右丞相、軍総司令、御史大夫……数々の輝かしい肩書を持つ昌平君。そのような男と畏れ多くも同じ車に乗り込む。春から仕官する手続きを行うために官衙へ向かうだけであるというのに、用意されたのは四頭立ての立派な車だった。呂不韋のそれのようにごてごてに飾り立てられているわけでもなく、上品で雅やかな美しさを湛えた金花の車蓋は、その威光を衆目に示し、外からは警蹕の声が絶えず聞こえる。
雪が降っているためか、車の歩みは非常に遅く、目的地までがとても長く感じられる。昌平君は、あまり口まめな方ではない。学問に関しては熱心に教えてくれるが、与太話などはした覚えがまるでない。当然、車内には会話のひとつも生まれず、目まぐるしく変化する世の趨勢から、この場所だけが綺麗に切り取られてしまっているような気さえしてしまうほどのしじまだった。
合格の報せを受け取ってから夢心地だった頭は、時が経つにつれ徐々に冴えてきた。
自分にとって身に余る結果に一頻り喜んだが、その熱が退くと同時に、元来の卑屈さが滲み出てきたようだ。少し冷静になったわたしがふと思い起したのは、隣に座る昌平君のこと。軍師学校の一生徒であった今までは先生は先生でしかなかったが、曲がりなりにも官吏の身分を与えられる来春からのことを思えば、上官の上官、そのまた上官の……いったい何度指折り数えれば良いのかもわからないほど雲の上の存在だ。なんといっても秦国最高位の顕官であるのだから。そう考えると心臓は再び早鐘を打っていた。
(わたし、本当にこの方の隣に居て良いのだろうか?)
途端に怯懦になって身を縮めていると、昌平君が「寒いか」と声を掛けてくれた。
官衙には同じく追加合格を得た人々が次々とやってきているようだった。
秦は中華統一の大業を遂げるため、才のある者を多く求むるようになるという、かつての蒙驁の言葉が蘇る。幌の継ぎ目から周囲を覗き見ると、平地の装いではない者が紛れていたり、また異国の訛りを持つ言葉が所々で飛び交っていたりと多様である。あの予見は当たっていた。逐客令が撤廃された今となっては、門地を問わず優秀な者をあちこちから掻き集めている様子が顕著に感じられる。
昌平君曰く、今後はますます官吏登用を促進しなければならないらしい。その理由は、将来的に領土拡張に伴う郡県の監察官が多く必要となることと、度重なる内乱により多くの官吏が左遷・処罰されていることだ。
内乱といえば毐国の件は記憶に新しいが、その前の年にも、王弟・成蟜が兵を起こして、中央からの討伐軍がこれを鎮めるという騒擾があった。反乱の首謀者とされていた王弟は大王様との長年の軋轢から恨みを募らせていたのではと推測されていたが、一方で大王派閥を潰したい奸臣に利用されたと唱える者もいる。いずれにせよ王室に関する揣摩臆測を論ずるのは不敬極まりなく、この件に関しては詮索してはならないという不文律がある。
昌平君と共に車から降りたわたしは、途端に衆人環視の的になった。周りを取り囲む黒騎兵たちの奥から、何かを勘繰るような視線が痛いほど注がれているのが分かる。艶聞などまったくない右丞相が女性を連れ立っているという事実は耳目を集めるに十分な理由であるそうだ。あれはいったいどこの娘かと、声を潜めているつもりのようだが丸聞こえだ。
気まずさを感じながらも長廨に入る。国都の官衙に相応しい、艶やかな塼と豪奢な朱塗りの壁に囲われた美しい外観の建物だ。昌平君は他の部に用があるとのことで一旦別れ、一人で入官の手続きを済ませるべく吏部へと向かった。
手続きはさほど煩雑なものではなかった。口頭で本人確認をしたのち、追加合格者は原則的に地方官としての諸業務を義務付けるという旨の説明をされ、最後に長官から中央官吏の身分を証明する鑑札を手渡された。これは関門や官衙、王宮の一部の通行証にもなる。
二刻ほどで解放され、すっかり手持ち無沙汰になってしまった。辺りに昌平君の姿は見えない。手続きが終わったら動かずに待っているようにという言い付けに従い、部屋の隅の方で邪魔にならないようにじっとしていると、突然、眼前に一人の男が立ちはだかった。
「貴様、か?」
不躾にそう尋ねられ、驚きながらも視線を向けると、そこにはどこかで見た顔があった。暫し思考を巡らせて、ようやく呂不韋の臣下の一人であったことに気付く。殊にこの男は、労せずして呂不韋と戸籍上の繋がりを持ったわたしに嫉妬心を抱いているらしく、事あるごとに意地の悪い嫌味を言ってきていた。人を散々そしり、邪険に扱っておきながら、呂不韋が表舞台から退いた今となっても突っかかってくるとは面倒な男だ。このような人徳の無い人間でも中央官として働くことができるというのは理解に苦しむが、おおかた疇官の家系か賄賂で立場を得たのだろう。
慍然とした態度で嫌悪感を示せば、男はそれを小馬鹿にするように鼻を鳴らし、下品な笑みを浮かべる。
「どのような御用向きでしょうか?」
「なあに。そう警戒するな」
咄嗟に身構えたわたしを見て、錦衣に身を包んだ小太りの男は横風さを露わにした。べたついた笑みを浮かべながら、糸のような眼をますます細める。周囲の人々はただならぬ空気を察し、息を潜めて静観しているようで、居心地が悪い。
「しかし中央官の権威も随分と軽んじられるようになったものよ。その鑑札も貴様のような小娘にまで安売りされる時代になったのだな。ああ嘆かわしい」
気が済むまで言わせておけばいい。この場で事を荒立てるのは得策ではない。呂不韋邸で暮らした昔日のようにじっと堪えれば良いだけだ。わたしは視線を逸らし、押し黙ったまま時が過ぎるのを待った。
しかし男はいつまでも立ち去らない。
かつて鋭く差し向けられた敵意に怯み、恐怖に打ち震えていた頃とはまるで違って「このような輩は往々にして相手にしないことが最良である」と識って何食わぬ顔をしている、知恵をつけたわたしが癪に障って仕方が無いようである。男はますます感情的に声を張り上げた。
「実力ではあるまい。右丞相の口添えか? いったいどのような汚い手を使って誑かしたのだ」
どのような皮肉を言われたとて、聞き流せば良いと思っていた。しかし自分だけに留まらず、恩人までもが貶められるようなことがあってはならない。わたしは反射的に抗弁した。理性を飛ばさないよう、己が立場を忘れてはいけないと自戒をもちながら。
「いい加減なことを仰るのはおやめください。先生の沽券にも関わりますので」
「隠すことはない。夜な夜なあの男の部屋に通っているとは、貴様を知る人物のあいだでは有名な話だ」
この男の言う通り、昌平君の部屋を度々訪ねているのは事実である。学資を賄うために、奴婢の身分では立ち入ることができない部屋の整理整頓や清掃を命じられており、その終了報告を義務付けられていたからだ。無論、報告のみであるから――まれに軍略の指南を賜ることはあったが――ひと言、二言交わせば用事は済むし、先生も多忙な身であるから長居はしていない。
しかし男の物言いは明らかにわたしと昌平君の不埒な関係を匂わせるような悪意に満ちたものだった。自分は何と言われようと構わないが、ここまで育て上げてくれた恩師の名誉を、よりによってわたしの悪評で穢すことなんて許せるはずがない。
耐えかねてその厚顔を睨めつけると、図に乗った男は卑劣な笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「ときに貴様は、あの蒙家の嫡男とも親密な関係であったそうだな。そのように男を惑わす才能があるのならば、無駄な知恵をつけようとせず妓女にでもなれば良かったものを」
ここで怒りをあらわにしては駄目だ。やましいことなどないのだから、もっと強く寛濶に振舞わねば。そう思って耐えようとするが、きゅっと結んだ己の口元が抑えきれずに震えているのが嫌でも判った。
どうやってこの場を収めようかと、真白になった頭の中でひたすらに考えていたその時。得意気だった男の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。先程までの態度は何処へやら、一転してわなわなと震えだす男の視線の先を辿って背後を振り向くと――。
「あ……先生」
そこには昌平君が立っていた。
いつからいたのだろうか。そんな疑問さえも口にできぬほどの刺々しい空気に足が竦む。その根源となる怒気は紛れもなく眼前に立つ昌平君から醸し出されているものである。
「そのような虚妄での貞淑を貶めて、何が可笑しい」
雪よりも凛冽なその口調と炯々たる眼光に、守られているはずのわたしでさえ恐怖を覚える。昌平君はまともに言葉を発することもできなくなった男の腕を掴んで、答えを急かすように力を込めた。
「何が可笑しいのかと訊いている」
「ぐ……手を離せ! 儂はッ、儂はこの女にそそのかされたのだ!」
丸々と太った腕にきつく食い込む、骨ばった武人の指先。男は真冬にもかかわらず額に脂汗を滲ませながら、女々しい悲鳴を上げた。観衆は怯えながらこちらの様子を静かに窺っている。わたしが止めねばならないだろう。
「せ、先生。お気持ちは有難う存じますが、どうか止してやってください。わたしが卑しい女だと思われているのならば、これから覆せば良いだけのことですから」
焦りに心を囚われながらも、懇願するようにそう伝えると、男はようやく解放された。惨めに尻もちをつき、ぜえぜえと息を切らしながら掴まれていた腕を抑えている。そのあさましい姿を見て、溜飲はすっかり下がった。昌平君に灸を据えられ、小馬鹿にしていたわたしには逆に庇われて、あれだけ大上段に構えていた彼の自尊心は酷く傷ついたことだろう。
大きな車輪が轍から逸れ、溶け固まった雪に乗り上げる。視界が激しく揺れた。軍師学校へと戻る車の中、昌平君の腕が体勢を崩したわたしの体を咄嗟に支えようとして、今更ながらこの人に守られていたのだと身に染みて知った。
思えば何年も前から、それこそ合従軍との戦いがあった頃からだ。昌平君はわたしに何らかの価値を見出したのだろう、軍師学校に在籍するどの生徒よりも手厚くしてくださっていたように思える。その裏に如何なる思惑があろうとも、わたしたち二人を結ぶ縁は決してあの男が述べたような汚らしいものではない。
「ご迷惑をお掛けしました。本来であれば、わたしが一人で解決すべきでしたのに」
「いや」
「それと先生への不名誉な風聞を否定できないままで」
「不名誉な風聞……」
「ええ。その。わたしが、あ……貴方様の元に通っているという事実に対する曲解です」
気まずさに言葉を詰まらせながら、隣に座る昌平君のかんばせを窺い見る。
切れ上がった鋭い刃のような眼差し、筋の通った高い鼻、高貴で端正なその眉目。軽妙な洒落の一つも口にしないような男が、その無機的な冷たさを覚える声に色情を滲ませ、自分に愛の言葉を囁くことなど間違ってもあるはずがない。有り得ない。絶対に。
だってあんなにも、あからさまに怒りを露わにしながら否定していたではないか。普段の昌平君らしくもなく、舌頭だけでは飽き足らず、むくつけき男の腕を捻り上げてまでわたしの潔白を証明してくれた。それほど弟子との関係を勘繰られることが不愉快極まりなかったのだろうと思う。
それでもふとした瞬間に、昌平君と密事を交わすその時を想像してしまい、後ろめたい気持ちになった。今まで師として慕う以外の感情を持っていなかったというのに。全部、全部あの男の所為だ。
また変な噂が立てば、嫌われてしまうかもしれない。そう思うと恐ろしく、己の足元に視線を戻し、車の揺れに身を委ねながら無念無想に耽ろうとしていると。つと昌平君が口を開いた。
「私との縁を切らぬ限り、少なからず累が及ぶだろう」
「……」
「だが耐えてくれ」
予想外の言葉に息を凝らした。心無い流言蜚語を流されたとて一向に構わないという姿勢のみならず、あおりを受けるわたしへの心配を持ちながらも、今迄の関係性を変えるつもりは毛頭無いと、そう言っているのだ。この方はわたしを突き放すどころか、傍に居続けることを望んでくれているらしい。という人間に意義があると判じてくれているが故の言葉。誰かから必要とされているという事実に依り立って生きている自分にとって、それはこれ以上望むべくもないもの。
「苦労を掛ける」
「とんでもございません。お心遣い、痛み入ります」
なんと寛大な御方なのだろう。長いこと呂不韋に盲目になっていたわたしは、今更ながら昌平君の厚情に胸が詰まった。
呂不韋が広漠な大地を燦燦と照らす陽のように、時に恵みを、時に災厄を万人にもたらすような存在であったのならば。対照的に、この御方は静謐な月明りのような輝きを持つ人だ。闇夜に浮かぶ光は、わたしが抱える暗愁に静かに寄り添い、進むべき道を静かに照らしてくれている。
心を預けてしまいたい。
呂不韋とは違い、清廉な方だ。惨めな孤独と寂寥の念に擦り切れた胸を満たしてくれるのは、この人なのかもしれない。そう感じてしまうことさえも、昌平君の意のままであるのだろうか。
春から地方官として働き始めるまで、身寄りの無いわたしは昌平君の厚意で引き続き軍師学校の宿舎に住まわせてもらっている。今冬で学校は卒業扱いとなり、軍師認可も下りた。とはいえ軍師認可とはあくまで軍師学校のみで通ずる私的な資格である。軍略や兵法に関しての造詣の深さを測る、一つの試金石とも言うべきか。任が与えられない限り、わたしが軍師として活動することはないだろう。
任地が決定するまで、わたしは変わらず軍師学校で穏やかな日々を過ごしていた。書楼に入り浸って群籍を渉猟したり、愛馬の世話をしたり。はたまた武家の娘を相手に教鞭を執るといった簡単な仕事を請け負ったりもしていた。嫁入り前の女子の教育係として、わたしの経歴は最適なようで、有難いことに方々から声が掛かっている。
そうしてひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ――。
所用で中央を訪れたとある日に、偶然にも彼に出逢った。春を間近に控えた晩冬の折柄だった。
「あ。さん」
「えと……り、陸仙さんですか?」
午時。軍部の会議に参加する昌平君に、届け物を頼まれた帰り道。ふと視界の端に映った見覚えのある姿に足を止めると、その人物もまたこちらを見た。金磚の並ぶ御道の端で、宮禁を囲う堅牢な壁に体重を預け、退屈そうな表情を浮かべるその男は、蒙恬率いる楽華隊の副長を務める陸仙だった。見慣れた顔であるはずが、瞬時に彼であると判別がつかなかったのは、三本角の特徴的な兜も甲冑も着用しておらず、馴染みのない公服に身を包んでいるからだ。唯一、彼の得物である槍だけがその背に括り付けられていた。
「遅ればせながら、おめでとうございます。蒙恬様も喜んでおられましたよ。優秀ですね」
「ありがとうございます。追加合格ですが」
「十分だと思います」
嬉しさに緩む口元を隠すように咳払いをした。普段は辛口発言の多い彼が率直な誉め言葉をくれたものだから、どうもむず痒い気持ちになる。
それはさておき黒羊丘西部の哨戒を任されているはずの彼らが咸陽へと戻っていたことには驚いた。聞けば蒙恬が軍議に召集されたらしく一時的に帰参する許可を得たそうで。
「偶然ですね。わたしも軍議に出られる先生……右丞相に届け物をした帰りなのです。ところで軍議は酉時まで差し掛かると伺っておりますが、それまでこちらで待っているおつもりですか?」
終わる頃にはとうに日が暮れている時間である。
「ええまあ」
「蒙恬様おひとりだと勝手に遊びに出掛けてしまうから?」
「ご明察です。胡漸副長からの命で、まっすぐ連れ戻すように言われていまして」
人使いが荒いんですよ、あの人は。と毒を吐く陸仙であるが、胡漸の老躯では春を目前に控えた寒さの中で何刻も耐えるのは厳しいと判じ、監視役を引き受けたのだと思うと、その不器用な優しさが微笑ましい。
とはいえ日晷儀薔薇ひどけいに落ちる影が伸び切るまで、ここで待っている彼が少し不憫でもある。そう感じていた時、ふと閃いた。わたしにはひとつ、咸陽に留まっているうちに為さなければいけないことがあった。一人で済ませようとしていたが、中央からは少し離れた場所であるがゆえに、万が一のことも考えると精鋭の武官が隣に居てくれるならば心強い。陸仙がこうも退屈そうにしているのならば、きっと利害は一致する。何よりも、彼自身にも関わることでもあるのだから。
「陸仙さん。もう一度お伺いしますが、夜までお暇なのですよね?」
「そうですが」
「でしたらお願いがございます。少しばかり、わたしにお付き合いいただけないでしょうか?」
「あまり遅くならないのでしたら良いですけど」
「ありがとうございます。ではさっそく厩舎に参りましょう」
柄にもなく色めいたわたしの唐突な申し出に、陸仙は当惑げに眉根を寄せた。
白く化粧をした森林や沼沢が一面に広がっている。柔らかな冬の陽を浴びて、緩やかに溶けだした雪が、視界のあちこちで眩しくきらめいた。咸陽の王宮から十里ほども離れれば人家もまばらであり、道もよく整備されていないことが多い。
陸仙の御す体格の良い軍馬と白駘は、そんな田舎道の泥濘に足を取られることなく器用に前進していた。
「さんの馬……毛づやも良く美しい星騅ですね。歩みは少し遅いですが」
「ええ。利口な子なので気立てが良く落ち着いているのですよ」
白駘は隣を歩く体格の良い軍馬を気に留める様子も無く、相変わらずのんびりと歩みを進めている。未だに駑馬だと言われることもあるが、興奮して暴れることもなく、わたしを大事に運んでくれる彼はよっぽど明敏であると思う。この頃は毎日のように世話をしていたお蔭か、毛並もますます綺麗になった。出逢ってから年月が経ったが目立った体力の衰えも見られない為、地方官として遠地に発つ際も連れて行くつもりだ。既に彼はわたしにとって唯一の家族とも言える存在になっていた。
陸仙と二人で向かった先は、蒙家にある廟であった。そこに眠る人の面影にも似た、穏やかで荘厳な自然に包まれている建物だ。内の祭壇には、美しい春菊が供えられていた。先般にも誰かがここを訪れていたようである。
「……蒙驁将軍」
名を呼んだ。それ以上の言葉は口に出さず、手を包み、目を閉じる。
伝えたいことがたくさんあった。そのひとつひとつを心に映し出して語り掛ける。蒙驁と出逢っていなければ、きっとこれまでの日々を無為に過ごしてしまっていただろう。今、ここに在る自分を創り上げてくれたのは、紛れもなくこの御方。
どうか。近くで見守ってくれていますように。
無言の裡にそう願うと、ふと、外の木々がそよいだ。扉から幽かな風が吹き入り、髪をなでる。
肉体が消滅しても、魂魄はその体を離れて浮世を漂っているという。わたしはそのような俗伝を深く信じられない質であったが、しかし浅き春にしては温かいこの風に抱擁されるうちに、信じてみたくもなった。きっと蒙驁の魂魄はここに在るのだと。
瞼を開けると、隣に立っていた陸仙もまた頭を上げた。
「そろそろ中央に戻りますか」
長居をして感冒にかかったら亡き大殿様も悲しむでしょうと呟く彼の言葉に、初めて出逢った時の、うたた寝をしてしまったわたしに自身の衣をかけてくれた蒙驁の姿を思い出して、目の端がじんわりと熱を持つ。名残を惜しむように墓碣を見つめて別れを告げ、廟をあとにした。
空を仰げば、太陽は南天を少し過ぎた位置にある。陸仙の顔色を窺いつつ、わたしは更なる提案を試みた。
「あの」
「はい?」
「お時間に余裕がありましたら、わたしの父の墓に寄ってもよろしいでしょうか? 回り道になりますが、戻る道中にございますので」
「別に構いませんよ」
「本当ですか! ああ良かった。てっきり断られるかと」
「断ったら一人で行かれるでしょう。そのことが知れたら、蒙恬様がさんに何かあったらどうするのかと仰りそうなもので」
「仕方なく。ということですか?」
「そういうことです」
どことなく棘がある返答だが、本気で嫌がっているわけではないことは長年の付き合いから理解している。結局、陸仙は優しい人なのだ。ただ明け透けに物を言うだけで。とはいえ彼には余計な労力をかけてしまうことには違いない。申し訳なさを感じながらも、今日ばかりは甘えることにした。
亡父はそれなりに名の知れた説客であったが、客卿になることはなく、秦国での身分は低かった。彼の名は大規模な共同廟所の一角にある碑に小さく刻まれており、周囲には庶民の墓であることを象徴する白楊と、魂の永い安息を祈る常緑樹が植えられている。
ここには片手で数えられるほどしか訪れたことがない。喪に服している間は、呂不韋に頼み込んで車を出してもらっていたが、そのうちあの人は亡くなった人間に縋ってばかりであった幼きわたしを気疎く思うようになり、申し出を断るようになった。わたしもわたしで養父の御意に添うべく、いつまでも亡父のことを引き摺っていてはいけないと敢えて遠ざけていたというのもある。だが昔日のことを受け入れられるようになった今ならば、そのような心配は不要だろう。
薄らと苔の生えた石塊を見る。自分はどこまでも親不孝な娘だ。暇を貰えれば、いつでも足を運べる距離であったのに、今日の今日まで己の弱さを言い訳にして避けていた。否、ここ数年は「会いに行く資格など無い」と感じていたのかもしれない。大切に育て上げてくれたこの体に、二度も傷を刻んだ。いつか己が身を守る一手段となるように授けられた言語の知識を、人を殺す営為に利用した。きっとわたしは、かつて父母が望んだ未来とは程遠い場所に立っているのだろう。
蒙驁の時のように純粋に往時を懐かしむことはできなかった。忽然といなくなってしまった亡父に対して、わたしは悲しさや恋しさのみならず、逆恨みに近い感情をも抱いてしまった。自我の器は未だにそのような複雑厖大な情緒がどろどろに融け合った坩堝のようなものだ。この刹那に、それらをすべて綺麗な気持ちへと片付けられるわけでもなく。また今更、亡父と向き合うことで贖罪を果たそうとしている己の浅ましさに、自己嫌悪さえも湧き上がる。
ここに来てからどれほどの時が経っただろう。さすがの陸仙も「もう帰りましょう」とは言わなかった。彼はきっとわたしの気が済むまで付き合ってくれるつもりでいるのだろうが、しかし日が暮れるまでここに居たとて、亡父に対する心の整理が付くわけでもない。
「陸仙さん。ありがとうございました」
「もうよろしいのですか」
「外に繋いだ白駘たちも心配ですから」
長居をしたところで良いことはないだろう。後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように、わたしは陸仙の袖をそっと引いた。
もと来た道を引き返そうと、父の墓前に背を向けると、十丈ほど先に初老の男が立っていた。初めて見る顔のはずだが、どうしてか不自然に視線が絡み合った気がする。彼は箒と水桶、供え物らしい水菓子を手にしており、どう見ても墓参りに来た風姿であるが、わたしは本能的に僅かな違和感を覚えた。理由は分からない。しかし男の挙措の節々から、嫌な予感がするのだ。
注意を払いながら、視線を合わせぬように歩みを進めようとすると。
「もしや様では?」
すれ違いざまに男がそう呟いた。どくりと心臓が跳ね上がる。その声は物腰柔らかなものであったが、背筋が凍り付くような恐怖を感じたのは何故だろう。
ざわざわと、白楊の枝が風に揺れて鳴る。
「お知り合いですか?」
「……」
陸仙に問われて返答に困ってしまった。
わたしはしばし男をじっと見ていたが、やはり見知った顔ではない。そもそも長らく咸陽の戚里か軍師学校で過ごしていたのだから、数年ぶりに訪れた鄙びた土地に知人などいるわけがないのである。だが男はわたしの名を知っていた。驚きのあまり、咄嗟に人違いだと返答することもできなかった。
「確かにわたしはですが、貴方はいったいどちら様でしょうか?」
名乗ると、男は安堵したような、はたまたほくそ笑んでいるような表情を浮かべて口を開く。
「これは失敬。かつて貴女様のお父上に仕えていた者でございます。もうだいぶ昔のことですから、お忘れになられていても無理はありませんが。そうそう。今日も旧い主のもとへ墓参したところでございまして」
警戒する私に対し、彼は証拠だとでも言わんばかりに、両手を塞いでいた掃除道具と供え物を持ち上げてみせた。
亡父に従者というものがついたのは呂不韋の食客となり、説客としての才覚を再評価されだしてからだ。しかし、ほどなくして暗殺された際に、その従者たちの姿は呂不韋邸からさっぱりと消えた。誰一人として、別れの言葉も告げずに。きっと彼らにとって仕えるべき人間は亡父だけで、わたしには何の情も抱いていなかったのだろうと考えていた。だからこそ彼らの記憶は忘却の海に沈み、眼前の男の面影さえも思い返すことができなかった。
だがこの男はわたしを覚えていた。しかも、こうして長い年月が経った今でも父の墓に通っている。悪い人ではないのだろう。邸から煙のように居なくなってしまったのも、呂不韋の働きかけがあったからなのかもしれない。
「様。積もる話もございましょう。いかがです? 私奴の邸にでも」
「……ええと」
男の邸は偶然にもこの近くにあるらしい。亡父を大切に思ってくれていることに対しては恩があるが、とはいえ素性の知れぬ男の住処へ伺うのは躊躇われる。陸仙をこれ以上、振り回すわけにもいくまい。
「申し出は有難く思いますが、生憎とこれから所用がございまして」
失礼にならないように断ろうとすると、男はわたしの返答に言葉を被せる。
「私奴が知り得ることであれば全てお伝え致しましょう。例えば、貴方様のお父上が暗殺された夜のこと。あの日見た奸物のことも、鮮明に覚えておりますとも」
「と、父様の最期をご存じなのですか!」
傍から見れば随分と都合の良い話だと思うだろう。しかし男の穏やかな弁舌は、わたしの理性をいとも簡単に搔き乱した。謎に包まれていた父の死。その真相を知っているかもしれないこの男。強い誘惑は否応無しにわたしを引き留める。
何かの罠かもしれない。偶然にしてはできすぎていると言われれば否定ができない。しかしこの機を逃し、亡父の死に関わる全ての真相が闇の中に葬り去られるかと思うと、辛抱たまらない。しかし心懸かりは陸仙だ。横目で彼の表情を伺うと、元従者の男はようやくこちらから視線を逸らして、わたしの後ろに黙して控えるその人をまじまじと見た。
「ところでそちらの御方は?」
「あ。彼は」
蒙恬三千将率いる楽華隊の副長だと、そう答えるよりも早く陸仙自身が会話に割って入った。
「様にお仕え申し上げる者です。僭越ながら自分もご相伴に預かりたく存じます」
「え」
突然口を開いたかと思えば、あまりにも慇懃な態度ですらすらと虚言を述べたものだから、わたしは驚きのあまり固まってしまった。
名を明かすことなく、わたしの付き人であると偽り、更には共に着いて行くと。陸仙はそう言ったのだ。てっきり彼のことだから、面倒だの、怪しいだのと反対するかと思っていたのに。変な化生にでも取り憑かれてしまったのだろうか。
「これはこれは。誠に、ご立派に成長されましたなあ」
陸仙の言葉を微塵も疑いもせず男は感心したように何度も頷く。それから亡父の墓の掃除を手早く済ませた彼は、先立って歩き始めた。
思考がまとまらないわたしをよそに、奇妙な世界は動き出す。
「さあ参りましょう。姫様」
「ひ……ひ、め……」
陸仙もこの調子である。もはや何が何だか。
彼は面白半分でこのような芝居に興じるような人間ではないから、何か考えがあってのことなのだろう。今更この状況から逃げだすわけにもいかず。ええいままよと意を決した。
七年前の真相。その甘言に導かれるままに。