこそ、わたしはそもそもの前提を見誤っていたのだ。かつて自分の周りには彼に面と向かって逆らう人間など一人も居なかった。しかし今は亜父の強大な権力に果敢にも立ち向かう者がいる。そして彼らは、わたしが望めば手を貸してくれるだろう。ならば呂不韋の為に挺身し、趙へ向かう必要など無いのだ。能う限り謙虚で従順でいても、物の数にも入らないような扱いをされるくらいならば、この結婚ごと拒絶してしまえばいい。恩義に報いることは必ずしも忠実な走狗になることではない。

 気付けば窓の隙間から目映いばかりの朝日が差し込んでいた。闇のたむろする部屋を斬るように、天井の梁から壁、床にかけて細く光る線を浮かび上がらせている。
 すると一閃。視界の端で何かが玉のように美しく煌めいた。
 それはかつて軍師学校にしたばかりの頃に蒙毅から譲り受けた護身用の剣。柄に施された彫金の瀟洒で複雑な細工が、白んだ光を方々に反射しながら燦爛と輝いている。まるで手に取れと訴えているように。
 導かれて触れれば、氷のように冷え切った温度が手のひらに染み入る。同時に、蒙恬の心を変えずとも、彼を救うことができる一つの方法が脳裏を過った。
 わたしは刀身を鞘から抜くと、その切っ先を自身へと向けるように持ち替え、それから束ねた髪の結び目にそっと押し当てる。
「……父様。貴方から賜ったこの身に、新たな傷を刻む不孝をどうかお許しください」
 呂不韋への詫びの言葉は出てこなかった。かの御方は本当の父とは似ても似つかない。それでも亜父と呼んだのは、無条件に愛し庇護してくれる存在を欲して亡父と同じ役割を押し付けた、わたしの独り善がりだった。
 今日。弱さに甘えていた自分にけじめをつける。誰の力も借りずに己の意を貫く為の選択はこれしかない。
 腹を固め、震える手を強く握りしめると、わたしは剣を引く。
 穢れたことのない刃は、僅かな力を込めただけで触れたものを容赦なく裂いた。
 髪の束がぱさりと床に垂れ落ちる。黒く蹲ったそれは不気味で、心なしかわたしを恨めしそうに睨んでいるような気がした。

 呂不韋からの恩沢はわたしの身勝手で全て徒と成る。一人の人間として、かつて自分を救ってくれた人を裏切った事実は、粛々と受け止めねばならない。その戒めとして罪咎を負う者と等しい証を負った。髪を切ることは不孝とされているが、それを詫びる相手はこの世にはいない。すなわち「亜父」への執着を断ち切る決意の表明でもある。

 その昔、亡父は祖国が攻め滅ぼされた際、身を隠す為に黥をした。死ぬまで消えないその痕を抱え、人々に罪人と嘲られようとも毅然と振舞っていた、その姿は鮮明に脳裏に焼き付いている。願わくはわたしも彼のようにありたい。
 裂帛の気合いを込めて自らの頬を両手で強く叩く。決意を胸に立ち上がり、手早く身支度を整えると駆け足で昌平君の私兵が滞在する詰所へと向かった。不揃いな髪はそのままに、困惑と吃驚が入り混じった周囲の視線をひりひりと肌に感じながら、風冴ゆる道を行けば、短い髪は翩翻する幟のように激しく舞い上がる。
 私兵らは、普段は主に似て威儀儼然と端立しているが、こちらの異様な風采に驚いたのか、戸惑いを隠し切れていない。
「なッ……誰かと思えばか! その髪は一体どうした」
「自分で切りました。結婚の件で呂不韋様と直談判をさせていただきたく、つきましては先生方から都入りの鑑札をお借りしたいのですが」
「待て。待て。それはいかん! 如何なる理由があれ公務の為のものを、部外者が、それも個人的な事情で利用しようとするなど」
「そういえば。わたしは先生から有事の際は中央へ出仕し、魏兵から奪った陰書の判読を手伝うように仰せつかっておりました。これは公務に値するのではないでしょうか」
「いいや、殿からお前を招集する旨は一切聞き及んでおらぬ」
「伝達洩れでございましょう。もう一度ご確認いただいても?」
 余所乍ら昌平君の真意を確かめる目論見である。最後に会った日、彼はわたしが趙へ嫁ぐことに対して「軍部の総司令という立場からすれば到底看過することはできない問題」だと言った。そして現在の国情と呂不韋の立場から、昌平君自身がその決定を翻すことは不可能であることも。だが他に累が及ばない形で解決しようとしていると知れば、必ず手を貸してくれるだろうという確証があった。むしろそうなるようにわたしを嗾けて、解決を図ったという言い方をすれば良いだろうか。それが最後に会った時に感じた不自然さの正体であると、冷静になった今ならば理解できる。
「……分かった。殿には申し伝えよう。暫し待て」
 さすがは昌平君が直々に雇入れた人物なだけあって、敏い彼らは会話の進み方からある程度事情を察したようだ。

 狙い通り、参朝せよとの勅旨が届いたのは、それから三日後のことだった。

 午下。昌平君の取り計らいで早めに任務を切り上げたわたしは、戚里にある呂不韋の邸へと馬を走らせていた。これから乾坤一擲の大勝負に挑むというのに、心内は妙に清々しい。一度思い切った決断をしてから、まるで別人にでもなった心境である。単に吹っ切れているのか、はたまた無理がたたって感情が麻痺しているのか、熱っぽい高揚感が絶えずにいた。
です。呂不韋様はおられますか?」
 風で乱れた髪を掻き上げながら、問われる前に堂々と名乗りを上げれば、門番は暫く口がきけなくなるほど驚いていた。義理ではあれど相国の娘にあたる者が、何をしでかしたか罪人のような相貌で戻ってきたかと思えば、人が変わったように振舞うのだから、これがまっとうな反応であろう。
 だが呂不韋だけは違った。彼は客間に入ってわたしの姿を認めても表情ひとつ変えず、美髯を摘まむように撫ぜていた。
 唯一、この男だけは動揺を一切見せなかった。
「……結婚の件でございますが、お受けできません」
 平伏し、ただ一言そう述べる。とうに真意は露見しているであろう、御託を並べたところで意味は無い。髪の隙間から覗く呂不韋の表情は普段と変わらない。今はそれが酷く禍々しさを際立たせている。
 大きな影がぬらりと揺れた。呂不韋が歩を進めるたびに、その振動が軋む床を伝って、わたしの肌を、胸を、恐怖に震わせる。先程までの威勢は徐々に削がれていき、牙を抜かれた虎のように悄然となっている自分に情けなさを感じながらも、胸の奥深くに根付いた畏れには一時の空威張りなど通用しないと知る。
 呂不韋は決して厳しい束縛や折檻を加えることはしない。陰然たる圧力、或いは豪放磊落、大胆不敵な振舞い。はたまた一介の商人から権力を極めるまで、絶えない波に揉まれて洗練された人の、澄みきった強さ。それらが複雑に絡み合い、超凡な存在感を外化し、潜在意識に威圧や恐怖を植え付けて支配する。
 この男はただ商売の才に秀で、偶々莫大な富と名声を手にしただけの奸物であると悪しざまに言う人もいるが、それは違う。自らの野望の為に擾乱の絶えぬこの世を孤高に生きてゆく覚悟を決し、幾千幾万の人間を操り殺めようともここまで非情になれる者が……よしんば天下万民から恨みを買ったとて悠揚迫らず、心に漣の一つも立てずに平然としていられるような人間が、何人と存在するだろうか。彼が、自身の見識が到底及ばない世界を見ている人物であることを痛感させられるたびに、純粋な欽慕は畏れへとすり替わっていた。
「誠に憐れよのォ」
 呂不韋は力強く吊り上がった眉を僅かに動かし、嘲るような冷笑みを浮かべると、空に向かってそう呟く。他意は無いのかもしれない。だが、すっかりこの男に呑まれてしまったわたしには、その仕草がまるで亡父へ同意を求めているようなものに感じられる。
 死してなお娘の愚かな振舞いを責められる父の姿が目に浮かぶようで居た堪れず、呂不韋に対する軽薄な世辞や自身を正当化したいがための言葉が喉元まで出かかったが、必死に耐えた。ここに来たのは他でもない蒙恬のためだ。
「自ら不忠不孝と成り果て、この中華で最も強大な後ろ盾を捨てたのだ。愚かで憐れとしか言いようがあるまい」
 きつく目を閉じ、震える唇を引き結ぶ。
 どのような仕打ちが待っていようと構わない。この愚かで憐れな女にどのような埋め合わせを望むか、重厚な声の一言一句を聞き逃さぬように神経を研ぎ澄ます。
 呂不韋は勿体ぶるように深く息づいた。
 二人だけの空間に、しばしの静寂が訪れる。眼前の男は後ろ手を組んでこちらを見下ろしているが、まるで背後から刃物を突き付けられている緊迫感が拭えない。
 ……。何度、息を呑んだか。それすらも忘れるほどに長い時間だったように思える。ふと呂不韋はこちらに背を向けて。
「自身の器量も省みず暴挙に及んだその選択が正しいかどうか――ひとつ、この呂不韋の慧眼と賭けをしようではないか」
 そう述べた。その語調はこちらが気を揉みたくなるほどに翩々としていながらも、言外にわたしを否定し、せせら笑っているような含みがあった。
「身の丈に合わぬ分限の重責に耐えながら、人を疑い、欺きながら生きてゆく術を学ばねば、自ずと身を滅ぼすことになる。まずはお前をそのような道へと唆した人間が、誠に信じるに足る者か。よく考えるべきだと思うがのう」
 呂不韋の口から発せられた言葉の一つ一つを噛みしめるように聞いていると、なんと彼は歩を進め、こちらの返事を待たぬまま部屋を去った。虚を突かれて顔を上げるとほぼ同時に、重厚な扉が鈍い音を立てて閉まり、部屋は再び夜のようなしじまに包まれる。それは厳しい仕打ちを覚悟してこの場に望んだわたしには、全く、思いもよらなかった展開である。無傷のままあっけなく解放されたことに対して、安堵の情は湧かなかった。そればかりか名状し難い煩悶が、胸の奥で静かに燻るばかり。
 罰は許しの対価。その対価を求められなかったということは、許されぬまま生きてゆくということ。それは、どんな罰も謹んで受けようと強く決心した自分にとって、最も望まぬ結末の形であった。呂不韋の双眸はその心を見抜き、敢えてどの罰よりも重い処遇を下したのである。


 それからひと月ほどが過ぎ、始皇九年を迎えた頃。
 秦軍が著雍戦で勝利を収めて間もなく、呂不韋の食客であった偽宦官と太后が不義をはたらいた。さらに太后は宮室の権力を行使し、秦国北部の太原一帯にて、その偽宦官を統治者として擁立。祭り上げられた偽宦官の元には、秦の内乱を聞きつけた諸国の要人がこれを更に激化させるために絶えず訪れては支援を行った。そのようなこともあって一帯の財政は瞬く間に肥え太り、勢力を拡大した偽宦官は一帯を毐国とし自らを王と称した。内乱で領内に新たな国が建立されたのである。
 毐国の勢いは留まることを知らず、ついには秦王派、呂不韋派に並ぶ第三勢力として両者の中に割って入った。
 この年はもとより嬴政の加冠の儀が執り行われる予定であった。国の均衡が大きく乱れる中、嬴政の意向もあり儀式は挙行されることとなる。
 加冠の儀の為に嬴政や高位高官らが旧都・雍へ出向いている最中、警備が薄くなった咸陽へと毐国軍が一気に攻め入った。しかしこの事態を予期していた嬴政が蕞に隠していた伏兵一万を動員、更には昌文君率いる禁軍と、昌平君の私兵がこれを鎮圧。偽宦官は車折に処され、太后との間に密かに設けていた子は殺されたと聞いている。
 昌平君は呂不韋からの離叛を宣言した。
 呂不韋が偽宦官と太后の暴走に深く関与し、また反乱軍が咸陽へ侵入できるよう裏で手引きしていたことが明るみとなったのだ。四柱の立場を辞すには尤もな時機である。当然、呂不韋派の人間は猛反発したものの、昌平君の臣下らに動揺は無かった。合従軍戦の前後からか、自己保身に手一杯の呂不韋派の高官らとは違い、先生は不羈の志を抱いているのだとはわたしでさえ薄々感づいていた。先生に近しい人の間ではなおさら、暗黙の了解であったことだろう。

 巨大な軍略囲碁の盤をしつらえた広間の一角。憐れみの色を帯びた周囲の視線に、居た堪れなさを感じながら、門下生らが烏鷺を争わせている姿をぼんやりと眺めていると、講義を終えた介億が声を掛けてきた。
「結果的に良かったのではないだろうか」
 彼はわたしに偽宦官と太后の壮大な反乱劇――この人らしいと言うべきか、やたらと色話に偏っていた――を語ったあと、そう付け加えた。仄聞していた内乱の顛末を仔細に知ったのはこの時だ。しかし驚きはしなかった。むしろ呂不韋が失墜したとなれば、それほど重大な事態が発生したのだろうと考えるのが自然だ。
 介億の言葉を玩味しながら静かに首肯する。もしも趙人との結婚を受けていれば、呂不韋という後ろ盾を失くしたわたしは嫁ぎ先で足蹴にされていたことだろう。それだけならまだ良い方で、奴隷より酷い扱いをされても、挙句殺されてしまってもおかしくはなかった。想像するだけで身震いしてしまう。
「周知の通り我が殿も呂不韋の元を離れている。多くの食客を失い、裁きを待つあの男は、もはやお前に害をなすことなどできまい。運が良かったな」
「そうですね」
 喜ぶべきなのだろうが、それよりも疲労感が勝った。突如として舞い込んだ趙への縁談、自分の存在がこの国にとって大きな弊害を招くと知った時の葛藤、蒙恬の申し出に臍を固めた一世一代の決断、そして咸陽中を巻き込んだこの波瀾と呂不韋の凋落。全てが怒涛の勢いで過ぎていった数か月だった。
 己を取り巻く環境は大きく変わった。国情だけではない。呂不韋とその臣下たち、それから蒙恬との関係性も随分と複雑なものになってしまった。過去を思い返せば、知らない世界に一人、放り出されてしまったような感覚になる。
 呂不韋の処分は先延ばしになった。煌びやかな栄華を誇っていた相国が突如として失墜し、王宮内は未だ混乱に包まれている。先代の王を支えた功績や文学活動への多大なる寄与、精強な外交の才覚などの偉勲の数々と、衰えてもなお強い影響力を持っていることを鑑みると重刑は免れることができるだろう。しかし全ては嬴政の一存に委ねられている。
「幸い殿もお前の才を買っている。軍師学校にいれば大きな危険は及ばんだろう」
「何度お礼を申し上げても足りません。本来であれば追い出されても仕方がありませんのに」
「うむ。それと忠告だが、実質的に呂不韋の手を離れたお前には不埒な輩が寄ってくるだろう。十分に気を付けよ。なにかと不用心なところがあるからな」
「はい。ご面倒をお掛けしないよう十分留意致します」
 実を言うと呂不韋との縁は完全に切れたわけではない。戸籍上は、わたしは彼の家族のままなのである。そのような身の上であるから快く思われないだろうとは承知していたが、昌平君はわたしを信頼してここに置いてくれた。そればかりか食客として迎え入れたいとまで打診されたのだから驚いた。
 丞相の食客として迎えられることはこの上ない名誉。しかし悩んだ末に辞退した。長きに渡って続いた秦王派との確執は終結したものの、彼を支持する者は咸陽にごまんと居る。内紛騒動の余韻が未だ残るこの時期に目立ったことをすれば、新たな争いの火種を生みかねない。それに……。
 ――お前を唆した人間が、誠に信じるに足る者か。よく考えるべきだと思うがのう。
 呂不韋の言葉を思い出す。あれは決して嫌味などではなく、彼がわたしに向けてくれた温情だ。処世に乏しい自覚は充分にある。大きな権力の下で生きていた頃とは違い、これからは自分の進むべき道を慎重に決めねばならないだろう。幸いにも昌平君はわたしの決定を受け入れてくれた。
 呂不韋が恩人であることは今後も変わりない事実。これまでの非道な所業の数々は到底許されるものではないが、だからといって彼の全てを悪と判じ断ち切ることはできなかった。わたしはあの男の行く末を見届けたい。そして再び破滅に落ちようものならば救いの手を差し伸べたいと願っている。そう信念を掲げて真摯に生きることこそが、贖いなのであろう。


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