浮世夢の如し

  十九.寄る辺無き者・前編

 できるだけ平静に、堂々とした振舞いを貫かねば。
 そう自分に言い聞かせながら、激しい鼓動を抑え込むように深い息を吐く。緊張は最高潮に達していた。
 ここは咸陽にある秦国最大の貢院。今は中央官吏の登用試験が執り行われている真只中。地方の郷試を潜り抜けた実力者、或いは自分のように国の承認を得た教育機関から推挙された者など、粒選の識者が年に一度この会場に集められ、中央官吏として相応しいかを判じられる。
 試験は数日を要する。受験者には一人ずつ小部屋が与えられ、試験終了までそこで過ごさなければならない。小部屋は天井が吹き抜けになっていて、常に上から監視の目が及ぶ。さながら独房のような造りである。
 そして今は試験の最終盤である詮試――身言書判を試されており、文官の選任を担当する吏部の役人がわたしの姿勢や言葉などを詳らかに吟味しているところだ。落第した前回は既に結果が知れていたのだろう、役人たちの表情は芳しくなかったが、今回は違う。しかとという人間を見定めようとする意志が伝わってくる。
 持てるものは全て出し切ったつもりだ。詩賦もまずまずの出来である。書跡も問題無いであろう。何回か言葉を交わしたのち、役人の男は手元にある資料に目を移し、感心したように頷いた。
「申し分なかろう」
「ありがとう存じます」
「名はなんという」
と申します」
 男の口振りから自分の評価が高いことは明らかだ。昂る気持ちを抑えながら、努めて冷静に名乗る。
「出自は」
「斉で生まれました。秦には十の頃に」
「……結構。では、しばし結果を待たれよ」
 そう告げると男は部屋を去って行った。わたしが斉と言ったその瞬間、彼の表情が些か硬くなった気がしたが、思い過ごしであろう。
 今にも飛び上がって喜びたい気分だ。わたしは嬉しさに震える手をぐっと握りしめる。夏に飛信隊の寨を見学してから俄然築城に関する興味が湧き、今や得手となった。つられるように他の苦手分野も克服することができた。記述も、答弁も困ることはなかった。名を尋ねられたのも初めてだ。
 すべての課程が終了すると受験者は一堂に集められ、そこで上位の者から順に合格者が発表される。吏部の高官が名簿に並んだ文字を声高らかに読み上げてゆくのを、わたしは耳をそばめながら聞いていた。一人、また一人と枠が減ってゆく中で、の名は一向に呼ばれない。つい先程まで期待に満ち溢れていた自分の顔から、徐々に血の気が引いてゆくのが分かった。嫌な予感がする。
 結果的にその予感は的中してしまった。ついぞ自分の名前が呼ばれることはなかったのだ。しばしその場を動くことができなかった。いくらか自信があった分、希望的観測が見事に裏切られた反動は大きいもので、わたしは酷く落胆した。とはいえ期待した自分が悪いのだ。あの役人はなにも合格だとは一言も告げていなかったであろうに。中央官吏というのは想像よりもずっと狭き門である。名を尋ねられたくらいで浮かれてしまっていたのが恥ずかしい。
「吏部にはまともな人間がおらんのか! 大梁の庠序を首席で卒業したこの私が、不合格であるはずがなかろう!」
「同じく俺も納得がいかぬ! 詮試の評価が不当に低いのはどういうわけか、きっちり説明をしてもらわねばここを退かんぞ!」
 去り際に背後で言い争う声が聞こえる。毎年一定数こうして結果に異を唱える者がいるのだが、今年は殊に抗議の激しさが増している気がする。わたしにはあのような気力は残っていない。先生方には、支えてくれた皆にはなんとお詫びをすれば良いのだろうと思うと、ますます気が滅入る。わたしは彼らを遠巻きに眺めながら、荷物をまとめて貢院をあとにした。

 軍師学校に戻ったその晩。わたしは普段のように書楼の掃除をしていた。たまに昌平君や他の講師陣が訪れることはあるが、今日は貸し切り状態。ちょうど独りになりたかったところだ。余計な思考を止めて、心地良い静寂と麝香の酔うような匂いに包まれながら、疲弊した心をただ癒したかった。
 ――しかしその願いは、意外な来訪者によってあっけなく打ち砕かれた。
!」
 書楼の重い扉が勢いよく開け放たれたかと思えば、高い天井に自分を呼ぶ野太い声がこだまする。音を立てて舞い込む寒風に身を縮こませながら入口に向かうと、そこには昌平君の側近である黄竜の姿があった。
 黄竜といえばかつて合従軍との戦いの際、わたしを王宮まで拐かした本人だ。ふとその時の記憶が脳裏に蘇り、また何かあったのかもしれないと表情を硬くする。一方の黄竜はわたしの反応に思い当たるところがあったのだろう、宥め賺すように口調をやわらげた。
「殿がお呼びだ。案ずるな、そこまで悪い報せではない」
 そこまで?
「分かりました。準備を致しますので少々お待ちを」
 その曖昧な口ぶりも、麾下を寄越さずに彼自ら迎えに来たことも気懸りではあるが、ひとまず掃除の道具を整理して昌平君の元へ向かうことにした。
 黄竜に連れてこられた場所は軍議室であった。軍部の機密が外部に漏れ出ぬよう、普段は学校の生徒であっても立ち入りを禁じられている。無論、わたしも入室したことはおろか近づいたことすらない。畏縮しながらも足を踏み入れれば、そこには昌平君や介億、豹司牙などの錚々たる面々に加えて李斯の姿があった。李斯は法家の客卿で呂氏四柱の一人であった人物。四臣の中でも彼の忠節はいっそう深く、呂不韋と同じ謀反の罪で獄に下っていたと聞き及んでいたが、その男がどうしてこの場に居るのか。
 そもそもなぜわたしは呼び出されたのか。何か悪いことをしてしまったのか? 疚しいことは一つも無いのだが。戸惑いを隠せずにいると、こちらの様子に気付いた介億が「そう心配するな。少々確認したいことがあってだな」と声を掛け、帳を下げる。
 「殿の御前へ」と黄竜に促されるまま歩みを進めて昌平君の傍に寄る。その表情は普段と変わらず、感情は薄く、冴え冴えとした眼光を忍ばせていた。一方で、相対して鎮座する李斯は随分と険しい顔をしている。状況がまるで読めない。
。夜分に呼び出してすまない」
「いえ……お気遣いなく」
 居心地が悪すぎる。
 気を紛らわせようと視線を方々に向けると、李斯が忌々しそうな表情でこちらを見ていた。あの件で彼は呂不韋の面目を潰したわたしを嫌っているのだ。普段に増して濃い隈を拵えた目に凄まれ、わたしはすぐに顔を逸らす。
 しばらくして、何やら思案に耽っていた昌平君が漸く顔を上げた。
「試験の手ごたえはどうであった」
 藪から棒にそう切り出され、わたしは言葉を詰まらせる。
 不合格であったことはとうに伝わっているはずだ。その結果に納得しているかと問われれば、心からそう思っているとは言い切れないが、この場で言い訳などみっともない真似をするつもりもない。
「結果が全てでございます」
「正直に申せ」
「……」
 先生は何を知りたがっているのか。分からないが、満座の中で恥をかかせようとするような人ではないことは確かだ。しばしの逡巡の後。わたしは半日前の苦い記憶を掘り起こしながら、躊躇いがちに口を開く。
「……詮試では申し分ないとのお言葉を頂き、光明が見えたと思っておりました」
 厚かましいと思われるかもしれないが、それが正直な感想だった。とはいえ中央の文官として取り立てるほどの能力は無いと判じられた事実は、粛々と受け止めているつもりだ。吏部の役人に突っかかり、不平不満を滔々と述べていた一部の受験者とは違い、わたしはこの陰鬱な気持ちを誰かに当たり散らしたいわけではない。結果が覆るわけでもあるまいし。
「ほう」
 意外にも、わたしの返答に対して最初に反応を示したのは李斯であった。それも不遜だの靦然だのとあげつらってくるかと思いきや、眉間の皺をいつも以上に深く刻みながら腕を組んだ。
「やはりな」
 介億もわたしの発言から何かを確信したような面持ちである。他の面々の反応も似たり寄ったりだ。
「あ奴ら。馬鹿げたことを」
 ややあって李斯が苛立ちを露わにしながらそう独り言ちた。
「あの……何か?」
 これ以上機嫌を損ねぬよう、おずおずと尋ねてみるも、李斯はまるでわたしの言葉など届いていないかのように悪態を吐くばかり。やがて見るに見かねた介億が状況を説明してくれた。
 近頃、王宮では他国出身の者を排斥しようという動きが活発になっているらしい。発端は言うまでもなく呂不韋と嫪毐の一件だが、それに加えて近頃、鄭国という水工もまた韓の間者であったことが発覚したことも大きく起因しているそう。夏の間、水利事業に関わっていたわたしは、鄭国という名をよく良く耳にしていた。大王様の信頼を得て関中――函谷関の西方――にて溝渠工事を行っていた者だ。彼は秦の国力を削いで韓への侵略を食い止めるべく、大規模な溝渠事業の必要性を大王様に説いたというのだ。こうして秦の政治の中枢が他国の手により内側から食いつぶされていくことを案じた高官たちが一斉に声を挙げ、他国出身者を追放する政策「逐客令」を立てようとしている。
 その余波は吏部が執り行った中央官吏の登用試験にも及んでいたようだ。他国で生まれたという理由だけで受験者を悉く落第させ、合格を手にしたのは秦の人間ばかりだという噂が流れ、その真相を確かめるべくわたしをこの場に呼んだらしい。言われてみれば今年は殊に抗議の声が多かったように思えたが、その裏で不正があったとなれば納得だった。貢院での仔細を語ると、一同はその疑念を確信に変えた。
「大王様もこれに御賛同されているというのだから困ったものだ。昌文君も楚の出だというのに止めようとしないのが気に食わん」
 忌々しそうにそう言い捨てる李斯も元々、楚国の上蔡で働く役人であった。つまり逐客令で追放される人物の中に、名が記されていることは間違いない。だからこそ旧怨を抱く間柄ながらも、この事態を治められる唯一の人物である御史大夫・昌平君の元へ恥を忍んでやってきたのだろう。
「鄭国に工事をさせていたのは治水工を司る昌文君ですから、責任を感じておられるのでしょう。周囲の反発を受けるのもやむなしであると」
 正確には呂不韋からその役を押し付けられたのだが。しかし昌文君が鄭国を信頼して仕事を任せていたことは事実だ。
「娘。随分と詳しいな」
「夏に水利事業の視察に赴いておりましたので」
「昌文君の腰抜けめが。己が立場も危ぶまれるというのに。昌平君……貴様もだ」
「李斯様。恐れながら申し上げますが……」
「なんだ」
「先生には逐客令とやらの影響は及んでいないようにお見受けいたします――あ」
 焦燥に駆られる李斯とは裏腹に、昌平君に動揺の気色は一切見えない。
 そう感じてつい心の声を洩らしてしまった。慌てて口を噤むもその言葉はしかと皆の耳に入っていたようで、室内には静寂が流れる。李斯以外の誰もが薄々勘付いていた事実をよりによって若輩者であるわたしに指摘されたのだ。今の彼にとっては火に油であることは言を俟たない。固まるわたしを見て介億がふっと余裕めいた微笑を浮かべた。否定をしないということは実際に、昌平君は何の煽りも受けていないということだろう。それは秦軍総司令という余人に代えがたい地位に就いているからか。昌文君と共に嫪毐の乱を鎮圧した信認があるからか。はたまた華陽太后の隠然たる影響があるからか。
 どちらにせよこの面々の中で立場が危ぶまれているのは李斯だけだ。介億の笑みや昌平君の冷静な態度を見て、その現状を彼自身もようやく理解したらしい。気に食わないと言わんばかりに額に青筋を立てながら、彼は立ち上がってわたしの肩を掴んだ。
「ええい娘! 不当な処遇を受けて悔しかろう!」
「ひっ! わ、わたしですか?」
「確か文筆の素養があったな。大王様に奏聞書を奉る手伝いをしろ。さすれば相国を裏切った事実は水に流そうではないか!」
 唐突な申し出に困惑していると、横からすっと伸びてきた手が李斯の動きを遮った。
「待て」
 ぞっとするほど重々しい声が軍議室に響く。暗紫の裳が眼前で静かに揺れた。立ち上がった昌平君はこちらを見下ろしている。その鋭い眼は神経が昂った李斯の熱を一瞬で奪い去り、掣肘してしまうほどの圧を具えていた。
「この者を衆目にさらすわけにはいかぬ。今はな」
「ほう。こやつをよほど大事にしているようだな。或いは何か善からぬことを企んでいるのか? 右丞相ともあろう者が」
「……」
「まあ良い」
 ただ李斯もそう簡単に屈するような性格ではない。昌平君を睨むように見上げ、底意を探るように言葉を返す。それよりも。
(善からぬこと?)
 彼はわたしと昌平君の関係性に何を見ているのか。脳裏にふと疑問が生じたが、その思考を差し止めるかのように昌平君が沈黙を破る。
「まずは大王様の思召しを確認せねばなるまい。吏部の監察は私が責任を持って執り行う」
「貴様に頼るのは癪だが焦眉の急だ。昌文君のうつけには任せられんからな」
 ひとまず満足がいったのか、李斯は立ち上がると静かに軍議室を去って行った。
 閑静な廊下に響く足音が徐々に遠ざかってゆくと、途端に緊張の糸が切れて、精神的な疲れがどっと押し寄せてきた。あの李斯の気迫を受け止めるにはかなりの体力が要る。眼前の四人は少しも動揺せずに深沈と座していたが。
「黄竜」
「ハ!」
を宿舎まで送ってやれ」
 昌平君の言葉で立ち上がった黄竜と共に軍議室を出たわたしは、小さな手燭の灯りを頼りに、暗闇に沈んだ廊下を進む。
「李斯様……お疲れのようですが大丈夫でしょうか」
 昔はあの男のことが苦手だった。険のある目や、刺々しさが滲んだ言動。他人を慮ることを知らない業突張りで、同じく呂不韋の食客であった亡父が生きていた頃は、敵意を向けてくることもしばしば。そのような性格ゆえか、認める者は多いが慕う者は少なく、孤立していたように思える。だからこそ、そんな自尊心の塊のような男が、わたしに手助けを求めるところまで追い込まれている事実に、一種の憐れみを感じているのかもしれない。
「案ずるな。自分の首が賭かっておるのだ。奴ならば必死にやるだろう」
「ですが。わたしで良ければ御助力できたのかと」
「殿の仰付に背くことはこの黄竜が断じて許さぬ」
 李斯への憂いを断ち切るように、黄竜がそう言い放つ。
「あの場に呼ばれた意義を考えてみよ。殿は李斯よりもお前の言葉を信用しているのが明白だろう。我々もそれは同じだ」
「なんでしょう。身に余って逆に怖いと申しますか、わたしごときがそんな」
「そうか? 少し謙虚がすぎるが、賢明で公正明大なところは高く評価している。それと」
「は、恥ずかしいのでもう結構です……」
「ともかく殿の信頼は裏切るなよ」
「分かりました」
「あとは、そうだな。お前自身が私心に曇らぬ眼で見出した希望を信じてみてはどうだ」
 まるで何かを確信しているような口調。その意味を問い掛けようとするも、ちょうど宿舎に到着してしまい、そこで会話は途切れた。


 雪の降る空に黎明の色が僅かに滲んでいる。
 石造りの大広間は格段と冷え込んでいた。毛沓を履いているにもかかわらず、まるで氷上を歩いているかのような感覚。体を小さく震わせながら、悴む手を動かして、調度品や文具などを拭き上げてゆく。整然と並ぶそれらはどれも軍師学校の名に相応しく、質朴で上質なものばかりである。
 掃除は苦ではない。身一つで呂不韋邸から逃げたわたしを迎え入れてくれたばかりか、このような軽作業をこなすだけで衣食住に困らない環境を与えてくれている先生方には頭が上がらない。どう考えても対価に見合う仕事ではないというのに。ただ今年もまた官吏登用試験に落第した。そろそろ世話が無いと追い出されても不思議ではないと思うと胸が痛む。
「はあ……」
 ひそかについた溜息は白いもやとなって静かに消えてゆく。
 登用試験といえば、先日軍師学校に来ていた李斯の件で進展があった。彼はあれからすぐに「逐客令」のことを大王様に上書した。その内容は、他国出身の偉人がこれまでいかに秦の発展に寄与してきたかという事実を挙げ、逐客令が斯くも不条理な愚策であるかを論旨明快かつ情熱的に訴えかけるものであり、これに御心を動かされた大王様はすぐに御考えを改めて李斯の意見を尊重した。かくして逐客令は廃されたのだ。
 一通り掃除を終えて、そろそろ私室に戻り仮眠をしようと立ち上がった時、背後で扉が細い音を立てて開く。このような早い時間に人が来るとは珍しい、随分と勉強熱心な生徒がいたものだと振り向くと、そこには予想だにしなかった人物が立っていた。
「……せ、先生! 朝未だきに如何致しましたか?」
 昌平君の登場に驚きながらも、わたしは慌てて火を熾そうとするが。
「すぐに済む。少し良いか」
 そう制された。裘衣を纏っているとはいえ足元は冷えるだろう。万一にも火の不始末があってはいけないからと、暖をとらずに作業をしていたことに申し訳なさを感じながらも、わたしは昌平君の元へ近寄った。
 薄明の淡い陽に照らされたその顔は厳粛で、光を湛えていない瞳は畏れを呼び起こす。わさわさと騒ぐ胸を抑えながら目を伏せると、眼前に影が落ちた。昌平君が一通の書簡を差し出していた。
「ここで開けてもよろしいですか?」
 昌平君は肯定の意を込めて視線を動かす。上等な布に包まれたその書簡に、紐が歪んだまま巻き直されている。既に内容は検められているようだ。薄らと人肌の温度が残るそれを丁寧に開き、記されている文章に目を通す。
「追加……合格?」
 そこにはひと月も前に執り行われたあの試験の、合格を認めるという旨が、几帳面な筆で書かれていた。但し初めから中央官として採用するのではなく、一年は地方官吏として経験を積むという条件付きである。だが、わたしにとってはそのような細かいことは、この際どうでも良かった。
 心臓が痛いくらいに跳ね上がっている。寒さも忘れてしまうほどに。
 この書簡が何かの悪戯ではないことは昌平君から直接手渡された事実が物語っている。ならば既に終わった試験の結果がどうして今更覆るようなことがあったのか、その答えはわたしが先程まで思い浮かべていた李斯の功績によるものだろう。
 あの時、逐客令の影響は既に随所に及んでいた。吏部の判定はやはり不当なものであり、それがようやく是正されたのである。とはいえ一度判じたものを完全に覆すとなると国家の威信にかかわる。だからこそ、本来合格水準に達していた者であろうと、あくまでも追加合格というていで扱うのであろう。まずは地方官として経験を積み、昇進しなければならない。
「ありがとう、ございます……」
 夢に見た合格証だ。いや、実際には落ちる夢を見ることのほうが多かったから、現実味がまるで無い。嬉しいと一括りにするにはあまりにも膨大な感情が荒波のように押し寄せてきて、その場から動けずにいた。
 険しい道だったと思う。本来ならばわたしは何の苦労もせずに人並み以上の穏やかな生活を手に入れることができたはずの人間だった。しかしその何十倍、何百倍もの高い山を越えることを己に課したのだ。ようやくその麓に立つことができた。
 ──おぬしに父のような素質が眠っていれば、案外夢では終わらぬやもしれん。
 今は亡き蒙驁の、その言葉に勇気づけられ、進みたいままに進もうと決心したのはいつだったか。あの日の自分に伝えてやりたい。身の丈に合わない願いだと思っていたものが、確かにこの手の中にある。
 しかし至大な夢であるがゆえに叶えるまでに長い時が経った。浅学菲才であったわたしの理想を嗤わず、否定せず、踏みにじらず、優しく背に手を添えてくれた蒙驁はもうこの世にはいない。
 できることなら一番に伝えたかった。
 そうしてあの慈愛に満ちた顔で、よくぞ成し遂げたと、笑いかけてほしかった。
 唯一の心残りが胸中に渦巻く。興奮に満ちた体に息の詰まるような切なさが追い打ちをかけて、その幻想に縋るように瞳を閉じる。堪えきれず、一筋の涙が頬を伝った。
「……近々、外出する許可をいただけませんか。蒙驁様の墓前にどうしてもご報告をさせていただきたく」
「相分かった」
「それと李斯様にも」
「あ奴には私から伝えておこう。知恵の働く男だ。不用心に近づくと面倒事に巻き込まれかねん」
「お手数ですが宜しくお願い致します。……では行ってらっしゃいませ。わたしはもう少ししたら部屋に戻りますゆえ」
 泣き顔を隠そうと背を向けると、ややあって、昌平君はわたしの頭に手のひらをあて、とんと静かに撫でた。それは亡父や蒙驁を彷彿とさせる、失って久しい、父性に満ちた温もり。呂不韋と袂別した今となっては二度と手に入れられないものだと思っていた。
 だが柄にもない。ただの労いか、それとも何かしらの意図があるのか。そう考えてしまう己の無粋さに嫌気が差す。昌平君が一度たりとも自分に害をなすことがあっただろうか。わたしはもう二度と己の父と同じ役割を誰かに押し付けるつもりは無いが、しかしもう少しだけ、人を信じてみても良いのではないか。
 李斯のお蔭とばかり思っていたこの合格証も、御史大夫たる昌平君の働きも当然だが一助となっている。その事実を恩着せがましく伝えるわけでもなく、黙して書簡を手渡した、他の高官らの我田引水的な振舞いとは一線を画す飾らない態度。そしてわたしが心の奥底で未だ渇望していた優しさを呉れた事実。
 先生のお力にならなくては。今度こそ、後悔はしたくない。
「中央で手続きが必要だ。共に行くぞ。急がずとも良い」
「……いえ。すぐに支度をしてまいります」
 わたしは弾かれたように早足でその場を去った。触れた手から伝わった熱がいつまでも冷めない。その優しさに溺れてしまわぬよう、手に持った書簡を強く握る。あの方は亡父には似ても似つかない。蒙驁にも。無論、呂不韋にも。
 だが穢れの無い高潔な方だ。
 信ずるに足ると、そう思わせてくれるほどに。
 自分に真に必要なのは、ただ深い寵愛だけを与えてくれるような人ではない。甘さに染まらぬよう、わたしを厳しく律し、正当な評価を下してくれる存在だ。
 まさに、この御方のような。


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