松蝉の鳴き声が響き渡る夏四月。水辺から運ばれてくる澄んだ風に、体の底から洗われるような清々しさを感じる。
ここは潁水の北にある村里。笈を負って咸陽から離れたわたしはこの地で、亡父と旅をしていた頃を彷彿とさせるような質素な生活を送っていた。
間借りしている里典の邸の離れにある一室は、長らく物置にされていたような場所で、埃を被った古い農具や骨董品が所狭しと並べられている。小さな牀の上で起居し、肌寒い夜はすれた絨や藁を被って過ごした。押掛客であるから贅沢は言えない。
晡時を過ぎればすっかり人の気配は失せ、辺りからは禽や獣の鳴き声が不気味に響くような辺鄙な土地であるが、地図の上では中原の大邑に近く、少しばかり馬を走らせれば市場もあり生活には困らないのは良い点だろう。
この村里は水資源に恵まれており、潁水に至る細い川がいくつも走っている。今はそれらを利用するべく水路を整備している最中だ。近年秦では、他国に攻め入るばかりではなく富国策も積極的に講じなければならないという動きが出ている。なんせ我が国はその土地柄もあってか、物質文明においては他に遅れを取っているというのが現実。そして、それはいずれ中華統一を為す上で大きな課題となる。
斉の方では既に鉄器の製造技術が確立しており、鉄製農具が広く普及し、田畑の耕作や塩田の開墾、水利工事が盛んに行われていると聞く。水路輸送の利便性が高まれば貿易が更に拡大し、やがて国力の差が生まれる。戦においても政治においても固陋な考えを廃さねば、無駄な兵を浪費するばかりで国家は痩せ細る。
昌平君は変わらずわたしを戦地へ遣わすことはない。しかし手元に置いて自由を奪っているなどということはなく、官吏となる為の学びには協力的である。遠い巴蜀での鹹水を利用した塩田の耕起や、水工鄭国による溝渠事業から着想を得た水利工事を進めるため、この未墾の村里に多方から有識者が集っていることを聞きつけ、視察に赴きたいと願い出た時には思いのほか簡単に許してくれた。
暮の秋には中央官吏の登用試験が執り行われる。呂不韋から逃れるべく登第を急ぐ必要は無くなったが、周りの人間が破竹の勢いで成長を遂げる中で、自分だけ立ち止まっているわけにはいかない。
河岸一帯の施工は円滑に進んでいた。この地は韓や楚との国境に近い為、戦が勃発すると工事が中断されるであろうことを幾分か考慮していたが、幸いにもここ数か月は寧静である。ゆえに都水長から当初の計画を前倒しするよう下命を賜ることになったが、ひとつ大きな問題が浮上したのだった。
「瘴疫でございますか?」
「うむ」
一帯の荒蕪地を見渡しながら、技巧官の男は苦い顔で頷く。端的に言えば人手不足だ。
遡ること始皇五年。山陽を制し東郡を設置した秦は、拡大した領地の各所に自国民を移住させるべく、一帯に住む者の刑罰の軟化や租税の軽減を保障し、また治水や農業技術には積極的な支援を行った。都市部や邑の治安は、今となっては安定しているように思える。しかしこの土地のような田舎の里に送られた者は、慣れない風土に加え、日々の食糧にも困るような不毛な場所で、粗末な茅屋でのからく貧しい生活を強いられ、ついには瘴気にやられはじめた。この村里も例に漏れず冬場になると人々は往々にして病に倒れはじめ、また災いを恐れた者はたとえ苛税に喘ぐ生活になろうとも命には代えられぬと故郷に舞い戻る選択をした。
当初は五十戸ほどの規模であった集落は三十ほどまで減り、人頭でいえば三分の一ほどになったという。里典の邸に献じられる食料を調えるのも厳しい状況であるというのだから、本来であれば農耕に従事させるはずの働き手を水利工事に従事させるわけにはいくまい。
奴隷を使うという話も出たが、都からも交通の要衝からも離れているこの村里までの輸送費に加え、彼らを買うためには唸るほどの金がかかると考えると現実的に厳しい。
「ということで。少し頼まれてくれるか」
「?」
そこで偶然にも目を付けられたのが――。
「……飛信隊か」
愛馬・白駘の背に乗り、わたしは趙との国境付近にある砦で哨戒にあたっている彼らの元を目指していた。飛信隊に属する歩兵は、農民の志願兵であった者が大半を占めており、農具の扱いには長けている。うってつけの人材だ。
王騎の矛と麃公の盾を受け取った信といえば、咸陽で知らぬ者はいないほど、飛信隊はここ数年でますます名を馳せた。都水長は彼らに水利工事に従事するようにとの命と共に、多額の賜金を給することを約束している。彼らが高く評価されている証である。
そんな飛信隊の軍師である河了貂とわたしが、かつて軍師学校で懇意にしていたとの噂が巡りに巡って技巧官らの耳に入ったらしく、迎えに行くように頼まれてしまったのが十日ほど前のことだ。
眼前に聳える飛信隊八千人を擁する山砦は高く硬い土壁に囲まれ、周りには深い濠がある立派なものだ。その厳めしさに思わず嘆息した。峻険な雰囲気に呑まれそうになりながらも、濠橋を渡り城戸へと進む。
門を叩こうとすると、ぴいっと笛が鳴った。
それから高櫓に居た見張りが急いで降りてきたかと思えば、わたしたちの前に傲然と立ちはだかる。ぐいぐいとこちらに詰め寄るその見張りの手には槍が握られていた。背後に控えていた護衛の兵がすかさず前に出て武器に手を掛けると、場には不穏な空気が立ち込める。
「オイ」
「はい」
「てめえら、正面から堂々と飛信隊の砦に侵入しようとはイイ度胸じゃねえか」
どうやら警戒されているようだ。男を宥めながら、自身の身分を明かして都水長からの書信を見せてみるも、彼は怪しいと一蹴するばかり。護衛の兵も説得を試みるが、政事に疎い者には懇切丁寧に説明すればするほど怪しく映ってしまうようで、問答はますます難渋し埒が明かない。こんなことになるならば河了貂に鴿を飛ばしておくべきだったと、心の裡に後悔をした。
そうこうしているうちに騒ぎに気付いた他の兵が続々と城戸の前に集まってきた。するとそのうち一人の少年が「あっ」と声を上げて群衆からぱっと飛び出したかと思えば、見張りの男に近づいて、槍を握っていた手を収めるように強く制した。
「待ってください! び、尾平さんッ! 駄目ですよ!」
「あァ?」
邪魔が入ったことに気が立ったのか、尾平と呼ばれた見張りの男はますます苛立ちを露わにする。しかし少年兵はそれに臆することなく、尾平を止めようと身体にしがみつき、必死の表情で言い放った。
「その黒騎兵は軍総司令、つまり昌平君の近衛兵ですッ!!」
「へ?」
少年兵の焦燥滲む叫び声が辺りにこだまする。すると尾平は憑き物が落ちたかのように動きを止め、茫然としながら再びこちらに視線を向けた。手に握っていた槍が音を立てて地面に転がる。額に脂汗を滲ませ、わなわなと唇を震わせる彼に、先程までの強気な態度は見る影も無い。
「ほら、毐国反乱の時に助けに来てくれた……」
「そうだっけ? えーと」
「中央からの御下知を届けに参りました、と申します。疑いが晴れたようでしたら信五千将か軍師河了貂の元へご案内いただけますか? 尾平様」
尾平は左右に控える昌平君の近衛兵をそれぞれ一瞥してから、わたしの姿をまじまじと見た。
「あ、アンタは何者なんだ?」
「わたしはただの――」
と言いかけたところで、事が進まない現状に痺れを切らした護衛の一人が、わたしの言葉を遮るように口を開いた。
「この方は殿の高弟にして、かの呂不韋の御息女である。無礼を働かぬようにな」
「……もう。あの御方とは縁が切れたようなものです。わたしは軍師学校に身を置く。それ以外の何者でもありませんから」
「失礼致しました」
「りょ……呂不韋……?」
「あっ! 尾平さんが倒れた!」
呂不韋の養女という権威性は未だに健在で、それゆえに虚しくもなる。己を着飾る肩書きや、恵まれた環境をすべて度外視すれば、自分はたいそれた人間ではないのだ。護衛の言葉に苦言を呈しながらも、それを都合の良いように使ってしまっていることに罪悪感は蟠る。わたしは人知れず溜息を洩らした。
砦は中央に三階建ての方形土楼を構え、それを取り囲むように建物が蝟集している。外側は石と三合土で作り上げられた強固で高い塀に覆われており、塔のような隅櫓が増設されていた。門は表と、裏手の二つ。入口は小さく、周囲には升状の小さな箭眼が並び、また火攻めに備えて水も蓄えられている。
防御性に富んだ外観は勿論、内部の建築構造も目新しいものばかりで好奇心を掻き立てられる。特に土楼の中庭を取り囲むように作られた回廊からは建物の造りや人の動きが一望でき、その眺めは圧巻だった。庭には草木ばかりではなく畑も作られ、農民の歩卒らがそれらの手入れをしているという、なんとも飛信隊らしい独特な仕組みも見受けられる。
護衛を連れ回しながら気ままに見学をしていると、少年兵が息を切らしながらこちらに駆け寄ってきた。その背後には信の姿もある。倒れた尾平の代わりに彼に道案内をお願いしていたのだが、寄り道をしているうちに逸れてしまっていたようだ。
「はあ、はあ……ようやく見つけました。勝手にいなくなるから大変でしたよ」
「すみません。つい。これほどの砦を見るのは初めてなもので夢中になってしまいました」
少年兵に労いの言葉を掛けて持ち場に返してやると、入れ替わるようにやってきた信がこちらに手を振る。
「よう」
ますます精悍な顔立ちになった信は、出会った頃の少年のような面差しは薄れ、こちらが緊張してしまうほど大人びた雰囲気を纏っていた。思わぬ魅力に鼓動を逸らせながらも、変わらず人懐っこい笑みを浮かべる彼との距離感に安堵する。
「尾平の奴が悪かったな」
「お元気そうで何よりです。尾平様のことはお気になさらず」
「テンに用なら陣屋にいるぞ」
「河了貂にといいますか、飛信隊の皆様にお願いごとがありまして。詳しくは後でご説明しますので少々お待ちを」
「おう」
近況報告も兼ねてゆっくり話をしたいところだが、八千の兵を束ねる者ともなると多忙なようで、会話の間も方々から彼の名を呼ぶ声が耳に入ってくる。たわいもない話のために引き留めるのも憚られ、挨拶もそこそこに河了貂のもとへと向かうことにした。
陣屋と呼ばれた建物はかつてこの大規模な砦を築いた際に建てられた官衙である。今は曹州と併合がなされ、官吏の出入りはなく建物跡だけが残っている。公人の住まいとして造られただけあって内院を連ねる大きな邸だ。外装も美しく、小さな濠や池も設けられている。
河了貂はひとりで床一面に広げた広大な地図や、その上に並べた駒、書簡の数々を静かに見つめていた。彼女はわたしの姿を捉えると、ほんの一瞬、眉を顰める。それから何か物言いたげな表情を浮かべながらも、小さくかぶりを振り立ち上がった。
「田舎くんだりまでご苦労さん。聞きたいことは山ほどあるけど、とりあえず先に用件を確認するよ」
中央からの伝令として飛信隊の軍師に会いに来たわたしに対し、河了貂は格式張った態度でそう告げた。手渡した書簡には兵三千を水利工事に従事させよとの旨が記されている。彼女にとってみれば、今の今まで組み立てていたものが全てご破算になるほどの重大事だ。軍師の出番というのは何も戦の時だけではない。練兵、屯田、幹部の教育、武器防具の仕入れ等々、隊の練度を高めることに寸暇を惜しんで注力しているのである。計画が頓挫するとなれば嘆きたくもなるだろうが、しかし河了貂は至って冷静沈着であった。それは彼女が普段から不測の事態に備えて思索を凝らしている証拠だ。
「五日間待って欲しい。信のところの古株と、新入りから農具の扱いに慣れている奴を選定しなきゃいけないのと、準備もあるから」
「分かりました。では一旦失礼してわたしは寨の見学でも――」
「。待って」
部屋を去ろうとすると、河了貂はわたしの腕を掴み、引き留めた。
「言っただろ。聞きたいことが山ほどあるって。飛信隊の軍師としてのやり取りはここまでだ。今からは友と二人きりで話がしたい」
背後に控える護衛の黒騎兵に目配りをすれば、彼らは部屋の外で待つと告げて踵を返す。帳が下ろされると、河了貂は深い息を吐き、先程までの畏まった姿勢を崩した。
「まどろっこしいのはよそうか。率直に訊くけれど、その髪はどうしたんだよ」
そう問われて、河了貂が浮かべていた物言いたげな表情の意味を理解する。信や他の隊員は気にも留めていない様子であったが、彼女だけは事の深刻さを知っているようであった。
「これは別に。自分で切っただけで」
咄嗟に誤魔化そうとするも、河了貂は言葉を被せるようにして切り込む。
「オレは平地の文化に疎い自覚はあるけれど、それでも髪を切るという行為が、儒教の考えでは己の尊厳を失うことに通じる、厭われるものであることは知っているよ。何かあったんだろ。さえ良ければ話くらいは聞ける」
惻隠の情を寄せられ、この身に何があったかを包み隠さず打ち明けるべきか悩んだが、そうなれば蒙恬との話題に触れないわけにはいかないだろう。河了貂を信頼していないわけではないが、あの夜のやり取りが露顕すれば、蒙恬が結婚を控えた女と逢瀬を持ち、あろうことか奪い取ろうと目論んだなどという、人間性を貶めるような悪い風評が立ってもおかしくはない。それでもなんとか事情を説明できないかと逡巡したが、迷った末に口を噤む。蒙恬がそうしてくれたように、わたしも彼を守らなければならない。
「ごめんなさい」
打ち明けることはできないと暗にほのめかすと、それ以上追求されることはなかった。
「話したくないんだよな。悪い」
「いえ」
「心配なんだ。その……言って良いのか分からないけれど」
河了貂は押し殺すような声で、言いづらそうに話を切り出す。
「東金城に居た時に、斉の間者を捕虜にしたことがあったんだ。そいつらがのことを探っていた。だから何か、大変なことに巻き込まれたんじゃないかって」
「え? 斉……の間者が? わたしを?」
「うん」
「ええと」
話が見えない。
突如として明後日の方に向いた話題にわたしは当惑した。
髪を切ったのは呂不韋が取り決めた縁談を断った自分への戒めだ。しかし事情を知らない河了貂の推察から、突如として思いもかけぬ事実を知るところとなった。
無論、斉の人間に探られるようなことをした覚えはなかった。ここ数年は軍師学校に身を寄せており、咸陽の外に出るにしても昌平君の厳しい監視の目があった。他国の人間との直接的な接触は、手負いの趙兵に手当を施した一度きり。あの時はこっぴどく叱られて懲りたものだから、以来、勝手なことはしていない。
似た名前の他人を探っていたのだろう。そう思えば納得がいく。しかし深刻そうな表情を浮かべる河了貂を見ると、自分には関係の無いことだと柳に風と受け流すこともできずに、身に覚えが無いか必死に記憶を掘り起こしてみるも、やはり何も出てこない。
「斉は生国ではありますが、もはや関わりなど無いようなもの。名を知られている人物は別れた夫くらいですが、もう何年も前のことで、恨みを買った覚えもありません。そしてこの髪に関しては別件とだけ」
「だといいけどさ。……ごめん忘れて」
煮え切らないうちに斉の間者に関する話は終わったが、不安は払拭できぬままだ。何かの間違いならば良い。しかし本当に斉の人間が自分の情報を欲しているとしたら? 知らず知らずのうちに、大きな思惑や陰謀に巻き込まれていたとしたら? わたしの心には得も言われぬ恐怖がむくむくと育っていた。まるで目に見えぬ運命の糸に、足元から引きさらわれているような――。
五日後。農兵を中心とした三千人の部隊は山砦を出立した。信と河了貂、それから副長の渕という人物が統御する。一方で砦の防御は羌瘣、楚水という二人の副長を中心とした騎兵や弓兵が担うことになった。彼らも河了貂に負けず劣らず用兵に長ずる人物である。
目的地までは灌木が足にまつわるような山道が続く。落伍者を出さぬよう、行軍は速度を緩めながら進む。隊形は三列の縦隊で、わたしは先導する信や河了貂と共に馬の轡を並べていた。
「信五千将」
「ん?」
「お礼を申し上げるのが遅れましたが、その節は呂不韋様の奸計を食い止めていただいてありがとうございました」
かつて呂不韋の手引きで咸陽に攻め入った毐国軍を迎え撃った中には、飛信隊から派遣された兵士もいたと聞き及んでいる。彼らがいなければ大王派閥は敗れ、呂不韋が王朝を簒奪していたかもしれないと思うと感謝してもしきれない。
「なんつーか、義理にもお前の父親だと思うと複雑だけどな」
「わたしはそれで良かったと思います。自らの野望の為に悪行に手を染めることも厭わなかった男です。当然の報いでございましょう。欲を掻き、すべてを失ったあの御方には同情する余地はございません」
きっぱりとそう言い切ると、二人はまるで意外だとでも言いたげな顔でこちらを見つめていた。呂不韋の要求は否応無しに受け入れるべきものだと思っていた、過去のわたしの断片すら今は残っていない。兄弟子からは髪を切ったら風貌だけではなく思考も別人のようになってしまった気がすると言われたが、実際にその時を境にして生まれ変わったのだと思う。己に述べられた数多の救いの手を認知したその瞬間に、淀んでいた視界がすっと晴れた。呂不韋に欽慕の情を抱いていた裏で、愛に飢え、義理を通した見返りを求めていたかつての自分には、もう二度と戻ることはないだろう。
「そういえば呂不韋はどうなったんだ?」
「咸陽にて親族と共に禁軍の軟禁下にあります。未だにあの御方を支持する者は大勢おりますから、落ち着いたら折を見て処遇が言い渡されることでしょうね」
「親族って。は大丈夫なのかよ」
「ええ。戸籍の上では家族でしたので数日ほど勾留されましたが、諸々の事情と先生方の口添えもあり、あっさり解放されました」
「諸々の事情?」
「反乱のひと月ほど前に呂不韋様から縁談を取り付けられたのですが……色々と気に染まないものでしたので、お断りしたのです。そうしたら周りの批判を受ける羽目になり、ちょっとした騒ぎに発展して」
詳しくは語らずに言葉を濁した。呂不韋との決別、そして彼の臣下らから向けられた尖鋭な敵対心に満ちた言動は、未だにわたしの胸の傷を抉り返すには十分なほどの苦い記憶だ。しかし幸運にも、それらはわたしが呂不韋と繋がっておらず、この反乱には全くの無関係であることを衆人に曝す結果となった。そして昌平君についた官吏らの周旋もあり、早々に軍師学校での元の生活に戻ることができたというわけだ。
「それから呂不韋様との縁は希薄になりました。もうあの御方に頼らずとも、生きてゆくことができると知ったので、後悔はありません」
後悔はない。そう自らに言い聞かせるように口にして、二人を見据えると、信が唇を吊り上げてにいっと笑う。
「なんつーか、お前、すっげー可愛くなったな」
「へ?」
藪から棒にそんなことを言われ、わたしは戸惑いの声を上げる。それよりも驚いた表情をしているのは、信の肩越しに見える河了貂の方で。ああそういえば彼女は信に強く心を寄せていたのだ。可愛いという彼の言葉にはきっと異性を恋う意味合いは含まれていないだろうが、河了貂の心を揺さぶるには十分な威力であったらしい。かく言う自分も信が浮ついた人間ではないと知っているから尚のこと、上手に受け流すことができずにいた。
「信! を困らせんなよ」
「ちっ、ちげえよ! 刺々しさがなくなったっていうか、とにかくヘンな意味じゃねえからな!」
「は……はい」
「いいか? 勘違いするんじゃねえぞ!!」
「こら、デカい声を出すなっての。んでもって勘違いとか言うな。ヘンなこと言ったのはオマエだろ」
二人の掛け合いを傍から見れば付け入る隙など無いというのに、河了貂はその事実に気付いていない。動揺しながらこちらを気遣う素振りを見せる彼女の優しさにどういった反応をすれば良いのか分からず、わたしは口を閉じてそっと距離を取る。きっと信がわたしに発した一言は、河了貂の中で胸を締め付けるような切なさや不安を生んで、そうして彼女の中で信を想う気持ちの強さを自覚する糧となるのだろう。信の無垢で奔放な言動に振り回された河了貂は、知略に長けた軍師の姿とは打って変わって、不器用で愛らしい少女そのもの。人を裏切り不孝の罪を犯した自分にとっては程遠い光景に、きゅっと胸が痛む。わたしにはあのように誰かを愛する資格など無いのだと、まざまざと思い知らされているようで。
村里を一望できる丘の上へ登ると、そこには眼下の景色を見渡す信の姿があった。
飛信隊がやってきてから約ひと月。現場では河了貂が見事に采配を振っていた。耒耜で土を掘り起こし、鶴嘴で岩を砕き、畚でそれらを運ぶ作業を大きく定め、百人隊ごとに当番を割り振った。百将は軍師の指示に従って部下の作業を監督し、日暮れになると一堂に会して作業内容を報告する。着々と仕事をこなしてゆく様は、河了貂や副長の面々による日々の厳しい指導の賜物だろう。そして日を追うごとに地に照り付ける陽差しが強まり疲労も蓄積されてゆく中で、兵たちが士気を保ちつづけられているのは、将である信の手腕だ。
「さすが五千将ともなると統率力が卓越していますね」
誰よりも元気に働き、決して弱音は吐かず、皆を励まして笑わせる彼の振る舞いを見ていると、人を惹きつける天賦の性質を持って生まれてきたのだとつくづく思う。
「役人の奴らも嬉しそうだったな」
「ええ。そうでしょう。この水利工事には大王様も高い期待を寄せておられるのです。これだけの有識者を募りながら、はかばかしい成果が得られないとなれば、それは彼らの責任でもあります。この頃は人手不足に日夜嘆いてばかりおりましたから」
「へえ。政はこんな難しいことも考えなきゃいけねえんだな。俺がアイツだったら戦以外のことは昌文君のオッサンに丸投げしそうだ。すべて任せる、なんてカッコつけてな。カカカ」
昌文君とは左丞相の地位にある人物。信が知ってか知らでか、水利には殊に精力的で都水の管轄もしているという。大王様にこの工事の重要性を説いたのも彼であろう。
「皆様には苦労をお掛けして申し訳ありません。本来であればこのような工事に従事させるべきではないほどお忙しいはずなのに。わたしと縁故があったばかりに、断りづらかったでしょう」
「んなモン気にしちゃいねえよ。それに誰が来たとしても断わるつもりはなかった。ウチにはあの砦での張り詰めた生活よりも、土と汗にまみれながら働く方が性に合ってるやつらが大勢いる。たまには気分転換も必要だろ」
信はさらりとそう言いながら仕事に出精する部下たちを見遣る。窄められた渋い眼差しには優れた洞見が感じられた。同世代とは思えぬその姿に心服しながらも、静かに掻き立てられた焦りが、己の大人ぶった諦念を針の先でつつくように刺激する。
「貴方様も河了貂も、数年と見ないうちにずっと成長されて。わたしだけ東金城で出逢ったあの時のまま、変わっていないと思うと寂しい気持ちになりますね」
「そういやお前も軍師になるのか?」
投げかけられた疑問に、困ったように苦笑する。知識の面では軍師認可を得るための要件は満たしているが、如何せん実戦経験が圧倒的に足りていないのだ。昌平君はわたしが戦線の視察に赴くことを嫌っている。だからこそ軍師ではなくまずは文官として身を立てる方向に舵を切った。
「いえ。まずは中央官を目指しています。とはいえ、お恥ずかしいことですが二年連続で落第しておりまして。ですから皆様のような立派なものではないのです」
目指す理想は未だ遠く。蒙家でさまざまな書物に触れるまで、わたしの中にあった素養といえば語学の他には籌算くらいで、中央官吏に求められる様々な知識に関しては浅学の身だ。勉学の才に突出した人間であれば良かったのだが、残念ながら花開くことはなく、変わらぬ日々を送っている。だからこそ余計に、才ある周囲の人間との差が浮き彫りになっているのだろう。凡庸な自分には詮方無いことだ。
「なので、わたしだけ変わらないまま」
諦めの滲んだ声で、情けなくもそう呟くと。
「いや」
信はきっぱりと否定し、にやりとした。
「お前も大した女になっただろ。聞いたぞ、蒙恬からの求婚を断ったって」
「え……な……なな、何の話ですかっ!」
わたしは目を見張ったまましばし硬直していた。なぜ彼がそのことを。あれは二人だけしか知り得ない秘密ではなかったのか。事実が広く流布すれば蒙家の問題にもなる。すぐに慌てて否定したが、その狼狽ぶりは自分で認めているようなものだ。
「自分が一番良く知ってんだろうが。なにしらばっくれてんだ」
「知りません。誰から聞き及んだか存じませんが」
「ん? 本人だけど」
「……」
曹州にて偶然会った時に聞いたのだという。蒙家の尊厳を守る為にわたしが徹底して緘黙していたあの夜のことを、どうして易々と打ち明けてしまうのか。信だけならばまだしも、口さがない他人にまで広がってしまったらどうするつもりなのか。蒙恬の心がますます分からない。憮然とし、やがて身勝手な彼に対する怒りの感情が湧き上がると、信にすかさず「意外と表情豊かなのな」と揶揄われてしまい、わたしは気まずさを紛らわすように咳払いをした。
「事実は認めますが」
「つまり、なんだ。アイツに頼って逃げることもできたが、結局お前は信念を貫いて苦難の路を選んだと」
「信念なんて大仰なものではないです。ただ、ご迷惑をお掛けするわけにはいかないと思って」
「どちらにせよ腹を括ったんだろ」
「はい」
「ならもう危なっかしい真似はすんな、なんて止める必要はねえな。さっさと試験とやらに合格してうんと出世しろ。俺やテンと進むべき道は一緒なんだからよ」
からっと晴れた夏の空のように、一切の翳りが無い顔で彼は言う。不思議と先程までの蟠りは、満ちゆく心と引き換えに掻き消えていた。旧友がこの人のために軍師になった理由が今ならばよく分かる。わたしは長らく忘れていた笑顔を取り戻したように唇をほころばせ、それから密かに握った拳をぐっと固めた。
…… ……それから数か月後。
うだるような暑さは散々尾を引き、やがてぱったりと現れなくなった。日を追うごとに花弁は散り実は熟れ、雲は薄まり、地表を照らす光は柔らかくなってゆく。夏に栄えた生命が自然の理に従って灯火を尽くす、その儚さを憐れむように月鈴子が鳴いていた。
村里には少しずつ秋の兆しが見えてきた。
冬に入れば小川は凍る。水利工事も来春の雪解けまで休工予定だ。辺鄙な村里に押し寄せた公吏や有識者たちは一人、また一人とこの地を去ってゆく。わたしもまた間借りしていた部屋を片付け、荷をまとめ始めた。
八月庚戌迄に帰還せよ。という短い書信が昌平君から届いた。九月に入るまでに余裕をもって戻りなさいという旨である。理由までは記されてはいなかったものの、思い当たる節はある。
陰月、つまり九月から翌年二月にかけては刑罰の執行がなされる時期だ。長い夜、生命の枯死、罪人の処刑。陰陽論に基づき大罪を犯した者は陰の季節に処罰を受けることが通例となっている。そこまで考えを巡らせれば、思い当たる人物など一人しかいない。
呂不韋。
あの御方は幾千、幾万の人を殺めた。立春まで裁きが下らずに無罪放免とはいかないだろう。必ず何かしらの処罰を受ける。そして、その時に呂不韋を支持する臣下や食客たちが荒れに荒れるのは目に見えている。更には彼らの怒りの矛先が「家族でありながら、父を裏切り、罪を免れた」わたしに向くことを想像することもまた容易く、そのような時期に昌平君の元を離れるのは危険であるというのは尤もだ。
水利工事の進捗状況は順調だ。主要な溝渠の基礎を作り終え、今後は補強や整備といった作業に入る。飛信隊の役目であった土地の開削は三か月ほどで終了し、彼らは本営へと戻ったが、間もなく趙の黒羊丘を攻めるべく拡珉という邑へ発った。
戦は未だに続いている。黒羊丘とは黒女川が走る広大な樹海地帯。人民の出入りは少なく、ゆえに彼らの仔細はこの村里までは流れてこない。久しい戦に不安を覚えながらも、信の言葉を思い出しながら、自らを鼓舞した。
進むべき道。その先で、いつかわたしも貴方たちの力になれたら――。
肩まで伸びた髪を風になぶらせながら、遠い戦場に目を向け、思いを馳せる。咸陽へ戻ったわたしを待ち構えているのは、彼らを蝕む脅威に対抗する力を手に入れるための手蔓。一年越しに執り行われる、中央官吏の登用試験だ。