浮世夢の如し

  十九.寄る辺無き者・後編

 亡父の従者であったという男の邸宅は、墓地から馬で一刻もかからない村里にあった。敷地は広く、周囲は高い築地に囲われている。建てられてからさほど年月も経っていない。都からはやや遠いが、この辺りは農耕が盛んで水資源にも恵まれており、生活に困るようなことは無いと男は言う。このような立派な住処を構えられているということは、少なくとも七年前よりはよっぽど良い生活をしているのだろう。亡父が暗殺されたことで彼らの生活が大きく脅かされたことは間違い無いだろうから、少なくとも今、こうして幸せに暮らしているというのは、わたしにとっても救いである。
 門扉を潜ると、庭には使用人が一人。邸の中にもう一人。明らかに閑散としていた。この邸の広さに見合った人数ではないことは言を俟たない。
「少ない人手でこの大廈を管理するのは骨が折れるでしょう」
 同様の疑問を感じた陸仙が、わたしの心を汲んだように元従者の男へそう問う。
「他の者は皆、出払っておりまして。まあ私奴も楽隠居の身でございますので自分の面倒は自分で見ておりますとも。不便はしておりませんよ」
 しかし男は顔色ひとつ変えずに飄々と返答する。出払っているとは言うが、なんというか、ここには多くの人間が暮らしているような生活感が無いのだ。調度品が少なく寒々しい室内。使用感が無く、まるで作為的に置かれているかのような家具。そして何と言っても農具の少なさだ。話を聞くに彼は雑任などではないから課役を負担しているはずだが、その痕跡がどこにも見当たらない。名状し難い違和感に一抹の不安を覚えながらも、今更引き返すわけにもいかず、促されるがまま客間へと足を踏み入れた。
「……中央で人を待たせておりますので手短に」
「誠に臈長けた女性になられましたなあ」
 男はわたしの話を遮るようにそう呟くと、しんみりとした表情で感嘆の息を洩らす。繊弱な手を僅かに震わせながら喜色を漲らせるその様は、ただ純粋に嬉しく思ってくれているのか、それとも何かを韜晦しているのか。わたしには判断がつかなかった。恐らくそのどちらの仮定も正しいように感じられたからだ。
「夙に軍師学校へ入学したという噂は耳にしておりました。父君の薫育が実を結んだのでしょう」
 とはいえ今のところ直接的に害があるわけでもないから袖にするわけにもいかず。なんとか亡父の話を聞き出そうとするも、男に上手く躱されていて、この場所に引き留められているような気がしてならない。そのうち酒食が供されたものだから、仕方なく茣蓙に腰を下ろした。歓待を無碍にするのは失礼にあたる。
 陸仙もまた男を注意深く観察していた。恭しい振舞いをしつつも、その眼はしめやかに凄みを利かせている。酒杯に手を伸ばそうとすると、彼は静かにわたしの手を遮って匂いを確かめた。それから「もっと危機感を持った方が良いかと」と言わんばかりの視線を密かにくれて寄越す。
「ははは。随分と警戒されているようですな。そう心配せずとも毒など入ってはおりませんよ」
「いえ。姫様は酒精に弱いもので。従者の前で酔い潰れてしまうほどには」
「っ! わ、忘れてください」
 唐突に思い出したくもない数年前の正月の話を蒸し返され、わたしは恥ずかしさに火照った顔を両手で覆う。陸仙は敢えてこの男の前で事実を述べたのだろう。偽物の主従関係により強い信憑性を持たせ、この男の用心を解くことが目的だ。少なくともわたしの素直な反応を見せたことには大いに意味がある。と彼は尤もらしい理由を言うだろうが、こちらは羞恥心に振り回されてそれどころではない。
 それから男はわたしと亡父との思い出を訥々と語った。その内容はどれも亡父と深い関りを持っていなければ知り得ない情報ばかりであった。
様は幼い頃からまことに聡明であったと亡き父君から伺っております。詩経の章句を教えれば易々と諳んずることができ、難解な異国の言葉も難無く習得されたと」
「わたしは何も特別な人間ではありません」
「いえいえ。世にも稀な才媛にございますよ。私奴も鼻が高いものです」
「大袈裟です。その……ところで本題に入りたいのですが」
 少なくとも従者であった経歴に偽りは無いのだろうと思う。しかしいつまでも七年前の話には辿り着かない。彼は本当に真相を知っているのだろうか。時間を稼ぎ、わたしを引き留めて、何を為そうとしているのか。そう思って胡乱げな目を向けたその時、見計らったように再び客間の帳が払われた。
「どうぞお召し上がりください」
 使用人に供された大皿には青い蜜棗の実が盛られていた。瑞々しく張りがある大ぶりの実は玉のように光り輝いていて、上等な物であることが見て取れる。この時期の水菓子は温暖な南方でのみ収穫されており、市場には滅多に流通することがない高級品だ。それこそ王宮に調進されるほどの。
「いただいてもよろしいのですか?」
「ええ。食べきれないので塩漬けにでもしようと思っていたところでして」
 男はそう言って山のように積み上げられた蜜棗の、天辺の一個をつまみ、口に入れた。しゃりしゃりと咀嚼する音から水菓子の夭夭さが伝わってくる。冬の間、質素な食事が続いていたせいか、たまらず喉が鳴った。陸仙に目配せをすると彼は留保つきながら頷いて諾する。
「ではいただきます」
 艶やかな青色の実を手に取り、歯を立てた。途端に咥内に爽やかな酸味が広がり、芳醇な香りが鼻腔に抜ける。蜜棗には僅かに塩気があった。男が塩漬けにしようと思っていたと言っていたから、まさに漬け込みをしている途中であったのかもしれない。しかしこの鹹味が僅かな甘さを良い按配に引き立てている。思わず美味しいと呟いたわたしに、男は「遠慮せずにどうぞ」と笑いかけてみせた。
 さもしいと思われないだろうか。そう考えると気が引けるが、しかし結局は誘惑に抗えず次々と口にした。
「従者殿も如何です?」
「いえ自分は結構です。水菓子は、あまり得意ではないもので」
「……さようでございますか」
 一方で陸仙は手を付けようとしなかった。男の勧めを断った陸仙だが、水菓子を不得手としているという言い訳はおそらく嘘だ。数年前に、わたしが蒙家に身を寄せていた頃は、普通に食しているところを何度も見た。未だに警戒を解いていないのだろうか。しかしこの蜜棗は殊に美味である。せっかくの機会に食さないとは勿体無い。そう思って半分に割った実を陸仙の口元に近づけると、かなり嫌な顔をされた。あからさまな拒絶だ。もしかしたら本当に嫌いなのかもしれない。

 気付けば額や背に汗が滲んでいた。言わずもがな、真冬の室内は火鉢の熱があっても肌寒いものである。加えて気を抜くとえずいてしまいそうなほど気分が悪い。慣れないものを腹一杯に食べてしまった所為だろうか。そのうち治まるだろうと思って我慢をしていたが、一向に回復しない。それどころか頭痛にも襲われ、思考がぼんやりとしはじめた。視界が歪み、意識が飛んでは引き戻される。それとなく具合が悪いことを伝えようと陸仙の方に顔を向けると、彼は血相を変えて、急に蜜棗をひとつ手に取りまんじりと見つめた。外皮を指のはらでなぞり、表面に残っていた白い粒を採取してそれを観察する。次いで大皿をじっくりと視線を移した。すると何らかの事実に辿り着いたらしい。弾かれたようにわたしの腕を掴んで立ち上がった。
「失礼。様の体調がどうも優れないようで」
「おや? お疲れなのでしょう。奥の部屋が空いておりますので、休んでいかれては如何ですか」
「この期に及んで白を切るつもりで? それとも見縊られているのでしょうかね」
 どうしたのかと尋ねようとしたが、普段は涼しげな顔をしている陸仙が感情的になっていたものだから、驚きのあまり喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。訳も分からぬまま、引き摺られるように客間から出ようとすると、刹那、鋭い金属音が耳を劈いたかと思えば、強い衝撃とともに己の体がふわりと宙に投げ出された。
「なッ! い……っ、たあ……」
 一瞬の浮遊感に茫然とした後、受け身も取れぬまま鈍い音を立てて落下したわたしの全身に、稲妻が走り抜けたかのような強い衝撃が走る。打ち身が鈍く痛み、熱を生んだ。
 揺らぐ視界の奥には陸仙の背中。彼がわたしを思い切り突き飛ばしたのだと理解したのはその時だ。
 なんてことをするのだと声を上げようとするも束の間、眼前の光景をはっきりと視認するなり、わたし恐怖のあまり凍り付いた。こちらを庇うように槍を構える陸仙の背中越しに、元従者の男が剥き出しの刀身を構えているのが見えた。興奮したその息遣いに合わせ、銀光が耀う。男は出逢った時の物腰柔らかな雰囲気とはまるでかけ離れた、虎のように獰猛な目でこちらを睨んでいる。
 思わず小さな悲鳴を洩らした。這いずるように壁際に背をつけ、呼吸を調えながら思考を整理する。急激な状況の変化についていけていない。しかし少なくとも元従者の男がわたしに害を為そうとしており、陸仙がそれを阻止しようとしてくれていることは見て取れた。
「いったい何が起こったのですか……?」
「さあ。自分が教えて欲しいくらいです。どうしてあの水菓子に毒粉が混じっていたのかを。ですがあの男の様子を見れば主たる目的は明白でしょう」
 相手を警戒しながら陸仙は言葉を続ける。あの大皿には塩に加え、白く細やかな、塩と見紛う毒が塗られていたらしい。そして男はこちらの油断を誘うべく、わざと毒のついていない蜜棗を――皿に触れていない天辺の一個を――食したのだと。
「毒だなんて。何かの間違いでは」
「塩は水によく溶けますから判別はつきます。万が一そうでないとしたら奴が貴女に刃を向けているこの状況をどう説明するおつもりで」
 長らく燃ゆる火鉢の近くに置かれた水菓子は汗ばんでいた。塩ならば溶けて形が無くなるはずだと陸仙は語る。彼の観察眼と見識の広さに、わたしはただただ驚くばかりだった。確かに毒だと言われればこの急な体調不良に納得ができた。吐き気や頭痛、倦怠感。毒がまぶされた蜜棗を口にしたのはわたしだけ。そして元従者の男が陸仙の推測を否定する様子も無いのが、何よりの証拠である。
 茫然自失としていた。信じようとしていた人間に裏切られた事実よりも、元は亡父の従者であったこの男に毒を盛られるようなことをしてしまった心当たりが全く無いことが恐ろしかった。まるで目に見えぬ凶器を四方から突き付けられているような感覚に、悪寒が走る。
 やにわに男は吠え哮りながら手に持っていた刃物を陸仙へと差し向けて距離を詰めた。対する陸仙はわたしを庇いながら戦っているからか、防戦一方だ。武器同士がぶつかる甲高い金属音が鳴るたびに、心臓がはち切れてしまいそうなほどに跳ね上がる。このままでは陸仙が殺されてしまう。わたしの身勝手で彼の命が脅かされるようなことがあってはならない。己を奮い立たせ、覚束ない手つきで護身用の剣を握りしめた。剣術はからきしだが、加勢をすればきっと勝機を見出すことができるはずだ。
「自分の槍術では心許ないですか?」
 ところが陸仙がわたしの挙措を読んだかのようにそう言った。
 そんなことはない。ただ重荷になることしかできない自分が許せないだけだ。彼の槍の腕は重々承知している。
「……いえ」
 暫し逡巡した後に抜きかけた刃を収めた。いつか彼はわたしに、己の無力さに耐えることもまた強さであるという旨意の言葉を伝えたことがあったことを想起する。きっと陸仙は今この瞬間も、窮地を脱する最適解を模索し続けていることだろう。しかしまさにその思いをわたしは突き放そうとしたのだ。
 ――信じています。
 その言葉が音となったのかどうかすら分からない。弾む呼吸と噎せ返るような息苦しさに耐えながら、霞む視界に映る彼の大きな背を、祈るような思いで見つめる。
 やがて陸仙の固い防御に業を煮やした男は、一気に方を付けようと、距離を詰めて大きく刃を振りかざした。窓から差し込む希薄な日差しが刀身に照り返る。接近戦では槍が圧倒的に不利だ。わたしは思わず目を瞑った。
 しかしいつまでも衝撃はやってこず、それどころか相手の圧し潰されたような低い声が聞こえた。恐る恐る様子を窺うと、槍の石突で鳩尾を突かれた男がまさにもんどり打って倒れるところであった。床に叩き付けられた彼の喉元に、陸仙は持ち替えた槍の穂先を突き付ける。
「貴様……ただの従者ではないな」
「まあ。従者ですらないですけどね」
 演技を止めたらしい、陸仙は普段のような口調で答えた。
 従者の男は諦念に満ちた表情を浮かべながらこちらに視線を寄越した。恐怖が抜けず、壁に凭れて肩で息をするわたしに、語りかけるようにその口を開く。
「お前は知るまい。我々が呂不韋からどのような仕打ちを受け……苦境の中を生きる羽目になったか」
 それは恨みがましい弁舌だった。
「行き場を失った我々はあの男にとって不都合な人物を殺すよう命ぜられ……顔が割れると身ひとつで邸を追われ、命辛々秦から逃げ出した。他国を転々とするうち偶然にも、お前を探しているという人物と出逢ったのだ。身柄を引き渡せば多大な報酬を約束すると。天から与えられた千載一遇の好機だと思ったよ。旧知の間柄だ。油断を誘うことなど容易い」
 露も知らなかった。彼らもまた呂不韋の野心のために捨石になることを強いられていたのだ。漸く父の死を受け入れることができた頃に、呂不韋から従者たちは皆この邸を去ったのだと聞かされて、そんなものなのだろうと納得してしまっていた。それ以上のことは知ろうともしなかった。とはいえ知ったところでどうすることもできなかっただろう。だが従者は不運薄倖に沈み、一方でわたしは呂不韋の庇護下でのうのうと生きているとなると、逆恨みをされても致し方ない。
「だがな。お前の情報は何者かによって巧みに隠匿されていた。数年かけても接触するどころか、軍師学校に身を置いていることしか探ることができなかったほどには」
「隠匿……」
「だから私はここで待つことにした。何年も前に死んだ主の墓へ通う忠義に厚い部下を装ってなあ。長かった。ようやく会うことができた。すべて徒労に終わったが」
 そこでわたしは気づいた。己が身は、誰の手により守られていたのかを。思えばこの元従者の男と出逢った時に感じた違和感は、わたしが日常で素知らぬ第三者から「」であることを認識された経験が殆ど無いことに起因するものであった。それは言い換えれば、という人間の素性が外部に漏洩していないことを意味する。過剰なまでにわたしの行動を制限していたのは誰か。たとえ国領の中であっても戦の庭に足を踏み入れることを固く禁じていたのは誰か。紛れもない昌平君だ。あの方はわたしに向けられているであろう憎悪と敵愾を危惧していたのだ。もう何年も前から。
「ああ。七年前の夜のことは与り知らぬ。お前の泣き叫ぶ声を聞いて駆け付けた時には、あの男は既に事切れておったからな」
 これ以上引き出せる情報は無いと踏んでか、陸仙は両手で槍を構えた。男は唇を固く結び、抵抗する素振りも見せずに目を閉じる。
「殺してしまうのですか」
「生かす意味が無いでしょう」
「そうですが」
 わたしを欺き、毒を盛ったこの男に情けは無用だ。理解はしている。
「なるべく苦しまないように配慮はしますよ」
 陸仙は沈鬱な顔をするわたしを慰めるように、そう言った。

 辺りには誰の気配も無かった。使用人に扮していた人物もまた他国の間諜だったのかもしれない。きっと秦国の内情を探るべく邸を建て、父老に賄賂を贈って賦税を免れ、ここで正体を隠しながら生活を送っていたのだ。
 陸仙に抱えられるように外に出ると、彼は一刻も早く解毒処理を施すべくわたしを自分の軍馬に乗せようとした。
「白駘は」
「一旦置いていきますよ。その体で馬を御せるとお思いですか」
「っ駄目です! 蒙家までなんとか耐え忍びますゆえ。どうか……」
 迎えに来た時までに無事でいるとも限らない。無理にでも連れて帰ると強く訴えると、陸仙は不本意ながらもわたしの意に沿ってくれた。閑散とした邸を飛び出し、蒙家へ続く道をひたすらに駆ける。全身から汗が吹き出し、いよいよ意識も濁り始めた。体を激しく揺さぶられ、何度も前後不覚に陥る。気を確かに持つようにと陸仙に声をかけられながら、やっとのことで目的地へと辿り着いたわたしは、白駘の背から滑るように下りてその場に倒れ込んでしまった。

 …… ……。
 鮮明に覚えている。床に転がり落ちた青い蜜棗の実に、霙のように降り注いだ鮮やかな血の色。男の死に顔は見ていない。見ないようにした。だが頭の中に苦しみ悶えた骸の幻影が映し出される。まるで悪夢でも見ていたかのような寝覚めだった。
 視界は闇に閉ざされていた。わたしは仰向けになりながら、暗澹の底で宙に目を向ける。
 ここはかつて蒙家に身を寄せていた時に借りていた部屋だ。倒れたわたしは邸の人の手によりこの場所に運び込まれて、居合わせていた衛生兵や易者に応急処置を施された。とはいえ彼らは解毒術に精通しているわけではないから、医療的に正しい手当を施すことができず、結局は薬用茶をひたすら飲んでは胃の中のものを吐き出しての繰り返しで体内の浄化を図るという荒療治をされた。あまりにも耐え難い苦痛に、吐き疲れ、泣き疲れ、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 体を起こすとはずみであちこちが痛んだ。呻きを洩らしつつ、しばらく虚空を眺めていると、部屋の帳が静かに払われた。隙間から差す手燭の火が視界をぼんやりと照らしている。
。起きてる? 気分はどう?」
 うっそりとした声で問いかけてきたのは、心の底から待ち焦がれていたその人だった。琥珀色の瞳は揺らめく灯を受けて、暗がりの中であってもひかめいている。
「蒙恬」
 事の顛末を聞き急いで駆けつけてくれたのだろう。傍目にも憔悴している様子が見て取れた。彼はわたしが眠っている間のことを丁寧に説明してくれた。陸仙から都尉に報告が上がり、あの邸の検分が行われる予定であること。父老や里典は処罰されるであろうこと。等々。思いの外、大きな騒動と化したようである。
「明朝には医者が来るよ。まだ横になって安静にしていた方が良い。ひとまず無事で良かった」
 褥から這い出して姿勢を正そうとすると、蒙恬はそれを制するように近づいてきて、わたしの両肩に手をやってやんわりと押し戻した。幽光に照らされた美しい顔の陰影は、互いの呼吸が聞こえるほど近くまで迫っている。もう飽きるほど見てきたはずの相貌。それでもこの眉目秀麗さには未だに心を掻き乱されそうになる。呆けていると彼はわたしのうなじに冷たい指先を這わせて下ろした髪をまとめ持ちながら、もう片方の腕を腰に回して静かに褥へと押し倒す。それから肩まで衾を掛けてくれた。まるで幼子にでもなった気分だ。
「……本当は守ってあげたい。が傷つくところをもう二度と見たくないのに」
 胸上まで伸びたわたしの髪を手で掬い、はらはらと褥に零す動作を繰り返しながら、蒙恬は弱々しく呟く。彼の願いを素直に受け入れ、蒙家の庇護という傘の下で安寧を享受することができたのならば、きっと悲しませずに済むだろう。しかしそれはわたしの衷心と相互に両立しない。かつて父の死を目の前にして己の無力さを幾度となく悔いた。この身を持って大切な人を守ることに心血を注ぎたいという思いは捨てきれない。たとえ心から慕う友の望みと二律背反を為していようとも。
「でもそれは我儘だ。知っているよ。俺は念願叶って遠地へ旅立つ君を止められない」
 出逢った時のような腹の内を見せない態度とは打って変わって、この頃の蒙恬は困ったような、力無い笑みをわたしに向けている。それこそ会うたびに。彼にそのような顔をさせてしまうこともまた苦しかった。
「だからせめて、一つだけ約束して欲しい」
 骨ばった彼の手が、わたしの手に触れた。まるで存在を確かめるように何度も力を込められる。弱々しくも握り返すと、琥珀の双眸は静かに伏せられた。
「自分の命を何よりも優先すること」
「……わかりました」
 機微に触れた。その言葉に少しでも返事を躊躇えば壊れてしまいそうなほどの儚さを湛えているように思えた。蒙恬の奥底にあるのは自責の念だ。わたしに不幸が降りかかるたびに、彼はかつてわたしを呂不韋から引き剥がして過酷で無情な世界に引きずり込んだことを悔やむのだ。華冑の生まれであることも、幾千の兵卒を統べる武官の肩書きも、自身の秀外恵中さをも脱ぎ捨てて懺悔を語る。痛々しいほどに。
「ごめん。疲れただろう。医者が来たら起こしてあげるから、それまでゆっくり休んで」
 蒙恬は手燭にふっと息を吹きかけて火を消した。頼れる光は窗布越しに差し込む幽かな月明りだけだ。
 言われるがままに目を閉じると、次第に意識は深い水底へ手を引かれるように沈んでゆく。毒に侵された体からはあらゆる苦悶から解放され、まるで高所から落下でもしているかのような感覚に襲われる。その刹那。
 柔らかな褥が音もなくひずみ、己の頬に、鼻に、髪がかかったようなむず痒さを感じた。耳孔を擽る衣擦れの音。己の真上に、覆いかぶさるようにして佇む人の体温が、空気越しに伝わってくる。
 暫くして。
 晩冬の肌を刺すような空気に晒されて乾いた唇に、ぬるく柔らかな感触が降ってきた。ほどなくそれが何たるかを理解するやいなや、頭の中が真っ白になる。彼の咥内から繰り返し洩れる熱を帯びた吐息が、何度も耳の奥底を擽った。それは束の間のようにも、はたまた永劫に続く時のようにも感じられた。
 目を開くことはできなかった。彼がわたしの寝息を窺って、事に及んだその意を汲めぬほど愚鈍ではない。幾度となく降り注ぐ甘やかな接触に、身体の芯から溶けてしまいそうなほどの熱を覚えながらも、ただじっと空寝をして耐えていた。
 夜が降てばすべてまぼろし。そう、すべて。
 この甘美で背徳的な性愛は互いが望まぬことであるとわたしは知っている。胸を掻き毟りたくなるほどに切なく、ただ苦しい、いっそのこと眠りに落ちてしまえていたのならどれほど良かったことか。行き場の無いもどかしさは胸の中でわだかまって、燠のように熱を生んでは燻るばかり。
 無意識のうちに目端から頬を伝って零れた涙はついぞ掬われることはなかった。彼もまた気づかぬふりをしてくれていたのだろうか。


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