浮世夢の如し

  二〇.壺中天・前編

「では私共はここで失礼致します」
「ありがとうございます。先生方にもよろしくお伝えください」
「はい。様もどうか息災で」
 遠ざかってゆく馬蹄の音を見送ってから、わたしは背後を振り返り、眼前の浩渺な大地を一望した。黄昏の幕が下りる中で煌々と輝く数多の星は、広大な城郭都市の数々を幾重にも縁どる松明の灯火。高い丘の上にあるこの小邑からは、その壮麗な景色がより一層、美しいものとなる。
「とても綺麗な眺めだ。ねえ白駘」
 愛馬の鬣を優しく撫ぜてやりながら、感嘆の声を洩らす。暗晦を照らす光点は遠くに渺茫と浮かぶ黒い峰々の麓まで続いており、その規模は国都さえも凌駕する。一人と一頭で冬ざれの野に佇むこの身が如何に矮小な存在であるか、わたしは己の瞳に、燃え滾る命の揺らめきと世の無辺さを映じた。
 ここは河南。中原を制する者は天下を制す――古くからそう言われている大河の中下流に栄えた一帯の、更に中心部にある、文明の中核地域である。

 ──始皇十年、芳春。
 丸五年という長い年月を過ごした軍師学校を出立したわたしは、咸陽から遥か東に位置する新天地・洛邑を目指して旅をしていた。地方官吏として国都から離れた場所に赴任することは以前から決定していたが、てっきり遠隔の地に行かされると思っていたから、まさか洛邑に決定するとは予想だにしていなかった。
 とはいえこれも仕組まれた配置であろう。無論、そのような業を為せる人物といえば一人しか思い浮かばない、件の騒動で毒を盛られたこともあり、昌平君はわたしの周囲に警護兵を忍ばせているらしい。おそらく彼の方の手が及んでいるのであろうと推察する。大きな都市であれば人を紛れ込ませることは容易い。
 洛邑は河南の西部にある。夜が明ける前に旅籠を発てば、昼過ぎには城門を抜けて官舎に到着できるだろう。明日わたしは新たな門出を迎えることになるのだが、ひとつ懸念があった。
 それはひと月ほど前に、任地が決定して間もなく、呂不韋の身柄を洛邑へ移すよう大王様から勅命が発せられたこと。長らく咸陽の戚里にて軟禁下にあった呂不韋であるが、どういうわけか、旧都雍にて幽閉されていた太后が咸陽に戻されるという話が唐突に浮上し、その煽りを受けるように呂不韋は自身の封地へと追いやられた。なんでも或るとつくにの客人が嬴政に君子としての徳を説いたことが起因であるらしいが。
 蓋然性が低いだけに、まるで運命づけられているかのような錯覚に陥る。わたしは未だにあの男から離れられないようだ。もしも天のいたずらだとするのなら、とうに破綻した二人の関係にいったい何を望むというのだろう。

 中華に五百年以上も続く騒乱の、その始まりは周王朝の洛邑への遷都であり、それから呂不韋の手で滅ぼされるまでここは一国の都であった。たかだか十五年ほど前の話だ。未だに古都の威風は健在である。それどころか呂不韋の手により、ますます隆盛を極めているのではないだろうか。
 洛邑城の外周には幾つもの門があるが、日も昇りきらないうちからそれぞれに開門を待つ人の長い列が作られていた。暫くして、からりと乾いた朝の空気に鉦がとよもすと、蜿蜒と続く人影は少しずつ動き出す。
 門を抜けた先は雑然とした賑わいに満ちている。道端には商機を求めて地方から上洛した商賈で溢れかえり、また運河に浮かぶ舟の上にまで店を構える者もいた。大路は車の往来が絶えない。方々から売り声が飛び交う中、人の波を縫うようにして向かった先には、閑雅な大廈高楼の官衙があった。すれ違う官吏らの中には珠玉を身に着け、綾羅に身を包んだ者が多い。腰や背に携えている軍器も上等なものだ。呂不韋の邸に身を置いていたわたしにとって、そのような物の価値を値踏みすることは容易い。一介の地方官吏としては奢侈品であるはずだが、彼らも洛邑の華やかさに呑まれているのだろうか。それにしても身の丈に合わぬ贅沢を続ければ、故郷の家族への仕送りも十分にできぬだろうに。
 はじめに命じられた任は関門の管理であった。徒と呼ばれる下官の一人として洛邑にある幾つもの門のうちの一つに配置される。終業は明け方から日没まで。休暇は五日に一度。業務内容は符(通行証)の確認、徴租、門の開閉など。胡乱な物や人があれば哨兵に引き渡す。他に驛站に置く馬の世話や掃除などの雑用も行うそうだ。軍師学校で培った厖大な知識を活かせる場は無さそうだが、城内の安寧秩序を保持する為の重要な仕事だ。やりがいは大いにある。なにしろ中華で最も華めく交通の要衝とも言える場所なのだから。

 身一つで遠隔の地に赴いたわたしを心配して兄弟子の蒙毅が洛邑を尋ねてきたのは、新緑の眩しい初夏の時分だった。
 彼は本格的に昌平君の臣下につくようになり、現在は主に東郡を宣撫する任を担っていると聞いている。東郡の置かれた山陽一帯は始皇五年に彼の亡祖父・蒙驁が二十もの城を落とし、宿敵の廉頗を破ったのちに設置された場所。孫である蒙毅が衣鉢を継いで精励している姿を、蒙驁も草葉の陰から喜んで見守ってくれていることだろう。
「ここでの生活には慣れた?」
「ええ。最初のうちは日暮れまで立ち仕事をするのが辛かったのですが、徐々に慣れました。上官からも漸く板についてきたと仰っていただいて」
「それは良かった。文机に向かってばかりだった君のことだから、体力面が厳しいだろうと心配していたんだ」
「粘り強さだけはありますから、なんとかなりそうです」
「そうだね。君がことのほか逞しい女性であることを失念していたよ」
 洛邑の地気に合う鮮やかな華林の道を、蒙毅と二人並んで歩く。こうして街の中を観光するのは初めてのことだ。というのもこの邑は中華各地の人間が絶えず入り混じる場所であるがゆえに、秩序が紊乱している為、一人で出歩くべきではないと昌平君から忠告を受けていた。その言い付けを忠実に守っており、また官舎に篭もっていても不便は無かった。だからこそ多種多様な文物のすべてをごく当たり前であるかのように包括する古都の溌剌さが、未だに新鮮に映るのである。
 そういったわけで道案内すらできないことを蒙毅に詫びると、彼は莞爾として笑った。
「やはり先生はを大切にされているようだね。君からしてみれば少し窮屈に感じるかもしれないけれど。ああ、今日は安心して良いよ。僕がしっかり守ってあげるから」
「蒙毅様が戦われるお姿、なんだか想像し難いと申しますか」
「弁舌で対処できそうなものは能う限りそうするつもりだけど、万一のことがあれば……とまあ物騒な話はこれくらいにしようか」
 街並みは国都咸陽と比較すると雑駁な印象を受ける。官衙から旧王宮にかけての輦路の威容は瞬く間に薄れ、道には甍を並べるように店屋が林立し、沸き立つようなさざめきの中で人の波は叢雲のように固まっては逸れながら緩やかに流れゆく。人いきれで淀む紛々とした視界から顔を出せば、路地裏の方には縄に繋がれた痩せぎすの子供が見える。奴隷売買だ。法の下で厳格に整備された咸陽ではもうほとんど見られない光景である。

「少し歩き疲れたね。休憩でもしよう」
 兄弟子に連れられて大路を抜け、やってきたのは城邑を巡る緩やかな運河のほとり。ここでも商賈たちが小さな木舟を漕ぎながら、水辺を歩く人々に物を売っている。石造りの河畔に腰掛けた蒙毅に倣って、わたしもその横に座った。放った脚が宙を掻く。どこまでも澄み渡る青い空と、洛邑の鮮やかな街並みを鮮明に映す水面には、玉を割って散らしたように陽の光が照り返っている。
「感慨深いな。初々しかった君が軍師学校を巣立って、こうして遠い地で立派に働いている」
 爽やかなみなはだの衣が風になびく。兄弟子の慈愛に満ちた眼差しが、こちらに差し向けられた。心の底を見透かすような無機的な美しさを持ったその瞳を、ちょっぴり怖がっていた、あの頃が懐かしい。
「中身は昔から大して変わっておりませんが」
「いいや変わったよ。呂不韋という拠り所をなくしたら、梶を失った舟のようになってしまっていただろう、以前の君と比べれば」
 思えば蒙毅はわたしの呂不韋への執着に関して、鋭く切り込んできた唯一の人間であった。蒙恬やあの蒙驁でさえ気づかなかった、わたしが養父に心からの欽慕を抱いていない事実を見抜き、己の本心と向き合うことを助言したのだ。それも軍師学校にやってきたばかりの頃に。
 ――僕からしてみればすべてを清算して、しがらみから解放されたいように思えてならない。
 その言葉は己の髪を切り落とす決断をする時になってようやく理解した己の真髄である。
「蒙毅様の明敏さには恐れ入ります。まるでずっと昔から、わたしと呂不韋様を見ているみたい」
 思うままにそのような所感を述べると、蒙毅は微笑を浮かべながら、瞼を閉じて小さく首肯した。そうだよ、と。街の賑わいに攫われそうなほどにささやかな声が、耳朶を掠める。幻聴かと思った。俯いていた顔を上げて、それまで横目で伺っていた兄弟子の表情をしかと見ると、視線が絡んだ。すると彼は心なしか面映ゆそうに、川面を走るさわやかな風にあそばれた髪を手先で整えて。
。憶えているかな。僕はずっと昔から、君を見ていた」
 そのようにしみじみと語り出した。
「むかし、から?」
「うん。きっとお互いに十を過ぎた頃くらいだと思う。初めて会ったのは」
 十を過ぎた頃といえば、亡父が呂不韋の食客となった頃である。ようやく手に入れた安寧を噛みしめていたのは最初のうちで、次第に亡父が沢山の任を請け負うようになり、朝から夕まで邸を空けている間、侍女たちに遊び相手になってもらいながら退屈を紛らわせていた。たまにどうしても、独りになりたくないと駄々をこねて、呂不韋邸で催される宴の席に着いて行ったりはしていたが、それ以外はずっと篭もりきりで。記憶の糸を辿りながら小首をかしげていると、彼は小さく笑う。
「気づいていなかったかな。まあ無理もない。君はずっと、亡くなられた御父上か、或いは呂不韋の陰に隠れながらじっとしていたからね」
「え」
「僕はかつて元呂氏四柱の蔡沢様に師事していた。まあほとんど介添え役のようなものだったけれど。軍師学校に入学する前の話だよ」
「呂氏四柱……」
 そこでわたしはようやく、かつての蒙毅の姿をほんの少しだけ思い出したのだった。とはいえ幼き時分は呂氏四柱の面々が放つ崇高たる雰囲気に居竦んでばかりで、彼らの顔をまじまじと見たことは無かった。ただ蔡沢の老身を支えていた――あの集団の中ではとりわけ幼いにも関わらず稚気を脱していた、底冷えをするほどに達観した眼を持った少年がいたことを、薄らと覚えている程度だ。住む世界が違う人だと思っていた。あの少年が、まさか自分と同年配であったことには驚いた。それ以上に、彼がわたしを見ていたのだという事実もまた。
「僕は誰よりも、きっと兄上よりもの成長を知っている人だ。だからあの小さくて弱々しかった君が、今こうして逞しく生きてくれていることが、とても嬉しい」
 ずっと孤独だと思っていた。呂不韋でさえ、わたしに目を留めることすらなくなって。侍女たちに義務的に世話をされるばかりの、砂を噛むような日々。その時に蒙毅を知ることができていたら、あの陰鬱な人格も少しは変わってくれていただろうに。
「初めて出逢った時に教えてくだされば良かったのに」
「本当はずっと黙っておくつもりだったから」
「ではどうしてお話をしてくださったのですか?」
「なんとなく。まあ敢えて言うならば、君がそんな疑問を純粋に投げかけるような人だって見極められたからかな」
「蒙恬様と同じような濁し方をされるのですね」
「あの頃の僕の年齢を考えたら、黙っていた理由なんて簡単に想像がつくと思うよ」
 どこか含みのある言振りは、彼の兄である人物のそれに似ていた。蒙毅の言う理由、その真意を汲み取るべく頭を悩ませていると、ふと水面に大きな影が落ちる。
「そこの方。あまい李はいかが」
 目の前に停められた木舟。愛想の良い行商人が、濃紅に色づいた李を手にこちらへ話しかけてきた。十がらみの蒙毅少年が、わたしを一方的に目で追っていたわけ。喉まで出かかった一つの答えは、間が悪いことに、この男によって掻き消えてしまった。
「小腹が空いたから貰おうかな。は?」
「わたしは結構です」
「なら一つ」
「まいど」
 再び櫓を漕いで岸から離れてゆく木舟を見つめていると、蒙毅にそっと肩を叩かれる。差し出されたのは彼が買った李。その艶やかな果皮と、芬芬と漂う甘酸っぱい香りに、食欲を掻き立てられる。しかしわたしの頭には、同時に「水菓子に毒を盛られた」苦い記憶が蘇っていたのであった。
「先に食べて良いよ。それとも食欲が無いの?」
「そういうわけではないのですが」
 渋るわたしの態度を見て、すぐさま蒙毅は気づいてくれたらしい。あれから水菓子は口にしていない。どうしてもあの一件は潜在的な恐怖となって己の体に深く染み入ってしまっているようで。ともすると、ふと思い出すのだ。この身が誰かにつけ狙われているという、考えたくもない事実を。
「ごめん。悪気は無かったんだ」
 蒙毅は眉をひそめ、憐憫の眼差しをくれてから、手に持った李を小さく齧る。白い歯が突き立てられた黄金色の果肉から、滲み出る瑞々しい果汁と鮮烈な匂いに、思わず小さく喉が鳴った。それを彼は見逃さなかったようで。
「うん。美味しいよ。と言っても、さすがに僕の食べかけはいらないかな?」
「……いただきます」
 勇を鼓して兄弟子の申し出を受け入れ、李を手に取る。小さなそれはきっとわたしの胃腑は満たせずとも、桎梏を解き、歩武を進める決意を満たしてくれるのではないかと、そう感じたからだ。
 美味しい? とにこやかに尋ねられ、わたしは首肯する。すると蒙毅は安堵したようにますます顔を綻ばせた。根拠はどこにも無いが、どうしてか、この李はもとよりわたしにくれるために買ったのだろうと思えた。昔の彼に対して抱いた、冷たさや刺々しさといった雰囲気とはまるで程遠い、優しく包み込んでくれるような微笑。そしてわたしという人間に寄り添い、理解を示してくれる態度。それはまるで。
「蒙毅様がもしもわたしのお兄様になってくれたのなら――」
 そのような思いを馳せていると、どうやら本当に口に出てしまっていたらしい。くすっと笑う声が降ってきて、わたしは我に返る。
「申し訳ございません。変な意味では無くて、純粋にそう思ってしまって」
の口からその言葉が聞けたとなれば、それは重畳の至りだよ。僕とて君を妹のように可愛がってきたつもりだから。しかしこうも互いへの見方が合致するあたり、兄妹という枠組みに至る根拠が少なからずあるんだよね。きっと」
「……それは」
 言葉の裏を読み取れぬわけではない。きっと蒙毅は、わたしが蒙恬から結婚を申し込まれた事実を知っている。なんといっても部外者である信にまで知れ渡っていたことだ。実弟に伝わっていない、ということはないだろう。彼はその申し出を受けたわたしが、蒙家に嫁いだ未来を心に描いたことがあるのだろうということを突いていた。つまりは蒙恬に抱く特別な感情を再確認されたと言ったところか。どれだけ友人と定義しようとしても、この機微は、容易に察されてしまうらしい。それは互いの立場も、地位も、そして幸福さえも度外視して成り立つひと時の醜い欲求であるがゆえに。決して望むべきものではないと、いっそさっぱりと忘れてしまいたいと、そう強く思っているのに。
 無意識のうちに己の指が唇に触れていた。あの残夢を思い返すたびに焦げ付くような熱を生む心に嫌気が差す。
「少し意地悪だったかな。それでも僕は君が幸せに生きていけるなら、どんな選択も応援したいよ。……さてそろそろ行こうか。向こうに牡丹畑があるらしいから、一緒にどう? 洛邑といえば牡丹が有名だからね」
 蒙毅は本心を壅閉しようとしている。なんとなく気づいていた。かつて地方官吏になることを勧めてくれたのは他でもない彼のはずなのに、その夢を叶えた今のわたしを見て時折、物悲しそうな顔をすることを。

 牡丹畑は壮大な景観で、その美しい眺望を目当てに多くの人が集まっている。ちょうど花の季節ということもあり、視界一面に広がる灌木の海原には華やかな紫紅の大輪が堂々と咲き乱れていた。重厚な甲のように幾重にも折り重なる花弁の奥には、黄金色の蕊柱が静かに身を潜めている。まるで一幅の絵のような豪奢な景色に圧倒され、うっそりと佇むわたしの隣で、蒙毅はその顔に喜色を滲ませていた。
「あと数日後には散り始めていただろうって。一緒に観ることができて良かった」
 この牡丹は、もとは薬として栽培されていたものであるらしい。秋冬に掘り起こした根の、その芯を除いた皮を干して作られる生薬は活血などの効能を持つのだそう。とはいえ牡丹畑の規模や舗装された路を見ると、もはや観賞用にしつらえていると言えよう。
「見てください。こちらの弁は鮮やかな二色ですよ。お花もひときわ大ぶりで」
「本当だ。原種の牡丹ばかりではなく希少な種の交配などもしているみたいだね。さすがは元相国の息がかかっているといったところかな」
「まあ……呂不韋様が」
 政、商道、そして文事。養父があらゆる分野に手広く精通しているのは知っていたが、この花卉ひとつにも手を掛けていたとは。美しいもの、珍しいもの、そのようなものを愛でるのは呂不韋らしい。遠地へと追いやられ、蟄居の罰を受ける身であろうとも。あの人はこの地でしかと生きている。
「蒙毅様」
「どうしたの?」
「牡丹をそねむのは可笑しいでしょうか」
 自嘲気味に呟いた。呂不韋にとっては、この花よりも価値の無い自分。愛を乞い、されども施されず、ついぞその事実に耐え切れなくなって彼の元を離れた事実。決断に後悔は無い。しかし内心、寂しく思う。
「人は誰でも後ろ暗い感情を抱えるものだよ。それにしたって可愛い嫉妬だ」
「……」
「でも僕からしてみればこの牡丹も、そして昔のもさほど変わらない。他律的に美しく仕立て上げられていた点では。でもきっと君は苦しかったんだろう」
 苦しかった?
 淪落の淵を知っているわたしは、あの昔日の疼きにも似た感覚をそうとは思ってはいなかった。削痩した野犬のように骨と皮ばかりに痩せていた自分が、風雨を凌げるあたたかい部屋の中で、給地の貧しい民から取り立てた租税を食らって生きている。不幸であるはずがなかった。満たされていると、そう思い込もうとしていた。しかしまことに満たされていたのならば、唯一の鍾愛など欲することは無かったのだと、今になってようやく気付く。
「……わたし、そんなに苦しそうでしたか?」
「うん。他人の苦しみには敏感なのに、自分の苦しみには気づかないくらいには、君は深く傷ついていたのかもしれないね。今からでも遅くないから、自分自身とゆっくりと向き合っていこうよ。時間はたっぷりあるから大丈夫」
 兄弟子の言葉に小さく頷く。伏せた睫毛は僅かに震えた。

 陽が翳りはじめると、牡丹畑の来観者たちは三々五々街へと帰ってゆく。官舎へと戻るわたしは蒙毅とは帰路が違うが、彼の送っていくという申し出を有り難く受けることにした。
 並んで歩く二人の歪な長い影が地に伸びる。人通りはとうにまばらになっていたが、対して大路では、がたがたと荒い音を立てながら趨走する車が、道行く人を轢いてしまいそうな勢いで次々に呂不韋の本邸がある旧王宮へと向かってゆく姿が目立つ。じきに閉門の刻を迎えれば同時に宮門も閉ざされるから、宿のあてが貴賓楼のみであれば、あのような運転をしてはばからないと言ったところか。
。危ないからこっちにおいで」
 蒙毅に手を引かれて間もなく、己の真横を大きな車が通り過ぎていった。軛で繋がれた三頭の馬が牽く大きな軒車だ。太い車輪軸がすれすれを掠めたことに驚き固まったのも束の間、舞い上がる風と土埃に、反射的に目を瞑る。やがて道の奥に点となって消えてゆくその影を見つめながら、あれに巻き込まれてしまったらひとたまりもなかったと思い、蒙毅に礼を述べると、彼は整った眉をひそめた。
「もう少し端に寄って歩こうか。しかし随分と訪客が多いな」
「朝から夕までひっきりなしです。もうすっかり見慣れた光景ですよ」
 洛邑という土地柄か、秦国のみならず他国の要人らがのべつ旧王宮を訪れている。はじめのうちは驚いたものだが、他の官吏らはさほど気に留めてもいない様子で、身分を証明するものと告文書を確認できれば通して良いと説明があった。そのことを蒙毅に伝えると、彼はますます険しそうな顔をして考えに沈む。
「……」
「蒙毅様? いかがいたしましたか」
「ああ。なんでもないよ」
 しかしすぐに、いつもの調子に戻って柔らかくそう言った。とはいえぎこちない空気は一向に解けない。彼の声色も、薄い唇も、まごうことなく普段のものであるが。唯一、双眸には厳粛な冷たさが宿っている気がした。
「牡丹畑。来年も一緒に見られますでしょうか」
「……。そうだね、きっと」
 とりなすように問い掛けるも、不自然に間の空いた、作り物の言辞が返ってくる。もの言いたげだが、何かを渋るような蒙毅の顔。定めしわたしには伝えられないことなのだろう。
 ついに別れの時までその理由は聞き出せないままだった。彼がわたしに伝えるべきではないと判じたものだ。巧言で引き出そうとしたってそう上手くはいくまい。仕方なく忘れてしまおうとしたが、しかし優しげな兄弟子の、いつになくしかつめらしい雰囲気の異質さは、どうも心に引っかかるものである。

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